⑨本能に従う養い子
その日の夜。
私は隣で寝ているネムを起こさないように、そっとベッドから抜け出した。
まさかこんなに早くネムが成長するとは思っていなかったため、ベッドの用意ができておらず、仕方なく私のベッドで一緒に寝ている。
まあ、ネムは私と一緒で喜んでいるし、私としてもネムの見た目はともかく、一年程前までは赤ん坊だったことから、まだ一人で寝かせるのは心配というのもある。
私はベッドサイドの手燭に灯りをつけると、その灯りを頼りに書斎へと向かった。
書斎についた私は、机の引き出しや書棚をあちこち探し回り、ようやく目当ての報告書を見つけると、机に置かれた燭台の灯りの近くに椅子を移動して、それに腰掛けた。
それから、数ヵ月前にロジィから届いた『異常な速度で急成長する赤ん坊』の報告書を改めて開く。
まず書かれていたのは、魔族の子供についての記載。私は以前読んだ最初の数枚をペラペラと捲っていき、前回読み飛ばしたところまでくると手を止めた。そして、瞳の色についての記載がないか一行一行真剣に目を通していく。
二枚ほど報告書を捲った時、探していた記述を見付けて思わず食い入るようにその文面を読む。
ロジィの報告書によると、魔族の証である紫色の瞳は生まれつきではなく、成長とともに変化して紫色になるらしい。そのため、魔族の赤ん坊の瞳は必ずしも紫色をしているわけではなく、変化前の瞳の色は個体により様々で特に決まりはないようだ。
補足として、瞳の色が完全に紫色に変わった時が、魔族にとっての成人とのこと。
「――――やっぱり、ネムは魔族。……なのかもしれない」
何度も何度も同じ記述を読み直してから、私はそう呟くと頭を抱えた。
たしかに、ネムが魔族の子ならこれまでのことも色々と合点がいく。
私が森で赤ん坊のネムを見付けた時、まるで突然あの場に現れたとしか思えなかったが、ネムが魔族でゲートを通って来たと仮定するなら納得がいく。もちろん赤ん坊のネムが自分でゲートに入るわけはないので、誰かが故意か事故でネムをゲートに投げ入れたのだろう。そのゲートがあの森の湖のほとりに繋がっていて、偶然私が近くにいたのだ。
それに、私が赤ん坊のネムを置いて出掛けようとするたびに大泣きしていたのも、ネムが魔族だとすれば納得できる。弱肉強食の世界で生きる魔族の子供にとって、保護者に捨てられることはすなわち死を意味するからだ。
だから、ネムはこの世界で初めて会った魔力を持つ私に懐いたのだろう。
そのほか強い魔力も異常な成長速度もネムが魔族だとすれば、何もおかしくはない。むしろ、当然だ。
「ネムが、魔族……」
魔族といえば、強大な力を持ち、こちらの世界の人間を下等生物と見下し、残忍で粘着質で執念深い性質を持っているといわれている。
「もし、私がネムにしようとしていたことがバレたら……」
殺される。間違いなく殺される。
もしバレなかったとしても、いずれ私とネムの力関係は逆転するだろう。保護者を必要としなくなったネムが下等生物の私をどうするかなんて、容易に想像がつく。
私は寒気を感じて、ぶるりと身震いした。
『いや。結論を出すのはまだ早い。少なくとも私はまだネムに酷いことは何一つしていない。現にネムは私に懐いている。それに赤ん坊の頃から、こちらの世界で暮らしているのだから、魔族の性質が薄い可能性もある。それなら、これからの教育次第でどうにかなるかもしれない』
私は震える自分を抱きしめながら、しばらくはネムをよく観察して対策を練ろうと、自分を叱咤した。
◇ ◇ ◇
自宅前で育てていた薬草を乳鉢ですり潰し、それを先に作っておいた液体の中に入れ、半固形になるまでひたすらかき混ぜる。
この軟膏薬は赤ん坊のネムを抱いて腕や腰を痛めた私が私のために作り上げた最高傑作だ。あまりの出来映えに商品として売りに出したところ大ヒット。今でも定期的に依頼がくる看板商品へと成長した。
さて、軟膏薬が完成したら、やや大きめの平たくて丸い蓋付き容器に詰め、ついでに余った軟膏薬は先程よりも小さい容器に小分けする。小分けにした物は、試供品としてばら蒔いたりお得意様に配る予定だ。上手くいけば顧客が増やせる。
最後に効果増幅の魔法を全品に付与したら完成だ。
「あー。疲れたー」
両手を上げて背筋を伸ばす。
今日は朝食後すぐに作業室へこもって依頼品の軟膏薬作りに勤しんでいたため、腕がパンパンだ。
もちろん、ネムの諸々の問題を忘れたわけではないが、生きるためには稼がなければならない。世知辛い世の中なのである。
「今、何時頃なんだろ?」
作業に集中するため、この部屋には時計を置いていない。
ただ、天窓から明るい光が溢れているので、昼間なのは確かだ。
しかし、私のお腹はぐぅと鳴って空腹を訴えている。おそらく、本来の昼食の時間は大幅に過ぎているのだろう。
「ネムはちゃんとお昼食べたのかしら?」
ネムには朝食時に、今日は作業室へこもるからお昼は勝手に食べておくようにと言ってある。
一応、台所の目につく所にパンやチーズなどそのまま食べられる物を置いておいたので、一人でも問題なく食べられたはずだ。
だから、別にネムの心配などしていないが、私の空腹をどうにかするため台所へと向かう。
台所には、私が分かりやすく置いておいたパンやチーズが全くの手付かず状態で残されていた。ほかの物を食べた形跡もないので、おそらくネムもまだ昼食を摂っていないのだろう。
しかし、台所へ来る前に見たリビングの時計はもうじき三時三十分になろうとしていた。いくらなんでも遅すぎる。
「また魔法の練習に熱中して忘れてるわね」
私が魔法を教えた日から、ネムは隙さえあれば家の前で魔法の練習をするようになった。
それこそ、私がネムに声を掛けるまで、何時間でも時間を忘れて魔法の練習に没頭している。
その甲斐あってか、初日にほんの僅かしか浮かせなかった小石を数日経った今ではこの家の屋根の高さまで浮き上がらせることが出来るようになった。ただ、さすがに浮かせた小石を自在に操るのはまだ無理のようだ。
「まったく。しょうがないわね」
私は空腹を我慢しながら、玄関口へと足を向ける。
このまま私一人で遅い昼食を優雅に食べてもいいのだが、せっかくお茶を淹れるのなら一人分も二人分も変わらないので、仕方なくネムにも声を掛けることにした。
「ネムー」
玄関扉を開けながら、名前を呼ぶ。
「私これから遅い昼食を摂るから、ネムもいらっしゃい」
玄関扉を全開にして、少し離れた所にいる後ろ姿のネムに声を掛けた。
振り返って私を見たネムは微笑むと、そのまま嬉しそうに駆け寄ってくる。
しかし、駆け寄ってくるネムの腕には茶色い何かが抱えられていた。
「ルシェリ。お仕事は終わったの?」
私を見上げながら、にこにこと笑うネムの腕の中には、茶色い毛並みの兎がおさまっている。
「どうしたの? それ」
鼻をひくつかせながらネムの腕の中でおとなしくしている兎を思わず指差して尋ねる。
ネムは「ああ」と兎の存在を今思い出したように呟くと、ゆっくりと話し出した。
ネムが家の前で育てている薬草の水やりをするようになった頃から、時々家の周りで見掛けるようになり、一度野菜くずをあげたら懐いたらしい。
今日も魔法の練習中に寄って来たので、抱き上げて少し休憩していたところ、私に呼ばれたそうだ。
「ずいぶん慣れてるのね」
ネムに背中を撫でられて気持ち良さそうにしている兎をまじまじと見つめていると、ネムが「ルシェリも触ってみる?」と提案してきたので、私も兎の背にそうっと手を伸ばす。
私の手が兎の背に触れる寸前、兎が突然くるりと体を捻り、ガブッと私の指先に噛みついてきた。
「痛っ!」
「ルシェリ!」
痛みで思わず引っ込めた私の手を見たネムが悲痛な声を上げる。
「ルシェリ。血が出てる!」
確認すると、兎に噛まれた指先から血が滲んでいた。
「大丈夫よ。このくらい」
今にも泣き出しそうなネムを落ち着かせるように優しく話しかける。
「それよりも、さっきの兎には悪いことしちゃったわね。いきなり私が触ろうとしたから、きっと驚いちゃったのね」
指先を噛まれた私を心配してネムが私に手を差し出した時、ネムの腕の中にいた茶色の兎はピョンと地面へ跳びおりて、そのまま何処かへ行ってしまった。
「そんなことより、早く傷の手当てをしないと!」
「大袈裟ね。ネムは。こんな傷、放っておいても……」
今更、こんな傷が一つ増えたところでどうと言うことはない。
すでに私の腕や背中には未だに消えない鞭で打たれた痕がいくつも残っている。
「ダメだよ! ちゃんと治療しないと」
そう言ったネムの顔は、初めて私の体の傷を見た時に「るちぇ。いたいいたい?」と優しく傷痕を撫でてくれた時の表情と同じだ。
私は心配してくれるネムの気持ちが嬉しくて、ネムに付き添われながら、傷の治療をするため家の中へと入った。
たとえ、ネムが魔族だったとしても、ネムは一般的な魔族とは違う。
少なくとも、動物を慈しむ心を持っている。
それに私が怪我をすれば心配してくれるし、お手伝いは進んでやってくれる。仕事の時は構ってやれなくて寂しい思いをさせているが、それでも我が儘を言わずに「頑張ってね」と言ってくれる。優しくて、思いやりのある良い子だ。そう思っていた。その時は、まだ――――。
◇ ◇ ◇
兎に噛まれたことなんて、すっかり忘れかけていた頃、それは起こった。
その日は特にすることもなく、昼食のあと長椅子に座ってまったりとしていた時のこと。
玄関扉の開く音がして、ネムが駆け込んできた。
「ただいま、ルシェリ。これ見て!」
「何? どうしたの?」
弾むようなネムの声に誘われて、視線を向けた私はその異様な光景に息を飲んだ。
鮮血が、ネムの顔から胸にかけてを真っ赤に染め上げている。
血塗れで笑っているネムの右手には、喉を切り裂かれ、首の皮一枚で繋がっている事切れた茶色の兎がぶら下がっていた。
「どうしたの? それ……」
かろうじて絞り出した言葉は、小さく掠れていた。
しかし、ネムは嬉しそうに血塗れの顔でニッコリ笑うと自慢気に話し出した。
「あれからずっと探してて、今日やっと見つけたんだよ!」
まさかとは思ったが、やはりネムの手にある兎は、あの日の兎だったのか。
それからネムは、毎日どうやってあの日逃げた兎を探していたのかを事細かに語っていたが、あいにく私の頭には届かなかった。
「どうして? あんなに可愛がってたのに……」
ネムの腕の中で気持ち良さそうにしていた兎と、その背を優しく撫でるネムの姿が瞼に浮かぶ。
けれど、ネムは首を傾げて不思議そうに答えた。
「だって、これはルシェリを傷付けたんだよ? 赦せるわけないでしょ?」
無造作に哀れな兎を床に落とすと、ネムが長椅子に座ったままの私に近寄ってくる。
「だってルシェリは僕のモノでしょ?」
伸ばされた血塗れの手が私の髪に触れる。
一房分の髪をすくい取られても、私は異様な空気に身動き一つ出来なかった。
「髪の毛一本。血の一滴まで、全部僕のモノ」
水色のはずのネムの瞳が妖しく紫色に光り、血で真っ赤に染まった顔は恍惚に酔いしれ、その様は間違いなく異質な存在だった。
全身から血の気が引いていくのがわかる。
「ねぇ、ルシェリ。今夜はシチューが食べたいな」
妖しく光る瞳はそのままに、ネムが唐突におねだりしてくる。
「兎肉のシチュー。ねぇ、いいでしょ?」
ヒッと息を飲む。
けれど、この状況で断れるわけがない。
私が了承すると、ネムは満足げに笑った。
「ありがとう。僕ね、ルシェリの作った料理はみんな好きだけど、その中でもシチューが一番好きなんだ」
その日の夜。
私は夢を見た。
すべてを包み込み、焼き付くした炎が私を呑み込もうとどこまでも追ってくる。
崖っぷちへ追い詰められた私は炎に追い立てられるように崖から飛び、白くてドロッとした池に落ちた。
そこはシチューの皿の中で、木のスプーンですくわれた私は、そのままネムの口の中に放り込まれる。ばりぼりと全身の骨が噛み砕かれる音を聞きながら、そこで私の意識は途絶えた。