⑤すくすく育つ養い子
ネムを拾ってから早三ヶ月。
私は育児について悩んでいた。
もっと言えば、ネムの成長速度についてだ。とにかく異常なのだ。
最初に違和感を覚えたのは、ネムを拾って十日が過ぎた頃のこと。
私は育児書片手にミルクをやり、オムツを替え、ときにあやしたりなど、日々奮闘していた。
ある日、仰向けに寝かせたはずのネムがうつぶせになっており、その時は不思議に思いながらも仰向けに寝かせ直したが、しばらくするとまたうつぶせになっている。
訝しく思い、仰向けに戻してそのまま傍で様子を見ていると、なんとネムが自力で寝返りをうったのだ。
一応、育児書を確認すると、寝返りが出来るようになるのは、生後四ヶ月頃からと書いてある。
ネムを拾った時に生後どのくらい経っていたのかは不明だが、おくるみに包まれていたのでおそらく二ヶ月か三ヶ月くらいだと思う。
もしネムを拾った時、生後三ヶ月だったのなら寝返りをうってもそれほど不思議ではないのか? 育児書にも『成長には個人差があります』と書かれているし。
そう思い、その時は軽く流した。
しかし、それからさらに十日後、ふと視線を感じて振り向くと、なんとネムが座って私をじーっと見つめていた。
慌てて育児書を開くと、一人でお座り出来るようになるのは六ヶ月頃からと書かれている。
さすがにこれはおかしいのではないかと思い始めたが、魔法の言葉『成長には個人差があります』を唱え、違和感に蓋をした。
それからもネムは短期間のうちにハイハイ、つかまり立ち、つたい歩きを習得していき、三ヶ月経った現在では、よちよちとした足取りで私の後をついて回るようになった。
勿論、ネムが成長するたびに「やっぱりこれ、おかしいわよね」と思いはしたが、日々猛烈な速さで成長していくネムの世話が大変でゆっくり考える時間などなかった。
特にハイハイが出来るようになって以降は、片時も目が離せない。
油断していると、部屋の隅の綿ボコリを器用に摘まんで口に入れようとするし、薬品棚を触って薬瓶が落ちそうになるし、台所の水瓶を覗きこんで頭から突っ込みそうになるし、本当に大変だ。
もしかしたら、拾ってすぐの頻繁にミルクやオムツで泣いていた頃より大変かもしれない。
「るちぇ、るちぇ」
舌足らずなネムが黒いワンピースの裾を引っ張って私を呼ぶ。
どうやらまだ舌が回らず『ルシェリ』と発音出来ないらしい。まあ、これはもう少し成長すればきちんと言えるようになるだろう。
「どうしたの? ネム」
屈んで、ネムのふわふわした亜麻色の髪を撫でる。
すると、ネムは両手を上げて「あっ、あっ」と何やら訴えかけてきた。
「何? 抱っこ?」
ネムが抱っこをねだるのはこれが初めてではないので、すぐに意図を察知する。
「ダメ! さっきも抱っこしたばかりでしょ」
日に日に大きくなるネムは最近とみに重くなった。特に体を鍛えているわけでもない、むしろ甘やかしまくっている私の腕と腰はすでに悲鳴を上げている。
しかし、これでおとなしく言うことを聞いてくれるのなら苦労はしない。
「やっ! やっ! るちぇ……」
激しく拒否した後、ネムが私のスカートの裾を握り締め、すがるような目で見上げてくる。
捨てられた仔犬よろしく、潤んだ水色の瞳で見つめられると、まるで自分がとんでもない極悪人にでもなったかのようだ。
しかし、これで負けてはいけない。心を強く持たなければ!
私も負けじとネムを見つめ返す。根比べの結果は――。
「本っ当に、今日はこれで最後だからね」
腕にズシッとした重みを感じながら「キャッキャッ」と笑っているネムに念押しするが、おそらくご機嫌なネムの耳には届いていない。
それにネムが頻繁に抱っこをせがむのは、私にも責任の一端があるので強く言えないのだ。
ネムを拾ってすぐのこと。
私はネムにミルクをやり、オムツを替えてから寝かしつけ、当分起きないようにしてから、外出していた。
もちろん、乳飲み子を一人置いて外出するのは誉められたことではないと分かっている。
しかし、ここは山奥。
私が町へ買い出しに行かないと、ネムに飲ませるミルクも着せる服も手に入らない。
それに町で仕事を探して依頼を請け負って来ないことには、そのミルクや服を買うお金も手に入らない。
そこでやむ無くネムを置いて外出していた。
最初の数回は問題なかった。ネムが寝ている間に行って戻ることが出来たからだ。
しかし、何回目かの時、思った以上に遅くなり急いで帰ったものの、玄関扉を開ける前から耳をつんざく泣き声が中から響いていた。
私は覚悟を決めると玄関扉を開け、両耳を塞ぎながら、一気にネムの元まで駆けつけ抱き上げた。抱いてあやすと、ネムはすぐ泣き止んだが、ベッドがわりの籠の中へ戻そうとするとまた絶叫する。
この日私は、抱いてあやす→泣き止む→籠に寝かせようとする→絶叫する→抱いてあやすを延々三時間ほど繰り返した。
それ以降、私が寝かしつけようとすると、ネムは全身をよじって抵抗するようになった。しかもお腹をポンポンする私の手を掴み、絶対に離すものかと指が折れるほどギュっと握り締めるので、私もつらい。
そこで、ネムが起きている時にさりげなく出て行く方向へ変えることにした。
もともとネムは、ミルクやオムツの時以外は滅多に泣かない子だったし、依頼品の魔道具や魔法薬を作るためネムを別室に置いて、長時間作業室に籠っていてもおとなしくしているので、きっと上手くいく。
そうほくそ笑んだ私を見透かすかのように、ネムは私がこっそりと玄関扉を開けて一歩外へ踏み出したタイミングで大泣きするようになった。
それもミルクやオムツの時とは比べ物にならないくらいの大音量だ。この家どころか山ごと震えているかもしれない。
いっそのこと、ネムを連れて町まで行こうかとも考えたが、日に日に強くなるネムの魔力はとてもじゃないが誤魔化し切れない。
おそらく、普段ほとんど魔力を感知出来ないような人でも一発で分かる。
それに加え、魔力を持った子供は希少ゆえ高値で売買されるため誘拐されやすいのだ。
別にネムが誘拐されてどうなっても、私の心は痛まないが、これまでネムにかかった費用分だけ赤字になってしまうので、できれば回避したい。
誘拐された子が無事に親元へ帰れることはほぼないし、その子が次に自由になれるのは死んだ時だけだ。
それを思うと、私は運が良かったのだろう。
◇ ◇ ◇
遠い日の記憶。
その日は朝から天気が荒れていた。
窓から見える雷雨。窓ガラスを叩く強風。
燭台の灯りだけの薄暗い室内で、魔法奴隷はいつものように魔法薬や魔道具を延々と作り続ける。
そして、一人また一人とノルマを終えた者から作業場を出され牢へと戻されていく。
もともと魔力があまり強くない私は、最後の一人になることも多く、その日も最後になって鞭で打たれていた。
意識を失う寸前、真っ白な閃光と轟音が聞こえた気がした。
私が意識を取り戻した時、室内には誰もいなかった。
鞭打たれた背中の痛みを堪えて、開け放たれたままの扉から廊下へ出ると、驚くほど静まり返っていて、誰一人いない。
そのまま廊下を進んでいくと、慌ただしく駆けていく屋敷の使用人達の姿が目に入り、とっさに柱の陰に身を隠す。
使用人達は私に気付かず通り過ぎて行ったが、その時に話していた内容から落雷による火事が起こり、ほとんどの者は消火のため火事の現場へ集まっていることを知った。
『これはチャンスかもしれない』
そう思った。
みんなが火事に気を取られている今なら逃げられるかもしれない。
一歩踏み出そうとした時、ふと他の魔法奴隷のことが頭をよぎる。
牢には鍵が掛けられている。しかも、みんなノルマをこなしたばかりで魔力も尽きているはずだ。
もし火事が牢の近くなら、みんな避難することも出来ずに――。
恐ろしい想像に足がすくむ。
どうするべきかグルグルと悩んだ末、私は逃げた。一人で逃げ出した。
今なお、雷鳴が轟き、降りしきる雨の中、私はびしょ濡れになりながら、もつれそうになる足をそれでも必死に動かした。鞭打たれた背中の傷から滴り落ちる血は雨で流され、私の痕跡を消していく。
それでも後ろが気になり、少し離れてから振り返ると、屋敷からは火柱が上がっていた。
雨が降っているにも関わらず、強風に煽られ更に勢いを増す巨大な炎。もしかしたら、燃料庫にでも引火したのかもしれない。
炎が呑み込んでいく。
私達を虐げていたモノを。
私の同士を。
あそこに捨ててきた私の良心も。
全てを焼き尽くしていく。
その時、流した涙に誓った。
何を失っても、誰を犠牲にしても、私は絶対に生き抜いてみせると。
◇ ◇ ◇
「るちぇ」
頬をぺちぺちと叩かれて、遠くへ行っていた意識が戻る。
腕に抱いたままのネムに目をやると、水色の瞳がまっすぐに私を見つめていた。
「ネム」
名前を呼んでやると、ネムが嬉しそうに笑い声を上げる。
ふわふわとした亜麻色の髪に、ぷにぷにとした頬っぺた。私を見つめる無垢な水色の瞳。
可愛い私の養い子。
でも、情を移してはいけない。
この子は将来の金蔓。
それ以上でもそれ以下でもない。
そう思いながらも、いつか私の本性を知った時、この無垢な瞳が憎しみに変わるところを想像すると、胸が痛んだ。