《16》
「はぁ、はぁ、はぁ……」
無我夢中で走った俺は、学校から離れた児童公園の前で息を切らしていた。これ以上走ることは身体が無理だと訴えていたため、諦めて公園のベンチに音を立てて座った。そして、目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、先程の学校での出来事。訳が分からなかった。日本語で話しているはずなのに、それがまるで知らない外国語を聞いているかのように、意味が分からない。
『ホント。久遠クン、だっけ?に今度の日曜日、映画でも行かないって言われたけどー……』
『ナシでしょ、ナシ。って言うか、そんなこと思い出させないでよ。マジでメンドクサイんだから』
『トーゼンでしょ?あんなのあり得ない。まずは自分の立ち位置ってのを理解しなさいって話でしょ?』
『何なんだろうね、まったく……。所詮、Dランク程度でしょ?これと言って見所もなさそうだし。あの程度のヤツに誘われたとか、ほんっとうにヤメてほしい。私の価値が下がっちゃう』
水野の言葉が頭をぐるぐる駆け巡る。いつもの温かな声色ではなく、感情が殺された冷めきった声。あんな水野は初めてだった。ついこの前までは、笑顔が柔らかくて優しい水野だったのに、さっきの水野は全くの別人と言ってもいいほどだった。
……もしかして、さっきのが本当の水野さんなのか?
分からないことばかりで、頭がおかしくなってしまいそうだった。
……でも。
俺は信じることにした。俺が好きだと思った気持ちは本物だから。
水野は『ちょっと待ってて』と言った。水野の答えを直接聞くまで、俺は信じようと思った。信じなければ何も始まらないし、何も生まれないから。俺はそう結論づけて、傷悴しかけた心を抱きしめるように帰路へ就いた。
翌日、学校に登校すると、何故だかクラスが不自然な騒めきを見せていた。空気がおかしかった。
「ん……?」
何やら黒板の周辺に生徒が集まっていて、何かを話す声が聞こえる。
けれど少しして、その声がピタリと止まる。彼らの目が一斉にして俺に注がれたのだ。
な、何だ、この空気……。
「あの、何かあったの?」
近くにいたクラスメイトの女子に声を掛けてみるも、女子は逃げるようにその場を駆け出していった。その瞳は軽蔑するかのような、不快なものを見るようなものだった。
ちょっと、どういうことなんだ……?
とその時、黒板前の人混みが戦慄いて、黒板に何やら張り紙がされていることに気がついた。
「悪い。ちょっとどいて」
俺は重苦しい空気の中を黒板の張り紙のところまで歩いた。張り紙を手に取る。
「……な、何だ、これ……」
その文面を見て俺は絶句した。それは、水野に宛てて書いたラブレター、というよりも卑猥な言葉を羅列した文章で、差し出し人の名前が俺ということになっていた。しかも、驚くことにその筆跡は俺そのものと言っていいほど、同じものだったのだ。
「おい、何だよ、これ……。こんなの俺は書いてねえぞ」
そう俺が否定の言葉を口にするも、周囲の反応は冷ややかで、潮が引いていくようにゆっくりと俺から後ずさる。
「おい、みんな、信じてくれないのか?俺じゃないって!こんなこと、俺がする訳ないだろ!?」
「久遠」
俺が必死に弁明していると、重苦しい声が響いた。担任教師の権藤だった。
「ちょっと来なさい」
有無を言わせない様子で、権藤は俺を生徒相談室へと連れ出した。
相談室は長い机と教室にあるのと同じ椅子が2つとパイプ椅子が幾つか畳まれて壁に寄り掛けられてあるだけで、何とも味気のない部屋だった。手前の椅子に座らされ、権藤がタイミングを見計らって口を開いた。
「さっき、水野の親御さんがいらっしゃったんだが……お前、水野に対してストーカー擬いのことをしていたようだな?」
「は!?何ですか、それ!?」
いきなりの突拍子もないことに、俺は思わず声を上げた。
「下校の際や、休日も水野のことを付け回し、こういう写真までも撮っていたと聞く。わざわざ水野に宛てつけるように送ってたんだって?」
権藤が机の上に数枚の写真を置く。写真は水野のことを被写体にした、明らかに盗撮されたと分かるような構図となっていた。
「お、俺、こんなの知りません!先生、俺、こんなことする訳ないじゃないですか!?」
「……俺もお前のことは信じてやりたいが、お前が今手に持ってるそれだって、お前が書いたものなんだろ?親御さんの話と一致する」
「そ、そんな……!先生、よく見てくださいよ!これ、俺が書いたんじゃない!似てるけど、違うんです!」
「久遠!往生際が悪いぞ!どこからどう見ても、お前の字だろ。……仮に、これがお前が書いたものじゃないとして、誰がこんなことするって言うんだ?……水野は精神的なショックでしばらく休むという話だ。これは校長先生にも報告して、然るべき措置をとることになる。今日のところはもう帰りなさい。今日中にはお前の家に連絡を入れる」
「先生……」
「しっかり反省しなさい」
「……う、うわぁああーっつ!!」
次の瞬間、俺は権藤に殴りかかっていた。権藤の右頬を捉え、部屋の壁に権藤が叩きつけられる。俺は無我夢中で追い打ちを加えていた。
な、何で信じてくれないんだよ!?
俺じゃ……俺じゃないのに……。
気がつくと、俺の瞳から涙が零れていた。
何で……何で、こんなこと……。
訳も分からずに、俺は権藤を殴り続けた。手が止まらなかった。
……。
……そうか、そうだったんだ。これが、〝答え〟だったんだ……。
はは……。
俺、ただ好きになっただけなんだよ……?
それって、いけない感情だった……?
知らない内に、水野さんに迷惑掛けちゃってたのかな……?
……だったら、だったら、そんなこと思っちゃいけなかったってことなんだ。
誰かのことを、人のことを、好きになっちゃ駄目なんだよ……。
俺のこの気持ちは、汚くて腐ったものだったのかもしれない……。
……分からないよ。
悲しくて、苦しくて、悔しい気持ちが、俺の心を支配していた。
少しして、別の教師が相談室の異常を察して中に入って来たため、俺は有無を言わさず取り押さえられた。同級生へのストーカー疑惑に教師への暴行、俺には弁解の余地がまるで無かった。
学校の配慮から警察沙汰は免れたが、1時限目の授業の途中で俺は学校を後にせざるを得なかった。
そして、この日の夕方、処分が決まった。1ヵ月の自宅謹慎。
好きという感情を否定され、誰からも信じてもらえないという悔しさや哀しさが、俺の心に冷たい碇となって沈められたのだった。
「……か?」
……。
「……丈夫?」
……。
「おい、起きろ!」
……ん。
身体に加えられた振動、遠くから聞こえてきた声がゆっくりと意味のある言葉となって俺の耳に届く。気がついた。
目が覚めると、俺は公園に備えられた屋根付きのベンチに寝かされていた。目の前には3人の心配そうな顔があった。
「気がついたか!?」
「周哉~!」
「……みんな……」
俺はゆっくりと身体を起こした。うっすらと、後頭部に痛みが残っていて、反射的に手を当てる。
えっと……確か、何かが俺の後頭部に当たったんだっけ?
「心配したぞ。周哉、中々戻ってこないからって見に行ったら倒れてるんだもんな」
いっちゃんはふぅと息をついた。
「芝生のところで野球やってた子たちがいたんだけど、バットで打ったボールが周哉の頭に当たっちゃったんだって。大丈夫?まだ痛む?」
「あー……ちょっと気になるけど、もう大丈夫」
痛みを分かち合うように顔をしかめるナギに、俺は笑顔で答える。
「いや、もしかしたら、ボールが頭に当たった衝撃で記憶障害とかあるかもしれないよ?周哉、昨日のオレの夕飯なんだったか分かるか?」
「は!?んなもん分かるか!俺の記憶とか全然関係ないじゃん!」
真面目に質問してくるイワに、俺は思いっきり突っ込みを入れた。俺を中心に一気に笑いが溢れた。
「はは、それだけ元気なら本当に大丈夫だね」
笑いながら、いっちゃんはピースサインを作った。
「あ……」
改めて、俺は3人のことを見回す。
みんな、俺のことを心配してくれたんだ……。
俺のことを……。
……やべ。
「ん?どーしたの、周哉?」
突然顔を伏せた俺に、ナギが尋ねた。
「あ……ううん。何でもない。ちょっと、目にゴミが入っちゃって」
俺は目を擦るフリをする。不意に込み上げてきた嬉しさに、俺は我慢がならなかった。
こうやって、傍に居てくれる人がいるということ、心配してくれる人が居てくれるということが、本当に嬉しくてたまらなかった。
思い出したくなかったことを思い出しちゃったけど……俺はもう独りじゃないんだ。
独りじゃ……ない。
「みんな、ありがとね」
俺は顔を上げて心からの言葉と笑顔を返した。
前話のサブタイトルのカッコが間違えてしまっていたので修正しました。