第七話 墜落の予感
「そんなお顔をなさらないでください」
一体わたくしはどんな顔をしているのか。ニヒトが困ったように眉を下げている。そして漂う、甘く魅惑的な香りがますます濃くなっていく。
ニヒトがくすくすと笑う。
「ほうら。お嬢様にはおわかりでしょう? そんな風に私めに同情なさると、私めはますます貴方様を食べてしまいたくなる……。ええ。でも食べませんから、ご安心ください。お嬢様にはきっと相応しい御仁を私めが必ずご用意いたしますから。私めはお嬢様の『真っ当な幸福』をこの目で見たいのです」
優しい声色に含まれる拒絶の色。でも大丈夫。わたくしは飲み込まれない。
胸の前で両手を握りしめ、くちびるをぐっと引き締める。
「……わたくしのお相手など、ニヒトが探さなくてもいいのよ。いずれわたくしは、この家を出て、オーディン様に仕えるのですから」
ニヒトが途端に嫌そうに顔を歪める。
「教会ですか? まさか私めに消滅しろとお嬢様は仰せで? まあ、死した神を祀る教会程度、敵ではありませんが……。とはいえ教会で寝食を過ごすなど、どうにも心身が休まりそうにありません。お嬢様、お考え直しください」
「あなたは何を言っているの? わたくしは女子修道院へ行くのよ。ニヒトは男でしょう。修道院には入れません」
「なんと修道院でしたか。それならば教会よりまだ魔の差しやすいというもの。私め、女体にならねばなりませんね」
「……あなたは本当に、何を言っているの……?」
ニヒトの言うことは時折、荒唐無稽が過ぎて、頭が痛くなる。
奴隷という身を嘆くあまり、妄想が過ぎるようになってしまったのだろうか。
ニヒトの教養高さに作法、洗練された仕草に口調。奴隷の身に堕とされる前は支配階級の地位にあったのかもしれない。というより、それ以外に考えられない。
公爵領の屋敷に閉じ込められているため、他王侯貴族の方々と接する機会はないけれど、たまに見かける父公爵の立ち姿や所作よりもニヒトが洗練されているようにすら見えるのだ。父公爵は落ちぶれているとはいえ、由緒正しき公爵。立ち姿だけで貴族であることを示し、使用人や領民の尊敬を集めていた。
その父公爵よりも更に、為政者を思わせる品と威厳のようなものをニヒトから感じる。只者ではない。それなのに、現状は衰退しゆく公爵家の奴隷。
やはりあまりの転落ぶりに絶望し、空想の世界へ逃避しているのだろう。
ふう、と息をついて空想の世界に旅立ってしまったニヒトの瞳を見る。
聡いニヒトとはいえ、……いえ、聡いからこそ。現実を直視するのはつらいだろう。
このいつでもトロリと夢見るような琥珀色の瞳は、そのせいだったのか、とようやく気がつく。
ニヒトの苦しみに気がつかなくて、ごめんなさい。
「ねえ。ニヒト。あなたは確かにとても美しいわ」
「ありがとうございます。ですがお嬢様は私めなどより美しい。ええ、天と地のあらゆるものを卓越して美しく気高いのはお嬢様です」
どう切り出そうかと、胸の前で組んだ両手をぎゅっと握りしめ、気遣いながら声をかけると、ニヒトからうっとりとした顔で親バカかくの如し、といった応えが返ってきた。
違うの。そうじゃないのよ、ニヒト。
「……ありがとう。だいぶ大袈裟だけど嬉しいわ。でも、そうじゃないの。あのね、ニヒト…………あなたは、男性なのよ……?」
そう。たとえニヒトが殿方の劣情を誘うほど美しく色香に溢れていても。それでもニヒトは男性なのだ。女性ではない。
ニヒトはこてり、と首を傾げた。
「私めは神の理の外にあるものですから。お嬢様が私めに女体であることをお望みならば、そういたします。――とはいえ、この国で女体であることは、お嬢様をお守りする上で不安が残るのですよねぇ。まあ人間どもの倫理観も慣習も無視すればよいことですが」
琥珀色の瞳がゆらゆらとろり、とまるでグラスに注いだ酒精のようにゆらめいて、薄いくちびるがにんまりと弧を描く。
胸の前で結んでいた手に力がこもり、爪と間接は真っ白。それに気がついたニヒトの細く長い指が強く結んだ手をほぐしていく。
優しく触れられただけなのに、いつの間にかわたくしの両の手は離れ、膝の上に置かれている。
そして目を細めて、まるで何の邪気もないといった顔で「どうなさいますか? 私めは女体になればよろしいでしょうか?」などと聞いてくる。
「…………ニヒトを修道院に入れる寄付金まで出せないわ。自分の分で精一杯。あなたにはよい奉公先をきちんと見つけてあげるから、安心してちょうだい。この屋敷から解放してあげるから」
だから、そのときまではどうか傍にいてほしい。
「お嬢様。私めに破壊と復讐の限りを尽くせと仰せで? もしくは淫蕩に耽らせよと? それならば私め、お嬢様の魂をいただかなければなりませんが……。しかし私めはできることならお嬢様の魂を喰らうより、その美しい魂が幸福を掴んで輝く様を見せていただきたいのですよ」
「わたくしの幸福を願ってくれるのね。ありがとう…………って違うわ! どうしてそういう話になるの?!」
「私めがお嬢様のいらっしゃらないこの屋敷から解放されるということは、つまりこの屋敷の没落に他なりませんでしょう。違いますか?」
違う、と言いたい。
だけどこの屋敷の全ては父公爵の所有物で、それは屋敷や使用人だけでなく、わたくしの命そのものも、父公爵の所有物だ。父公爵を出し抜く方法。そんなものは神に背く手段以外にない。
寝台の布切れを掴み、ぐっとくちびるを噛むも、あざとく小首を傾げるニヒトを睨めつける。
「たとえオーディン様のお教えに背こうとも、あなただけは必ず助けるから。ニヒト、わたくしがあなたを真っ当な世界に戻してあげる」
決意を込めてそう言うと、ニヒトは細く長い指で薄いくちびるに触れ、わたくしの足元で可笑しそうにわらった。
ガーデニアによく似た甘い香りがどこからか漂う。
「ふふふ。お嬢様。悪魔のためにお嬢様が悪魔に魂を売り渡すなど…ふふ。おかしいですね。でも嬉しいですよ」
「…………また馬鹿にして。わたくしは本気よ」
「私めも本気で悪魔なのだと打ち明けているのですがねぇ……」
面白くなくてニヒトから視線をそらす。小さな窓から蒼白い月の光がぽっかりと浮かんでいた。漆黒ではなく、濃紺の空。月の光に照らされて、淡い灰色の雲がぼんやりと見える。
本当にニヒトが悪魔だと言うのなら、なぜこんなところで奴隷に甘んじているのだろう。
「……――私めの名を、覚えておいてください」
「え?」
静かな声に振り返ると、ぞっとするほど美しい微笑みを浮かべて、ニヒトは言った。
「私めの名はアスモデウス。アスモデウスです、お嬢様」
ニヒトは、そう言った。甘く濃い、官能的な匂いに眩暈がした。




