夏と浩子とかき氷と(魔法少女ラナシリーズ)
魔法少女ラナシリーズ登場人物(一部)
ラナ・ムーンキャスル
トランスムーン(と本人が呼ぶ世界)から魔法の実習のためにやってきた少女。トランスムーンのある国の第二王女で、外見は小学生だが学歴は大学生相当。魔法使いとしては見習いレベル。元の世界の同級生の中でも最低レベル。にも関わらず王女であるためプライドが高く傲慢。現在の目的は自信の魔法力の向上と、魔法でいかにアンダームーン(と本人はこの世界を呼ぶ)に貢献できるかについてレポートを書くこと。この世界で与えられた住居を魔法のミスで破壊してしまったため、宏人の家に居候している。
松原宏人
中学生。母親は幼いときになくし父親は単身赴任のため一人暮らし。ラナが来てからは二人暮らし。料理とバイトが生き甲斐。将来の夢は適度に幸せなごく普通の家庭を築くこと。「喫茶ひまわり」でバイトしている。
速瀬きづな
宏人の幼なじみ。人なつっこく誰とでも親しくなれるタイプ。家は金持ちでしっかり者。その上成績も運動神経もそこそこに良く、外見も魅力的なためよく告白されるが、そのすべてを断っていて彼氏はいない。しかし宏人とは特に仲良くしていて、つきあっているのではないかと思われている(本人は否定している)。
夏と浩子とかき氷と
1
夏休みのとある夜のこと。
「なあ宏人、あのごはんはなぜ赤や緑に染まっているのだ? 気味が悪いぞ。彼らはうまそうに食っているが本当にうまいのかアレは?」
寝転がってテレビを見ているラナが宏人に問いかけた。
「は? 赤と緑に染まったごはん?」
宏人は読んでいた雑誌から目を上げてテレビに目を向ける。
テレビの中では数人の子供たちが駄菓子屋の前でかき氷を食べていた。
「あれはごはんじゃないよ。かき氷だ」
「かきごおり……? なんだそれは?」
「ラナはまだ見たことなかったんだっけ? 削った氷にシロップとかをかけて食べるものだよ」
「なんと! 削った氷を食べるとな。口の中を怪我したりはしないのか?」
「ははは、大丈夫。氷はそんなに硬くないよ」
「して、うまいのか、それは?」
「うーん、おいしいっていえばおいしいけど、味がどうこうって言うより冷たくてシャクシャクした感触を楽しむものだと思うよ。一応シロップとかがかかってるから甘いけどね」
「なるほど、冷たくて甘くてシャクシャクなのか。それはそれは……。ところで氷が喉に引っかかって取れなくなると言うことはないのか?」
「大丈夫だって。細かく削ってあるからすぐに溶けちゃうよ」
「そうか。ならば安心だ。それはどこに行けば食べられるのだ? 自動販売機で買えるのか? コンビニに売っているのか?」
「うーん、自動販売機にはないし、コンビニにもあるのはカップに入ったやつだけなんじゃないかなあ。今テレビでやってたみたいのは売ってないと思う」
「ではどこに?」
「祭りの屋台なら必ず買えると思うけど、祭りはいつもやってるわけじゃないし。後は喫茶店とかでやってたりすることもあるけど、必ずやってるわけでもないし。駄菓子屋もこの辺のはみんななくなっちゃたしなあ……言われてみれば意外とかき氷食べられる所ってないなあ」
「そ、そんなにレアなのか? かき氷というやつは」
「いやレアってわけじゃないけど……。氷削るだけだから機械があればうちでだって作れるよ。まあ食べたいんなら機会があったら食べさせてあげるよ。日本で夏を過ごしていてかき氷が食べられる機会がないってことはないから」
「べ、別に食べたいというわけではないぞ! アンダームーンの人間がどのような嗜好を持っているかの調査だ。決して冷たくて甘くてシャクシャクな感触を一度でいいから味わってみたいとかそういうことではないからな……そ、それにしても暑いな。クーラーはどうした」
「クーラーはラナが掃除機を手で片付けるのが面倒だからって魔法で移動させようとした挙げ句失敗してぶつけて壊しただろ」
「お、おう……そうであった。ぶつけたくらいで壊れるとは所詮アンダームーンの文明の産物であるな。トランスムーンの魔法器は燃やしても粉々にしても元の形に戻るぞ」
「ここだって修理すればまた使えるようになるよ。明後日に電気屋の人が修理しに来るからそれまでは我慢だ。さあ、いつまでもテレビ見てないでもう寝よう。明日は僕は朝からバイトだ」
「う、うむ……それにしても冷たくて甘くてシャクシャクなものとはどれほど……」
「え、なんか言った?」
「な、なんでもない、さあ寝るぞ!」
「うん、おやすみ」
2
「あづい……」
次の日の午後、ラナは一人で居間でのたうち回っていた。
「あづいあづいあづいあづいあづい」
テレビの中では人混みで埋め尽くされた海辺が映し出され、アナウンサーが熱中症への注意を呼びかけている。
開け放した窓の外は上半分に真っ青な空、そこからくっきりコントラストを描いて近所の家々が夏の太陽の光を受け白く輝きながら立ち並んでいる。
「うー、なぜ私がこんな目にあわなければならんのだ。全くどうかしてるぞこの世界は。気候調整の魔法師の一人もいないとは正気の沙汰とは思えんわ!」
などと叫んでも空しくセミの大合唱にかき消される。
「うるさいうるさいうるさい黙れえええええええ!!!」
それに応ずるかのようにセミの声が一斉に止んだ。
「お、なかなか物わかりが良いではないか。それとも動物にメッセージを伝える魔法が知らず知らずのうちに発動したということか。私も中々やるな。ようやく修行の成果が……」
とそこまで言ったところでセミがまた先程に勝るボリュームで大合唱を始めた。まるで第九のクライマックスのようである。
「えーいこれは一体どういうことなのだ! わざとやっておるのか? わざとやっておるのだな。私が見習い魔法使いであることをいいことにおちょくっておるのだな。おのれええええええええ!」
ラナは窓際に立って息を大きく吸い込んだ。
「私を誰だと思っておるのだ! 私はトランスムーン第十八国家第二王女、ラナ・ムーンキャスルだぞ!」
セミの合唱が弱くなる。
「ははーん。驚いたか。わかったなら貴様ら全員今からそこに整列して頭を下げろおおおおお!!!」
しかしそんなことを聞かずにセミの大合唱は最初の音量を取り戻すのであった。
「なんだと!? 私の言うことを無視してただで済むと思っているのか貴様らああああああ。そういうことなら私にも考えがある。このことを父上に連絡して……」
「ラナ……? 何叫んでるの?」
背後から声がした。
「えーい黙っておれ。私は今この無礼な合唱隊の相手で忙しいのだ」
「ラナ! ちょっとしっかりして」
ラナは両肩を掴まれて大きく揺すられた。
「お、おのれ、何をする」
しばらく揺すられると、
「はっ!? 私は何を……?」
振り向くと宏人がいた。
「大丈夫?」
ラナはしばらく放心すると、
「大丈夫なわけなかろう! 暑すぎて気が狂うところだったわ! アンダームーンの連中はよくこんな気候調整もされてない世界で生きていけるな。まったく信じられん」
「気候調整って何?」
「トランスムーンでは気候は専門の魔法師によって完全にコントロールされていて、常に人間がすごしやすいように調整されているのだ。だからここと違って部屋の中にいようと外にいようと気温は大きくは変わらぬ。その程度のことすらできんとは所詮アンダームーンの文明だ」「へえ、じゃあラナのいたところには季節がないってこと?」
「うむ。暑くなることも寒くなることもない。人の住むところは常に同じ気候だ。もちろん植物や農作物の成長を阻害しないように配慮している。いつも快適な気候だからこそ人々は仕事や勉学などに励むことができ、社会の生産性も上がるわけだ。まったく合理的だとは思わんか?」
「まあ確かに合理的かもしれないけど、季節がないのは寂しいかな」
「なんと! このクソ暑くてクソやかましいのが好きなのか。自ら苦痛を求め、それがなければ寂しいとは宏人はもしかしたら変態か!? ……はっ!? もしや私をここに置いてるのは私のこういう喋り方に快感を感じてるから!? そうなのか? おぬしはマ○なのか? 私がお互いに健全で良好な関係を築いていると思っていても知らぬ間に私は宏人の性○隷に仕立て上げられていて……」
「そうじゃなくて、確かに季節の移り変わりには嫌なところもあるけど、それだけじゃなくていいこともいっぱいあるから」
「ふむ。いいこととな。しかしこんな不快な気候の中で生きることにどんな喜びがあるというのだ。そもそもアンダームーンの連中だってそれが嫌でエアコンなどを作り出したのではないか。私にはさっぱりだ」
「まあそうだけど……たぶんそのうちラナにもわかるよ」
「ふむ、そうか……。ところでそれはなんだ?」
ラナは宏人が手に持っている大きなビニール袋を指さした。
「あ、これ、なんだと思う?」
宏人はビニール袋の中身をおもむろに取り出してちゃぶ台に置いた。
「ふむ。上部に手回しのレバーがあるな。それが下の箱のふたの真ん中に差し込まれていて……宏人、ふたを取って良いか?」
「うん。怪我しないように気をつけてね」
「怪我……? 何か危険物でも入っておるのか? どれどれ……なるほど、レバーの先は水平に箱一杯に広がった面になっておる。レバーを回して何かをつぶすというわけか。そして……その裏にはその潰すものを引き裂くための大量の刃物……なるほど。よしわかったぞ!!!」
「うん、何?」
「これは小動物から血液を絞り出して魔術用の薬品の原料を作り出す装置だな」
「……違うよ。全然違うよ」
「なんと!? ということは……わかった、わかったぞ! 小動物を引き裂くには刃物が大きすぎると思ったのだ。これは大量の虫を潰してその体液からやはり魔術用の薬品の原料を……」
「ごめん。ラナに聞いた僕が悪かったよ」
「違うのか!? ではまさかこれは小動物でも虫でもなく人間の……」
「これはかき氷を作る機械だよ」
「かき氷? ああ、昨日テレビに映っていたアレか。なるほど、このような機械で氷を潰して作るわけか。私は削ると言うからにはヤスリのようなものでガリゴリと削るのだと思っていた」
「ひまわりでラナがかき氷食べたがってるって言ったら、店長が使わないからってくれたんだ」
「そうか。店長殿には今度礼をいわねばな」
「じゃあ早速作ってみようか」
「そうしようではないか」
宏人たちは台所に移動する。台所のテーブルに座ったラナは、
「ぬひひ……冷たくて甘くてシャクシャク……」
「何か言った?」
「何も言っておらぬわ。早く準備するのだ」
「はいはい」
宏人は冷蔵庫を開けた。
「ああ氷があんまりないなあ」
「ダメ……なのか? ……ああ、冷たくて甘くてシャクシャクが……」
「え?」
「な、なんでもない。それよりかき氷は作れないのか?」
「うーん、でも一人分ならなんとかなるかも」
「そ、そうか」
「僕は何度も食べたことあるし、氷できればいつでも食べられるから、今はラナ食べなよ」
「う、うむ。悪いな。是非宏人に譲ってやりたいところなのだが、私の実習の一環としてアンダームーンの食文化も知っておかねばならぬ。実に残念だ」
「はいはい」
「ぬ、おぬし私のことをバカにしてはおらぬだろうな?」
「別に」
「あ、その言い方。私は別に甘いものや物珍しいものに興味を引かれるような子供ではないのだ。そこら辺のことを理解してくれないと今後の共同生活において様々な齟齬や軋轢が起きる可能性があり……」
「じゃあちょっとこのレバー力入れて回しててよ」
「う、うむ」
宏人は氷を入れたかき氷機をテーブルに置いた。ラナはレバーを回し始める。
「けっこう、かき氷を作るのも大変であるな。トランスムーンではこういう仕事は……」
「機械式のもあるよ」
「む、そうであるか。……おお、削られた氷が積もってきたぞ。ぬひひ。これが冷たくてシャクシャクの感触に……」
「あ、そういえばシロップもないや」
宏人は思い出したように言った。
「な、シロップがないとな!? ということは冷たくて甘くてシャクシャクが単に冷たくてシャクシャクにグレードダウンしてしまうということか!? それはいかん、それはいかんぞ! 別に甘いものがないと残念というわけではないが……断じてないが、実習の体験としては食文化をありのままに受け入れることが重要なのであってどこかが欠けていればそれは不完全な体験であるばかりかその体験によって本来は存在せぬはずの先入観が生み出され大きな文化の誤解が生まれ強いてはそれは……」
「あ、カルピス使えばいっか」
「そ、それで甘くなるのか?」
「うん、カルピスでもかき氷は甘くておいしいよ」
「そ、そうか。それはよかった。お、氷がなくなったようだ」
「それじゃあこれを出来上がったかき氷に欠けて……と、ほら出来た」
「おお……これが……冷たくて甘くてシャクシャクの……」
「どう、見た感じ?」
「……地味であるな」
「はあ?」
「昨日のテレビにでやっていたものは赤や緑に彩られていて鮮やかであった。氷が真っ白な分それらの色が良く映えたのだ。見た目に楽しい料理は味も素晴らしく思えるというもの。常識ではないか。それに比べてこれは白い氷に白くてドロドロした液体がかかっているだけだ。ちっとも色鮮やかではない」
「しょうがないだろかき氷機は今日もらってきたばかりなんだから」
「うむ、それはわかっておる。しかし初めての体験は特別なのだから、最高の体験をしたいと思うというのも道理であろう」
「じゃあそれは僕が食べるよ。ラナの初体験はちゃんと準備ができてからってことで」
「ダメだダメだダメだ! それはいかん。私が悪かった。やはり初体験というのは状況が不自然だったりやり方が不器用だったりした方が個性的な思い出になって良い。入念に準備して心構えを万全にしてからの初体験など興ざめだ。やはり初体験というのはさぷらいじんぐであんえくすぺくてっどであめいじんぐだからこそびたーかつすいーとであんふぉーげたぶるなゆにーくあんどすぺしゃるえくすぺりえんすになるのだ」
「……なんだって?」
「と、とにかくこれは私のだ。既得権益というやつだ」
「わかったわかった」
「で、では早速頂くぞ」
ラナは震える手スプーンをかき氷に近づけた。
すくい上げた氷をゆっくりと唇に近づける。
「うむ、やはり初体験というやつは緊張するな」
ラナは氷を口の中に入れて唇を閉じた。
「お、おお、これは……」
波の音と楽しげな笑い声が人気のない海辺に静かに響き渡っている。
海の彼方では、にぎやかな夏の一日の演出を終えた太陽が、遠くから見守るように静かに立ち去ろうとしていた。
海辺に見えるのは二つの人影。
一方が他方を追いかけている。
二人の距離は縮まったかと思うとすぐに離れ、縮まったかと思うと離れる。
それはまるでお互いに共謀して永遠に追いかけっこが続くように仕組んでいるよう。
表情は二人とも笑顔。
まるで子供のようにはしゃいでいる。
本当に楽しそうな二人。
この時間が永遠に続いてほしい。
そんな願いが聞こえてくるようだ。
それは誰にも邪魔されない、海と空と太陽と二人だけの時間。
いつまでもいつまでも、まるで千日手を指しているかのように、二人は同じ時間をぐるぐると回り続ける。
しかし時は残酷にも針を進め、太陽は二人を待つことなく海の彼方へと消えていく。
どんな幸せな時間も永遠に続きはしない。
それはふとしたきっかけで風船が割れるように終わってしまう。
一方が他方の手を捕まえた。
その拍子に捕まえられた方の被っていた麦わら帽子が取れ、海の風に乗って飛び去って行く。
それに二人で手を伸ばそうとした矢先に二人の足はもつれ、二人は絡み合いながら倒れてしまう。
二人は砂の上に重なり合った。
時間が止まる。
永遠のような時間は、あっけなく崩れ去ってしまった。
でもここから始まるのは新たな永遠。
これからの時間を演出するのは明るく力強い光を放つ太陽ではなく、優しく幻想的な光を湛える月。
二人を包むのは空と海と太陽の広大な空間ではなく、闇に囲まれた小さな二人だけの密室。 重なり合った二人は止まったときの中でお互いを見つめ合う。
でもそれは一瞬。
二人は瞬く間にに舞台が移り変わってしまったことを感じ取る。
言葉はいらない。目を見て確認する必要もない。
これからどうすればいいか、相手が何を求めているのか二人とももうわかってる。
そして熱情は溶岩のように凍り付いた時間の檻を突き破る。
あとはもう、なし崩し……
浩子は一目惚れなんてものが存在することを信じてはいなかった。
そんなものは小説やドラマの中で都合良く使われるだけの非現実的な現象だと思っていた。
だって外見だけでわかることなんてたかがしれてるじゃない?
人を好きになるためにはその人のことを深く知らないといけないと思う。
でもその考えは今日彼にあって一瞬で打ち砕かれた。
かっこいいとかかっこ悪いとかそういう問題じゃない。
彼の目から、彼の目、ただそれだけから、彼の優しさ、強さ、そして生きることに賭けるほとばしる情熱を、十年つきあってもたどり着けそうもないぐらいの深さで理解できたのだ。
彼には自分に欠けている全てがあった。
これまで私がいくら努力してもつかめなかったもの。
血を吐くような苦労をしても得ることができなかったもの。
彼はそんなものを易々と手にして力強く生きているように見えた。
もちろんこんな出会いは初めてで、一生、いやあと十回ぐらい生きてもこんな素敵な人に出会うことはできないんじゃないかと思う。
その出会いが旅行先での全くの偶然によるものなのだからなおさらだ。
そして彼の目を見たとき、浩子は彼の素晴らしさだけでなく、彼もまた自分と同じ気持ちになっていることを理解した。
目の前の女性には自分には彼に欠けている何かがある。そう彼が瞬時に確信してしまったことが浩子には理解できた。
そう、自分はこの人に会うために生まれてきて、この人は自分に合うために生まれてきたということを、お互いに信じて疑っていない。そのことが浩子には当たり前の事実であるかのように理解できたのだった。
なぜそんなことがわかってしまったのかはわからない。
根拠もないのに事実だと確信するなんて、普通に考えればばかげている。
確かにそれまでの浩子だったら、そんな意見は夜迷いごととして一笑に付しただろう。
しかしその時の浩子は自分の感覚に疑いを持つことは考えられなくなっていた。
浩子は思う。
これは偶然起こったことでもなければ、気の迷いによって生じた勘違いでもない。
二人はきっと元々お互いを求めていたのだ。お互いにまだ見ぬ相手を求め、何かが足りないと感じながら生きてきたのだ。
浩子はこれまでの充実感に欠けた日々を思う。浩子は確かに幸福になるために努力した。それによってある程度の成果を得、それなりの幸せを獲得してきた。人から見れば十分に充実した人生に見えたかもしれない。
しかし心の底では何かが足りないと感じていた。自分の居場所はここではない、自分にはきっと違った、もっと素晴らしい生き方があるのではないだろうか。そう思えてならなかった。
それがなぜだったか、今ならわかる。
そう、自分はずっとこの人のことを求めていたのだ。だからこそあんなにも心に隙間を感じていたのだ。
考えてみれば自分は初めて会ったはずのこの人に会ったことがあるような気がする。現実ではない、どこか夢のような世界で。それは前世の記憶だろうか。もしくは何らかの理由で見えてしまった未来によるものだろうか。
いずれにせよ、この人との出会いは、心を直接通じ合わせることのできないこの現実世界で、二人の強い思いによって引き起こされたものであることは疑いない。もしかしたらそれは神様が引き起こして下さったものなのかもしれない。
それは奇跡と呼べるものだろう。
そう、この出会いは奇跡。
それは彼もわかってる。
だから二人が惹かれ会うのに、言葉はいらなかった。
出会った瞬間、見つめ合った瞬間、二人は抱き締めあっていた。
そして古い友達のように楽しく語り合って、幼なじみ同士みたいにはしゃいで海辺を駆け回って、夫婦のようにお互いを理解し合った。
もちろん恋人のように呆れるぐらいに甘い愛の言葉を呆れるぐらいに囁きあった。
もう彼さえいればこれ以上何もいらない。これまでの満たされない毎日も、これから経験するであろう様々な不幸も、彼がいるなら全て耐えられる。むしろそれが彼との幸せを作り出す元になるというなら、喜んでどんな不幸でも苦痛でも耐えたいと思う。
この時間はきっと永遠。こんな幸せな時間が終わるはずない。私のこれまでの人生は彼に会うためにあって、これからの人生は彼と生きるためにあるのだ。
だからもし彼がいなくなったら、それ私の人生の終わり。そんなことがあれば私は生きていけないだろう。
でも彼がいなくなるなんてありえるわけない。彼だって自分と同じ気持ちでいるはずだから。そのことは彼の目をみて奇跡的に確信したことだから。
そんな彼と、靜か波音と暗闇に包まれて、動物が獲物の死骸をに群がるように獰猛にお互いをむさぼりあう。
それは一見暴力的で、でも本当はチョコレートのように甘い時間。
あまりの恍惚に頭がぼうっとなって、彼と溶けて合ってしまうような錯覚に陥る。
本当にそうなれたらどれだけ気持ちいいだろう。
ああ、このまま二人が解けあって、そのまま消えてしまうならばそれでも構わない。どんなに求め合っても別々の体なのがもどかしい。彼と一つになって、彼と全てを共有したい。
二人は呆れるほどの長い時間を呆れるほどの動物的で単純な行為で埋め尽くし始める。
と、その時、
「ちょっと武伸、なにやってんのよ!!!」
女の怒声がした。その声に彼の体がビクリと反応する。
「げげっ! 美雪、どうしてここに!?」
彼が素っ頓狂な声を上げた。
「どうしたもこうしたもないでしょ! ホテルに帰って来ないもんだからずっと探してたのよ。それが何で他の女の子といちゃついてるのよ」
「いやその、それはその……逆ナンされちゃって……その、断ろうとしたんだけどあんまり強引すぎてつい……」
「まったく、そんなんでごまかせると思ってるんだからあんたはおめでたいのよ。もう私はあんたが私が知らないところで他の女と遊ぶのは何もいわないわ。いくら言ったって聞いてくれないもの。でもね、私と二人で旅行に来ているときに他の女をナンパして遊んでるってのは一体どういうことよ! バカにするのも限度があるわ」
「いやその……ええと……ふんだっ、そんなこと言うなら俺この女と付き合うもん。美雪は適当にナンパされてそいつとくっつけばー?」
「あ……あんたねえ……いい加減にしなさいよ!!! 私を身ごもらせて婚約してまで何言ってるのよ!!! ほら、帰るわよ」
「やだやだやだ、俺はこの女と遊んでから帰る! やっとこれから楽しくなるって所なのに」
「あーもういいから早く帰る。ごめんなさいね、そのあなた……名前は?」
女は浩子に優しい笑顔を向けた。
「え……浩子です」
「浩子さん。ごめんなさいね、これはこの人の病気なの。女の子がいるとどうしても手を出さずにはいられなくなっちゃうのよね。まあそれを認めて一緒にいるあたしも変だと思うかもしれないけど、私はそういうものだって諦めてるから。それでも好きなんだからしょうがないわよね……。そういうわけでこの人と遊んでたあなたのことを憎んだりはしない。安心して。もしナンパされて楽しもうと思ってた所なら申し訳ないけど、これはこの人の病気ってことで勘弁して。ね。」
「はあ……」
「なんならこいつよっぽど格好良くて金持っててしかもフリーな男紹介するわよ。お詫びってことで。どう?」
「いえ……いいです」
「そう。じゃあ悪かったわね。ほらグズグズしてないで帰るわよ」
「ええ勘弁してよう。こんないい女滅多にいないよ。今度ディズニーランドに連れてってやるからさあ」
「はいはいグチは戻ってから聞きます。それじゃあね」
女は浩子の方を向いて笑顔で手を振ると彼を引きずって帰って行った。
……。
なんだったのかしら、一体。
浩子は呆然と立ち尽くす。
あれほど激しく燃え上がっていた想いは、まるで夢から覚めるように消え去っていた。
「ま、まあこれも夏の思い出の一つよね。そうよ、恋っていうのは怒濤のように燃え上がってこんな風にあっという間に消えてしまうから美しいのよ。真夏の海で嵐のように過ぎ去った恋。うん、美しいわ」
とかなんとかいって強引に自分を納得させて一人で部屋に戻りましたとさ。
「……ラナ? 大丈夫?」
宏人は放心するラナの顔の前で手の平を上下に振った。
ラナは正気を取り戻し、
「はっ!? ここはどこだ? 浩子はどこ行った?」
「浩子?」
「いかんいかん、かき氷を食べた衝撃のあまり心が夕暮れの海へと旅だってしまったようだ……。恐るべしはかき氷……期待以上の味であった! そう、これは激しくも儚い恋の味! まず舌の上で冷たさと甘さの入り交じった、優しくそして情熱的な感覚を感じるのだ。しかしその感触は反芻する間もなくあっという間に儚く溶けてなくなってしまう。そう、確かにそれは寂しいことなのかもしれない。恋というのは長い間の時間の積み重ねがあってこそ深みのあるものになるのかもしれない。しかし、しかしだ。儚く束の間で消えてしまうからこそその甘く激しい感触はかけがえがなく美しいとも言えるのだ! そう、それは人が桜を愛するようなもの。もし桜が一年中咲いていたら我々はあんなにも桜を愛するだろうか? 桜の咲く時をあれほどまでに楽しもうと努力するだろうか? 否!否!否! 人が桜を美しいと思うのはそれが儚いからであり、桜の咲く時を大切に思うのはそれがたちどころに散ってしまうことを知っているからなのだ。それは人生とて同じこと。もし人生が永遠に続くのだとしたら我々は毎日を一生懸命生きようなどと思うだろうか。日々の出来事に価値を感じることができるだろうか。否!否!これも否! 人はいつか死んでしまうからこそ、毎日を力の限り過ごし、過ぎゆく毎日を愛しむことができるのだ。このかき氷も同様! 氷は舌の上で儚く溶け、甘く冷たい感触は即座に消えてしまう! しかし、だからこそその感触はかけがえのなく美しいものとなるのだ。そう、かき氷は激しくも儚く消え去った浩子の夏の夜の夢の味! そしていつか終わるからこそ輝きも増す人の人生の味! 素晴らしい! 私は感動で涙が止まらないぞ!」
「浩子って誰?」
「わからなくともよい。浩子の恋はかき氷が舌の上で溶けるようにあっけなく消え去ってしまったのだ。しかしだからと言って私は浩子の感じた熱い想いが偽物だとは思わない。確かにあの時浩子は胸を焦がして奇跡を信じていたのだ。その想いを否定するなんて同じ女として絶対に許せない!」
「なんだかよくわからいけど喜んでくれてるみたいでよかったよ」
「うむ。私は本当に感動した。これもお前が私の希望を汲んでかき氷を準備してくれたおかげだ。本当にありがとう宏人」
「どういたしまして」
ラナは上機嫌でかき氷を食べ続けた。
全部食べ終わると、
「もう終わりか? かき氷というものは見た目はたくさんあるように見えるもが、食べてみるとあっという間であるな」
不満そうに言った。
「うん。もう氷がないからね。氷ができたらまた食べられるよ」
「私はもの足りんぞ!」
「そんなこと言ったってないものはしょうがないだろ」
「氷を手に入れる手段は何かないのか?」
「そりゃ買ってくればいいだろうけど、お金ないんだからそんな無駄遣いできないよ。今月はクーラー修理の出費があったから節約しないと」
「そうか、ならば仕方がない。私が魔法で作るとするか」
「ちょ、ちょっと。大丈夫なの? また火事になりかけたりクーラー壊したりしない?」
「大丈夫だ。この魔法は成功したことの方が多い」
「じゃあ……大丈夫かな」
「うむ、タイタニック号に乗ったつもりでいるがよい」
「うん……って安心できないよそれじゃ!? ていうか成功したことの方が多いって考えてみれば失敗する可能性も十分にあるってことじゃないか! 勘弁してよラナ。何か壊してこれ以上出費することになったら今月やっていけないよ」
「うるさい。私はすぐにかき氷が食べたいのだ」
ラナは胸の前に両手を組み、目を閉じて精神を集中する。
「ちょっと待ってそんなムチャクチャな……」
「黙っておれ! 気が散る」
宏人はその迫力に気圧されて引き下がる。
どこからともなく光の粒子がラナのもとに集まってくる。
「天地を司る月の神よ。我が名はラナ・ムーンキャスル。汝の古の契約者、ルナ・アナリシアの血を引きしものなり。今、契約に基づきて汝の月の理を越えし力を貸し与え給え」
ラナは一呼吸を置く。組んだ手が光を集めて強く輝いている。
「氷よ、現れろ!」
ラナは目を見開いて叫んだ。
次の瞬間、ざぶーん、と音がする。
現れたのは……水だった。
空中に現れた水が落ち、ちゃぶ台とその周辺、もちろん宏人たちも水浸しになる。
「ちょっとなんだよこれ!」
「わははははは、失敗してしまったようだ。水を出すのには成功したようだが温度調節が上手く行かなかったみたいだな。たまにはこういうこともある」
「たまにって……魔法の失敗で僕に迷惑を欠けたのこれで何度目だよ。別に魔法の練習しちゃいけないとは言わないけど……」
宏人の声は途中からどんどん小さくなって行った。
「その……ちゃんと時と場所をわきまえて……あの……人に迷惑を欠けないように……」
「うん? どうした?」
ラナは宏人の視線がラナの目に向いていないことに付く。
宏人の視線の先を追うと、ラナの胸に行き当たった。
濡れた服からブラジャーと肌が透けていたのだった。
「な……な……どこを見ておるのだ変態!!」
ラナは耳まで真っ赤にして怒鳴った。
「あ……いや……その……見えちゃっただけで自分から見たわけじゃなくてその……」
「問答無用! 許せん! 雷よ、こいつを貫け!」
「や、やめてー!!」
夏のよく晴れた昼、夕立を告げるかのような雷鳴が宏人の家で響き渡った。
3
「ま、まあそう怒るな、私もやりすぎた。それに宏人だって悪いのだぞ。私の……その……む……胸が透けて見えているというならすぐに目をそらして教えてくれればよかったのだ。それをずっと見続けるなど、レディに対してあまりにも失礼だろうが」
宏人は返事をせずムスッとした顔で歩き続ける。
買い物の帰り道である。さっき部屋が水浸しになったせいで蚊取り線香が側にあった替えの線香ごと使い物にならなくなってしまい、乾くまで待ってはいられないということで近所のスーパーに夕食の買い物もかねて買いにいくことにしたのだった。宏人は一人で行くつもりだったが、ラナはそれでは申し訳ないと主張し、荷物持ちに一緒に来ることになった。
その間中ラナは電撃を喰らわせてしまったことを謝って宏人の機嫌を直そうとしているのだが。宏人はずっと不機嫌なままであった。
その時、ラナはあるものに気付いた。
「あ、あれは……」
ラナが指さした先には一部に海の絵が描かれた白地に大きく赤い字で「氷」と描かれたかき氷の旗があった。小さな定食屋のもののようであった。
「あれは昨日のテレビでも見たぞ。確かあのような旗のある店でかき氷を買っていたのだ。もしやあれはかき氷のある店の印なのではないのか? なあ宏人」
「……そうだよ」
宏人は言いたくなさそうに言った。
「ということはあの店に入ればかき氷を食べられると言うことなのだな?」
「……そうだよ」
「これはつまりその……なんだ……対偶を取ればかき氷を食べていなければあの店には入ってはいないとも言えるよな」
「入らないからね。お金ないから」
「な、なんとケチな! 女に氷菓子のひとつもおごれないとは甲斐性なしにも程があるのではないか?」
「あのねえラナ、そもそもお金がない原因は……」
と、その時、
「ラナちゃん! 宏人!」
どこからともなく聞き慣れた声がした。
ラナが後ろを振り向くと、宏人の幼なじみの速瀬きづながいた。
「おう、久しぶりだなきづな。元気であったか?」
「うん、ラナちゃんも元気そう。二人はデート中? いいなあ」
「バ、バカっ。何を言うか。そういうのではない。単に買い物に来ているだけだ。一緒に生活している以上一緒に外を歩くことがあるのもやむを得んだろう」
「ふーん。どうなんだろうねえ……で、お二人さんは氷の旗を指さしながら何の話をしてたわけ?」
「ふむ。それがだな、私はかき氷を食べたいと言ったのだが宏人がケチで食べさせてくれんのだ」
「何言ってるんだよラナ。別にケチとかじゃなくて無駄遣いをしないようにしてるだけじゃないか。かき氷は家でも食べられるんだから、わざわざ高いお金出して外で食べる必要ないだろ」
「高いっていったって氷でできた菓子の値段なんて大したことなかろう。そもそもお菓子の味というのは食べる場所や時間によっても変わるものだ。同じおにぎりだって家で食べるのとピクニックで食べるのと食べるのではおいしさが全然違うだろう。かき氷だってこの真っ昼間の蒸し暑い中を歩いてヘトヘトになっている今だからこそおいしく頂けるというものだ。今食べれば家で食べるよりもずっとおいしいに違いない。そのためなら多少の金を使っても決して無駄遣いではないと思うぞ」
「ラナ、あのねえ、別に今氷を食べに入ってもいいよ。っていうかラナの言うこと聞いてラナの喜ぶ顔見れたらいいと思うよ。でもね。今入ったら次にせがまれたときも断れなくなっちゃう。その時もお金を使うことになっちゃうんだ。それでまたその次も……ってやっていくうちにどんどんお金を使うことになっちゃう。そうするわけにはいかない。僕はラナとの生活を守るためにも、お金は節約しなきゃいけないから。ラナは今回だけだって言うかもしれないけど……」
と、そこまで言ったとき、
「ラナちゃん、かき氷食べたいの?」
きづなが割り込んで言った。
「うむ。かき氷は冷たくて甘くてシャクシャクで実に美味なのだ。浩子の夏の夜の夢の味なのだ」
「じゃあうち来て食べる?」
「なんと! きづなの家でもかき氷が作れるのか。是非私は食べたいぞ!」
「きづな、そんなの悪いよ。かき氷ならうちでも作れるんだから」
宏人は遠慮する。
「いいっていいって、材料は氷なんだからタダみたいなものだし、それに私も丁度甘いもの食べたかった所なんだ」
「でも僕らがお邪魔したら家の人に迷惑じゃ……」
「大丈夫。今日はお父さんもお母さんもしばらく帰って来ないから。何? それとも宏人は私を一人きりにしてラナちゃんと二人きりで楽しくかき氷をを食べたいわけ?」
「そ、そんなことないよ! 全然ない!」
「よいではないか宏人。あまり人の好意を無下にするものではないぞ」
「うん、わかった……」
宏人が渋々頷くと、三人はきづなの家に向かった。
4
「す、涼しいぞ! 玄関を開けたらいきなり涼しいぞこの家! 専属の魔法師でもおるのか?」
きづなの家に入るなり、ラナは騒ぎ出した。
「なわけないだろ。この家は全体に空調が効いているんだ」
宏人は相変わらずあまり機嫌が良くないようだった。
「なんと! 家全体にエアコンとな。そんなものがあるならわれらの家にもつければ良いではないか」
「無理言うな。いくらかかると思ってるんだ。クーラー修理の費用だけでもきついっていうのに」
「むう、家の大きさといい空調設備といいきづなは宏人より数段恵まれているようだな。これがいわゆる格差社会という奴か。宏人は何か前世で悪業でも行ったのか?」
「知るかそんなこと。大きなお世話だ」
「へえ、ラナちゃんのいた世界でも来世が信じられてるんだ」
きづなは興味津々に聞く。
「うむ、悪い行いをしたものは生まれ変わって悪い境遇に生まれてくると皆信じている。だからトランスムーンの人々は悪事を行わないし、例え不幸な身の上でも自分の前世の悪行があったのだと信じて新たに善行を積もうと努力するのだ」
「だったらラナも相当な悪行を積んだんじゃないの」
宏人は意地悪そうに言う。
「な、何を言うか! 私は確かに魔法の才能にはあまり恵まれていないようだが王家の血筋を引いている。前世に悪行を積んで王家に生まれられるわけがなかろう」
「わかんないよ。生まれだけ良くて才能がないんじゃ、単に才能がないだけの人より不幸かもしれないじゃん」
「何を言うこのアンダームーン風情が! だいたい……」
そこできづなが割り込み、
「まあまあ二人とも熱くならないで。うちは確かに裕福かもしれないけど私はそれだけで裕福じゃない人より恵まれてるなんて思わないよ。大切なのは与えられた境遇じゃなくて、そこからどれだけ努力するかってことじゃないかな。だっていくらいい家に生まれたってそれだけで満足して何もしなかったらつまらないじゃない。その点宏人は生活をより良くしようと努力してるし、ラナちゃんだって魔法の勉強を一生懸命やってる。二人とも私はすごいと思うよ。私なんかかなわないぐらい」
「ふむ、確かにそうであるな。例え前世で悪行を積んでいたとしても重要なのはそれ以上悪行を積まないことだ。悪行で罰を受けた結果、善行の価値を知ることになるとすれば悪行も決して無駄ではなかったということだ。きづなは大人であるな。とても宏人の幼なじみとは思えん」
「そんなこといったらラナだって年齢は下かもしれないけど大学生相当の学歴を積んでるんだろ? 一緒に喧嘩してたんだから人のこと……」
「だから喧嘩しない! もう、そんなに喧嘩して倦怠期の夫婦ですか君たちは。私はこれからキッチンでかき氷を作ってくるから居間で待っててね。しつこいようだけど喧嘩しないんだよ!」
そう言うときづなはキッチンの方に向かって行った。
ラナはまだまだ宏人に言いたいことがあったが、きづなにああ言われた手前黙っていた方がいいように思った。
宏人も同じなのだろうとラナは思う。
宏人の案内で居間に行き、口を聞かないまましばらくの時間がすぎた。
「お待ちどうさま!」
きづなが澱んだ空気をぶち壊すかのように部屋に入ってきた。
「おう、待ちくたびれたぞ。意外と時間がかかったな。」
「ごめんね、お茶がすぐに見つからなくて」
「何、お茶とな? この暑いのにお茶を飲むとはさすがはきづなも宏人の幼なじみであるな。宏人の家でも寒かろうと暑かろうと構わずお茶が出てくるぞ。家に来る友人がそれを見ると皆じじむさいと言うのだ。まあ私もお茶は好きなので問題はないがな」
「ラナちゃん、お茶っていってもそういうお茶じゃないよ。はいこれどうぞ」
きづなはラナ達の前に人数分のかき氷を出した。
「なななんと! この氷にかかっている緑色のものがお茶なのか?」
「そうだよ。普段飲むお茶とはちょっと違うけどね」
きづなが出したのは宇治金時である。
「だがお茶というのは渋いものであって、だからこそ甘い菓子と合うのだろう。それにも関わらず菓子そのもの渋いお茶を混ぜてしまったら菓子の甘さが台無しになってしまうと私は考えるのだが……この黒いものは小豆であろう。確か甘いものであったはずだ。これとお茶が合うようには私には思えないのだ」
「そんなことないよ。相反する個性って衝突することもあるけどね、互いを引き立てることもあるの。まあそんな話するより食べてみて」
「う、うむ。では頂くとする」
ラナは小豆とお茶のかかった部分の両方が入るように氷をスプーンで救い、それを口に運んだ。
「こ、これは……」
夕暮れ時の海辺に波の音だけが静かに響き渡っている。
浩子は一人で海の彼方に沈む夕陽の光を見つめてたたずんでいた。強い潮風が浩子の髪を激しくなびかせている。
結局、ここに戻ってきてしまった。
あれから、ここで溶岩の激流のような恋をしたあの日から、随分な時が流れた。
本当に、いろいろなことがあった。
もう絶対にダメだと諦めていた事態が、奇跡的に好転して救われたこともあった。
誰よりも信じていたはずの人に、裏切られた事もあった。
目先の欲望に目がくらみ、自分を見失ってしまったこともあった。
長年の夢が叶ったと思ったとたんに大切なものを失い、幸せから絶望のどん底に急転直下で突き落とされたこともあった。
そしてもちろん恋もした。
たくさんの恋をした。
中には自分が本気のつもりでもからかわれていただけの恋、その逆に相手が本気になっているのを面白がってからかっただけの恋もった。
もちろん流れ星のように胸をかすめて言っただけの恋心を抱いたことは数え切れないほどだ。
しかし本当の恋も決して少ないとはいえない数を経験した。
一生共に生きていこうと誓い合ったのに、周囲の流れに押しつぶされて消え去ってしまった恋。
お互いに本気だって分かっているのにいつになってもそのことを相手に伝えられず、時間に奪い去られてしまった恋。
恋することと愛することを取り違えて進むべき道を見失ってしまった恋。
お互いを求める余り相手を傷つけ合い、お互いに疲れ切って前に進む気力を失ってしまった恋。
そして、最後の恋。
最後の恋は本当の恋だった。本当に、本当の恋だった。
それはそれまでの本気だと思っていた恋が皆霞んでしまうほど激しく燃えさかり、そして同時に深海の海流のように心の奥底で力強く流れる想いに支えられていた。
それ以上の恋はもういくら求めてもありえないと思えた。
そしてそれまでの幾多の報われない恋は、きっとそのときのためにあったのだと浩子は思った。
それまでの恋があったらからこそ、この恋がいかに特別でかけがえのないものかを理解できたのだから。
きっとこの恋は、自分の人生の到達点なのだろう。そう確信した。
そしてその人と結ばれた。
しかしそこに至る道は決して楽なものではなかった。
多くの障壁があった。たくさんの人を敵に回して、二人ともたくさんの痛みを経験した。そしてたくさんの人に裏切られて、たくさんの人を裏切った。
大きな犠牲もあった。生きてる限り決して失ってはいけないと心に決めていたものを失った。
そうしていろんな人を不幸にして、たくさんの涙が流れた。
でも浩子たちの想いは決して揺らぐことがなかった。
どんな犠牲があろうとも、どれだけの人を傷つけようとも、絶対にこの恋だけは失ってはならない。この恋を失えば自分たちの存在意義がなくなってしまう。何のために生まれてきたのか分からなくなってしまう。そう信じていた。
もちろんそれはわがままなのかもしれない。でもこれは一生に一度のわがままだ。それまで二人は他人の幸福を第一に考えて生きてきた。これからもそうやって生きていくつもりだ。そんな二人が一生に一度だけ自分たちの幸福を優先することが出来るのなら、それはこの時なのだ。
そんな確固とした想いがあったから、浩子たちが共に生きていくことが許された時には、それほどの感動はなかった。
それは二人の思いの強さを考えれば、当然のことだと思えた。
浩子は自分は人生の目的地に到達したと思う。
勝った、と思う。
しかも圧勝だ。ギリギリでの勝利じゃない。自分は勝てるという確信を持って挑み、まったく怯むことなく行動し、当然のように勝利を得た。
もし平行宇宙があったとして、そこではこの世界と少しずつ違っていたとして、そこでは自分たちの恋が違った展開を見せていたとしよう。浩子はその世界でも自分が勝利したと確信できる。もし自分が自分であるのなら、例え世界がどのような状態にあろうとも、この人を失うことなんてあり得ない。自分のこの確固たる想いが偶然的な事実の違いによって揺らぐなんて考えられない。
浩子はもう満足だと思う。
自分の人生はこれ以上幸福にはなり得ない。
このまま何事もなく時が過ぎていって死んでしまっても何も後悔することはない。
……そう思っていたはずだった。
浩子は波打ち際に沿ってゆっくりと歩き始める。
船の汽笛の音がした。
静かにたたずむ海を見て浩子は思う。
この海はあの時から何も変わっていない。
私はこんなにも変わってしまったというのに……
浩子は夫婦で旅行に来ていたのだった。
この海岸に来たのは偶然だ。ここに来たことがあったことなんてすっかり忘れていて、単に食べ物がおいしそうだからという理由でこの旅行先を選んだのだ。
今思えば心の奥底では記憶していたのかもしれない。無意識にここを求めてここに来たいと自分は主張したのかもしれない。
そしてここに来て、この海を見た瞬間、すべての記憶が蘇り、ここであった出来事が洪水のように頭の中に流れ込んできた。
ナンパして来た人に一目惚れして自分にそんな感情があることに驚いたこと。
お互いに口も聞かずにいきなり抱き締めあったこと。
それから一日中ずっと前からの恋人のように幸せに過ごしたこと。
浜のうえを子供のように駆け回ったこと。
二人とも獣になってお互いを求め合ったこと。
そして彼の恋人が現れて、すべての想いが泡のように砕け散ったこと。
それは遠い過去のことのはずなのに、まるで昨日のことのように、いや、むしろ今から海辺に行ったら彼に会うことが出来て同じ体験をくり返してしまうのではないかと思えるぐらい、生々しくリアルに思い出されてきた。
だから浩子は一人きりになれるチャンスを窺って、一人でこの海辺に来たのだ。
もしかしたら今の自分はあの時の自分で、海に行けばあの時と同じように彼に会えて、あの時と同じような体験をすることができるのではないか。
そんなことはありえない。いくらそう自分に言い聞かせても、あの時の記憶はあまりにも強烈で、あまりにもリアリティがありすぎて、今にも現実になってしまうんじゃないかという想いが押さえられなかったのだ。
この奔流のような感情はなんなのだろうか。自分は今幸せなはずだ。これ以上の幸せはあり得なかったはずだ。それはあの人と結ばれた時以来、何があっても変わることのない不朽の事実のはずだった。
しかし胸の中を駆け巡るあの日の記憶がその事実を、まるでハンマーで卵を割るみたいにあっけなく打ち壊していくのだった。
浩子は目を閉じる。
そうして耳を澄ますとあの時の自分になれる気がする。あの時は今よりずっと無邪気で、無鉄砲で、自分には何でもできると信じていた。そう、あの時、海の匂いはこんなにも鮮烈で、海の風はこんなにも冷たくて、夏の太陽はこんなにも熱く身体に照りつけていた。自分は今よりずっと夏を愛していて、だからこそ夏は惜しみなく青春を燃やし尽くす舞台を与えてくれた。
いつから自分はこんな気持ちを忘れてしまったのだろう。
自分はいつもそれまでの自分に打ち勝とうとがむしゃらに闘ってきた。どんなときもこれまでより強くなければいけない、これまでより幸せでなければいけない。そう思い続けて毎日を闘ってきた。
そんな激流のような毎日の中で、がむしゃらに走り続ける中で、いつしか自分は何かを忘れてしまっていた。
それはあの頃は当たり前のようにあったこと。でも当たり前すぎて気づけなかったこと。
そして必死で走る人間には失っても気づかれないこと。
もう少し、もう少し自分はゆっくりと走るべきだったのではないのだろうか。いつも後ろを振り返りながら、何か大切なものを忘れていないか、常に確認しながら進めばよかったのではないだろうか。そうすれば自分はこの気持ちを忘れずに済んだのかもしれない。
浩子は目を開けてしまいたくなかった。目を開けたら今の自分に戻ってしまう。この鮮烈な海の匂いも、照りつける太陽の熱さも、身体を打つ冷たい風の感触も、奇跡が起こりそうな予感も、すべて消えてしまう。今の自分には、もうそんなものを感じられないのだ。今の自分にできるのは観客席にふんぞり返って舞台の上で波瀾万丈に生きる人間たちをあざ笑うことだけなのだ。もう舞台の上に戻るためのエネルギーはとっくの昔に失ってしまったのだ。
しかしその時、
「浩子」
後ろから彼の声が聞こえた。
浩子は幻聴かもしれないと思った。過去のことを思うあまり作り出されてしまった幻聴だろうと。
そう、そんなことはあり得ないはずなのだ。
でも浩子はこらえられなくてすぐに振り向いた。
そこに彼はいた。
間違いなく、彼だった。あんなに見つめ合って抱き締めあった彼のこと、忘れるわけがない。
「おまえなんでここにいるんだ?」
そして彼も自分のことを覚えていてくれたのだ。
「旅行で来たの」
「奇遇だな、俺もだ」
それは確率的にはあり得ないことだ。全く別々の生活をしている二人が偶然同じ日に同じ旅行先を選んで、しかも同じ海辺に同じ時間に来るなんて、あり得ない。
だが浩子は彼に会えたことにすぐに納得した。
自分にはまだ残っていたのだ。あの時、当たり前のように持っていた能力。失ってしまったんじゃないかと思っていた力。
そう、それは奇跡を起こす能力。
その能力を持つものにとっては奇跡を起こすことなんて簡単。夏の太陽を目一杯に浴びて海の匂いを胸一杯に吸い込んで、自分はいくらでも幸せになれると心から信じればいい。
自分にはまだ、それが出来たのだ。
「俺な、あれからあいつと結婚して、まあそれなりに幸せにやってたんだ。でも偶然この海に来てこの海を見たら、急におまえと会った時のこと思い出したんだ。それでここに来たらおまえがいた。不思議なもんだな」
「不思議なんかじゃないわよ。だって……」
浩子は彼のことを見つめる。
彼はその目を見て何かを理解したようにうっすら微笑み、
「そうだな……」
独り言のようにつぶやいた。
そうして、二人は何もいわず見つめ合った。まるで何もいわなくてもお互いのことが理解できるかというように。
あの時の記憶がよみがえる。世界が海と空と太陽と自分たちだけになってしまうような感覚。なんの迷いも疑いもなくただこの瞬間だけがすべてだと心から信じれる感覚。
二人の距離が自然と近づいて行こうとした、その時、
「おじいちゃん、何やってるの!」
幼い女の声がした。
「おお雪菜、どうした?」
彼が振り向いて笑顔になる。
「美雪おばあちゃんに頼まれて探しに来たんだよ。もうごはんの時間だよ。その人は誰?」
「この人は古い友達の浩子さんだ。偶然ここで会って懐かしくて話をしてたんだ」
「そうですか。こんにちは」
「こんにちは……お孫さん?」
「いや、ひ孫だ」
「そう……私たちも年を取ったものね」
「ああ……」
「おじいちゃん速く行こ! そうしないと美雪おばあちゃん怒っちゃうよ」
「そうだな。行くとするか。じゃあまたな」
「ええ。次に会う時はきっと天国ね」
浩子は満足そうな笑顔で言った。
「ああ、その時はゆっくりお茶でも飲もう」
彼も満足げだった。
「おじいちゃん速くってば!」
「わかってるって」
彼は少女に手を引かれて去って行った。
浩子はしばらく底に立ち尽くして、ふと思い出したように目を閉じて、耳を澄まして思いっきり息を吸い込んでみる。
しかしそうしてもあの時の感覚はもう戻ってこなかった。感じるのは自分の生きる世界とは異質の空気と匂いと温度だった。それはまるでテレビの向こう側に存在するように感じられた。
きっとさっきの感覚はやはり奇跡だったのだと思う。神様が年寄りを哀れんで思い出させてくれたのかもしれない。
それは悲しいことなのかもしれない。過ぎ去った時が戻らないこと、そして自分の生きてきた道が誤っていたことを認めることは。
そして自分のこれからの人生に過去の幸福を越えるようなな瞬間がもうあり得ないことを認めることは。
でも浩子はそれはあまり悲しいとは思わなかった。
むしろ愉快に思った。
だって自分は人から見たら大分幸福な人間だ。欲しいものは何でも手に入れたし、自分が一番求める人とも結ばれた。しかもそれらは簡単に得られたというわけではなく、多くの障害を乗り越え努力を積み重ねて獲得した。誰から見たって満足のいく人生だろう。
それにも関わらず自分は過去のある一日、他人からみたらひどくくだらない一日に見えるだろう一日を、取り戻したいと強く願っている。その日のことを思いだして、自分の人生は謝っていたのではないかと疑い始めている。
そう、人生はこんなにも面白いのだ。どんなに幸せに見えたって、すべてを得たように思ったって、それ以上に欲しいと思うものが存在する。世界にはまだまだ自分の知らない面白いことがあるのかもしれない。世界には普通の人が考えるよりも、もしくは自分が考えるよりも、ずっと豊で様々な面白さが存在するのかもしれない。
浩子にとってそれに気づいたことは、自分が得られない幸福が存在するという不幸を補ってあまりある幸福だった。
そうして浩子は幸せな気分のままホテルに戻って楽しく旅行を続けましたとさ。
「ラナちゃん! ラナちゃん! スプーンを加えたまま固まってるけどどうしたの?」
「ぬおっ!? いかんいかん。またもや夏の夕暮れの海辺へトリップしてしまったようだ。それにしても浩子も大分年を取ったようだな」
「え? 浩子?」
「恐るべしはこのお茶のかかったかき氷の味よ。お茶の渋みと小豆の甘さという相反する味が共存することによって、得もいえぬ深みを作り出しているのだ。桜の花にたとえよう。私は人が桜の花を有り難がるのはそれが儚く散ってしまうからだと言った。しかし本当はそれだけではない。人が桜の花が咲くことをあんなにも喜び、騒ぎたがるのはそれがその時限りの楽しさだからなのだ。考えてもみよ。もし一年中毎日が楽で楽しい日々だったら、人は桜の花が咲いた時に楽しく騒ぐことに価値を見出すだろうか。見出すわけがない! 人が桜の花の咲く季節を愛するもう一つの理由は、それが一年の間の様々な苦労に耐え、そして寒くて辛い冬を乗り越えて、やっとのことで訪れた季節だからなのだ。そう、人が真の幸福を感じられるのはそれを際だたせるだけの苦しみや忍耐を知っている時だけなのである。しかしっ! しかしだっ! それだけでは全然このかき氷の深みには届かないのだ。なぜなら桜の花を楽しむ時はそれを際だたせる不幸とは別の時であるのに対して、このかき氷においては甘さと渋さを同時に味わうことができるからであるっ! そう! それこそが浩子の達した境地! 浩子は誰からもうらやましがられるような幸福な人生を生き、そしてそれにも関わらず求めて止まない幸福が存在することを知った。そしてその時に浩子はそれを得られない不幸を嘆くのではなく、そのような不幸とそれまでの人生の幸福のギャップに人生の豊かな味わいを見出したのだ。このかき氷も同様! ていうか考えてみればなんと呼ぶのだこのかき氷は?」
「宇治金時だけど……」
「宇治金時か……ウジ虫みたいで嫌であるな……いやいやそんなことはどうでもいいのだ! そう、宇治金時の味わいも浩子の達した境地と同様! 甘さと渋さという味覚の両極を味わうことにより、我々はこの一瞬に広大な味覚の広がりを感じることができるのだ。その広がりとは言わば味の宇宙っ! そうっ! 宇治金時の味は浩子が老境の末に達した人生の深淵の味であり、その一瞬の味わいに宇宙を感じさせる奇跡の味なのであるっ!! なんという驚異、なんという衝撃、なんという神秘! ああ、私は感動のあまり気絶してしまいそうだっ!!!」
「ははははは、なんだかよくわからないけど気に入ってくれたみたいね。出した甲斐があったわ」
きづなは困惑気味だった。
「うむ。実に美味で深い味わいのかき氷だ。それにこの色遣いがまた美しい。昨日テレビで見たのは赤や緑の原色であったが、このお茶と小豆の色は実に深みのある色で、それでありながら氷の色と美しいコントラストをなしている。それがこの甘さと渋さの共存する深みのある味わいと良く合っていて実に素晴らしい。さすがはきづなだな!」
「ははは、ラナちゃん評論家みたい。でももちろんこのお菓子は私が考えたんじゃないよ。誰でも知ってる定番のお菓子だよ」
「そうであるか。アンダームーンの文化にもこんなに素晴らしいものがあるということか。まったく宏人の家にいると貧乏くさいものばかり食べさせられて困る。今日なども宏人がかき氷を出したのだが、なんの味わいもなく甘いだけの真っ白な氷であった。もしここでこの宇治金時を食べさせてもらわなかったらアンダームーンの文化を一つ悪い方向に誤解したまま終わるところであった」
「他にシロップになるものがなかったんだからしょうがないだろ」
宏人は相変わらず不機嫌そうに宇治金時を食べていた。それを見てきづなは、
「もしかして、口に合わなかった?」
「そんなことないよ」
宏人はぶっきらぼうに答える。きづなはその反応に困惑してしまう。
「宏人、せっかくご馳走になっているというのにそんな態度でいるのは失礼ではないか。さっきから何をそんなに怒っているのだ?」
「別に怒ってないよ」
「そうは見えないのだが……」
空気が悪くなったのを察してきづなは、
「ね、ねえ。二人ともおかわりいる? 氷はいくらでもあるからいくらでも作れるよ」
「そうか? では遠慮なく頂くとしよう。この美しく深みのある氷菓子を好きなだけ食べられるとは実に幸せだ!」
しかし宏人は、
「きづな、これ以上頂くのはいくら何でも悪いよ」
「別に気にしなくていいよ。材料費なんてただみたいなものだし、手間もほとんどかからないし」
「そうであるぞ、宏人。せっかくの好意を無理に遠慮するのは失礼というものだ」
「でも夕飯の準備をしなきゃいけないから早く帰らないと」
「夕飯? 夕飯なら私は遅れてもかまわないぞ。今甘いものを食べてしまったのだから腹が空く時間も遅くなろう。きづなもそう思うであろう?」
「え、えっと……でも夕飯の時間は毎日同じにした方が健康にいいから、遅らせるのはよくないと思うよ。それにやっぱり甘いもの食べ過ぎるのもダイエット的にも健康的にもよくないかな」
きづなは宏人の表情を窺いながら言った。
「む、そうか。きづながそう言うのであればもう失礼した方がいいのかもしれないな」
「さあ行こう、ラナ」
宏人は少し強引にラナの手を引いた。
「ととと、そう焦ることもなかろう」
宏人はラナの言うことを無視して玄関に向かった。きづなも後に続く。
玄関に付くなり宏人は、
「じゃあねきづな」
「うん、またね。ラナちゃんも」
「おう、今日は素晴らしいものをご馳走になった。本当に感謝している」
それに続いて宏人は、
「かき氷は、おいしかったから」
申し訳なさそうに言った。
「うん、ありがとう」
きづなは少しだけ笑顔になる。
そうして二人はきづなの家を去った。
4
「なあ宏人よ、あんなに急いで帰ることもなかったのではないか?」
きづなの家からの帰り道、早足で歩く宏人をラナは小さな歩幅で小走りになって追いかけていた。日は沈みかけていて、昼のうだるような暑さはもうない。
「別にいいんじゃない。きづなとは幼なじみでそんな気を使う関係じゃないし」
宏人はそっけなく返事をする。
「何をそんなに怒っておるのだ。私が宏人の出したかき氷をけなしてきづなの出したかき氷を誉めたのが気に入らなかったのか? もしそうなら謝る。私だって宏人があの時に精一杯の努力をして私においしいものを食べさせようとしてくれたのはわかっているのだ。ただきづなの出したものに感動してうっかり最近食べたものと比較してしまっただけだ」
「別に怒ってないし、かき氷をけなされたことも気にしてないよ」
「じゃああれか? 部屋を水浸しにして電撃を喰らわせたことを気にしているのか?」
「部屋が水浸しになったのは大したことなかったし、電撃は自分にも非があったんだから気にしてないよ」
「じゃあなぜそんなに……」
「だから怒ってないって言ってるだろ!」
宏人は少し語気を強くした。
ラナはそれっきり何も言い返せなかった。
宏人は相変わらず早足で歩いていて、歩幅が小さいラナは追いかけるのが少しきつい。
家に帰ると宏人とは一緒に居づらく、ラナは自分の部屋に戻った。
ラナは部屋にごろんと横になり、なぜ宏人があんなに怒っているのかを考えた。
本人は否定したが、宏人が怒る理由はいくらでもあった。
確かにせっかく出してくれたかき氷を色が貧しいとか言ったのは悪かった。
もっと食べたいと言って魔法で氷を出そうとしたのも大人げなかったと思うし、その結果台所を水浸しにしてしまったのも自分の責任だ。電撃を喰らわせたのだって、感情が高ぶっていたとはいえやりすぎたとは思う。
そして買い物の帰り道に宏人にあまりお金がないことを考えずに氷を食べたいとせがんだのも悪かったし、きづなの家に行ってすぐにきづなの境遇と宏人の境遇を比べたのも失礼だっただろう。
なんだかその後も大分宏人の気を悪くすることを行った気がする。
こうして思い返してみれば宏人が怒るのも当然だとラナは思う。
しかしラナは別に宏人が嫌いというわけではないのだ。
ただ元々ラナは自分の感情を抑えるのが苦手な性格で、宏人があまり怒らない人間なものだから、ついつい自分の感情の赴くままに宏人に失礼なことを言ってしまうのである。
この性格のせいでラナはこれまでいろいろ苦労をしてきた。
もちろん周りの人間とのいざこざの原因になるのも問題だったが、それ以上に魔法を使うために要求される精神の集中ができないのが辛かった。
同級生の子たちは皆、魔法を唱える時はいつでもきちんと精神を集中させて正しい魔法を使うことができた。
しかしラナは魔法を使う時に気分が昂ぶっていると、どうしても自分の気持ちを抑えて魔法に集中することができないのだった。
魔法が社会において重要な役割を持つトランスムーンでは、魔法に必要な精神力が特に重要視される。
そんな中、王家の血を引くにも関わらず精神をうまく集中させることができないラナは、肩身が狭いのであった。
もちろんラナだって自分の感情をコントロールして冷静にふるまおうと努力はしている。
しかし一度自分の感情が強く動き始めるとどうにも押さえられないのだった。
そしてその性格のせいで、今日また人を傷つけてしまった。
なんて自分はダメな人間なんだろうと思う。
宏人だってきづなだって、他人のことを考えて行動しているというのに、ラナだけが感情の赴くままに自分のことだけを考えて行動している。
これじゃあまるでトランスムーンの人間がバカでアンダームーンの人間の方が分別を持っているみたいじゃないか。
少なくともこの三人に接した人間はそう思うに違いない。
ラナのアンダームーンでの目的の一つはもちろんラナの実習であるが、もう一つの目的としてアンダームーンで接した人間に対してトランスムーンの人間がいかに立派であるかを示すというのもある。
つまりラナはトランスムーンの看板を背負ってここに来ているわけである。
自分はその役目を全く果たしていない。
それどころか悪い印象ばかり与えている。
本当に自分はダメな人間だ。
宏人だってあきれたのだろう。
もう口を聞いてくれないのかもしれない。
どうすればいいんだろう。
ラナは西日の差し込む部屋に仰向けに寝転がり、じっと天井を見つめて、途方に暮れていた。ラナの寝室にはクーラーはなく、ひどく蒸し暑かったが、その暑さがふがいない自分に対する罰になるような気がして、ラナは我慢しようと思った。
しばらくして、ノックがした。
「ラナ」
宏人だった。
「何の用だ宏人」
「ちょっと台所に来て」
「今はそんな気分では……」
言いかけてラナははっと口を紡ぐ。感情に押し流されて他人の気持ちをないがしろにしてはいけないと今反省したばかりではないか。
「……わかった、今行く」
「うん、なるべく早く来てね」
宏人がそう言うと、ラナは重い身体を起こして台所へ向かった。
それにしても何の用だろう。夕食にはまだ早いはずである。
台所につくとラナはテーブルの上に何かが準備してあるのを見つける。
かき氷だった。
そしてそのかき氷は……
「なんなのだこのかき氷は!? 青いぞ! 確か緑はメロン味、赤はいちご味、今日食べた白いのはカルピスだし宇治金時の色は茶の色だったはずであろう。どれも何らかの食品の色で、色から味が予測できるものだ。しかしこのかき氷は何だ? このような色をした食品などあるのか? そこから味を予測することなどできるのか? 私はアンダームーンに来て以来みたことがないのだが」
「うーん、別に青い食べ物があるってわけじゃないと思うけど」
「では一体なぜこのかき氷は青いのだ?」
「うーんとねえ……まあとりあえず座って食べながら話そうよ」
「そ、そうであるな。いきなり熱くなりすぎた」
ラナは心を落ちつかせて宏人の正面、青いかき氷のあるところに座った。冷静になってみると宏人があまり不機嫌ではなさそうなことに気付いた。
「それで、このかき氷はどうしたのだ? かき氷にかけるシロップはないのではなかったのか?」
「だからさっきスーパーでシロップを買ってきたんだよ」
「そうだったのか」
ということは、宏人が不機嫌だったのはラナにかき氷をふるまおうと思っていたところで、きづなのかき氷を食べることになったからなのかもしれない。
ラナはそう思ったが言わないことにした。それを言うとまた宏人の気を悪くしてしまうように思えたから。
それでラナにかき氷を振る舞えるようになったから機嫌を直した……といのはうぬぼれすぎかとラナは思う。
「で、この青いシロップは何なのだ?」
「ブルーハワイ」
「は?」
「ブルーハワイだって」
「何だそれは? ブルーは色の名前、ハワイは確か太平洋に浮かぶ島の名前であろう。ではブルーハワイとは……?」
「さあ……僕もよく知らない」
「よく知らないわけがなかろう。いちごシロップはいちご風味、メロンシロップはメロン風味。シロップの名前はその風味を持った食品の名前がつけられるのが普通ではないか。味を表していないなら一体ブルーハワイという名前は何なのだ?」
「だから知らないって。みんなその青いシロップをブルーハワイって呼ぶんだよ」
「そうか、それはミステリーであるな。まあそれはいいとして、そのブルーハワイのシロップはどんな味なのだ」
「さあ」
「さあって……わからないはずがなかろう。宏人はブルーハワイのシロップをかけたかき氷を食べたことがないのか?」
「もちろんあるけど、その味を何て表現したらいいかわからないなあ」
「なんと! ブルーハワイというのはそんなに突拍子もない珍味なのか」
「いや全然珍味じゃなくて普通の味なんだけど……むしろ特徴がなくてそれを表現する言葉が見つからないって感じ」
「ふむ……ますますブルーハワイの謎は深まるばかりだな」
「まあいいから食べなよ。溶けちゃうよ」
「うむ、そうであるな、頂くとしよう」
ラナは氷をスプーンですくって口に運んだ。
「ぬおっ!? これは……」
……
……
……
「ただのソーダ水の味ではないか」
「まあ、そう言われればその通りなんだけどね。がっかりした?」
「そうでもないぞ。これは中々見た目に心地よい。殊にこの蒸し暑い中で爽やかな青色を見ていると胸の奥まで涼しくなるようだ」
「はは、明日にはクーラー直してもらえるから、それまで我慢してね」
「そうではない、暑さに対する愚痴を言ったわけではないのだ。私は本当にこの青い氷の中に涼しさを感じているのだ。ブルーハワイか……由来はわからなかったが良い名前であるな。名前の中に清々しい涼しさがある。そういう名前だと思って食べれば涼しさが一段も二段も増すというもの。確かに昨日テレビでのかき氷にかかっていたシロップも鮮やかに氷に映えて非常に鮮烈な印象であった。そして今日きづなの出してくれた宇治金時も日本人の心が見えるかのような深みのある色彩でまことに美しかった。しかしそのどれもこれほどにこの夏にふさわしい涼しさを感じさせてくれはしない。ブルーハワイはこのような暑い日にに食べるかき氷にふさわしいシロップだ。素晴らしい。私は気に入ったぞ」
「そう」
宏人はほんの少し嬉しそうだった。それを見てラナもいい気分になる。
「これも魔法であるな」
「え?」
「だから魔法だといったのだ」
「魔法って何が?」
「このかき氷だ。直接触れることも力を加えることもなく、ただ色彩だけで人の感じる暑さをやわらげる。これを魔法といわずになんというのだ」
「はは、なんだかラナらしい考え方だね」
「そうだ、アンダームーンにも魔法が存在するのだ。このことを知れたことは、実に収穫であった。ありがとう、宏人」
「どういたしまして」
宏人は少し照れていた。
ラナはとても幸せな気分だった。すると自分が今何をすればいいかが、自然に思い浮かんできた。
「なあ宏人、今日は悪かったな」
「え、何が?」
「その……謝ることがいろいろありすぎてアレなのだが、せっかく作ってくれたかき氷にケチをつけたり、強引に魔法を使って家を水浸しにしたり、宏人の境遇をきづなとくれべてけなしたり……その……みんな悪かった。すまぬ」
宏人はそれを聞いてもきょとんとした顔をして、
「別にそんなのほとんど気にしてないよ。いつものことだろ」
「そう……なのか?」
「まあ不愉快なことをされたその時はイラッと来ることもあるけど、そんなのすぐに忘れちゃうよ。だいたいいちいちそんなこと気にしてたらラナとなんてやっていけないよ」
「何か微妙に私がバカにされてるような……いやいや今はいい。例え宏人が気にしなくても、やはり私は宏人を不当に不愉快にさせることをしたのだから謝るべきなのだ」
「そんなこといったら僕だって謝らなきゃ。きづなの家でラナがかき氷をもう一つ食べたいって言った時、無理に早く帰るように言っただろ。あれは言い過ぎだった。きづなは幼なじみなんだから、そんな気を使うことはなかったんだ。ごめん」
「そう……か」
ではなぜ宏人は帰ろうと言い出したのか。それはやはりラナとかき氷が食べたかったからなのだろうか。
ラナはそのことを聞かないでおくことにした。イエスと答えられても、ノーと答えられても、何かを失ってしまう気がしたのだ。なんとなく。
「じゃあ夕飯の準備するかな。かき氷を食べたばっかりですぐにはお腹が好かないだろうから、ちょっと時間かけて作るね」
「私も手伝うぞ」
「へえ珍しい。明日は氷でも降るのかな」
「どういうことだ……?」
「気にしない気にしない。あと手伝うのはいいけど魔法は使わないこと」
「何!? 魔法を使わないのなら私は何を手伝えばいいのだ」
「使う気満々だったんかい! もう家が一瞬で灰になりかけるのはごめんだからね! 普通に野菜切ったり皿取ってくれたりすればいいから」
「むう、私の苦手なことばかり押しつけるとは嫌味か」
「料理手伝うんならそれ普通のことだから!」
「まあ仕方ない。……少しは感情を抑えて苦手なこともやるようにしないとな」
「え、なんか言った?」
「何も言っておらん! さあ始めるぞ! まずは何を燃やせばいいのだ?」
こうしてクーラーの切れた蒸し暑い部屋で夏の夜は更けていくのだった。