③森で拾った赤ん坊
未だかつて感じたこともない濃い強力な魔力に当てられて体が震える。逃げなければと思うのに、足がすくんで動かない。私は震える体を抱きしめながら、魔力の元を必死で探した。
せめて正体がわかればと、じっくりと周囲を見渡し、ある一点で目を止める。まさか、と信じられない思いで対岸の木の根元を注視するが、やはり見間違いなどではないらしい。
私は半信半疑で、湖の縁をたどり魔力の元へ近寄って行った。
きっと正解は逃げることだと、頭のどこかではわかっていたが、いま自分の目で見たものをしっかりと確かめたいという思いが勝った。
「やっぱり、見間違いじゃなかった」
湖をぐるりと回って、先程対岸から見た魔力の元を見下ろす。湖のほとりに生えたネムの木の根元にいたのは、おくるみに包まれた赤ん坊だった。
「何でこんな所に赤ん坊が?」
その場にしゃがんで、赤ん坊の顔を覗き込むと水色の瞳でじぃーと見つめてくる。
親指をしゃぶっているからお腹が空いているのかもしれない。
「魔族……じゃないわよね」
魔族とは、私達とは異なる世界――魔界に住んでいる人間の総称だ。
彼等は紫色の瞳と絶大な魔力を持ち、魔力を持たない又は魔力があっても僅かしかない、こちらの世界の人間を下等生物と見下しているらしい。
弱肉強食の魔界で生き抜くための強大な力と残忍で粘着質で執念深い性質を持っている魔族に目を付けられたら最期だといわれている。
ただし、この世界の人間が魔族と出会う機会なんて、そうそうない。
そもそも異なる世界に住む魔族に会うためには二つの世界をつなぐゲートを開く必要がある。
ゲートを開くには膨大な魔力が必要で、魔族といえど易々とは出来ないそうだ。
しかも、同一の魔力でないとゲートは開かないらしく、何人かで協力することも不可能だとか。
それなのに、異なる世界の人間を互いに知っているのは、数十年に一度、こちらの世界と魔界との境界が薄くなるらしく偶然開いたゲートを通って行き来する者がいるからだ。
ただし、ゲートはいつどこに開くのかわからないし、短時間で閉じるので、魔族が大量にこちらへやって来ることはない。
「そもそも、いつからここにいたの?」
魔族とは違う水色の瞳で私をおとなしく見ている赤ん坊に話しかける。
もちろん赤ん坊が答えるとは思っていないが、頭を整理するためにあえて口に出した。
相変わらず、赤ん坊からは強い魔力が溢れ出ている。それなのに、何で私は湖に着いた時点で気付かなかったのだろう。
いや、そもそもこれだけの魔力なら、湖の近くからでも気付くはずだ。まるで、突然ここに現れたとしか思えない。
もしこれが鳥なら、空から落ちてきたとも考えられたが、実際にいるのはまだ一人で動けない赤ん坊。
「誰かが連れてきたとか?」
赤ん坊が一人で移動出来ない以上、そうとしか考えられない。
私が水を飲んで休んでいる間に、誰かがこっそりと置いて行ったのだろうか。
いや、それでも突然魔力の気配がするのは可笑しい。
「もう! いったい、どうなってるのよ!!」
ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしるが、納得の行く答えが閃くことは当然なかった。
私はしゃがんだまま、しばらく赤ん坊の水色の瞳をじぃと眺めていたが、そのまま勢い立ち上がった。
「見なかったことにしよう」
赤ん坊出現の謎は気になるが、こんな高魔力の得体のしれない怪しい赤ん坊と関わり合いになりたくない。
そもそも、今の私自身だって生きるか死ぬかの瀬戸際だ。何としてでも、日暮れまでに森を抜けなければいけない切羽詰まった状況で、他人のことなぞに構う余裕はない。
「運が悪かったと思って諦めて」
それだけ上から声を投げ掛けると、私はネムの木の根元にいる赤ん坊に背を向けて歩き出した。
一歩、二歩と進むごとに湧き上がってくる罪悪感を振り払うように、私は心の中で自分を正当化する。
『私が連れて行ったところで森を抜けられず、獣に襲われて死ぬかもしれない。それにあんな怪しい赤ん坊に情けをかけたせいで、後々私に火の粉が飛んで来るかもしれないし、助けたところで私にメリットなんて一つもない。思いがけず自由になれたあの日、私は燃え盛る炎を見上げながら決めたじゃない。たとえ他人を騙し、陥れ、踏みにじろうとも、私は絶対に生き抜いてみせると』
過去を思い出していたその時、背後から聞こえてきた赤ん坊の泣き声が、ちょうど過去の自分の姿と重なる。
捨てられた私と捨てられた赤ん坊。
私の時は、いつまで待っても助けなんて来なかった。火事のどさくさに紛れて自力で逃げ出さなければ、きっと今こうして生きてはいなかった。
あの赤ん坊も、このまま私が立ち去れば、森の獣の餌か衰弱死のどちらかだろう。
ぴたりと私の歩みが止まる。
背後から聞こえる赤ん坊の泣き声が魔力と混ざり、私の全身に絡み付く。
「……んあぁ、もう!」
踵を返すと、私は足早に赤ん坊の所へ向かった。
私は立ったまま、真っ赤な顔で泣きじゃくる赤ん坊をじぃと見下ろす。
「やっぱり、すごい魔力」
赤ん坊の時でこの魔力なら、大きくなれば今よりももっと強くなるはずだ。将来は私以上の魔法の使い手になるに違いない。
それなら、手元で育てて、魔法が使えるようになったら馬車馬のように働かせて、報酬はすべて私が搾取してしまおう。
もし、私の手に余ると判断すれば、その時点で人買いに売ってしまえばいい。魔力持ちの子供は高値で売れるから、どちらにしろ私に損はない。
「ほら、泣かないの」
屈んで赤ん坊を抱き上げると、泣き声がピタッと止む。
そして先程のように親指をしゃぶりながら、水色の瞳で私をじぃと見つめてくる。
その瞳が何かを訴えているようで、私は赤ん坊に話し掛けた。
「私と一緒に来る?」
「あー」
まるで私に答えるかのようにタイミングよく赤ん坊が声を発して、両手をぱたぱたさせる。
「そう。じゃあ、私の言うこと良く聞くのよ?」
「あー」
「将来は私のことを養うのよ。いい?」
「あー」
「その言葉、忘れないでね」
どうせ意味なんてわかっていないだろうが、こういうことは物心つく前から何度も刷り込ませることが肝要だ。
「あとは名前か……」
手元で育てると決めた以上、名前がないと不便だが、あまり凝った名前も情が沸きそうでつけにくい。
できれば、短くて呼びやすくて簡単な名前がいいのだけど。
何となく、視線を赤ん坊が置かれていた木の根元を向け、そのまま幹を辿るように上へ向ける。この木の名前は――。
「ネム」
「あー」
私の言葉に反応して、赤ん坊が返事をする。
驚いて赤ん坊を見ると、嬉しそうに両手をぱたぱたと振っている。
「気に入った? それじゃあ、今日からあんたはネムよ。わかった?」
私が言うと、やっぱりネムはまた「あー」と返事をする。
その様子に満足した私は、ネムを胸に抱いたまま、森の出口を目指して歩き始めた。