《13》
「……眩しい……」
目が覚めると、俺の部屋は赤と黄色が混ざった色で埋め尽くされていた。
窓の外から差し込む陽の光は、もう間もなく夜を呼ぼうとしている。
俺、けっこう寝てたんだな……。
「お、久遠、起きたか?」
「え……?宇佐美、さん?」
寝たままの状態で横を向くと、壁に寄り掛かって雑誌を呼んでいる宇佐美の姿があった。雑誌をテーブル
に置き、宇佐美は俺のすぐ傍まで来て腰を下ろした。
あれ……?
確か……八木さんが居てくれたと思ったけど……。
「やぎっぺなら、お昼過ぎに帰ったよ。今日は午後から学校だから。って訳で、あたしと交代しました」
俺の思ってることを察して宇佐美が先に答えた。
あ、じゃあ、やっぱり八木さんが居たのは夢じゃなかったんだ。
「なぁに、その顔……。あたしじゃ不服な訳ー?」
「え?いや、俺、まだほぼ何も喋ってないんですけど……」
「いんや、『八木さん、何で帰っちゃったんだよー!』って、思いっきり顔に書いてあるし。まったく、宇佐美ちゃんだってヒマじゃないんだからねー?」
宇佐美は不機嫌そうにふくれっ面をする。
そんな顔しなくても……。
と思いながら宇佐美の顔を見ると、言うほど怒っている訳でもなくて、いつもの軽い冗談のようだった。
この感じも、すごい懐かしいな。
「いや、その、さっきまで居てくれたのが八木さんだったから、いきなり宇佐美さんに代わってて驚いたというか……」
「ふむ……まあ、そういうことにしといてやるか。それで?具合はどうなの?」
宇佐美に尋ねられ、自分の体調を確認する。最初の頃に比べて、熱っぽい感じは軽減した感はある。
でも……
「だいぶ楽にはなりましたけど……身体が重いです」
「ふ~ん、どれどれ」
宇佐美は俺の額に乗せられたタオルをどけて、自分の手を当てた。ひんやりとすべすべした手が気持ちいい。
「……まだけっこうありそう。っていうか、声もガラガラだし。やぎっぺから聞いたよ?あんた、こんな真冬真っ最中に玄関先で寝てたんだって?なに?死にたいの?」
「……気づいたら寝てました」
あの事実を知って、急に疲れがどっと来たんだよな……。
記憶には余り残っていないが、きっとそうなんだろう。それだけ、気づかされた現実が重かったという証明なのかもしれない。
重いにも程があると思うけど……。
「やぎっぺに感謝しなさいよ。回覧板を届けに来た時、何の返事もなかったから気になったんだって。でもって、急いであんたを2階のベッドまで運んで、そっから付きっきりだったんだから」
「あ……」
そう言えば、そうだ。ベッドで寝ているのが普通すぎて気づかなかったけれど、俺は玄関先で寝ていたという話だった。
八木さん、俺のこと2階まで運んでくれたんだ……。
感謝の気持ちももちろんあるが、それよりも〝凄い〟という気持ちが強かった。やっぱり、看護師を目指してるんだと実感するというか。
今年(こっちの時間軸で)から看護学生1年生となった八木。
『人を助ける仕事に就けたらいいなって思うから』
俺が中学3年になった4月、進路の話となり八木と交わした会話。初めての受験となったその年、八木も受験だろうと思い、どこの大学を受けるのかと尋ねると、予想外の答えが帰ってきた。
『私、大学行かない』
その答えには正直面食らったが、理由を聞いて合点がいった。
看護師になるために、看護学校にいくのだと八木は話してくれたのだ。八木の進路選択を聞いて、俺は妙に納得していた。何て言うか、〝似合う〟と思った。
八木のことを長年ずっと見てきたけれど、面倒見が良くて優しくて、どんな時も冷静に対処をしてくれる……ピッタリだと思ったから。絶対にいい看護師になると、俺はその時から信じて疑わない。
……俺が思うのもおこがましいかもしれないけど。
そうか、今日も学校なんだ……。
学校の前に余計なことさせちゃったな……。
バツが悪く思った。
「それで、何かあった?」
「え?何かって……何ですか?」
真面目な様子で尋ねる宇佐美に、質問の意図が読み取れずに訊き返す。
「あのね、あたしが聞いてるんだけど……。あんたが、ってより普通常識ある人が、こんな時分に玄関先で寝てるとか普通じゃないでしょ。……あれ以来、無茶することなんてほとんど無かったし、何かあったのかなって」
ああ、そういうことか。そりゃあそうだよな……こんなクソ寒い中、玄関で寝てるとか自殺行為以外の何物でもない。
俺だってビックリだよ。何を好き好んで風邪なんて引きたくなろうか……どんだけマゾヒストだっての。
俺は心の中で苦笑する。
「いやぁ、特に何もないです。気づいたら寝ちゃってて……風邪引かない自信はあったんですけど」
「アホ!あんた、もっと考えて行動しなさい!けっこう心配したんだから。やぎっぺだって、顔には出してなかったけど心配してたんだよ?」
「すみません……」
俺は真摯な態度で謝る。この場合、嘘をつく以外に他に何も思い浮かばなかった。
まるっきり嘘な訳ではないけれど、少しだけ罪悪感を覚える。
でも、これ以上、余計なことで心配を掛けたくなかった。
……って、既に心配掛けちゃってるんだけど。
「ま、何か悩んでて、って訳じゃなかったみたいだから良かったよ」
俺の軽口を聞いて宇佐美は安心したらしく、ふっと笑顔を見せた。
「会話出来る体力もあるみたいだし、顔色も……良くなってきたか」
「そうですね。そろそろ夕方みたいだし、宇佐美さんも帰って大丈夫ですよ。忙しい時にすみませんでした。ありがとうございます」
「はぁ?だいぶ良くなったって言っても、さっき身体が重いって言ってたじゃん。いいよ、居てあげるから」
「え、でも、宇佐美さん受験でしたよね?……確か今年」
ここが2年前なら、俺が高1で宇佐美さんが高3だから合ってるはず……いちいち時間軸を考えないといけないからややこしいったらない。
「はいはい、そんな気遣いしなくていいから。あたしのことは心配無用です。あんた、宇佐美ちゃんのことナメてるの?んー?」
「いえ、そんなことないですけど……」
「じゃあ、いいじゃん。はい、決まり」
強引に会話を切った宇佐美は、テーブルに置いた雑誌を手に取り、壁に寄り掛かるようにして腰を下ろした。
……まあ、宇佐美さんがそう言ってくれるんならいいのか。
正直に言うと、宇佐美が居てくれることになって、ありがたかった。今のこの状況で、独りで居るのは色んな意味で不安だったから。
宇佐美と知り合ったのは中学1年の時。どうしても分からない宿題があって、八木を頼りに家を訪ねたところ宇佐美と鉢合わせしたのだった。
『あんた、誰?……もしかして、やぎっぺの彼氏!?』
『え?いえ、違います。それを言うなら……弟、みたいなもん?』
八木の家の前でそんなやり取りをしていると、ガチャリと家のドアが開いて八木が中から出てきた。
『あ、志緖……と久遠?何であんたが居るの?』
『やぎっぺ~!この子、誰?何かやぎっぺの弟みたいなもんって言ってるけど』
『弟……まあ、確かに手のかかる弟って感じなのは間違いじゃないかな』
値踏みするように八木は俺のことを見ながら答えた。
『ふ~ん……。あたし、宇佐美志緖。あんた、名前は?』
警戒が緩んだのか、宇佐美は自己紹介をしてくれた。俺も倣うことにする。
『久遠周哉です』
『久遠周哉、ね。うん、ちゃんと覚えた』
『それで?あんた、家に何しに来たの?』
俺と宇佐美のやり取りが一段落したのを見計らって八木が尋ねた。
『あ……その、ちょっと宿題で分からないことがあって、八木さんに教えて欲しいなぁって』
『そう。ごめん、これから志緖と出掛けなきゃいけないから。見てあげられない』
『いいんじゃない?一緒に来れば』
八木がそう言うのに対し、意外にも宇佐美は俺が同行することに承諾を示した。
『いいの?志緖』
『うん、別にいいよ。その代わり、久遠』
『あ、はい』
『ちゃんと終わるまでは静かにしていること、いい?』
『えっと……はい、とにかく静かにしています』
宇佐美の言葉の先が見えなかったが、言いつけは必ず守るようにしようと俺は頷く。
『よっし。んじゃ、行こう』
この日、俺が同行したのは県の文化ホール。宇佐美の好きな俳優・泉陽が出演する演劇を観覧した。劇を観終わった後、近くのファミレスで劇の(というより、泉陽の)感想を話したり、他にも色んなことを話し込んだ。
そして、この日を境にして、何かと宇佐美が世話を焼いてくれるようになった。聞けば、同じ縦浜南中とのことで、学校でも顔を合わせることが多くなった。
宇佐美はいつも明るく、とにかく優しい。八木の優しさは温かく見守ってくれるというものだが、宇佐美は積極的な行動で二人三脚的なものである。俺がどうすればもっと良くなるか、髪型だったり、考え方だったり、俺のためを思っていつも何かと声を掛けてくれる。言葉上は面倒臭そうな雰囲気を漂わせることもあるけれど、それはただの照れ隠しのようなもので、絶対に最後まで面倒をみてくれる。それは2年後も変わらないことだ。
「久遠、寝た?」
俺は視線を天井から宇佐美へ向ける。宇佐美の視線は相変わらず雑誌へと向けられている。
「いえ、寝てないです」
「……最近、どう?」
少し間を空けて宇佐美が尋ねる。
「最近……ですか……」
う~ん……これは1番難しい質問だぞ……。
今、宇佐美に聞かれている『最近』は当然のことながら高校1年生の俺の『最近』なのだ。誤って本当の『最近』を話してしまったら、きっと会話がおかしなことになってしまう。
細心の注意を払って答えなきゃいけないけど……
「……いやぁ、これと言って何も」
あはは、と俺は笑った。絞り出した答えはこれくらいが限界。正直に言って、当時のことはそこまで覚えていなかった。
この時期って、俺、どんなんだったっけ……?
「そっか……。やっぱり、あのこと、まだ引き摺ってる?」
宇佐美は雑誌を置いて俺と視線を合わせる。
「あのこと……」
それって……。
一瞬だけ、脳裏に映像が浮かぶ。鈍痛が胸を軋ませた。
「うん……。久遠、あれからちゃんと、恋愛出来てるのかなって。ううん、恋愛じゃなくても人を好きになれてるのかなって」
あ……そうか。宇佐美さんが聞きたかったのは、俺の恋愛のことだったのか。
考えてみれば、宇佐美が世話を焼いてくれるのは、主に恋愛面だった。
「あたし、久遠を焚きつけたでしょ?『いいじゃん、頑張んなよ。デートでも誘ってみな』って……。正直、あんなことになるなんて思ってもみなかったからさ……」
折り曲げた膝の間に視線を落とし、宇佐美は続けた。
「あんなことがあった後じゃ、人のことを嫌いになっても仕方ないかもしれない……。でも、もし今、本当にそうだとしても、嫌いになっちゃダメだよ!……辛かったと思う。苦しかったと思う。けど、ホントはそんなんじゃない」
宇佐美は言葉に力を込めて俺に向き合う。
「恋をするって、人を好きになるって、幸せなことなんだよ。その感情は自分のことを成長させてくれる、1番大切なものなんだよ。人は誰かが好きだから頑張れる、頑張ろうと思える。その人の考え方や感性とか、自分に無いものを得ることが出来る。例え、その恋が叶わなくたって、そう想った気持ちは絶対無駄にはならない。絶対に自分にとってプラスになってるはずなの。だからね、久遠。恋をすることに、人を好きになることに、臆病になっちゃダメだよ」
「宇佐美さん……」
「大丈夫。久遠のこと、好きって人が絶対いるから」
真剣に綴った宇佐美の言葉が、俺の心にすっと染み入ってくる。
温かい……。
思い出した。2年前のこの時も、宇佐美はこの言葉を掛けてくれたのだった。当時のズタズタに傷ついた心を、闇に浸食されて黒ずんだ心を、宇佐美は光を照らすように、優しい言葉で癒してくれた。
イワやいっちゃん、ナギら友達が出来て立ち直りかけていたと思うけど、まだ完全ではなかったとも思う。心のどこかで怖かった。
『また、いつ、裏切られるのだろうか?』
『仲良くしてくれているけど、実際はどういう風に思っているんだろう?』
『信じるって……好きって感情って何なのだろう?』
余計なことを考えて、独りで怖がっていた。誰かと関係を持つことが、死ぬほど怖かった。傍に居てくれた人が、急にまったくの赤の他人となることが、怖かったのだ。
だから、俺は他人とはなるべく1歩距離を置くようにしていた。深く関わらなければ、何をされることもない。感じることもない。独りで居さえすれば、誰にも迷惑はかからないし、何を困ることがあるだろう。
でも……それは余りに寂しかった。感情を共有する人が居ないのだ。喜んだり、悲しんだり……分かち合える人が居ない。世界の時の流れの中で、俺だけが独りぼっちだった。無論、それは俺の望んだことだ。望んだことなのに……。自業自得のくせに、何故だか無性に寂しかった。
分かってはいた。それが1番楽だけど、きっと寂しいってことは。自分勝手だと思う。自己中心的だと。頭では理解しているのに、心が求めていた。
『誰か、傍に居て欲しい』。
諦めたのに。もう無理だって、もうずっと独りだって、そう決めたのに……。
心に生じる矛盾を、俺はずっと抱え続けていた。その矛盾を取り除いてくれたのが、宇佐美だった。宇佐美の言葉で救われた。心が軽くなった気がする。感情を殺すこと、無かったことにすることをしなくてもいいんだと思ったのだ。
「……ありがとうございます。俺、宇佐美さんが傍に居てくれて、本当に良かったです」
ふっと俺は笑った。心が温かくて、気持ちが沸き上がってきて、油断すると涙が零れてしまいそうだった。
「久遠……」
「俺、ずっと宇佐美さんに甘えていたいなぁ」
「……甘ったれんな!ちゃんと自立しなさい。宇佐美ちゃんだって、そんなにヒマじゃないんだからね!」
俺の甘えた声に、宇佐美は一瞬間を空けながら、ビシッと強めの口調で返した。
「はは、はーい」
「『はーい』じゃない、『はい』」
「はい」
「よし。じゃあ、ゆっくり休みなさい。あんたが眠るまでは、傍に居てあげるから」
そう言って、宇佐美は再び雑誌へと視線を戻した。
本当、優しいよな……。
俺はもう1度目を閉じた。得も言われぬ温かさが部屋を満たしているのを感じながら、訪れた睡魔にその身を委ねた。