《12》
『ねえねえ、舞華。あの話ってホント?』
2年5組から聞こえてきた女子の話声。
放課後、帰宅しようと廊下を歩いていた俺は、開け放たれた教室から聞こえてきたその名前によって立ち止まってしまう。それが間違いだったということは、この時の俺は知る由もなかった。
『あの話?』
『ほら、昨日の放課後、誘われたんでしょ?5組の久遠くんに』
〝久遠くん〟と、自分の名前を口にされて俺は一瞬ドキリとした。自分の知らないところで(実際は聞いているのだが)話されている自分のことはどうにも気になるものだ。
『ああ、そのことね……』
舞華と呼ばれた女子は少し間を置いてから続けた。
『ホント。久遠クン、だっけ?に今度の日曜日、映画でも行かないって言われたけどー……』
あれ……?
雰囲気が、違う……?
興味なさげに紡がれた言葉、それはまるで他人事のように冷たく響いた。初めて聞いた声色。
そして、次の言葉が全てだった。
『ナシでしょ、ナシ。っていうか、そんなこと思い出させないでよ。マジでメンドクサイんだから』
え……。
『アハハ、あー、やっぱり?』
『トーゼンでしょ?あんなのあり得ない。まずは自分の立ち位置ってのを理解しなさいって話でしょ?』
『そうだよねー。舞華を誘うとか、常識で考えてムリだっつうの。分かんないかなぁ』
……。
女子3人の話声は最初の嘲笑を導火線にして一気に盛り上がる。
『何なんだろうね、まったく……。所詮、Dランク程度でしょ?これと言って見所もなさそうだし。あの程度のヤツに誘われたとか、ほんっとうにヤメてほしい。私の価値が下がっちゃう』
Dランク……?
価値って……。
壁を隔てたその先で交わされている会話が、俺の心をズタズタに引き裂いていく。訳が分からなかった。
『で、どーするの?また「私、彼氏がいるから……」ってパターンで振っちゃうの?』
『でもさー、最近そのパターンばっかじゃん?そろそろ通用しなくなると思うんだよねー』
『そうね……』
『無理してぶりっ子する必要ないんじゃない?どーせ切る訳だし。たまにはガツンとやっちゃえばー』
『ふむ……。それもそうかもね。……うん、ちょっとオモシロイかも♪』
『え~、なになに?』
『舞華、何思いついたの?』
『うん、あのね……』
気がつくと、俺は教室を背に走り出していた。もう何が何だか分からなかった。知らなければ幸せなことも、この世の中にはある。誰かが言った言葉が頭の中で繰り返されていた。
今まであったことが、大切だった記憶が、暗くどす黒い闇に浸食されていく。悲しいという感情よりも、悔しいという感情の方が強かった。あんなこと、言うんじゃなかった。
俺は……俺は、どうして……。
自責と後悔の念に満たされた俺の心は、ぐちゃぐちゃしたまま収拾がつかない。
俺はどうしたら良かったのだろうか……。
走っても走っても、逃れられない現実。投じられた闇の滴は、心の奥底に注がれて、静かに溶けていった。
「……ん」
ぼやけた視界。歪んだ世界がゆっくりと整然とした形を取り戻していく。最初に目に映ったのは、見慣れた天井だった。
夢、だったのか……。
嫌な夢、見ちゃったな……。
ぼんやりとした頭のまま、起き上がろうとして身体に力が入らないことに気がつく。
身体が重くて熱かった。
「起きた?」
「え……?」
普段と何ら変わらない落ち着き払った口調が聞こえた。八木の声だった。俺のことを覗き込むように八木が顔を覗かせた。
「タオル、換えるね」
断りを入れて、八木は俺の額にあててあるタオルを手に取る。床にバケツか何かあるのだろうか、氷と水のぶつかる音とタオルを濯ぐ音が聞こえる。心が洗われているような心地良い音。
「気分はどう?」
「えっと……俺、どうかしたんですか?」
自分でも驚くほど掠れた声で俺は逆に訊き返した。声を出すのも辛かった。喉の奥の方で引っ掛かりを感じる。
「それを聞きたいのはこっちの方。私が朝来てなかったら本当に危なかったかもね。あんた、玄関で寝てたの。しかも、ビショ濡れの状態で。まったく、こんな真冬の季節にそんなことしてたら間違いなく風邪引くに決まってるでしょ」
呆れたように言いながら、八木は俺の額に濡れタオルを置いてくれる。熱の一部がタオルに吸収されるようで、ひんやりとして気持ちが良かった。
「そう、だったんですか……」
やべえ、記憶がない……。
昨日のことを思い出そうとして記憶の引き出しを開けようと試みるも、熱に浮かされて頭の中がすぐにぐちゃぐちゃになってしまう。
ていうか……
「……頭痛い。死にそう。辛い……」
頭を働かせようとして、激痛が頭を駆け巡る。
「まったく……。そんなに辛いんなら、いっそのこと楽にしてもらったら?」
「え……?」
八木は部屋のテレビを指差した。
『―昨夜の事件現場近くの防犯カメラに、鬼塚永一とみられる男性の姿が映っていたとのことです。強盗殺人の容疑で指名手配中の鬼塚の犯行として、まず間違いないと―』
テレビではニュース番組をやっていて、キャスターが臨時ニュースを読み上げていた。
「彼ならプロだから、きっとすぐに楽にしてくれるよ?」
「ちょ、ちょっと、八木さん!……本気じゃないですよね?」
しれっと言う八木に俺は慌て気味に尋ねた。
「当たり前でしょ」
そんな俺を見て呆れた様子で八木は返す。
「そ、そうですよね……」
いやぁ……焦った。
「それで、食欲はある?」
「……お腹減りました」
問いただされ自分の状態を確認すると、エネルギーだけはしっかり消費しているようで、お腹は既にエンプティマークを発していた。
「ちょっと待ってて」
俺の言葉を受けて立ち上がり、八木は静かに部屋を出て行った。
「……はぁ」
寝転がったまま、俺はため息をつく。
風邪引くとか、何だってまた……。
こんな状態になっている場合じゃないのに……。
自己管理が出来ていない自分が恨めしい。
昨日、というか今日(?)、判明した衝撃的な事実。俺の居るこの世界が2年前の世界だということ。
正直に言って、信じられないことではある。だけど……
「全部、本当なんだろうな……」
目にしてきたものが、全て過去に見た情景と瓜二つだったのだ。
まあでも……一概に、そうとは言い切れないかもしれないけど。
可能性として考えられるのが、これが全て俺の夢だというもの。夢の中なら、過去に起きたことがそのまま再現されていても、そこまでおかしなことではない。何かの拍子で、俺は夢の世界に迷い込んでしまった……
……。
「……無理があるかな……」
自分でも分かっている。だけど、少しでもこれが嘘だと思っていたかった。でないと、俺はどうしていいのか分からなかったから。
ここは2年前の世界です、はいどうぞ、なんて案内されたとして、俺は何をどうすればいいのか。意味が分からない。
……そんな理不尽なこと、ある訳がないだろ。
それにこんなこと、誰に言える話でもない。考えてもみよう。
『俺、2年後からここに来ちゃったんだ。そう、未来の世界から。俺の言うこと信じてくれ』
……。
某ネコ型ロボットの秘密道具を使った訳でもあるまいし、頭のネジが外れたのか、狂ったのかと笑われておしまいな話だ。
……人には言えないにしても、ちゃんと受け止めないと。
いつまでも現実から目を背けている訳にはいかない。ここは過去の世界なんだ。それは間違いない。それを頭にしっかりと理解して……ここが過去の世界だとして……
結局、俺、どうすればいいんだ?
それと、気になることがある。ここが過去の世界であるなら、俺の記憶がなんでこうもはっきりしないのだろうか?たかだか2年前のことをちゃんと覚えていないはずがない。
……この世界に来てしまったことで、少し記憶が飛んでしまっているのだろうか?
う~ん……分からないことが多すぎる。
考えれば考えるほど、どつぼに嵌っていくようで収拾がつかない。
……とりあえず、何も考えないでいいのかな。
不思議な出来事すぎて戸惑ってしまうが、でも、だからどうすれば、という話でもないんじゃないか?
今後の方向性を思案してみたが、少し考えてそう結論づける。
何分、ただでさえ具合も悪いんだ、色々と考える余裕もあまりない。
ちょっと特殊な、俺だけお先の卒業旅行みたいに思ってみようか?
……時間旅行だなんて、ぶっ飛びすぎてるけど。
ははは、と俺は笑みを零した。笑っている場合じゃないかもしれないけど、深刻に考えていたって仕方がない。なってしまったことは、もうどうしようもないじゃないか。だったら、過去の世界を思う存分満喫すればいいだろう。ごちゃごちゃしている考えを思い切って割り切ってそんな風に考え出すと、何だか楽しくなってくる。
例えば、このただの天井だって懐かしい感じがする。この風邪に苦しむ状況も、2年前に経験したんだった。時折ぼやける馴染みの天井、看病しに来てくれた八木さん、それは覚えてる。懐かしいよな、本当に。
郷愁に似た想いが胸を駆ける中、八木が部屋へ戻ってきた。八木が持つトレーの上には、温かな湯気が揺らめくおかゆと湯呑に淹れたお茶が乗せられていた。
「自分で―無理か」
言いかけて八木は諦める。俺の現状を見て観念したかのように息をつくと、八木は俺が寝転ぶベッド脇に膝立ちの状態になる。
「すみません」
「今日だけだからね」
一言だけ言って、八木はおかゆをひと掬いしたスプーンを差し出してくる。
あ、これ……。
その様子を目の当たりにして、俺はピーンとある考えが浮かんだ。
「八木さん」
「何?」
「あ~ん」
「馬鹿」
俺の要求には応じず、八木は開けた口の中におかゆを運ぶ。
こんな時にしか出来ないことだったのに……。
残念な気持ちはあったが、こうやって食べさせてもらってるだけでありがたかった。ゆっくりと咀嚼する。おかゆはちょうど良い温かさで、味も濃すぎず薄すぎず食べ易かった。俺が食べる速度に合わせて、八木は何も言わずにスプーンを運んでくれる。
ふと親鳥が雛鳥にご飯を上げる構図が思い浮かんで、何となくちょっとだけ照れ臭くなる。目が合った。いつもと変わらない表情。八木は何があっても動じることはない。あったとしても、他人に決して見せようとはしなかった。感情を大っぴらにすることはなく、常に物事を沈着冷静に観察し、行動する。自分のことよりも他人のことを優先し、自分には厳しく、他人には優しい人。俺はそんな八木のことをとても慕っていた。
「あれから、2年経ったんだね」
八木は静かにそう言った。
あれから……2年?
八木の言葉を頭の中で繰り返す。慌てて自分の時間軸を直して考える。
えっと……中学2年の時のこと……?
「確か、あの時もこうやって熱出したんだよね。雨の降る中、傘も差さずにずっと突っ立ってて……。辛かったのは分かるけど、あんたはもっと後先考えて行動しなさいよね」
「すみません……」
注意する口調がいつもより柔らかい。まるで、自分の子供をあやすような優しい響き。
「でも、良かった。あんたが立ち直って……。高校に入って、ちゃんと友達も出来たみたいだし、私ももう安心かな」
「……立ち直れたのは、八木さんのおかげです。あの時……八木さんが居てくれなかったら、たぶん、俺は……」
八木の言葉に、数秒遅れて返事をする。2年前のあの時が、脳裏にぼんやりと浮かぶ。
灰色の雲が立ち込める空から降る大雨を、俺は無防備なまま受け続けていた。
雨上がりの景色は美しい。太陽の煌めきが世界を照らすと、雨に濡れた町々はそれに呼応するように輝く。それは雨がこの世界のことを洗濯するからだ。誰に遠慮をすることなく、雨は神様の好きなように降り注ぐ。職人が宝石を研磨するような技術はまるでなく、ただただ全てを洗うのだ。洗って、洗って。
そして、何もかもを洗い流す。そこにはどんな注文も存在しない。ただ綺麗になればいいだけなのだから。
汚いものは洗えばいい。手に付着したインク、服に跳ねたトマトケチャップ、頭にかけられた鳥の糞……どんなに汚れたとしても、洗ってしまえば元通り綺麗になる。だから、俺のことも洗って欲しかった。洗って綺麗にして欲しかった。何も文句を言われないように、誰からも非難をされないように、ただ綺麗にして欲しかった。
だけど、途中で気がついた。『初めから汚かったら、綺麗になることは出来ないのではないか』。
それに気がついた時、今度は洗い流してくれと願った。この世界のどこでもない終着点に、洗い流して消し去ってくれと。声も、身体も、心も、全て。
でも、その願いは叶わなかった。
『汚くなんかない!その気持ちは、純真で素直の、綺麗なものなんだから』
あの時、八木が掛けてくれた言葉。あれだけ必死になってくれた八木は初めて見た。俺の心に直接呼び掛けるように、八木は心で語り掛けてくれた。時間はかかったけれど、そのおかげで立ち直ることが出来たのだ。
「本当に、あの時の久遠、どうしようもない顔してたからなぁ」
「たはは……」
うん、俺もそう思う……。
俺は苦笑するしかなかった。
「あの時は縋るものがなかったからね。仕方ないよ。でも、今は違う。一緒に笑い合える、通じ合える友達がいる。だから、大丈夫」
「八木さん……」
「辛い時には支えてくれて、温かくて、心が軽くなる。……昨日も一緒だったんでしょ?楽しそうな声が聞こえてた。ちゃんと大切にしなさいよ」
コツンと八木は俺の額を小突いた。
「……分かってます。けど……俺は八木さんも大切ですけどね」
風邪の具合が最悪で、顔は死んでいると思うけど、俺は笑った。
「……。少し話しすぎちゃったね。ゆっくり休みな」
「はい……」
俺の言葉に答えることはなかったが、八木は慈しむような表情を一瞬だけ覗かせた。それだけで十分だった。
やっぱ、居心地いいや……。
八木が醸し出す空気は、何故だかすごく落ち着く。まるで、近い家族、いたとしたらお姉ちゃんが傍に居てくれるような安心感を与えてくれる。
俺がそれだけ信頼してるってことなんだろうな……。
……やべえ、眠く、なってきた……。
薄れゆく意識の中で、ひんやりとした手が俺の頭を撫で続けてくれているのが、とても心地良かった。