表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

地中クジラ(上)

作者: ヨシオカ タツキ

       1


 拝啓、誰誰誰々様。

 蛇口をひねり、その水から以前のぬるさが抜けていることを知れば、冬がしんと近づいていることがわかります。白秋、いかがお過ごしでしょうか。

 何分小学生の時ですから、それでも貴方の名を忘れてしまったことを先にお詫びしておきます。もしかするとお互い様かもしれません。だとすれば私が謝る必要なんてありませんね。それに貴方はあの頃でさえ自分以外誰の名前も記憶していなかったではないですか。

 今、私が何処に居るかわかるでしょうか。知れば流石の貴方といえども驚くでしょう。それとも案外何の反応も返してくれないのでしょうか。貴方はいつでも不思議な雰囲気をまとった女の子でした。この瞬間も何処からか私の姿を眺めていると思えてなりません。

 私は、学校に居ます。私たちの小学校です。今年廃校になるそうですね。校舎そのものが死期を悟っているのか、すっかり寂れてしまっています。あの頃のきらきらとした風景は見る影もありません。色とりどりの花が咲き乱れていた花壇には、代りに背の高い雑草が生えていました。日本の土壌は豊かですね。

さて、何故このようにかしこまって語りかけているのかというと、実は深い理由はありません。時間の経過がおそらくは無意識にそうさせるのでしょう。実に二十年ぶりの再会(?)に緊張しているのでしょうか。本当は天気の話でもしたいところですが、あいにく今夜は月も出ておらず完全な暗闇で語ることもございません。それに意味のない社交辞令はお嫌いでしょう。考えた末に、こうして手紙でもしたためるような口調になってしまったわけです。

 私は今年で三十三になります。お互い歳をとりましたね。しかしながら私には貴方が老いていく様子がどうにもしっくりときません。幼いころの貴方のイメージが当時の形を保ったまま頭の中にあります。


       2


 中高と仲間と同じ近場の学校に通い、その後関東の大学へ進学しました。出発前には仲間達と酒を飲みかわし、激励の言葉と涙で見送られました。彼らのほとんどが地元に残り就職していたのです。私は申し訳ない気持ちでいっぱいでした。家を出たのは、古くなった両親から解放されるため、こんな田舎に価値や希望を見い出せなかったからです。崇高な目的などこれっぽちも無く、私はただ故郷を捨てたのでした。

 大学を卒業し、そのまま東京で就職しました。素晴らしい毎日でした、何よりモノに溢れていたのです。それでも人は時間に追われると言いますがそれは退屈が無いということで、常に何か考えることがありました。あのままコンビニも、ろくな娯楽施設もないような僻地に閉じこもったままでは決して味わえない経験をしました。

そんな日々に影が差したのはいつからでしょうか。年齢を重ねてゆくうちに、ちらり、ほらり、と昔過ごしたあの町の風景がよぎるのです。それは背の高い建物に挟まれた薄暗い通りを覗いたときに。フェンスに囲まれた公園で遊ぶ子供たちの隙間に。おもむろに夕焼けを眺めて目がくらんだ瞬間に、その景色はありました。それは憧憬と呼べるものでした。

 くすぶった故郷への想いはじりじりと脳内の原っぱを焦がしてゆきます。そして去年、とうとう退職願いを上司に提出したのでした。その方は「考え直せ」と私を引き留めてくださいました。これには内心驚きました。決して表情には出しませんでしたが全身に鳥肌ができていました。感激して、です。上司からは嫌われていると思っていましたから。単に難しい方だったのですね。しまいには昇進の話すら持ちかけてきてくださいました。日々の働きが評価されていたことをうれしくも、しかし故郷への想いには勝らず、結局辞めてしまったのです。

二年ほど交際し結婚を考えていた彼女にも別れを告げました。元部下で二十代後半の女性でした。さんざん悩んだ末に打ち明けたのですが、彼女は「あそう」と乾いた返事をしてあっさりと私の決心を受け入れました。それまで気づかなかったのですが、どうやら他に男が居たようです。特に怒りもしませんでした。

目的を持った男の行動は迅速で、さっそく部屋の家具や小物などを彼女との思い出の品とともに処分し、住んでいたアパートを引払いました。最低限必要なものだけを鞄に詰めます。

 こうして一切の未練を断ち切って、新幹線に乗り込んだのでした。

自由席は久しぶりでした。およそ八時間余り新幹線に揺られひたすら西へ。最初は満席で通路すら人が立っていたというのに(私もその中の一人でした)、その数はだんだん少なくなってゆきます。特に京都、新大阪では大量に人を吐き出していました。ところどころ空席が見受けられるようになり、私は三人掛けのシートに駆け寄って通路側に座りました。真ん中を空けて窓際に中年のサラリーマンと思しきスーツ姿の男性がスマートフォンをつついています。思わず自分の服装を確認しました。くたびれた白のポロシャツによれきったジーンズといういで立ち、上京した頃とは真逆のセンスでした。二人の間に挟まれに来るようなもの好きな乗客はおらず、ですから私は遠慮なく乗車前に買った匂いのきついスルメイカをしゃぶりながら薄い小説を読んで目的地に着くまで時間をつぶしました。本棚に何十冊とあった書物もこの一冊を除いて全て売り払ってしまいました。その全てをスマートフォンに閉じ込めてしまえば便利なことはわかっていましたが、私は字の書いてある紙の古くて時代が遅れているところが好きなのです。読んでいる本ですか? 教科書すらまともに見ようとしなかった貴方に教えてあげてもわからないと思いますけれど、どうしてもというならばヒントくらいは出してあげましょう。海の話です。やっぱりわかりませんね、それでいいのです。何度も読み返したものですし、二時間もあれば読み終えてしまいます。残りの時間はどうしましょうか。そうですね、少し眠ることにします。


 私には帰る場所など無いことを知りました。故郷は私を忘れてはいませんでしたが、その代わりに、しっかりと恨んでいたのです。

 がらがらのホームに降り立つ頃には外は真っ暗でした。確かこんな構造だったとピカピカの壁を伝います。記憶の中の駅は寂れていて、今目にしている少しも傷ついていない壁に違和感を覚えました。どうやら数年前に改修工事がなされたようで、東京から乗り換えなしにたどり着けたことに納得しました。エスカレータを下る最中に『リニューアル』と太いゴシック体が躍るポスターが掲示されていて、側に一年と半年くらい前の日付がありました。肩ほどの高さにあるそのポスターの右下の端には細かな皴がいっていました。駅周辺は少ない外套に照らされています。電車はもうやっていませんでしたから、この時間は高そうですが仕方なくタクシーを使います。適当なタクシー会社の番号にかけ、要請すると意外にも早くに到着してくれました。自動で開いた後ろ扉から乗り込み、上京して以来戻らなかった実家を目指します。これより先は舗装されていない土手や山道で、車のライトだけが頼りでした。

 車内から変化のない窓の向こうの景色を楽しんでいました。すぐに飽きが訪れ、船をこぎ始めます。三十分ほど走ったでしょうか、運転手が「お客さん、どの辺」とサービス精神の欠片も無いぶっきらぼうな声で問いかけてきました。「今どこですか」ピントを合わせるのが遅い古くなった目をがしがし擦って一生懸命に窓の外を睨みます。運転手は面倒くさそうに「田んぼだよ」と吐き捨てるように言います。その返答は眠気覚ましになりました。私はガラスの向こうをより一層睨み、懐かしいフォルムを見つけようとします。田んぼの中にぽつんと孤独に佇むその家は闇に完全に溶け込み、久しくその姿を目にしていない私は確かな場所がわからず、周辺をぐるぐると回ってもらっていました。結局比較的広いあぜ道に車をつけられ、イラついていた運転手に言われるがまま八千円も取られてしまいました。

 東京を出たのが昼頃で、この日午後九時を過ぎる頃になってようやく私は実家の玄関の戸を叩くことができました。インターホンは壊れたままでした。コン、コン、コン、と三回連続でそれでも気を使って控えめに戸を打ち、七セット目で開きました。家の中から中年の男が姿を現しました。

「父さん?」思わず声に出しましたが、そんなわけはないとすぐに気づきます。貴方と同様、実家すらも又形を崩してはいないのは全て私の頭の中だけのことなのです。

彼は弟です。父そっくりの顔になっていました。

「兄貴か」

 一瞬、嬉しそうな表情をしたように見えたのですが、見間違いだったようです。次に出てきた言葉は「何しに来た」でした。

「何しに来た、じゃないだろう。兄ちゃんが東京から帰って来たんだぞ。なんだ、十三、十四年ぶりくらいか」

想定していたはずの弟の辛辣な態度にしかし動揺し、何とか兄としての立場を取り繕おうとしました。

「知るかよ、今更っ」彼はそう吐き捨てました。当然の反応だと思います。

 私が何も言い返せないでいると、頭をガシガシと掻いて一度舌打ちをし、「上がれば」と低く怒鳴るように言います。

「二階の兄貴の部屋、今はタクの部屋だから」

「タク?」

「コドモだよ、俺とシホの。もうすぐ十二歳になる」

「…あぁ、わかった」

「ちっ」

 弟はやはり舌打ちをします。そして台所へ消えてゆきました。結婚しているとは、その知らせは東京の私の元へは届いていませんでした。もっとも、事実上絶縁状態でしたのでしかるべき扱い方だと思います。

 ギィ、ギィ、と床をひずませながら階段へ続く廊下を歩きます。途中、台所から出てきた弟のシホでしたかとすれ違いました。濡れたタオルを二三枚持っています。弟が何か言ったのか目も合わせてくれません。シホはそのまま通りすぎて行ってしまいました。彼女が出てきた戸の隙間から弟の姿が見えました。くたびれた顔でビールを飲んでいます。

「なんだよ」また低く怒鳴りました。まるで印象の変わってしまった弟の態度に戸惑い、急かされたように焦って戸をいっぱいに開き、顔を見せます。

「すまない、邪魔して、ただ、父さんと母さんにあいさつしたくて、まだ起きてるのか?」

 私はすっかり怯えてしまってしどろもどろに話します。

「…」

 弟は口をつぐんだままで、やっと開いたと思ったらそれはビールの入ったグラスに口をつけるためでした。喉が大きく波打っています。

「…黙ることはないだろ」

「…いらねぇよ」

「は、なんで」

「いらねぇつってんだよ!」怒気を孕ませた叫びの後残りのビールを一気に体内へ流し込みました。グラスが空になり、それに新しいもの注ぎながら話を続けました。

「おふくろはボケちまった、親父はここの癌で寝たきりさ。さっきシホが持ってったもん見なかったのかよ」自分の頭と胸の辺りを交互に指さしておかしそうに笑っています。シホさんが持っていた濡れタオルは父の体を拭いてやるためのものだったのでしょう。

「おふくろなんか俺のことを『おとうちゃん』だってさ、シホのことは『おかあちゃん』だとよ。つくった覚えのない娘ができたってわけ、ケッサクだろ!」

彼は「はっ」と笑うと再びビールを煽ります。

「何で帰って来たんだよ」

 最後には真顔になってそう言い放つのでした。返す言葉はありませんでした。どこかでひっそりと素朴に生きていると思われた故郷は幻想に過ぎなかった。帰って来るべきではなかったというどころか、唯一無二の居場所がたった今消滅したのでした。あのまま東京に居さえすれば、昇進、結婚と順調に物事は進み、やがて帰ってこない青春をはかなく思い、幸せと少しの後悔を感じながら最期を迎えられたでしょう。

「なぁ!」

 彼は私に返答を迫りました。般若の面を思わせる泣き笑いの表情で、お前が憎いと今も訴えています。

 私はそれに屈服し、まるで命乞いをするように洩らしました。

「ごめんな、イツキ」

 私の言葉に、自分自身を嘲た笑みを浮かべていた彼の目に光が宿ります。それは決して綺麗でなく、濁っていて、何より怒りに満ちていました。顔をこわばらせます。しかしそれもつかの間、何を思ったのかフッと穏やかな表情を見せました。そして子供のように無邪気な笑顔をつくります。樹は乱暴な口調で、

「うるせぇ、さっさと行っちまえ」

 そう叫ぶのでした。


 年々記憶力の衰えを感じますが、流石に実家の間取りはその限りではありません。確かな足取りで自室だった場所に向かいます。立て付けの悪い引き戸をスライドさせると、中には猫背になって携帯ゲーム機をいじる男の子が居ました。彼は侵入してきた私に気づき顔を上げるも我関せずといった様子で、すぐに画面に目を落とします。若干の気まずさを感じなるべく少年の方を見ないように、付近の壁に寄り掛かりました。目の端だけで辺りを観察しました。当時とほとんど変わっていません。勉強机は使い込まれていてボロボロでしたが椅子は新調されています。本棚も同じ位置にありました。そこで目を見張ります。

「あれ」

 間抜けな声を出しました。中高と買い込んで丁寧に並べていた小説や学術書のたぐいがごっそりと姿を消していたからです。代りに子供向けの漫画雑誌、ゲームの攻略本などが乱雑に置かれています。私のコレクションはきっと捨てられてしまったのでしょう。腹が立ちましたが、そんな気持ちはすぐにどこかへ追いやられてしまいました。ここはもう私の部屋ではないのです。この空間の、彼に居心地がいいように馴染んだ空気が、それを物語っていました。

 所在なさげに隅の方で胡坐をかいていると「おじさん、だれ」と声がしました。少年のものに他なりません。頭をもたげましたが、彼は相変わらずゲーム機をいじっていて、こちらを見ようともしません。私は反応に困りました。

「聞いてんの?」

 その姿勢を寸分と崩さず挑発的な言い方をします。こちらが気を使ってやっていれば、口の利き方を知らないガキめ。

「私は、君のお父さんの、兄だよ」穏やかに、大人の余裕を見せつけるように答えます。

「あぁ、あんたが」

 彼は唾でも吐き出すように言いました。

「父さん、いつもあんたの悪口言ってるよ。くそ兄貴、だってさ」

「…それは、いつからかなぁ?」私は憤りを抑え、媚びるような態度を心がけました。

「じいちゃんが寝たきりになったときくらい」

「それは、申し訳ないことをしたね」

「あとさ」

「なにかな」

「その喋り方、鼻につく」

 彼はそこでゲームを辞めて、私に冷たい目を向けました。その冷たさといったら、大人がひるんでしまうほどのものでした。私は釣り上げていた口角を元の低さまで戻し、力の抜けきった頬っぺたの肉は垂れ下がり底辺が長い台形の形になりました。年々鋭くなっていった目つきだけを武器に再び少年に向き直りました。

「君は何ていうの」

「父さんから聞いてるでしょ」

「どんな字を書くのか聞いてるんだ」

「大人がそういうヘリクツ言うのって、どうなんだろ」

「…生意気な口だな」

 私はいらだって低くうなるように言いました。彼はやっと怯えた表情を見せます。しかし「悪かったよ」と声をかけると、すぐに大人を舐めたような顔に戻りました。かなり甘やかされて育ったようです。

「自宅のタクで、三藤タク。あぁ、おじさんもミトウだね、三藤何ていうの」

「私はユウキ」

「どんな字なの」

「優しいのユウ、基礎のキでユウキ」

「…ふうん、いい名前だね」

 勝手に家を出て弟に辺鄙の家を継がせておいて、何が優しさの礎になる存在だと、心の中ではそう思っているのです。そんな言い方でした。

 薄々感じてはいましたがこの子は頭がいいようで、驚くべきは私の名前に込められたものを理解し、それだけにとどまらず皮肉を言ってみせたのでした。いったい誰に似たのでしょうか。そんな可能性を秘めた少年に嫉妬し、しかし興味が湧いてきました。

「君は、もうすぐ十二歳なんだってね。どこの小学校?」

「ヒロショウにきまってる、すぐそこの」

「そっか」かつて通った小学校の略称でした。広瀬小学校、縮めてヒロショウ。彼の言う通り、ここから歩いて十分とかからない距離にあります。大人になった今の私だったら五分を切るかもしれません。昔はその近さが自慢でした。五時から始まるアニメをクラスで唯一リアルタイムで見ることができていたからです。「あとさ」と少年はつぶやきました。

「キミじゃなくて、タクでいいよ」

「そう、わかったよタク」

 少しずつ彼のことがわかってきました。彼は子ども扱いされたり、上から物を言われることを嫌うようです。

「俺らで最後なんだ」

 つまらない、それとも寂しそうなそのどちらともつかない表情を見せたのでした。また新しい少年が姿を現します。

「それはどういう?」

「廃校だってさ」

 宅は「しょうがないね」と達観した態度をとります。私は驚きを隠せず、ひどく気が沈んでしまいました。あの学校は彼が卒業するまでの命なのです。あの建物が私の心の頼りだったのに、そのために帰ってきたというのに。それが大人の決定ならば確かに仕方がありません。しかし何かできることは無いかと必死に考えを巡らせました。

 雲に隠れている月が引力を使って私を引っ張り上げます。私は特に抵抗することもなくすくっと立ち上がりました。突然のことに、宅は怪訝な目を向けます。

「何してんの、おじさん」

「うん、なんだかねぇ…」

 適当な言葉が思いつかず、老いた脳をフル回転させます。そしてやっとふさわしい言葉が浮かんできたのでした。

「登校、かな」

 宅は何を言っているのかわからないというふうに、口を半開きにして顎を突き出します。しかし次の瞬間には理解し、秘密基地をつくる前の子どものように、にやりとほほ笑みました。いやらしい笑みです、底知れないエネルギーを感じます。

「オレも行く」

「あぁ、いいぜ」

 二つ返事で了承しました。まるで十年来の悪友同士のように笑い合います。

 私についてくる分には構わないのですが、そのためにはいくつかの障害を乗り越えなければなりません。

「イツキが許さないだろうな」

 宅は「どうして?」と目で問います。

「父さんなら大丈夫、いつもオレの好きにさせてくれるから」

「私と一緒なのがまずいんだ、あいつは今私に腹を立てているんだよ」

「こっそり行けば大丈夫さ、父さん酒飲んでた?」

「二缶開けていた」

「ならイージーだね、今頃眠ってるよ」

 弟が酒に弱いとは知りませんでした。確か父も弱かったはずです。私は母に似ました、母は酒豪でした。だから早くにボケたのでしょう。

 夜の学校に行く、そう決めた宅は素早く準備をしました。押入れからミズノのロゴが入ったナップサック(家庭科で作成したのでしょう)を取り出し、懐中電灯、方位磁石、双眼鏡、スナック菓子、携帯ラジオまでその中に入れます。懐中電灯以外不要だ、とは言いませんでした。当時の私でも同じようなものを持って行ったでしょう、追加でおもちゃの剣も手にするくらいです。男の子には必要なものなのです。

「行こう」

 宅は短く、小声で言いました。彼の中で、もう冒険は始まっているのです。最初のミッションである『誰にも見つからずに家を出る』が進行中でした。

 しかしそのミッションはあっさりと失敗に終わりました。いざ部屋の戸を開けると、そこにはシホさんが立っていました。お腹の前に両手を置いて穏やかに佇んでいます。彼女は宅の顔を一瞥したあと、私をじっと見ました。夜中の外出もそうですし、それもいきなり帰ってきた得体のしれない男に息子を預けられないという事でしょうか。樹の言う悪口を一番聞かされているのはこの人なのでしょう。私は信用が無いことを情けなく思い手悪さをし始めました。

「おかあちゃん、どうしたの?」

 シホさんの後ろから幼い声が聞こえてきました。母です。ボケて弟夫婦の娘になった母でした。ピンク色の似合わないパジャマを着ています。シホさんはゆっくりと振り返り「何でもないわ」と優しく言います。そして再び私の方に向き直りました。

「宅のことお願いしますね」

 上品な口調でした。私は軽く頭を下げて彼女の横を通り過ぎます。宅もあとに続きました。母は私を見ても顔の皺ひとつ動かしません、本当にボケてしまったのですね。母は宅ににこやかな笑みを向けて「あらタクちゃん」と声をかけます。

「お兄ちゃんとお出かけ、いいわねぇ」

 きっと母はそういう意味で「お兄ちゃん」と言ったわけではないのです。宅はぎこちなく笑い返していました。この時の私の顔をもし少年に見られていたら、後でからかわれてしまったでしょう。ふと、シホさんと目が合います。彼女は胸に手を当て、痛そうに抑えていました。


 宅が手にしている、懐中電灯から延びる光を頼りにあぜ道を歩きます。辺りは一面田んぼです。足を踏み外せば、足首まで泥だらけになってしまうでしょう。目的地までの道すがら、世代が違うにも関わらず私たちは意外にも学校の話で盛り上がっていました。彼は楽しくなってきたのか私のことを「ユウキ」と興奮して呼び捨てます。別に不快には思いませんでした。

「でさ、その女子がむかつくの、『せんせぇ、たっくんがぁ』だぜ」裏声でクラスメイトであろう女子生徒の声真似をします。たっくん、とは彼のあだ名でした。

「何かあったらオレのせいにすんの、すぐセンセー呼んできてさ」

「…その子は、きっとタクのことが好きなんだよ」

「もしそうだとしても願い下げだね」彼は相変わらず小学生に似合わない言葉を使います。

「それに、あいつらやたらと仕切りたがるんだ」

「女の子はそうだね、今も昔も変わらないな」

「ユウキのときもそうだったの」

「苦労したよ」

 こんなこと女性には口が裂けても言えません。男同士でしか話せないこともあるのです。宅は真面目な口調になって「実はさ」と切り出しました。

「廃校になるって言ったじゃん」

「うん」

「なんかオレのクラスで、まあ一クラスしかないんだけど、騒いでるやつ多くてさぁ」

 彼は何か思い出したのか呆れたように溜息を漏らしました。

「『自分たちに何かできることはないか』って話し合ってやんの、特に女子がさ、それがすごい腹立つんだよね。急に泣き出す奴とかいるわけ、それを見せつけてくるんだ」

 ちっ、と舌打ちをしました。親の悪い所ばかりが似てしまいますね。

「ファッションってやつかな」私はなだめるように言います。

「うん? あぁ、なるほど、ユウキ上手いね」

「意味がわかるのか」

「え、うん、なんとなくだけど」

 本当に誰に似たんだか、シホさんでしょうか。

「で、どうしてやろうかって話だよ」

「その子たちに何かするつもりなのかい?」

「だってむかつくから」

 私は「ほっといてもいいんじゃないかな」と穏やかに言いました。別に説教するつもりはありません。

「彼女たちはいつか自分の行いを恥じるだろう」

「オレが何もしなくても?」

「そう、勝手に」

「そんなもんなの」

「見てきたんだから間違いないさ」

「ふうん」

「それに、彼女たちが言うみたいに何かしてみるってのもいいかもしれないよ」

 何気なく「タイムカプセルとかどうかな」と思ったことを口に出しました。そしてたった今自分が言ったことを反芻しました。タイムカプセル?

「ねぇ、どうしたの」

 宅は私が隣を付いて来ていないことに気が付いて呼びかけます。彼の二メートルほど後方で立ち止まっていました。「タイムカプセルがどうかした」とめんどくさそうに、しかし駆け寄ってきてくれます。

「私たちも、埋めたんだよ」ゆっくりと言葉を選びます。その事実とともに、何か気になる記憶が目を覚ましたのです。おそらくそんなに大切ではないものではないと思いますが、小川が気まぐれで枯れ枝を浅瀬に運んできたように、妙に引っかかるのです。余計な言葉を吐かず、また耳に入れないように宅の目の前に手のひらを突き出し沈黙を促します。深海に沈んでゆくように、記憶の光はだんだん薄くなっていきます。頭皮をガリガリ掻いて脳内を刺激してみますが、やがて記憶の波は去ってゆき徒労に終わりました。

「大丈夫かよ」

 宅は心配してくれているようです。私は「大丈夫」と返しますが、実際には気持ちが悪くてたまりませんでした。心身は共に健康です。電気信号が以前のように脳を素早く駆け巡らず、頭が悪くなったことをじれったく思っているのです。

「そうだ、そのタイムカプセル探さない?」

 彼は嬉しそうに提案しました。

「どのタイムカプセルだい」

「ユウキたちが埋めたやつだよ」

「…それ、いいね」

 もしかしたら、それでつっかえが取れるかもしれません。「宝探しみたいじゃん」と宅は声を弾ませています。

「で、どの辺に埋めたの、二宮金次郎の銅像の下とか」

「えっとね」

 顎に手を添えて集中します。私は物事を記憶する時には記録するように覚えるのではなく、その時その場のイメージと関連させて記憶します。

そうやってじわりとあぶり出していたらまた先ほどの記憶の波がやって来たのです。

 太い幹をした木を囲んでいました。数名の男子がシャベルで地面を掘っています。根を傷つけないようにと彼らに向かって担任が両手をぶんぶん振ります。笑っている者が大半でしたが泣いている者も居ました。クラスの全員が居たはずです。でも何かが欠落しています。貴方だけが居ませんでした。そのことに私だけが気づいていたのです。卒業式のあの日早々に何処かへ消えてしまいましたね。

「ねぇ、思い出せた?」

「…うん、おぼろげだけどね」

「どこ、やっぱ銅像の下だ」

「そこは荒らしちゃだめだろう、木の下だよ」

「安直だねぇ、それに木っていってもたくさんあるよ」

「幹が、とても太かった印象だ」

「それだけ?」

「それだけ」

「…センセーも居たんだよね、馬鹿ばっか」

「小学校なんてそんなもんさ」

 少年との会話で元気を取り戻した私は再び歩きだしました。

「もうすぐだよ」

 宅は胸を高鳴らせます。武者震いで、ライトの光が揺れているのがその証拠でした。


       3


 私が貴方と同じクラスになったのは、小学二年の時です。それっきり同じ黒板を眺めることはありませんでした。二人は、最初で最後のクラスメイトでした。

 一年時、既に貴方のことは耳にしていたのです。一組に気味の悪い女子が居る、と。気を悪くしないでください。これはあくまで私が聞いた噂です。私がそんなことを思うはずがないのです。それどころか、全く反対の感情を抱いていました。

 進級して初めての登校、教室に入った私は噂の貴方をすぐに見つけることができました。

 騒がしい教室の外、廊下の手すりから身を乗り出し、独りグラウンドを見下ろす女の子が居ました。彼女は歌でしょうか、何か口ずさんでいてとても楽しそうな印象でした。それが貴方です。

 周りの男子たちが貴方にちょっかいをかけます。その中の一人は先生や児童の間でも悪名高いいじめっ子で、既に彼の周りには数人の取り巻きができていました。いくらヤジを飛ばされても貴方は気にせず、変わらずグラウンドに向かってにこやかに笑みを送っています。まるで友達にそうするように。

 彼らは何の反応も帰って来ないことに腹を立て、やがて何やらヒソヒソと相談事をし始めました。そして例のいじめっ子が突然「おい」と叫んでクラス中の注意を引きます。皆彼が指差す方向を見ます、廊下の手すりの貴方です。私も注目しました。彼は抜き足差し足で音を立てないように貴方に近づきます。それに気づかない貴方のスカートの裾を丁寧に両手で握り、それはいやらしく、ゆっくりとめくりあげました。濃いブルーの下着がお尻の方から丸見えでした。クラス全体でどっと笑いが起きます。後頭部のあたりまでめくりあげても貴方はまるで気がついていないようで(もしかしてわざと反応しなかったのですか)、男子たちはもっとやれとはやし立てます。彼はその声に乗せられて、スカートをバサバサと仰ぐように上下を動かしながら、奇妙なステップを踏んでみせます。それがさらなる笑いを呼びました。私はあなたが辱められている様を見ていることしかしませんでした。反抗して彼らに目をつけられるのが怖かったですし、なにより女の子のスカートの中に興味があったというのもあります。結局その催し物は我々のクラス担任が怒鳴りながらやって来るまで続きました。

 学活中も貴方は自由にふるまいます。先生が話されている時もほとんど皆前を向いて聞いているのに、何処か違うところを見ていました。私は左斜め後ろの席に居ましたから、貴方の奇行は嫌でも目に入ってきます。今朝グラウンドを見下ろしてしたように何もない空間に向かってクラスメイトには見せない顔をし、時々声を出して笑うのです。噂通りの不気味さでした。六年生の時に聞いたのですがこの頃から先生の間でも貴方は有名で、心ある大人たちは、子供特有の自分にしか見えない世界があって友達が居るのだと、だから見守ろうという方針でいたそうです。

 しかし、我々はまだ子供です。他人の頭の中のこと(後に価値観という言葉を覚えました)など理解できないのです。

 アイツはおばけと話をしている。新しいうわさが立ちました。

 これには特に女子が怖がり、より一層貴方に近づかなくなりました。男子たちはその程度では怖がりません。あの頃の我々が恐れるべき対象は、親、学校の先生、得体のしれないもの(おばけ)、なのです。そしてそれに立ち向かうものこそが強くかっこいい男とされ、女の子にモテました。彼らは貴方を得体のしれないものに分類します。大人しい貴方は、男子たちが自分の力を示すためのその道具として利用されつつありました。

生意気にも、当時から私は幽霊の存在を否定していました。しかし貴方のことが父や先生よりも恐ろしかったのです。子どもだけが持っている得体のしれないものを感知する能力、私はそれに優れていたのでしょう。大人になり、全てをまやかしとして切り捨てることができるようになった今でもあのときのざわりとした感覚が思い出されます。それが貴方の最初の印象でした。

 次の日から、貴方は嫌がらせを受け始めます。

 スカートめくりは頻繁に行われました。得体のしれないものとして扱っているくせに、彼らは貴方を女の子として辱めたのです。彼らは大抵集団で遊んでいて、その中の一人が罰ゲームとしてスカートに手をかけていました。貴方はいつも同じ色のブルーの下着を履いていたものですから、彼らは決まって「くっせー!」と叫びます。同じ色のものを何枚も持っていると考えるよりも、同じ下着を履き続けているとする方が面白いのです。スカートめくりを受けていたのは貴方だけではありませんでした。彼らはこのクラスでは普通にそうするものなのだと、その行いを正当化しようとしていたのかもしれません。私は臆病者でしたので直接めくったことはありませんが、陰からむっつりとその様子を眺めていました。

 他には授業中先生に見つからないように消しゴムのカスを投げつけられ、持ち物を隠されるなど、陰湿なものだったことを覚えています。そうして一か月も経てば、貴方はただいじめられている児童になったのです。子どもにとって一か月は途方もない長い時間です。貴方に対する少なからずあった恐怖心が消え失せるには十分な時間でした。当時いじめという言葉は聞きませんでしたが、全くそれでした。

 しかし貴方ときたら相変わらず不気味な笑みを浮かべているばかりで、歯向かうこともせず、また先生に言いつけることもしません。クラスの女子なんかは何かあれば先生を呼んでいましたのに。ところで私は何よりも、夜中に布団の中で貴方の下着の逆三角形の青色ばかりを思い浮かべていたのでした。

 そんな中、ある事件が起きます。四時限目が終わり、給食当番がそれぞれ担当するものを教室に運び込んで来る頃に、その絶叫は響き渡りました。

「せんせぇ!」

 女の子のものでした。それを皮切りに次々せんせぇ、せんせぇ、と子ども達は叫び出しました。騒ぎを聞きつけ、大人数が集まります。私は給食当番でしたがほっぽり出して向かいました。他の者達も同じでした。

給食用のエレベータでした。低学年用に備え付けられているもので、力の弱い一、二年生のためのものです。その前で、数人の女の子たちが涙をぼろぼろ流し、声を上げて泣いていました。いずれも二年生でした。先生は何事かと、まだ口がきけそうな一人の女子児童を問い詰めました。いわく、友達がふざけてエレベーターの中に入ったとのことです。扉は堅く閉じています。それは給食用のものですから、中は狭く、体の小さい者でしたら入ることができます。それでも私たちの学年では入れる者は居ないでしょう、それくらい体が大きくなっていました。閉じ込められたのは一年生でしょうか。泣きわめいている女の子らを見る限り、どうやら彼女らと親しい者が被害者のようです。体が小さいだけでいえば貴方も十分にその条件を満たしていましたが、貴方のために泣いてくれる人などこの学年にも居ないという結論に私の中で落ち着きました。

 先生は大慌てで階段を下りてゆきます。職員室に向かったのでしょう。辺りは依然として騒がしく、子どもだけでは収集がつきません。騒ぎを聞きつけた他学年もやってきます。一年生などは事態が飲み込めず、わめく先輩を不思議そうに見ていたり、祭りか何かと勘違いして笑い出す子らも居ました。

 私はじきに一つの色を持たないこの集団を恐ろしく感じ始めました。こんなにうるさくしていては先生に怒られてしまいます。何より今は給食の時間です。私は給食当番です。しかし人命より給食を優先しても良いのでしょうか。何が正解かわかりません。怒られないための正解がわかりません。

 自分の中の臆病に従ってとりあえずはその場を離れることにしました。走って教室に向かいます。誰も居ませんでした、貴方以外は。こんな時でも貴方は自分のペースを崩しません。貴方は給食当番でもないのに勝手に食器に白ご飯、おかず、汁物を注いで自分の席に座り、あろうことかそれらを食べていました。机の上に牛乳瓶だけ見当たりませんでした。もしかして牛乳が嫌いだったのですか? ちゃっかりしていますね。この時ほど、貴方のことを羨ましく思ったことはありません。貴方はきっと先生には怒られないでしょう。

 未だ騒ぎは収まっていないのか、喧騒が遠くに聞こえます。私はどうして良いのかわからず、迷った挙句貴方に習い、給食の準備を始めました。白ご飯をつぎ、みそ汁を注ぎ、それらを一旦自席に持ってゆきます。おかずを注ぎに戻ります、マーボー那須でした(今から考えるとすごい組み合わせですね)。私は那須が嫌いでしたのでそこだけうまく除けて器に盛りました。味自体は好きなのでここぞとばかりに山盛りにします。牛乳瓶を手に取り、席に座ります。

 私は白ご飯に赤い半固体のものをドロリと垂らし、口の中にかき込みました。それだけである程度の満足感は得られますが、器にはまだありありとマーボー那須抜きが残っています。たちまちお椀を空にしました、白ご飯をつぎ足しにゆきました。だんだんとこの状況に慣れてきているようでした。戻り際、貴方を見る余裕も生まれます。あの笑みが見られると思ったのですが、どうやら食事に集中している様子でした。所かまわず注意散漫な貴方の意外な一面を見ることができました。二人きりの教室はなんだか新鮮で別世界にいるようで、それが手伝ってか遠足の時ようにうきうきした気分になっていました。食欲の強まりを感じながらマーボー那須抜き丼をかっ食らいます。

 外へ出ていた者たちがぞろぞろと教室に入ってきたのは昼休みが終わる十分前でした。満腹感で思考が鈍化していました。同級生達をほったらかしにして、彼らから攻められるところまでは頭が回らなかったのです。

 皆は一番に貴方を攻めました。いつこちらに火花が散って来るかとどきどきして、あんなに働いていた胃は石のように硬くなり、一切の食べ物を受け付けなくなります。

 貴方は笑みを浮かべていましたがクラスメイトの壁が厚く隙間がなくなってゆくにつれ流石に不安そうな表情を見せ、給食をつつく手を止めます。私はその隙に残っていたものを口の中に押し込みました。

 クラス全員から攻められて貴方はたまらず反応しました。おずおずと膝の上に置いていた左腕を伸ばし、人差し指を伸ばし、私の方に向けたのです。

 どっと汗をかきました。同時に貴方に対する恐怖心が少しだけ弱まりました。結局のところ我々と変わらない、一人が怖い子どもなのです。

 クラス全員の視線がこちらを刺します。何と言い訳しようか必死で頭を回転させました。このままでは共犯にされてしまいます。しかし彼らの中から私に助け舟を出すものが居たのです。女の子でした。

「ユウキくんはちがうよ、だっていたんだもん」

 おそらく、エレベータ前のあの集団の中に居た私の姿を見ていたのでしょう。彼女は切り札を差し出したように誇らしげに貴方に言い放ちました。周りの者達も「そうだよ」とそれに同調します。



「ユウキ、これが一番太い木じゃないかな」

 宅が幹の表面をさすりながら言います。体育館の隣に、規模は小さいですが木々の生い茂る林があります。その中の一本でした。

不用心にも全開になっていた西門をくぐり、宅が心当たりがあると言うもので、人気の無い敷地内をそれでも背徳感を覚えつつ歩行していました。

学校の敷地内を鳥瞰すれば我々は東の端に居ました。

「見覚えある?」

「いや、それよりこんな場所あったかな」

「忘れてるし」

「この体育館、移動とかしてないよね」

 体育館の屋根を見上げて言います。

「どういうこと」

「あそこ、丁度あのプールのところにあったような」

 私はグラウンドを挟んだところに位置するプールを左人差し指で差し、目の前の体育館を右人差し指で指します。それを体の中心でクロスさせました。

「工事したのかな、グラウンドの模様替えみたいな」

「…大人になったら、馬鹿になっちゃうの」

 宅は呆れたように両手で空を持ち上げるようなジェスチャをします。

 突然、宅が「あっ」と焦ったように叫びます。

「どうした、らしくないじゃないか」私はやっと少年の弱みを見つけたというふうに、大分おちょくるように言ってやりました。

「なんだよ、じゃあどうやって地面を掘るのさ」

「手で、なんてやだよ」と弱弱しく声に出します。それについては彼と同じタイミングで浮かんだ疑問でした。しかし、鋭い子どもと違って大人は馬鹿ですが慌てません。一つ当てがあったのです。

「ライトを貸してくれ」

 その場を離れます。宅は「待ってよ」と叫んで後ろをついてきます。この子の想定外で動いていると思うとちょっと面白いのです。しばらく歩みを進めると、彼には行先がわかったようです。

「倉庫に行くの?」

「そう、運動会なんかで使うハードルとか大玉なんかが仕舞ってあるやつさ。そこにスコップが、もしかしたらシャベルが手に入るかもしれない」

「でも鍵がかかってるけど」

「まぁ聞けよ、大人の話は最後まで聞いた方がいいときもある」

 宅はそれ以上の追及は諦めて静かに私に従いました。これだけ格好をつけておいて何ですが、当てが外れてしまっている場合だってあるのです。それを思うと素直に誇れませんでした。

 倉庫は校舎から最も遠く離れた南東に位置しています。大型トラックほどの大きさがあり、直方体で横に長いです。当たり前ですが当時よりも小さく感じます。それでも身長は越せていません。

 両開きの扉に手をかけて、一度横に引いてみました。結果はわずかにずれるだけで最後まで開くことはありません。それを目の当たりにしても宅は無駄に口を開きませんでした。私は倉庫の表面に手のひらを当てました。鉄製で全体的にさびてしまっていて、ざらざらとした感触が伝わります。優しく撫でます。

 そうやって記憶の波を待っていました。

 十数秒で手を離します。

 地面に這いつくばりました。頬に泥が付きます。場所を変え、同じように地面に顔をつけそこから見える風景を眺めました。

 校舎をバックに見たとき、それは訪れました。記憶の波です。倉庫は校舎に対して垂直の方向に建てられています。その四つ角のうち、校舎から遠い二つの角、そのうち校舎を背景にできる方の角付近を素手で掘り始めます。地面は堅く、老いて皴の増えた手では時間がかかります。

 しばらくして両手首がすっぽりとハマってしまうくらいまで穴を大きくしました。その穴の壁から、ペロリ、と明らかに土ではないものを発見しました。宅にライトで照らしてもらいます。茶色い紙でした。長い間埋まっていたため、土の色を吸収しているから元の色はわかりません。それを取り出そうと横に掘り進めます。宅は私が作業しやすいように光を移動させてくれました。

 やがて、ニワトリの死体でも埋められるかのような大穴が空きます。そこまでして、やっと目的のものが姿を現しました。

「きったねぇ」

 宅は私がつまみ上げたものにライトを向けて後ずさりしました。

 それは封筒でした。といっても埋めた本人(つまり私ですが)以外わからないくらい土で汚れ、地中の微生物たちに分解されつつありところどころ破けたり小さな穴がぽつぽつ開いていました。

 私は感動しました。とうに忘れていたのに、二十年前に埋めたものは当然に残っているのです。記憶から消えたからといって、本当に無くなってしまうことはないのだと初めて実感したのでした。感動はそれだけではありません。封筒の中に入れて置いたもの、それを中点として円ができていました。長い年月をかけ、裏面と表面が糊付けされたようにくっついます。いびつな形をした円ですが、中身の厚さ分の空間があり、卵を思わせます。そうなるまでに至った年月に感動したのです。

 このまま保存したく思いますが生まれてきてもらうことにしましょう。本当にもったいないですが、丁寧に破いてゆきます。

ぼろん、とそれは姿を現します。衰えた私の運動神経では突如として生まれ落ちた赤ん坊に反応できず、地面に落としてしまいます。それを宅が拾いました。

「これ、カギ?」

「何の鍵かわかるよな」

 無論、倉庫の鍵です。ただし本物は職員室にあるでしょう。私は得意になって鉄製の壁をノックします。その音が内側で反響していました。

「きれいだね」

 宅は鍵を持ち上げ、懐中電灯の光にかざします。確かに、汚かった封筒とは異なり錆ひとつついていませんでした。

「これ合鍵でしょ、倉庫の。こんなのどうやって作ったんだよ」

「さぁ、どうだったけ」

「ユウキがやったんじゃないの」

「いや、用意したのはジロちゃんだったかな」

「ジロちゃんって誰?」

「いじめっ子」

 宅は「なんだよそれ」と続きを聞きたがりますが答えてはやりません。「昔の話さ」とだけ付け加えておきます。彼をなだめつつ、倉庫の扉にライトを当てるよう指示します。鍵穴をとらえました。

「そこだっ、そのまま動かさないで」

 彼から鍵を受け取ると、狙いを定めて穴に差し込みます。じゃきっ、と音がしました。手応えありです。そのまま左に回すと、上顎に舌を打ち付けたような気持ちの良い音が鳴り、ロックが外れたことがわかりました。

 扉は両開きです。宅にライトを置かせ、左右それぞれの取っ手に手をかけます。

「せーのっ」

 綱引きのような構図で、戸をスライドさせます。ギィ、ギィ、と耳障りな音をたて、砂埃と錆びて粉になった鉄の粒が舞います。

「すげぇよ、ユウキ、ゲームみたいだ」

 宅は興奮していました。

「目的はまだ達成されていない。さぁ、シャベルを探そう、無ければ何か硬いものだね」

 立ちつくす彼の背を押します。全身に力を入れているのかその場から動こうとしてくれません。もしかしたら怖いのかもしれません。

 倉庫内部は黒で塗り固められたように暗く、獣が大口を開けている、その前に立っているような気さえします。宅を安心させようと、私から進んで歩み始めます。するとあとに続いておずおずと侵入してきました。

中はとても埃っぽく、変な物を吸い込まないようにお互い慎重に呼吸をします。

 手分けして目的のものを探せばよいのですが、あいにくの暗さで懐中電灯の光が必要でした。ガラクタ(廃校でもうすぐそうなるのだからこの呼び方で良いのです)で敷き詰められている狭い内部を宅の握るライトで照らしてゆきます。その先を注意深く観察するのでした。

 途中、目を凝らすのに疲れたのか、状況に慣れて面倒ささが表に出てきたのか、はたまた恐怖心を和らげるためなのか「ねぇ」と宅が話しかけてきます。

「どうした」

「さっきのいじめっ子」

「あぁ、ジロちゃんのこと」

「消化不良感で、すっげえ気持ち悪いんだけど」

「話して欲しい?」

「ほしい」

 私は、これ以上渋って宅が機嫌を損ねてしまうことを危惧しました。仕方なく、貴方と貴方をいじめていた子ら、その傍ら一人の女子生徒が行方不明になったこと、それを機にジロちゃんのいじめっ子気質が影を潜めたことをざっくばらんに話してやります。

「ユウキ、最低だ」

 話を聞き終わるや否や、宅はいじめっ子たちではなく私に文句を言います。そして少しだけ怖い顔をしたことがかろうじてわかりました。大人をひるませる、あの冷たい目です。しかし私はその通り大人なのですから、甘んじて受け入れることにしましょう。王様が裸であることに子供だけが気づけるように、彼は穢れなき存在なのです。だからもちろん旧友たちが貴方にしたようにシンプル故、鋭い攻撃をしてきます。ひとうひとつ湧き出てくる感情に優先権を付け難い年齢なのです。給食当番と、人命と、先生に怒られたくないことを同列に扱えてしまうのです。

 宅はそれから黙ったままです。早くシャベルが見つかってくれ、私はそう願うのでした。


       4


 女子生徒が行方不明になった日、放課後までの時間がとても長く感じられました。二年生は何時限目までありましたっけ? せいぜい後一、二時間程度だったでしょう。

 私はクラスメイトの注意が散漫になる掃除の時間を狙って貴方に近づこうとしました。昼休憩の出来事について謝りたいと思ったのです。しかしチャイムが鳴ると貴方はすぐに席を立ち、誰も寄せ付けないくらいの勢いでつかつかと歩き、雑巾を濡らし、窓を磨き始めました。いつもおっとりとしているくせにこの時ばかりは肩で風を切らんばかりに挙動します。私はとても驚き、落胆しました。今日は本当に色々なことが起こります。新しい貴方を発見できたこともその一つです、初めて不機嫌そうに怒っているところを見ました。

 窓に張りつく貴方に話しかけることはできません。クラスメイトに友達だとか味方だとか思われてしまうことだけは避けなければなりません。

 そんな思いをずるずる引きずっているうちに、結局謝ることはできず下校してしまいました。罪悪感は募るばかりです。

 学校からすぐ近くに位置する自宅の玄関を開け、「ただいま」と沈んだ声で言います。

「おかえりぃ!」

 私の声を聞くや、家中に幼い絶叫が響き渡ります。弟の樹の声です。階段がどたどたと鳴り、小さくも弾けんばかりのエネルギーの塊が近づいてくるのがわかります。丁度靴を脱いだところで、樹が私めがけて飛び込んできました。そしてぎゅうと抱き着きます。彼は誰かと密着するのが好きでした。

 二人で二階に上がる際、人ひとりがやっと通れる幅の階段で弟を先頭にします。リビングに入ると母が居ました。その周辺には何々レンジャーのフィギュアが五体散乱しています。

「お兄ちゃん、お帰りなさい」金色の液体が入ったグラスを揺らしながら母は言います。

「ただいま」

 私は気分が沈んでいることを悟られないよう元気ににふるまいます。樹が床に落ちていた人形を二体拾い上げ、私に押し当てました。

「にいちゃんがブルーとイエロー、いーちゃんがレッドとグリーンやるね。おかあちゃんはピンク」

 彼は自分のことをいーちゃんと呼びます。差し出された青色と黄色の人形を受け取ると、弟は嬉しそうに「ほんとうはレッドとブルーがいいけど、ブルーはレッドのあいぼうだから」と言いました。今はあんなに憎たらしい樹ですが、昔はこんなにも可愛かったのです。いつもなら快く遊んでやるのですが、やはり貴方にしてしまったことが思い出されます。心臓に細い針を刺さっているようで、動悸の度に筋肉が攣るみたいで気が散りました。

 母はグラスに口をつけつつ私たちを眺め、時折ピンク色をしたフィギュアを持って二人に参加するのでした。その度に弟はぎゃあぎゃあと喜び叫びます。

 五時半になる頃、母はよろめきながら立ち上がりました。酒に酔ったのではなく、単なる立ちくらみです。樹は遊びに夢中、私だけが妙に心配しました。母が酒に強いことは当時からなんとなくわかっていたのでいつもならそんなふうに思いません。女子児童が危険な目にあったのは、本当に皆の言う通りに貴方のせいなのではではないのか。その貴方を怒らせてしまった。そんな不安が不安を呼んだのです。あるいは呪いだとかそういう類の罰を恐れていたのでした。それらの要素に加え、酒にはトラウマがありました。


まだ樹が生まれていなかった頃まで遡ります。母は弟を出産するにあたって遠くの病院に入院していました。父は料理の腕などからっきしで、いつもはスーパーやコンビニで買ってきた弁当でしたが。この日は父の仕事終わりに一緒に外食をすることになっていました。連れて行かれた先は飲み屋さんでした。煙草の煙や排気ガスで薄汚れたのれんをくぐると、そこにはあまり清潔でない空間が広がっていました。照明は少なく、薄暗さががそのことに気づきにくくさせます。そしてやたらとうるさいのです。カウンターが五席、テーブルが二つほどあるだけの小さな店でした。一方のテーブルにスーツを着たサラリーマンと思しき団体がひとしきり騒いでいました。客は彼ら以外に居ません。彼らは総じてビールジョッキを手に持っていました。父の陰に隠れて見つからないようにします。店で一番端っこのカウンターに並んで座りました。一人しかいない不愛想な店員に父が注文します、私はその内容を全く聞いていませんでした。サラリーマンたちの健全でない活気が異様でした。それがこの店の陰鬱な雰囲気と不自然にマッチして、恐ろしかったのです。彼らが頭上に掲げるジョッキの金色の波が少ない照明を浴び、周りの埃に反射してきらきらと光っていました。

「この空間に見つかってはいけない」と不思議な表現を胸にしたことをよく憶えています。

弱冠にして大人の世界に足を踏み入れた私は一つのことを学びました。

 酒を飲むと気違いになる。

あのサラリーマンたちもそうでした。母もよく酒を飲みますが、そうならないのは母の精神が強いからなのです。

 しばらくして、ジョッキに入ったウーロン茶が二つ出てきます。草の臭いがきつい、いかにもコストが低そうなウーロン茶でした。口に含むと、その臭いが体内から鼻腔を刺激し、たまらず口を離します。父は一気に飲み干していました。私も不自然なふるまいをしないようにとそれに習って我慢して半分まで飲み干します。あとから出てきたゴムのような触感の焼き鳥も頑張って噛みました。

 父がビールを注文しました。私はドキリとして、凍り付いてしまいます。すぐに出てきたジョッキを抱え、父はごくりと一口飲みました。父はアルコールに弱く、家でも自発的に摂取することはしません。母に勧められたときにようやく舐めるくらいです。私はそのことを思い出して、父がたったこれだけであそこのサラリーマンたちと同様に気が違ってしまうのではないかと危惧しました。私の心の内の焦燥は誰にも知られることもなく、ふたつ、みっつと口をつけてゆきます。

 父の眉間に皴が寄ります。まだ底にビールを少し残しているジョッキを乱暴に机に打ち付けました。向こう側で出来上がっている連中を一瞥し、顔をしかめます。おかしくなる前の兆候です。案の定、父は私に対して急に乱雑なスキンシップをとるようになりました。いつも遅くまで仕事をしていてコミュニケーション不足を気にしていたのでしょう。母くらいに自分に懐いてくれない私への日頃の不満が、毛穴から汗のように垂れてきたのでした。なかなか切れてくれない焼き鳥をかじっている私の前に父はビールジョッキをどん、と置きます。突然の大きな音に驚き、握っていた串を床に落としてしまいました。

「のんでみろ」

 父は不機嫌そうにぼそりと言いました。これは脅迫です。

 絶対に嫌だと思いました。向こうの連中のような気違いに、耐性の無い子どもはいち早くそうなるでしょう。予定では母はまだしばらくは家に帰ってきません。それまで父と二人で過ごすことを考えると、ここで怒らせてしまっては今夜から家での居場所を失くしてしまします。助けを求めてつい辺りを見回します。店員がこちらを見つめていました。先ほどの無表情とは打って変わって、いやらしい笑みを浮かべています。私は意を決して自分の顔くらいに大きいジョッキを両手で抱え上げ、底に溜まっているビールを飲み込みます。飲むふりをすれば良かったものを大人には隠し事ができないと信じていた私は馬鹿正直に、虫の体液を思わせる黄色い汁を流し込んだのです。

 胃が、喉が、あらゆる消化器官が口から吐き出そうでした。こんなにもまずいものがこの世に存在するのか、べろの先端から舌根に向かって蜘蛛がはってくるような口当たりでした。嘔吐きそうになるのを堪え、精一杯おどけてみせて「まずーい」と言いました。父は私が期待通りの反応を見せたからか気分が良くなったようで、はっはっ、と普段出さない大きな声で笑いました。店員はもう不愛想な表情に戻っていて、大声で笑う父を迷惑そうに睨んでいました。殺気立っていた獣が穏やかに喉を鳴らし始めるように、この空間が落ち着いてきたことがわかりました。どうにかやり過ごせたようでした。

徐々に熱を持つ喉と鈍化してゆく思考のなかで、早くここから、ひいてはこの町から逃げ出したい衝動に駆らました。


 翌日、学校へ行くとグラウンドにはパトカーが二台止まっていました。この時点で教室が騒がしそうであることが予想できます。私は既に冷めきった興奮を胸に、白黒の置物には目もくれず、下駄箱で靴を脱ぎます。

 今朝、パトカーが家のすぐ横を通り過ぎてゆくのを見たのです。それほど緊急を要する案件ではないのか、トラクターくらいのスピードでのろのろと走っていました。「パトカーだ!」と、めったに見られないレアな車に私は興奮して叫びました。二階の窓から斜め下にその車体の格好の良いフォルムを完璧にとらえることができたのです。「いーちゃんもっ」と樹が駄々をこねます。母は困った顔をしました。もう出発しなければ幼稚園に間に合いませんし、遅れれば保育士先生にどんな嫌味を言われるかわかったものではありません。しかし母は「いいわ、見てきなさい」と優しく言います。樹はその言葉を聞くや否や私のところに飛んで来ました。そして二人でガラスにぺっとりとくっついて、その車体を眺めていたのです。実は、「パトカーだ」と叫んだ瞬間から、私のパトカーに対する興味は消え失せていたのです。それでも弟と一緒にガラスにへばりついていたのは、私もあれに乗せられてしまうのではないかといった恐怖心からでした。昨日、何か悪いことをしたという自覚が確かにあったのでした。

 教室はしんと静まり返っていました。知らない女が担任教員用のデスクに鎮座しています。先生が来る前までの騒がしさは未だやまびこのように教室中を飛び回っていました。耳が若い私にはそれが聞こえてきます。今も、クラスメイト達の手悪さや鼓動の早さが聞こえていました。感受性豊かな彼らは、クラスメイト達が自分と同じ心境にあることがわかっていたのです。私も同様でした。ノイズのような心の揺れが生み出す小さな音、それらが合わさってやがて大きな耳鳴りになります。

 流石の貴方も居心地が悪そうに体をいごいごと揺らしていました。今日はいつも机の周りにやってくる『トモダチ』とは会話していないようですし、グラウンドの方を見ようともしません。普段のクラス全体の騒がしい様子とは打って変わってとても落ち着いては見えましたが、到底まともな雰囲気とは思えませんでした。今にも大爆発を起こしそうなこのクラスを先生がかろうじて抑えている、そんな状況でした。

 皆何を考えていたのでしょう、やはり昨日の事でしょうか。エレベータ前の群衆は明らかに心の底から楽しんでいました。無理もありません。青や緑の日常に、いきなり真っ赤な事件が降ってきたのですから、その濃い色を持て余し、狂乱していました。私もそうなれるだけのきようさがあれば良かったのにとつくづく思います。完全にその場の雰囲気と人ごみにやられてしまっていました。酒でも飲めば話は違ったでしょうが。

 混沌とする教室の中でこの期に及んでもやはり貴方だけが自由に見えました。



「ちなみに、その女子はどうなったの」

 宅がシャベルを引きずりながら聞いてきます。

「エレベータに閉じ込められた?」

「うん」

 私もトンボを引きずっていました。幅跳びなんかで使う地面を真っ平にするアレです。シャベルが一つしかなかったため、なるべくそれと同じ仕事をしてくれそうなものを選びました。二人は宅の照らすライトの先を見ながら会話をしています。がらがら、じりじり、それぞれが持つ道具と地面とがこすれて音が出ました。

 私は昔この学校で起こった、女子児童が行方不明になった事件の詳細を宅に聞かせていました。「最低だ」と、あんなに冷たい目を向けられたものですから名誉挽回したかったのです。私以外にもこんな悪党が居たのだと説明したつもりでした。

「結局、見つからなかったんだよ」あえて抑揚のない、感情の無い声で答えます。残念そうな声を作っても見破られてしまいますから。

「あり得ないね、ケーサツはちゃんと探したの?」

「私はあれ以来現場は見ていないからわからないけど、結構な規模で捜索していたらしい。それでも見つからなかった」

 宅は黙って聞いています。

「あんまりにも見つからないからそのまま打ち切りになった、はずだ」

「そういえば確か、そのエレベータって封鎖されてるよね、オレが入学したときからだったと思う」

「その事件があってからすぐだったはずだ」

「もしかしたら、今もエレベータの中に居たりして」

冗談ぽく言う宅に私は無言を返します。

 いつの間にか地面ばかり見ていた視線を無理やり上げます。闇に目が慣れて校舎の輪郭はおぼろげに浮き出て見えました。三階建てで横に広い校舎の二階の右端、そこに例のエレベータがあります。当時二年生だった我々の教室は階段を挟んですぐ左隣に位置していました。エレベータのさらに右隣の最東端のスペースは空き教室(きっと今も空き教室でしょう)で、丁度下に給食室があったと思います。あれは昼休憩の時間でした。友達と楽しく遊んでいたであろうその女子児童は誰を楽しませようと少しふざけた行いをしたために学校に飲まれてしまいました。宅が言った通り、今も友達が見つけてくれるのをどきどきしながら待っているかもしれません。それとも、自分が既にこの世非ざるものになってしまったことに気づいていて二度と覆せない絶望に打ちひしがれているのでしょうか。

はたまた『トモダチ』を捕まえる機会をうかがっているのか。いつだったか、日の暮れそうな路地の曲がり角のその先に恐怖した子どもの頃の思い出がある。当時読んだ本に影響されて何処か異界へと繋がっているように思い込んでいた。あれを想起するだけで今でも怖くて震える。そんな得も言われぬ、背筋の凍る、自分にしか見えない幽霊があの頃は居た。それが見えない大人は、思い出だけで恐怖するしかない。

 宅は沈黙を埋めるように言葉を繋ぎます。

「ねぇ、調べようよ」

「何を」

「エレベータ」

「…冗談はよせ、私たちの目的は土を掘ることだ。それに、あれ以来封鎖されていて中を見ることはできないじゃないか」

「これがあるじゃん」

 宅は手にしていたシャベルを持ち上げます。

「これとユウキのやつとでガンガンやろうよ、こじ開けるんだ」

「馬鹿。よっぽどタクなら良くとも私はまずいんだ。君ならうんと叱られるだけで済むだろう。でも私は成人している。無関係の大人が学校に忍び込んでいるだけでもまずいのに、その上器物破損で警察の厄介になったら、もう二度とイツキに顔向けできない」

「父さんのことはいいじゃん、それに無関係じゃない卒業生だろ。だって、タイムカプセルより面白そうなんだもん」

「戯言はよせ…それとゲームもほどほどにしておくんだな。現実世界にバーチャルな夢を見ていられるのは十三歳までだ」

「はいはーい」

 宅は憎たらしく返事をしました。

 校舎の正面玄関に向けて進めていた足先を右方向に傾け、弧を描くように目的の大木に戻って来ます。もう一度辺りを見渡し、本当にこれが一番太い幹かどうか確かめます。二人とも無駄な努力は避けたいと思っていました。改めて向き合いジャンケンポン、私がチョキで宅がグーでした。複雑さと単純さの勝負のその結果、私は落胆から早々に立ち直り左手で空中の砂埃を払うしぐさを見せ「離れていろ」と伝えます。得意そうな顔をした宅は一歩半下がりました。トンボを縦に持ち替え、頭上まで振りかぶり、地面に垂直に勢いよく振り下ろしました。ギィン! と鈍い音がし、運動エネルギーが大地に分散されます。老いゆく体に鞭打って全力に近いパワーを注ぎ込んだのですが、地面を調べると小指の爪ほどにも変化が無いようでした。

 たったこれだけのことで私は肩で息をしていました。宅は卑俗なものでも目の当たりにしたような面持ちで「そんな農作業をするみたいじゃなく、地面を擦るように掘るんだ」と提案してきました。私は言われた通りにトンボの表面積が一番小さい箇所を地面と密着させ、前後に動かしました。ごり、ごろり、と音を立てて臼で粉を引き出すみたいに確実にトンボは沈んでいきました。もうしばらくこうやって掘り続けて柔らかくなったところで、シャベルの出番です。

単純な作業を見ているだけでつまらなくなったのか「ねぇ、ユウキ」と宅が妙に上ずった声で話しかけてきます。おねだりをするときに作る高い声です。

「何だ、エレベータは調べないからな」作業に集中していたこともあって強い口調で返しました。

「わかってるって、もうそれは言わないってば」

 既に諦めているという割には、普段の大人を舐めたような声に戻りました。

「そうじゃなくってさ、もう一回説明してほしいんだけど。女子児童が行方不明になった事件の詳しいところ、もう一回説明して」

「詳しい話って言っても、もうだいぶ昔の事だから」

 私は手を動かしながら過去の記憶を手繰りました。

「…昼休みが、十二時過ぎくらいに始まった。私は給食係で牛乳瓶の担当だった。エレベータはおかず類のバケツや食器なんかの重いものしか運ばせてくれない、牛乳瓶が一番軽かったんだ。配膳が遅れて先生に叱られるのが嫌だったから、一番乗りで体育館の北側に隣接している給食室へ行った。牛乳瓶が入ったカゴを抱えて階段を一段飛ばしで上っていたんだ。上の方が騒がしいことにすぐに気がついて、エレベータの前は人であふれていたよ。私は教室に戻ってカゴを置いてから、急いでそこに向かった。そこには騒ぎを聞きつけやってきた先生が、女の子から事情を聞いていたようだった」

 そこまで話して、新たに思い出したことがありました。

「…そういえば、今思い出したけどその先生は私の担任だった、それに被害者の女子児童もクラスメイトだった。その担任教師はまだ何か言いたげな女の子の話をろくに聞かずに階段を下りて行ったんだ。たぶん、職員室に応援を呼びに行ったんだと思う。その先は、そう、警察が来て、それから」

「幽霊に攫われた、そう説明された」

「そう、皆そう言ってた。先生もだよ」

 まるでお母さんに説明しているような口調になっていました。

「ふぅん」

「何か言いたげだな」

「いやぁ酔狂な連中だと思って。ユウキ、もう一つ聞いていい」

「いいとも」

「担任教師って、オトコ?」

「…確か男だ。名前通りのいかつい奴だったから記憶に残っているよ」

 宅は沈黙し右手を顎に当て、考える然としていました。

「何だ、どうかしたか」

「あのさぁユウキ、それってさ」

 少年はいやらしくにやついていました。しかし苦しそうに無理やり笑っているようにも見えました。

「それってさ、本当に幽霊の仕業?」


       5


 それからエレベーターが封鎖されたのはすぐの事でした。それだけで事の重大さがこの齢にしてみても十分に感じ取れます。それなのに貴方ときたら捜査の期間中驚くほど不機嫌になって時折廊下からグラウンドを見下ろしては、パトカーに向かって刺すような目線を送り眉間にしわを寄せていました。その頃から普段の奇行は陰を潜め、ナメクジが塩を浴びたように徐々に大人しくなってゆくのでした、我々と同じくらいにまで。先生やクラスメイトからすれば扱いやすい児童になったようなのですが、私はそのことがたまらなく嫌だったのです。行方不明になっている同じクラスの女子児童よりも貴方のことが気がかりでした。貴方特有の美しさとでも形容できそうな要素が失われつつあったのです。私の頭の中は危機感でいっぱいでした。自分が貴方にしてしまったこと、その罪悪感がこんな気持ちにさせるのでしょうか? いいえ違うのです。ごく普通ならば楽しいような、苦しいような、甘いような、苦いような、味が有るような無いような、そんな感情を貴方に対して抱くべきなのです。代わりに、貴方のために何かしたいと思うようになりました。貴方の無実の証明のための罪滅ぼしのつもりでした。

 あの後、担任の郷原は警察と入れ替わりになるように休職届けを出していました。急遽代理の先生が来て私たちにそのことを話します。「今回の事故のことで郷原先生は大変責任を感じてらしています。もうみんなに顔向けできない、だそうです」と、その新しく我々の担任を務めることになった女は心底残念そうに言いました。こうして私は事件現場に居た唯一の大人に話を聞けなくなってしまったのです。

 午前中は警察が来ているため事件現場や職員室などに自由に出入りすることが難しくなります。二時間目終わりの二十分の大休憩を利用したかったのですが、仕方なく教室で過ごしました。普段ならこの時間、グラウンドは大勢の児童で埋め尽くされます。しかし行方不明者が出たことで学校も厳戒態勢を取り、現在外遊びは禁止されていました。子ども達はありあまるエネルギーを教室内で発散させています。おにごっこなどが流行りました、まだまだ体の小さい小学二年生にとって教室は十分に広いのです。それに机など障害物を挟んでの駆け引きも面白かったのでしょう。おかげで周りはうるさく、貴方以上に奔放に、勝手なふるまいをする者がたくさん出てきました。対照的に、貴方は大人しく、目立たなくなってゆきます。気配を消そうと努めていました、隠れようとしていました。『トモダチ』が教室内を歩き回っているからです。彼らは皆一斉にグラウンドの同胞を指差していて、身を潜めている貴方を見つけられず、子ども達の騒がしさに紛れて怒鳴り散らします。

 ドコ、ドコダ、

 デテキテ、デテコイ、

 タスケテ、タスケロ、

オマエノセイ、オマエノセイダ。

 比較的穏やかな声、荒く乱暴な声と駆けずり回る足音が聞こえました。それらに怯え貴方は息を殺していました。その様子は不憫で、歯がゆい。違うのだ、悪いのは彼女じゃない。私が悪く、悪者なんだ。お前達、お前達が探している悪党はここに居る。

 歯ぎしりと、貧乏ゆすりが止まりませんでした。唇の付け根を奥歯で挟みます。じわじわと力を入れてゆきました、強弱と弾みをつけて、まるで演奏するように、いたぶるように、痛さを通り越して気持ちが良くなるまで。

鉄っぽい味がしたら冷静になりました。

貴方の周囲のぼやけた背景がクリアに、視野が元の広さに戻ります。一人のクラスメイトが隣に立っていることに気がつきました。

 私は顔を上げながら「誰」と語調を強く、血の滲んだ唇を見せ空気の塊を勢いよく飛ばすように尋ねました。もし私が弾丸を口に咥えていたら、相手の体に穴でも空いていたでしょう。

 相手はあのいじめっ子でした。先程の伊勢は何処へやら、まずいぞ! と調子を取り戻しつつある私の健全な精神が告げます。きっと貴方に代わるおもちゃの品定めでもしに来たに違いありません。機嫌を取らねばと今更ながら媚びるような笑みを浮かべてみました。少し嫌な気分でしたが所詮は上面、作られかけのプライドがそれを許しました。今の私にいじめられている暇なんて無いのですから。

教室という狭い社会しか知らない子どもながらにとびきりのはったりを決めて彼の返答を待っていたのですが、次の瞬間には肩透かしをくらうことになるのでした。彼は私のきつい物言いにたじろいだのでした。そういえば、周りにはいつもの取り巻きが居ません。どうやら彼は既にこの時にはクラスの仕切り役から降ろされていたようでした。

「ごめん」彼が言います。普段聞き得ないあまりに弱弱しくヴォリュームの小さい声でした。心なしか体格も以前と比べて一回り細く見えます。彼は焦ったように手で口元を覆いたげな挙動を見せました。首をぴくぴく小刻みに左右に回転させ目を泳がせ、自分が吐いた謝罪のセリフを周りが聞いていないかどうか確かめていました。

「こっちこそごめん」私は哀れなほどの転落ぶりにあっけにとられ、その「ごめん」につられてしまいました。いったい何に謝っているのか、そのやり取りが客観的に見て可哀そうなくらい滑稽でした。元々底辺に居た者とそこやってきた物好き、二人は不気味に生まれた奇妙な沈黙を挟んで、お互いにぎこちなく笑い顔を作って間を埋めました。

「ミトウくんは、あいつらとは遊ばなくていいの?」

 彼は遠慮気味に顎を動かし、教室内でひときわ騒がしいエリアを指しました。以前の乱雑なふるまいからは考えられないくらいに落ち着いた話し方をするようなっていました。そのことにも驚きつつ、かつての仲間を「あいつ」呼ばわりしていることから私の憶測ではなく本当に「あいつら」と縁を切ったらしいことが分析できました。ならばと、私は低姿勢を直して話します。

「遊ばない。うるさいのは嫌いなんだ」

「あ…そっか」

 私のぶっきらぼうな返答に背を曲げます。そこを見逃しませんでした。

「あと、ミトウクンじゃなくてユウキでいいよ」

「えっ、ほんとかっ」

 垂らした餌に勢いよく食いつきました。「ありがと、ユウキくん」と、力強い笑みをします。すると今度は安堵したように次第に頬を緩ませ、彼の目がちかっと光ったような気がしました。

「ボクは何て呼べばいい?」

「そうだなぁ。俺は次郎だから、そうだなぁ…」

「ジロウ?」

 思わず、ぷっ、と噴出してしましました。あまりにもダサく時代遅れな名前だったからです。きっとおじいちゃんとかが名付けたのでしょう。いじめっ子の名前としては迫力があったかもしれませんが、今の彼には全く似合っていませんでした。

「何だよ、おかしいか」彼は少しムッとします。

「ごめん、あまりにも古風だったから」

「コフウ?」

「えっと、偉大とか、偉いって意味らしいよ」

「褒めてくれてるの? なんか上手いこと言われてる気がして」

 私たちは真顔で見つめ合い、数秒後ダムが決壊したようにどっと笑いが起きました。にらめっこは引き分けです。それから二人はすぐに打ち解け、お互いを「ユウちゃん」「ジロちゃん」と呼び合うようになりました。教室の壁に掛かっている時計の針は空気を読んでゆっくりと進み、休憩時間を長くしてくれます。

「早く外で遊びたいよ」

 次郎は窓の向こう側と神妙な顔をして机に座る担任の女を交互に見て言います。

「砂埃にまみれるのがそんなに楽しいかな」

「ユウちゃんは冷めてんなぁ、俺は楽しいよ」

 彼はにかっと歯を見せて快活に笑いました。外遊びが解禁されたらこれこれをして遊ぼう、と私に提案してきます。林、倉庫、体育館裏、教員専用駐車場など、彼は遊具の名前を一つも言いませんでした。きらきらと目を輝かせる次郎に「今は無理だよ」と無関心であることを強調すべく息でも吐くように言ってやりました。

「お巡りさんがいるし、見つかったらどうなると思う」

「そりゃあすげえ怒られちゃうかな」

「ただすげえ怒られるんじゃないよ。ボクらアクニンと同じふうにされちゃうんだ、ハンザイシャとおんなじにされちゃうんだよ」

 次郎を脅かすために言った自分の言葉に私はどきりとしました。「ケーサツなんかこわくないぜ」握りこぶしを胸の辺りに掲げ自信たっぷりでしたが、それを肯定せず無言を貫く私を前にすぐに不安になって「ぱぱっと終わんないかな」と萎れてしまいました。

「ヒーローでもいればね」

 私は警察以外の正義の味方を口にしたつもりでした。次郎は異人に向けるような好機の目を向けてきます。

「もしかして、ユウちゃんってさ」

「…ちがうよ、いーちゃんが、いや弟が好きで」

 ひくっ、と彼の口元が痙攣しました。他人の弱点を掴んだ時に人が見せる笑みでした。この時私は『小学生にもなって戦隊モノに関心がある』『弟のことをちゃん付けしている』と二つも口を滑らせてしまったのでした。次郎という名前がダサいことと私のこの二点とでは明らかに割に合っていません。それを笑われて今度は私がムッとする番です。

「怒ったの、いやちがうんだ」

「何がちがうんだっ」

「ごめんって、実は俺にも妹がいてさ」

 そう言うと次郎は恥ずかしそうに体を縮めしどろもどろに何やら告白し始めました。

「だから恥ずかしいんだけど、俺もそのぉ、しーちゃんって、ちゃん付けしてんだ」

「…ほんとう?」

「ホントだよ、弟はだったらまだいいけど、妹にちゃん付けは恥ずかしいだろ? でもいざ呼び捨てにしたら、あいつ泣いちゃうんだ」

「それはわかるかもしれない」

「しかも遊びに付き合わされるときなんか弟持ちの方がまだいいぜ戦隊モノだろ、こっちは何だと思う?」

「もしかして、少女アニメ?」

「うん、当たり」

 私は我慢できず、ふふっと笑いを漏らします。きっと彼が適役をするのでしょう。可愛らしい女の子に攻撃されていたがる姿を想像しては、お腹をおさえました。またどちらかが一方的にムスッとしないように「じゃあさ」と、私から息切れ切れに提案します。

「ちょっと練習してみようよ、呼び捨てにして十回ずつ唱えるんだ」

「しーちゃ…ちがう、えっと妹の名前を」

「僕が弟のだ」

「十回は多いな」

「じゃあ半分でいいよ」

「…オーケー、どっちからいく」

「ボクからいこうか?」

「ここはオレからいこう」

「なんだよ」

「いくぞ」

「せーのっ」

「しほ、しほ、しほ、しほ、しほっ」彼は舌をもつれさせながらも一気に言います。

「いつき、いつき、いつき、いつき、いつきっ」間髪入れずに私も続きます。

 二人はまた見つめ合い、苦笑します。

「どう、慣れた」

「いや、だめかも、またしーちゃんって呼んじゃうかもしれない」

「いいよ、もう笑わない」

「ほんとうか?」

「うん」

「しーちゃん」

「…ふふっ」

「うそつき」

「あはは」


 それから数日後の金曜日、本日は給食当番の最終日であり、密かに企てていた作戦結構の日でもありました。その日の昼休み、給食当番の私は給食着に着替え、一番に教室を飛び出しました。二階階段横の例のエレベータは当然閉鎖されているままで、制服を着た見張りの警官が立っています。細く鋭い目をした若い方でした。じろりと睨まれます。私は牛乳瓶担当なので元々エレベータに用事は無いのですが、怖くて堂々としていられません。子どもからすればお巡りさんは絶対的な正義の味方でした。正義そのものに睨まれた気がして無意識に猫背になります。

 一階体育館の北側に位置する給食棟に入ります。その空間は湿気であふれ、絶えずじめっとした空気の抵抗を感じました。奥に進むにつれ、豚肉の甘ったるい臭い、芋の土臭さ、野菜の酸っぱい臭い、その他主張の強い香りが混り悪臭に成ります。作業場では嗅覚がおかしくなるまで大鍋をかき混ぜた高齢の女性数人が、まだ足りないとさらに鍋をかき混ぜているところでした。なるべく姿を見られないように通り過ぎます。

 大きな銀色の業務用冷蔵庫の取っ手を両手でつかみ、力を籠めます。『く』の字型に腰を曲げ、足を踏ん張りました。強力なマグネットで閉じられているため、大げさなポーズをとらないと開かないのです。さらに腰を落とし後ろに引きます。わうっ、と冷蔵庫内に閉じ込められていた空気が外に飛び出す音がして、これまた分厚い戸が自由になりました。自動的に元の位置に戻ろうとする戸の間に体を滑り込ませ、自分自身がつっかえ棒になり『二年二組」とラベルの張られたカゴを探します。いつも通り下から二段目の右端にありました。冷蔵庫が吐き出す冷気に当てられ、得も言われぬ不安感が襲ってきます。いつもならこの寒さに爽快感を覚えるのですが、後ずさりしました。しかし金属製の重い戸に背中を押されていたため、単純に後ろに下がっただけでは脱出できません。焦らず、冷静に、蟹のように横向きに歩き、抜け出します。戸は吸い寄せられるように閉まり、その際、びしんっ、と鞭を放ったようないい音がします。

 牛乳瓶の数を数えながら給食棟を出ます。カゴは直方体で辺が長い方は私の肩幅ほどあり、材質は針金よりもっと太い棒状の金属を側面四面にまたがって一周、等間隔開けてその輪っかが合計三つあり、底の面は約一センチ掛ける約一センチの正方形が網目状に張り巡らされていて、牛乳瓶が落ちないような工夫がされています。また、牛乳瓶はそれぞれが金属の棒枠で隔離されていて、多少カゴを揺らしてもお互いがぶつかってひびが入ったり割れたりしてしまうことはありません。瓶は十三本ありました。同じものがあと一つあります。我々のクラスの人数は先生を含め二十五人ですから、もう一回来なければなりません。一度に全部は重くて運べないため、こうやって半分ずつ二回に分けて運ぶのです。

 給食室出口付近、一階のエレベータ前にも見張りの警官が立っていました。こちらには二人。二階にはあの嫌な目つきの警官一人でしたのに、なんでこちらを厳重に警備するのでしょう。女子児童が消えたのは二階のエレベータ前です、見張るにしても調べるにしてもそちらを重点的にするのではないのでしょうか。

そのあたりの事も不思議に思い、手早く二つ目の牛乳カゴも教室に運びすぐさま配り終えてしまいます。教室前方の長机付近では給食着を着用した当番がおかずを皿に盛り、クラスメイトはそれを受け取るため列を作っています。その列の長さを確認し、私は給食着のまま教室を出ました。

 あの細い目の警官が怖くて、遠回りですが中央階段を使いました。小走りで再び給食室へ、この格好ならば一階エレベータ付近で多少おかしな挙動をしていても怪しまれません。物陰に隠れて、その空間を覗き込みます。相変わらず二人の警官が立っていました。朝の会で担任の女から「お巡りさんの邪魔をしまいように」と言われていたのです、怒られるのが嫌な私には無理やりに、なんてことはできません。あきらめて戻ろうとしたのですが、私の足は無意識に給食室に向きました。自分の意志とは反対の行動をとっていることに気づいて方向転換する前に警官の一人と目が合ってしまいました。給食着で周りを騙すはずが、自分自身が騙されてしまっていたのです。給食着を着ているのだから給食室に用があるはずだと、他でない自分が勘違いしてしまったのでした。今から踵を返してはかえって怪しまれてしまいます。自然に、なめらかな動きを心がけて、警官の前を通ります。「頑張ってね」と、二人のうち若い方に言われました。私は照れて、恥ずかしそうに笑いました。

 今日だけで三回目の給食室に入る直前です、私の目が何かを捉えました。目の端に残像を残すくらいの、ほんの一瞬でしたが、黒く、なめらかなものが見えたのです。何者かと、辺りを見回します。給食室より東のエリアには教員用の駐車場が有り、ここが学校の敷地の北東端です。その黒くなめらかなものは、ジグソーパズルのように敷き詰められた車の陰に隠れてしまったのでしょうか、見失ってしまいました。遂に私にも『トモダチ』の片鱗を見たのでしょうか。冗談じゃありません。先生方の車を横目に入室します。

 白ご飯やおかず類をはじめ食器などもほとんど持ち出されていて、室内はがらんとしていました。何も持って出ないのは不自然でしょうか? 私はちびちび通路を歩き時間を稼ぎます。警察が帰るまであとどれくらいなのか、ふと、私の担当である牛乳瓶が収納されている巨大な冷蔵庫に目を向けました。

 それは開いていました、それも半端に。

 変です。強力な磁石の力でひとりでにぴっちりと閉まるはずなのに、誰かの間抜けな口元のような半開きでした。怪奇現象かと後ずさりましたが、すぐに原因がわかりとってに飛びつきました。

 間に一人児童が挟まれていたのです。性別はわかりません。私より身長が低いので、一年生でしょうか、その体重よりもはるかに重たい金属の戸に押しつぶされ、身動きが取れなくなっていたのです。どれくらいそうしていたのか、奥から吐き出される凍てついた息を吹きかけられていました。

 危機感を感じ急いで戸を引きます。通常のように磁石で固定されていなかったため、すんなりと動いてくれました。

 その児童は湿った床に倒れ込みました。戸がびしんっと重低な音を立てて閉まります。彼(彼女?)は意外と平気そうで痛がる素振りを見せず立ち上がりこそしましたが、次の瞬間には震え出しました。必死に体温を取り戻そうとします。

 私は焦りました。助けたのは事実としても、第三者に、特に大人にこの光景を見られてしまえば誤解されてしまうでしょう。それにこの子だって状況を正しく理解できているとは限りません。私が故意に閉じ込めたと思われても無理はないのです、何せ周囲が見渡せませんし、あんな重い戸を背中にくらえば誰かに押されたと勘違いしても無理はありません。どうしましょう、怒られるのだけは嫌です。

 その子の背をさすります。私はもう一度戸に手を掛け、腰を落として引き開けます。中には牛乳カゴが一つだけ残っていました。それには『一年二組』のラベルが張ってあります。私はそれを抱え、未だ震える児童に「行こう」と声を掛けました。それに応えるようにおずおずと顔が上がります。端正な顔立ちでしたので女の子だと思ったのですが、給食着の下からスカートがのぞいていません。彼の振る舞いは男の子らしくなく、おもむろに私の給食着の裾を握りました。その表情には恐怖の色が濃く表れていました。よほど寒かったのでしょうか、もう二度と冷蔵庫の方を見ようとしません。彼の代わりに牛乳カゴを両手で抱えてあげます、右腕はつかまれていました。非常に歩きにくかったのですが、誰がどう見ても年下を気遣う良いお兄さんでした。これで警官も騙せます。

 案の定、先程の若い警官は私に向かって「偉いねぇ」と言葉をかけてきました。私は照れ笑いました。二人三脚をするようにぎこちなく歩いていましたが、中央階段に差し掛かると右腕の拘束が解かれました。私は立ち止まり隣を見ます。日に当てられ温まったのか、もう震えてはいませんでしたが、不安の色が抜けきりません。

「大丈夫?」

「…」

 何も返って来ません。私が進めば後ろをついて来るので異常はないようですが。

 「く」の逆字型に階段を上り、二階に着いてすぐ左手に一年二組の教室があります。その直線上に一年一組、二年二組、我々の二年一組の教室が並んでいました。

「はい、これ」

 私は彼に牛乳カゴを近づけました。

「もう、行けるね」

 私も同じ方向なのですが目撃者への誤解を極力防ぎたかったので、数十秒ほどずらしてから足を動かすことにします。彼はやはり不安そうでしたが「うん」と一度だけしっかりとうなずくと、カゴを受け取り自分の教室へと歩いて行きました。その後ろ姿が弟と重なります。

 私が教室に戻る頃には、もうクラスメイト達は自席に着いていて給食を食べていました。教員用のデスクに担任の女は座っていません、ホッとしました。私の机の上には既に一通り食器が置かれていて、中身もあります。きっと誰かがやってくれたのでしょう。次郎の方に目をやると、気づいた彼は白い歯を見せつけてきました。

 スプーンでコンソメスープをすくい口に運んでいると、担任の女が「ごめんね、みんな」と息を切らしながら入ってきます。

「あら、みんなもう食べてるわね」

 先生を含めクラス全員が揃ってから「いただきます」の音頭を取るのが決まりでしたが、彼らは担任を待たず(私のことも待たず)先に食事を始めていました。たくましいものです。女も特に説教をすることはなく、自分の食事に手を付ける前に空中をつんつんつつくようにし人差し指を動かし左端前から順に児童の数を数えていきます。途中空席を一つ飛ばしました。二十四人全員居ることが確認でき、女は力が抜けたようにふらふらと自分のデスクに着きます。

 車のエンジン音が聞こえてきました。何人かの男子達がいっせいに立ち上がり背伸びするように窓の外を見ました、もちろん私も。白いグラウンドの上を二台のパトカーが一列で横断しています。それはもう幻滅するくらいゆっくりなスピードで。それらが南門から出て行くと、立ち上がっていた一人の男子児童が叫びました。

「センセー! もう、外で遊んでいいの?」

 担任は丁度何か租借している最中で、慌てて口の中を空にすると「いけません!」とその男子に負けないくらい大きな声で返しました。彼はややヒステリック気味のきりきりした声音にひるみ、腹を立て、まさか先生に怒りを向けるわけにはいかず、当然のように貴方を睨みつけました。

「お前のせいだからな」

 徐々に戻りつつある活気に紛れ、その声は単なる音に変わります。言った本人すら捉えられていない本当の意味がわかったのは私だけでした。

 貴方は、他人の言葉に傷つきます。

 傷つくようになりました。


「ユウちゃん、昼はどこに行ってたんだよう」

 放課後、グラウンドには赤と黒が無秩序にひしめき合っていました。女子児童が行方不明になった事件、それによってこれから事件解決まで集団下校が実施されるようです。各地区によって決められた登校班、そのグループで下校します。私の班はプール前に集合でしたが、あいにく気の合う人間がおらず所在なさげに立っていたところを次郎に見つけられたのです。

「ジロちゃんもこっち方面?」

「いいや、俺はずっと遠く、山奥さ」

 次郎が体育館の方を指さします。そこにはプール前よりもずっと多くの児童が集まっていました。あれらとわいわい騒ぎながら帰るのでしょう。

「楽しそうでいいね」

「おうよ!」

「皮肉だよ」

「ヒニク?」

 次郎は頬っぺたをぽりぽり掻きます。

「ユウちゃんは楽しくねぇの?」

「どうせ一緒に帰ったところでボクが一番に抜けるんだ、どっちにしろ楽しくなんかないし」

「ふうん、ていうか、そういう話じゃなくて、何だったけ、そう、昼は何してたんだよう」

「ちょっとエレベータがね」

 私ははぐらかしました。「女子児童行方不明の謎を追っていた」と言えば聞こえは良いですが実際には何の成果も得られていません。「なんとなく気になった」、そう言いました。その間、教員用の駐車場で怪しいモノを見たことを話しました。

「ふうん…」

 次郎は何か考えるそぶりをしました。

「悩んでるとこ、似合わないね」

「うっせい」

 彼は私の肩を軽く叩いて笑います。そして少しだけ真面目な顔をしました。やはり似合っていないと思います。

「ユウちゃんは、誰のせいだと思う?」

 次郎が何を聴いてきているのかすぐにはわかりませんでした。

「…誰とかは無いよ、原因を突き止めるべきだ」

「その原因が近くにいるじゃん」

 無意識に周囲を見回します。

「わかってるんでしょ」

「わからない」

「だって皆言ってるよ」

「わからない」

「アイツのため?」

 私はとうとう言葉を失いました。

「裏切者」

 しこたま責められ、反撃の言葉も思いつかず、どうにでもなれと思って出た言葉がこれでした。ジロちゃん、偏った教室の中で唯一の理解者だと思っていたのに。

 友達だと思っていたのに。

 気づけば私はべそを掻いていました。周りにこそ気づかれはしませんが一番見られたくない相手の目にはばっちりと情けない姿が映っています。

 次郎は何が面白いのか、満面の笑みを見せます。

「また明日な、ライバル」

 それだけ言うと、体育館の方に走って行きました。

「…ライバル?」

 私はその言葉の意味がわからない。ただ、眼球が急速に乾いてゆきました。



シャベルはこれといった抵抗を受けず、ビスケットをかじったようなすっきりとした音を立て地面に沈んでゆきます。引き続き私が掘っていました。彼は私の過去の話を聞くほどに、機嫌が悪くなっているように見受けられました。

「くだらないよ」

 彼は言います。彼は私でも次郎でもなく貴方側についているようです。

「つまりジロウとユウキはその子のことが好きだったんじゃん、好きな子のことをいじめたりするのって変だ」

「ははっ」私は少年時代を思い出して笑います。女の子の気を引こうとする男子たちの滑稽な姿が懐かしく、可愛らしくて笑ったのです。

「誤解のないように言っておくと、私は別に好きだったわけじゃないんだよ、ジロちゃんはそうだったみたいだけど。子供のすることだろう、子供って可愛いじゃないか」

「可愛い? 可哀そうだ」

「彼女がそうだと?」

「その子、つらかったんじゃないか」

「本当にそう思うかい?」

「…」

本当にそうだったかい?

「ごめん、よくわかんない」宅が舌の先をちろりと出して言います。

「いいよ別に、私に言いくるめられるのが気に食わなくて反抗したんだろう」

「正解」

「でも失敗だ」

「そう、ユウキもね」

 宅ははぁ、と私に聞こえるように溜息をつき「やっぱり大人って賢いねぇ」と含みのある言い方で分かりやすい悪あがきをした後、黙って私の作業する様子を眺め始めました。それならばと、私も黙々と手を動かします。

 あれからただがむしゃらに下に掘り続けていたわけではありません。大きな木、という手掛かりしかありませんでしたから、どの付近をどれだけ掘ればよいかはわからないのです。はじめは適当なある一点をウサギの死体が埋められそうなくらいまで深く掘り下げ、しかし目的のものは出てこなかったのでそこで潔く諦めをつけ、今度はその穴の壁にシャベルを突き刺します。地中は柔らかいですから、こうして切り崩すように掘り進め、太い幹を中心に円を描くような完成図を浮かべます。

「よいしょ、よいしょ」と意識せずに音頭をとっているいる自分がいるのです。老いとは死にゆく過程、成長のその先。あらゆる生物の中でヒトだけがそれが長い。例えば、私が木の幹を一周し、終点が始点と重なった時、私は二週目に突入するだろう。前よりも進みやすくなった道がそこにある。いやそれでも掘るのだが、勢いが死んでいる。

「なぁ、そろそろ代わらないか」

 ぜぇ、はぁ、と息継ぎをしながら言いました。木の周りをぐるりと囲むまではいかずともほとんど私だけが重労働を強いられていたのです(威厳が無いのは私の責任ですが)、少しは労わってもらっても良いはずでしょう。それに体力だって有り余っているはずです。

「うん?」気の抜けた返事でした。

「これ」

 私は宅の前にシャベルを突き出します。

「あ、うん」

 彼はゆらりと立ち上がり、思いのほか聞き分けよくシャベルを受け取りました。入れ替わりに「どっこらしょ」と先ほどまで宅が座っていた場所に腰を下ろします。その様子にひどくあきれ返ったように、

「歳をとるってやだね」

 と、憐れむように言うのです。


       6


 次郎が何を言いたかったのか、それがわかったのは土日を挟んだ後の月曜日の朝でした。樹と母を幼稚園へ送り出す時になってやっと飲み込むことができたのです。通常の私ならば、彼が普段から私のどこか他人を見下した言葉の使い方や言い回しに腹を立て、貴方という弱点(いつ気づかれたのでしょうか)を突いてきたのだと理解したでしょう。しかしあまりにも的確に弱い部分を串刺しにするものですから、私は冷静さを失ってしまいました。貴方のことを他のあらゆるものと同じように考えることだけはできなかったのです。だから取り乱しました。でもそれは次郎にとっても同じこと。緩やかであったか、急だったかの違いです。もちろん私が後者です。とんでもない痴態をさらした代わりに、たったひとりの友達を失わなかったわけですが、学校に行きたいなどととても思えるわけがありません。仮病でも使ってそこらへんに倒れこみ、弟を幼稚園に送って帰ってきた母に発見してもらおうと画策しました。

「お兄ちゃん、お友達よ」

 母の声がします。

 私はどたどたと階段を降り、玄関へ続く廊下を走りました。

 そこには良い雰囲気で母と談笑する次郎がいました。彼は、外の光が届かず暗い廊下で佇む私を見ると「よう!」と辺り一面を照らさんとする笑顔を向けました。「どうして」とつぶやき、続く言葉を選んでいたら樹が母の後ろに隠れて恐る恐る顔を覗かせ私を見てきます。こんなにうるさい奴が兄ちゃんの友達でびっくりしたでしょうか? 母も樹のおびえる様子を感じ取ったのか「じゃあね優基、お友達を待たせちゃだめよ」と、自分の足に縋りつく小さな熱の背中を押して行ってしまいます。「お兄ちゃん」から「優基」と呼び方を変えたのは母なりに気を遣ってくれたのでしょう。

「ごめん、ちょっと待ってて」

「おう!」

 次郎は相変わらずの調子の良い笑顔を浮かべています。約束もせず、不意打ちのようにやっていた彼に何故自分が謝っているのかはわかりませんでした。ただのあいさつとしてのそれなのか、心のどこかで彼にすまないと思っているのか。

 階段を駆け上がり、机に立てかけてあった黒いランドセルを引きちぎるように取り、背負います。時計をちらと確認しましたが、普段私が登校する時間よりも十分ほど早いです。次郎を待たせてもなんら非はないと思うのですが、そうすれば敗北するのだと思えてならなかったのです。先週の金曜日のあの時の「ライバル」という言葉が私に競争をさせるのでした。窓を突き抜けてくる太陽光が六月の終わりといえど外の暑さを感じさせます。私は小さな冷蔵庫を開け、中身を確認しました。二階のそれは一階の台所にあるものと違いちょうど私の身長くらいしかありませんが、いちいち階段を降りなくて良いので便利でした。ほとんどすべての缶やボトルに『酒』『アルコール』と書かれています。無論母のものです。こんなに酒を摂取してはいつ気違いになるのか心配ですが、空き缶などは缶蹴りや工作に使えるのでうれしいこともあるのです。私は二リットルのペットボトルを取り出し、中で揺れている茶色い水とどこにもアルコールと表記されていないことを確認します。そばに伏せてあるコップを裏返し、中身を注ごうとキャップに手をかけましたが、やめました。ペットボトルは元の場所に戻し、コップを再び裏返します。そうして今度はゆっくりと階段を進み、次郎のもとへと向かいました。今は腹には何も入れないほうが良いように思ったのです。少しの空腹は冷静を呼びます。

「おまたせ」

「おう」

 おおよそあいさつともとれないやり取りをして歩き始めました。

「ユウちゃん玄関っ、鍵は?」

「ずっとかけてないよ、今まで泥棒が入ったこともない」

「そうかな、気づかれたら泥棒じゃないじゃない」

「ちがうね、そもそもそんな人がいない」顎を浮かせ、この家の周囲を囲む一面の田園風景に目を向けさせました。

 まだお互いわだかまりがあるように感じました。私たちは田んぼと田んぼの間のあぜ道を進みます。道は細く、夜中などは気をつけて歩かなければ、落っこちて膝まで泥だらけになってしまうでしょう。とはいえ、今後そのような機会は無いと思いますが。

「へぇ、やっぱ近いねぇ」次郎はすぐそこに見える小学校を眺めて言います。

「今日は、どうして?」

 私はすぐに本題に入りたかった、彼とは違い私の通学路は短いのです。

「別に、なんとなく」

「朝から嘘をつくもんじゃないよ」

「…そうだね、ちょっと悪かったって思って」

「ちょっと?」

 私は彼の物言いにほんの少しだけ楽しくなって笑います。

「うちまで来るのにどれくらいかかったの」

「えっと、今何時?」

 いつも家を出るのが八時丁度、その十分前ほど前でした。

「七時、五十分くらいかな」

「じゃあ、えっと、七時五十分から六時三十分を引いたら…」

「なんだって!」

 次郎が習いたての時間の引き算をしている横で叫びました。

「一時間以上もかかっているじゃないか」

「うち、学校から特に遠いから、でもこんなに近いんだもん学校もユウちゃんちも変わらないよ。それにできるだけ早く謝りたかったんだ」

「そんなこと、学校でしてくれればいいよ」

「まぁまぁ、いいじゃない」

 私は呆れてしまいましたが、感動してもいました。全然「ちょっと」どころではないではありませんか。家が遠い彼にとって朝の数分すらとても貴重なはず。その時間を使ってまで来てくれたことが嬉しかった、もちろん顔には出しませんが。しかし体は正直で半歩ほど歩みが速くなります。

「ほんと、ごめんな」

 次郎はまた私を泣かせるようなことを言います。

「もういいよ、ボクも悪かったし」

 二人はどちらからともなくげんこつをつくり、こつんと当てます。

「よし、これでオレたちはショウシンショウメイのライバルだな」

「なんでだよ」私はまだとぼけて反論します。

「わかってるって、みなまで言うな」

 これこそが男の友情、例えゲリラ豪雨が来ても地面が固まることの早いこと。しかし貴方に寄せる想いが彼のそれと違うことはどうにも説明しがたく、上手く分類すべき言葉を知りません。それはあまりにも強く、それ故に次郎が誤解してしまうこともうなずけます。訂正しようにも簡単にはできないのは、言葉はシンプルで強いから、感情が追いつくことは永遠にないからなのです。語彙力の豊富な大人は分化することが上手く、またごまかすことも上手く、私の想いは単純で、まだ純粋な子供ですから到底整理することなどできないのです。私は持て余していました。だからとっておこうと考えたのです、大人になるまで、これは逃げでしょうか?

 女子児童行方不明の謎の解決が具体的な最終目標と設定され、当面は私が目撃した給食室の隣に位置する教職員専用駐車場のなめらかな影の正体を突き止めるということになりました。『給食』と名の付くものは片っ端から調べよう、という方針でした。提案したのは次郎です。彼にしてみれば自分の好きな娘が自分以外の輩からいじめの標的にされていることがたまらなく嫌らしく(自分勝手にも思えますが)、貴方の以前のような自由奔放さが影を潜め一日中落ち込んでいる様子を見ていられなかったのです。また単純な性格なのでわかりやすい部分(おおよそ事件にかかわりのない部分も含め)から徐々に真相をたどるというやり方を好みました。私も賛成です。小学二年生が知れることもできることも限られていますし、何より私も早く行動したいのです。

 新しい担任は今回のことに対して「事故」「いなくなった」という言葉を使っていました。おそらく全クラスに同じ説明の仕方をするように職員会議で決定されたのでしょう。これにより事件性があるかもしれないことはそもそも我々の無関心圏内であり、非科学的な力が女子児童を連れ去った、そんなイメージが我々の頭を支配していました。エレベータの構造として壁の中は、上下に動くハコの中以外にもその外側に空間が存在します。確かにそちらに移動することで脱出につながることはあれども、どだい不可能な話でした。数センチの隙間をくぐってハコの中から脱出できるはずもなく、よって壁の中で無残にも押しつぶされスクラップ状態となった死体を発見せずにはすみそうでした。

 しかし、それでも見つからないのは不思議なことです。神隠しにあったのだとうわさされていますが、それでは毎日のようにパトカーが来ていることに矛盾します。それは事故ではなく事件である可能性があるからであり、それが人によるものである可能性があったからなのだと思います。

 誘拐、私はこの可能性が高いと感じていました、といっても論理的に思考した結果たどり着いたものではないのです。一階エレベータ付近での警官による厳重な見張り、そのすぐ近くに位置する教員用の駐車場、担任の急な交代、誰にも気づいてもらえず凍てついた風を浴び続けていた男子児童、それらの断片的な要素からの偶発なひらめきによるものでした。

 実は、私もまだ神隠しという不可抗力で我々の介入を許さない事象を完全に否定できていません。その点において、その片鱗であると見られる駐車場のなめらかな影を追うことはとっかかりとしてもっとも適当であると判断したのです。

 東門がいつもよりも混雑しているのが遠くからでもわかります。次郎達南方面の山を越えた団地に住む者達は普段大きな南門から入り、広いグラウンドを横断して校舎に入るのですが、現在はパトカーの出入り口となっているため児童の使用は禁止されています。よって西門、東門にそれぞれ分かれて入るのです。私たちは西門で渋滞している集団の後ろにつき、校内に入りました。登校班に無断で紛れているようで居づらく私たちはややうつむき加減で小さな声で話しながら人の流れに沿ってグラウンドを横切っていました。「みて」「ねぇ」と周りで声がし、二人はやっと顔を上げます。丁度南門から数台のパトカーが入ってくるところでした。タイヤから低く巻き上がる粉塵、必要に地面を削っています。それらが全部でいち、にい、さん、先週よりも一台多い。沢山の憧れのまなざしに紛れて、二つの敵意がありました。


 給食当番は一週間で交代する決まりです。私は昼の間暇な身でしたが、今週は次郎が給食当番でした。四時限目が終わると彼を含むクラスメイトの何人かは教室に備え付けられている大きなバスケットの中から白い巾着を取り出します。この中に給食着と頭巾が入っているのです。先週当番だった者が土日のうちに洗濯し、この時間までに戻しておくのです。私は今日、これを忘れていました。私は今まで忘れ物をしたことはありません。新しい担任の女はこのことを知りませんでした。例のことで朝から気が立っていたのはわかっていたので覚悟していましたら、思った通り大きな声で叱られました。高いところから地面を見つめたときみたいな浮遊感を覚えました。

説教は一分足らずで終わりました。あんなに恐れていたことでしたが、いざ終わってみると案外平気でした。この感じは遊園地のジェットコースターで味わったことがあります。

 給食着は当番分しかありませんでしたが誰も困りませんでした。しかし担任は罰として私に当番の手伝いを命じました。「制服で給食室には入れないから、食器の運搬を手伝いなさい」と丁寧な指示もいただきました。次郎はこれをからかい「よう、よろしく」とふざけてけて言います。とてもうれしそうでした。無論、私も。

二人は一緒に給食室へ向かうべく、エレベータ横の階段を下りて行きました。あの目つきの悪い警官が居ました。

 本日分の食器は全部で二種類でした。一度目の入室の際、給食着を着た次郎が給食室入り口へ向かうため教員用駐車場方面へ続く通路の角を曲がり消えるその背中を見送って、私は入り口へ向かわずその出口付近で一階エレベータ前に居る警官と共に見張りをしながら次郎が給食室出口からやってくるのを待ちました。

「こんにちは、また君だね」

 相変わらずの気の良いあいさつが返ってきます。先週と同じ人です、その人ひとりだけでした。

「お巡りさん、一人なの?」

「そうだよ。あぁ、あいつのことかい、よく覚えているね、ボク。今日はいないんだ」

「どうして?」

「…ううん、なんて言ったらいいかな」

「ユクエフメイ」

「え、ボク?」

「レイちゃんとおんなじだ」

私はそう言って、俯きました。

警官はかがんで「大丈夫さ、すぐに帰ってくる」と私と同じ高さになって言ってくれます。私の目の表面には薄い水の膜が張り始めていました。まばたきなどはすまいと必死に目に力を籠めます。頭の上に大きな手が乗りました。温かい手でした。

「おいユウキっ、サボってんなよっ!」

 突然の大声でびくりと体が跳ねました。警官もつられて体をすくめます。

「ほら、これっ!」

 給食着を着た次郎が両手で抱えていた鉄製の食器カゴを突き出してきます。怒鳴られ「うん、ごめん」と消え入りそうな声で謝罪し、カゴを受け取りました。次郎はむすりとしたまま、踵を返し室内に消えていきました。私は彼を待つため、その場に留まります。

「あれはボクのお友達かい?」高いところから警官が話しかけてきます。

「そうだよ」

「それにしてもあんな言い方はないよなぁ」

「あはは、ジロちゃんは雑だから」

 会話をしながら二分ほど経ちましたが、次郎は出てきません。

「お巡りさん、もう行くね」

「お友達は待たなくていいのかい」

「うん、先生に怒られちゃうし」

 警官は手を挙げてくれましたが、両手がふさがっている私には振れる手がありません。ちょこんと頭を下げて階段を上ります。

 黒板の前に置かれている長机にどんと食器カゴを置きます。それからすぐに教室を出ると、次は階段を使わず、その向こうにある孤立した空き教室へ向かいました。目の鋭い若い警官がこちらを睨みましたが、エレベータに近づかないことを認めると他に関心を移したようです。

 空き教室は、物置と化していました。入室した瞬間、生乾きの雑巾が部屋中に干してあるのではないかというくらいに生臭いもっさりとした刺激臭が鼻孔を汚します。椅子の揚げられた机が何十何列と並び、錆びたり欠けたりして使い物にならなくなったシャベルとそれと似たような境遇のガラクタが沢山、その中に元は上質だったであろう鏡の割れたドレッサーがしんと鎮座しています。これだけ物があるにも関わらず、他の教室と同等の大きさであるはずのこの空間がどこか広く感じられます。異質な雰囲気にあてられ、ここにあるものはなるべく目に入れないように、特にドレッサーの割れた鏡だけは間違っても覗かないように気をつけました。

 奥へ進むと、窓が一つ空いていることに気が付きます。早くそこにたどり着こうと焦り、足はもつれ、何か蹴りました。

 窓は縦の辺がやや長い長方形。底辺のその下の床に、布製の袋が落ちています。

 私はその中身を取り出し、それに袖を通しました。

その後、給食室への二度目の入室を果たします。すっかり顔見知りになった警官から「おつかれさん」と声を掛けられました。私は真面目に「こんにちは」と返します。給食着を着ている私は誰からも怪しまれることはありません。だから食器を運び出しても文句なんて言われる筋合いはないのです。


 その日の帰りの会の最中、私は校長室に呼び出されました。今、上品で光沢のある扉の前に居ます。隣には私の担任の女がいました。お互い無言でした。

 次郎が居ない、と騒ぎになったのが昼休みの終わりごろです。給食当番に化けた私は皆の前で先生から罰を言い渡された身として、特に怪しまれることはなく、せこせこと教室内を動き回り配膳をしていました。いつもよりほんの少し給食の準備が遅れ、また先生もいつもより遅れて教室に入ってきました。そして点呼をとります。ここまでが先週の通りでした。

「あら、そこの席」

 先生は数えている途中で一つ空席が増えていることに気がつきました。慌てて名簿を見て「そこ、次郎君の席よね」とクラス全体に問いかけます。ほとんどが俯いて食器を鳴らす中で数人が顔を上げましたが誰も「知りません」も「わかりません」とも言いません。返答したのは私だけでした。

「ジロちゃんならトイレに行くって言ってました」

「え?」

「トイレです」

「え、あぁ…そうなのね」

 二度も聞いて安心したのか、女は椅子にどしんと腰掛けました。背中を曲げ、ふぅと息を吐き出します。同時にプゥと破裂音がしました。この音には全員が敏感に反応し、顔を上げます。かちゃかちゃと鳴っていた食器の音は止み、途端に静寂となりました。

 音の主は担任の女でした。学校内の大人たちは皆一日中風船のように張りつめているようでしたから、その通り空気が抜けたのでしょう。

「やだ、だあれ?」

 女は音源を探し、教室中をぐるりと見渡しました。やがて誰とでも目が合うことに気づくと黙って下を向き「早く食べなさい」と惨めに言います。皆その言葉に従いました。

私はふとした好奇心から担任の女がどんな様子なのか気になり、こっそりと首をもたげます。女はそれからずっと我々の黒い頭を監視していたようで、私の顔の肌色はその目によく目立ちました。おおよそ人間の関節の動かし方ではないような、ぐりんと首を回し、虫の触覚のようにぎょろぎょろと目の玉が左右別々に動いています。それらは発見した私を一層睨み、しかし対象が緊張で体を固めていることを認識すると興味を失ったように、目の前に用意された給食にしゃぶりつきはじめました。


 校長室には、校長先生、教頭先生、顔知りの警官と目つきの悪い警官、そして次郎が居ました。彼らが囲む二つのパイプ椅子のうちの一つに次郎は座らされ、私はその隣に座らされます。背後を担任がふさぎ、私たちの逃げ道が完全に閉ざされたことをここにいる全員が確認した後、説教が始まりました。歳のせいか校長先生は穏やかでしたが、その他の者の怒り声はことごとく心臓までびりびりと響きました。本日も一斉下校なのでそれまでの辛抱でしたがかなり堪えました。一通り大人達に怒鳴られた後、顔知りの警官が「じゃあ昼に自分たちが何をしたのか説明してごらん」ともう優しい声音に戻っていましたが、表情は怖いままでした。隣では次郎が涙をにじませ鼻水を垂らしながら嗚咽しています。五時間目の最中に発見された彼は彼で別に怒られていたのでしょう。必然と私が説明するしかありませんでした。ただ、誰の顔も見て話すことはできませんでした。

 私が見たなめらかな影は見ようと思って見られるものではないかもしれない、現に意図して見たものではなかったのですから。ならば張り込むより他ないと、そういう結論に至ったのです。その教員用駐車場へは給食室へ行く道と同じところを通るわけですが、普段ならまだしも学校全体がピリピリしている時に、制服姿の児童が人気のないところをうろちょろすることは許されません。先生や警備している警官に見つかれば、今後そこに近づくことが難しくなります。ですから、登校時間だけでは足りず、授業の間の十分休み、大休憩の時間までも遊ぶのを我慢して話し合い、ある作戦を編み出したのです。

 まず、給食着を着た一人が給食室へ一度目の入室。食器カゴを持ち出し、出口で待機している制服姿のもう一人に渡す。そいつが食器カゴを抱えて見張りの警官の興味を引き付けている間に、給食着を着ていた者はそれを脱いで袋に入れ、あらかじめ窓を開けておいた真上に位置する二階の空き教室に投げ入れる。この時どうしても、仕掛人、警官、間隔があいて実行者の順に左から一直線に並ぶことになるため、万が一に備え警戒の目を実行者から逸らす必要がありました。その後実行者は制服姿で駐車場の物陰へ、仕掛人は空き教室で給食着に着替え給食室への二度目の入室を果たせば、はたから見て不自然なことは何もない。後は実行者がより長く張り込みを続けられるために、仕掛人があらゆる時間稼ぎをする。これが陳腐な作戦の始終でした。

 自分が張り込みをすると言って聞かない次郎に私は早々に折れてやりました。少なくとも一度はなめらかな影を目撃した者のほうが適任だと思ったのですが、貴方に対する次郎の気持ちを尊重してやったのです。私があっさりと大役を譲ったことに彼は少し気分を悪くしたようでした。ことさらにライバルであることを意識させようとしたのかもしれません。

 大人たちは私の独白を黙って聞いていました。動機については半分本当のことを、半分嘘を言いました。貴方のことは一言も口に出しませんでした。嘘つきの天才は真実の中に嘘を織り交ぜるものだと、何かで聞いた話を参考にしたまでです。

 一斉下校を伝える放送が校内に流れ、私たちはようやく解放されました。なんと長い時間だったのでしょう。

校長室を退出する際、担任の女が大人の男たちに向かって深々と頭を下げていました。子供が恐れるべき対象であるはずの先生が謝る姿を、私達は初めてみたのでした。その光景に、乗り物酔いを起こしてしまったような吐き気を伴う気持ち悪さを感じ、自身と世間とのズレを前に私はただ茫然と立ち尽くしていました。動脈は静かに逆流し、体の中心から血液が遠ざかっていくようで心臓が冷たくなります。それは世の中が水が上から下へ流れるように単純でないことを理解した瞬間で、純粋であることとは別のより強い力の存在を感じ取った瞬間でした。それは次郎も同じだったようで、先ほどまで無限に流していた涙と鼻水が嘘のように引っ込んでいました。そしてその顔は薄く青ざめていたのです。奇妙なバランスで存在しているその空間はまさしく得体のしれないものであり、それは当然に子供が恐れるものでした。


「気を付けて帰りなさい」

 担任の女は薄く微笑んで言うと職員室に消えてゆきました。七月間近の外気が暑いを通り越していっそ暖かいと感じるくらいになってから、やっとお互いの顔を見ることができました。

「ユウちゃん、チクってごめん」

「いや、いいんだ。こっちこそごめん」

 いつぞやのようにとんちんかんなやり取りで笑えればよかったのですがどうもそんな気分ではありません。グラウンドでは黒色と赤色が続々と集結している様が見て取とれました。

「…急いだほうがいいかな」

「ゆっくりでいいんじゃないかな」

 次郎と違って立ち直るのが速かった私はそう提案しました。二人はのろのろと中央階段の下駄箱に向かって足を進めます。「あのさ、影の正体なんだけど」と次郎がつぶやきました。

「そうだ、どうだったの」

 私は少し元気になって聞き返します。

「うん、ひとつの授業まるまる見張ってたけどユウちゃんが言ってたようなもんは現れなかったよ。でもね、真っ黒いスーツを着た男の人が居たんだ、それじゃないかな。オレはそいつに見つかっちゃったわけなんだけど」

「えっ、ジロちゃん、よく無事だったね」

「いやぁ、その人ケイジだったんだ。そう刑事っ、オレ本物初めて見ちゃったんだよ!」

「なんだ、フシンシャじゃなかったんだね」それに現実のものだったのですね。

 次郎はその時のことを思い出すにつれテンションが上がってゆきました。ドラマなんかでたまに見る刑事に会ったというのが少し羨ましかったですが、なめらかな影の正体がそれとは拍子抜けです。

「でもその刑事さん、さっきは居なかったよね」

「ユウちゃんも見ればよかったよ。でも校長室に刑事居なくてよかったな、すっげぇ怖かったんだぜ、それもオレだけ、くそっ」

「なんだよ、怖いといえばお昼さ。ジロちゃんさぁ、給食袋の投げ入れ何回失敗したか憶えてる?」

「えっと、三回かな?」

「合ってる、数えてたんだ」

「えへへ、ごめん。思ったより難しくってさ」

「ボクの身にもなってよね」

 ごまかして頭をかく次郎に私は苦笑してみせます。

 次郎が給食袋を投げている間、冷や冷やしながら警官と話していました。迅速に事を済ませなければならないのに彼が何度も失敗する様子が私だけに見えているのです。警官が一人しか居なかったのは嬉しい誤算でした。対面している警官には表情一つ変えず、まだ頭の足りない純情な子供を演じなければなりませんでした。演技という才能を全く持ち合わせていないことは、父に居酒屋に連れていかれビールを勧められたときに既に察しがついていました。だから気持ちを作るために私が何をしたかというと、好きだったクラスメイトの名前を借りることにしたのです。そんな、次郎が食器を渡しに来るまでの準備、それを経た結果は良好であの警官はすっかり騙されていた、と思います。

「ねぇ、明日からどうしよっか」

「そうだねぇ、これで振り出しに戻ったわけだしね」

 次郎の返答に私は少し驚きました。こうなっては事件の解決へ向けての捜査は諦めざるを得ないと考えていたのですが、立ち直りが早いのは彼の方かもしれません。

「もうダブルスパイ作戦は使えないしなぁ」

「なんだっけそれ」

「なにって、今日の作戦名だろ」次郎は表情を変えずに言います。

「ウソでしょ、やめてよ恥ずかしいからさ」

「なんでだよ恥ずかしくない、かっこいいだろ」

「どうせスパイの意味もわかってないんだ」

「わかってる、馬鹿にすんなっ」

 騒ぎながら靴を履き、グラウンドに出ます。

「ユウちゃん、もしも今日失敗しなかったらオレたち明日もやってたかな」

次郎がしみじみと言いました。

「やってたかもね、もともとそのつもりだったじゃん。影が現れるまで続けようって、役割だって交代しても良かったし」

「うん、でもよく考えたらそれって明日も給食着忘れなきゃいけないってことでしょ。それは悪いなって思って」

「誰に?」

 次郎は私に人差し指を向けます。

「悪くないよ」私は毅然と言いました。

「二回目だし、きっと先生にものすごく怒られちゃうかもしれないじゃん」

「別にいいよ」

 息を吸って「いいんだよ」ともう一度。

 それ以上の無駄話はなく、二人はそこで別れた。


 翌日は次郎は迎えに来ませんでしたから、一人での登校でした。彼の影響を受けているのか家を出たのは昨日と同じ通常よりも十分ほど早い時間でした。

遠くから学校を眺め、混雑していない西門を通り、グラウンドを横切り、下駄箱で上履きに履き替え、階段を上ろうとする頃に違和感を感じます。人気があまりにもないのです。それが嫌に気になったので途中まで登った階段を降り、グラウンドをぐるっと見まわしました。パトカーがありません。今朝樹ががっかりしていたことを思い出しました。あの日以来毎日我が家の側を通るものですから弟はすっかり夢中になってしまって、幼稚園の友達にも羨ましがられていたようですっかり得意になっていました。午後から来るのか、それとももう事件は解決してしまったのか。後者ならば願ったり叶ったりですが、昨日の私たちの努力が無駄だったように感じられて面白くありません。私はおもむろにランドセルの肩ベルトを握り、吊り橋でもわたるように再び階段を上り始めます。

「へんなの」

 こんなに音が無いなんて、まるで私だけが生きているよう。灰色の壁に普段の閉塞感を感じず、汚れや風化が目立たなくなる。私を囲むものたちは余計な意味を失い、よりシンプルなものへと成ってゆく。信じるのは自分だけで、自分の見えるものだけが信じられるものなのか。ならば夢は、空想は、幻ではない? 今の感じはあの、初めて酒を飲んだ時に似ている。

酔っているのに冷静で、現実なのに夢のよう。

そんな景色がある。

私は気が違っているのだろうか。

今の私は、まるで誰。

 気づけばそこに黒いもやでも見えそうで、ランドセルのベルトを握る手が強まります。中央階段を「く」の字に上り、青白く照らされた廊下に出ました。思わず縁から乗り出し空を見上げます。

 金色に輝く太陽もありますし、純白の雲もあります。空だっていつも通り真っ青です。わざとらしいくらいに。

 再び廊下に目を落とします。比べてみてわかりました、ここはまるで海中。頭上からは確かに健康的な光が降ってきているはずなのに、ここまでまるで届いていません。地上は朝方程度の暗さでした。上空何十メートルの位置に不可視のフィルターでもあるようでした、それが光の粒たちをせき止めている?

 廊下とグラウンドは同じ色でした、青白く不気味で決して明るくない色。

その広大な海に現れた、黒く大きな楕円。

その影は徐々に濃く大きくなり、最終的にはグラウンドを埋め尽くすくらいにまで膨張する。それが巨人の挙動のように実にゆっくりと、右に、左に揺れる。

 すぐに天上を見ました。太陽と重なっている雲もある、グラウンドの『あれ』はそのせいでしょうか。しかしその雲は極めて鋭く、とてもかの影を形成するには至らない形状でありました。あまりにも現実とかけ離れている、ここはどこなのでしょう。お日様がビー玉よりも小さく見えます。地上を越えた底に、私は居るのでしょうか。

 少しの恐怖と心地良さ、むしろその恐怖は心地良さに入りびたりになってしまうことを怖がるものでした。私は階段を下りてゆきました。自分が何故、気持ちの良いものから遠ざかろうとしているのか不思議でした。


 階段を下りた後、下駄箱で誰かが来るのを待っていた私はとにかく安心しました。それぞれの門からちらほらと児童が校庭に入ってくる姿を確認したからです。

午前八時二十分を知らせるチャイムと重なって大勢の児童が南門から流れ込んでくる様子が見えました。いつの間に南門が解放されたのかは知らなかったのですが、それならばあの中に次郎が居るはずです。目を凝らしているとほどなくしてその顔を見つけました。ついでに一緒におしゃべりしている二、三の友達の顔も。だんだん校舎に近づいてくるも彼らは離れる様子を見せません。私は彼らから逃げるように階段を上ろうかと考えましたが先ほどのこともありそれははばかられました。隅の方へ移動し、目立たないように肩をすくめ、俯いていました。

 恐る恐る頭を上げた時、たまたま友達と居る次郎と目が合ったのですが、向こうから逸らされました。動揺し、とっさにつま先を見ます。以前彼に「裏切者」と言ったことが思い出されました。

「ねぇ、ユウちゃんでしょ」

 再び頭を上げると目の前にはちゃんと次郎が居ました。私の赤く濁った目玉を見て不思議そうな顔をしています。良かった、本当に。私の世界は変わっていない。逃げ切ったのだ。

「おはようジロちゃん」

「うん、おはよう」

 彼は私の改まった態度に少し驚いたようですが、すぐにいつもの調子に戻りました。

「あれ、友達は、よかったの?」

「先に行ったよ」

「そっか」

「それよりユウちゃん早くないか、あの近さならあと二十分は家でゆっくりしてられるだろ。ゲームでもしてればよかったのに」

「そういえば皆、ジロちゃんもだけど今日は遅すぎだよね。何かあったの?」

「何って、連絡網が回ってきたじゃん」

「ボクはそんなの知らないけど」

「…はぁ、そういうことか」

「何?」

「今朝早くに電話来たんだ。今日の登校時間は九時だってさ、あと南門も使っていいって。テンション上がったけどその後面倒くさかったぜ。連絡網だろ、うち散らかってるからさ、そんな紙見当たらないわけ、緊急の連絡だって言われてるし一家総出で宝探しさ」

「次どこに連絡すればいいかわからなかったわけだね」

「結局しーちゃんのおもちゃ箱の中からできたんだけどな、そっから急いで電話した。そのあと仕事行くかーちゃん見送って、そっから暇してたな」

「そのしーちゃんは?」

「かーちゃんの職場に託児所があるんだけど、」

 次郎はそこでぽんと手をたたきました。

「いやいやちょっと待てよ、今朝のこと知らないっていったよな、ユウちゃんちに電話かけたんだぜ、連絡網の一番端にあったからもし間に合わなかったら困ると思ってさ」

「そうなんだ、ありがとう、でも間に合わなかったみたいだね」

「いや、おばさんが出たぜ」

「え、本当? それ何時くらいか憶えてる?」

「オレが丁度家出るくらいだったから、七時三十分くらい」

 その時間の我が家では、パトカーが見られずに落ち込む樹を私が慰めてやっているところで、母は幼稚園に行く準備をしていたと思います。その間母が電話をとっていたかどうかは思い出せません。

「間違い電話じゃないかな」その可能性はあります。

「そんな、オレ昨日おばさんに会ったじゃん。話もしたし、一日そこらで声なんて忘れないよ」

 私は右手を口元にもってゆき黙りました。仮に次郎の言う通りだとして母はどうして黙っていたのでしょうか。

 始業の鐘が鳴りました。無防備な私は突然の轟音に驚きびくっと体を揺らしました。

「ジロちゃん、急いだほうがいい」

「ゆっくりで大丈夫だよ、登校時間が伸びたこともう忘れてる」

「そっか、じゃあ今は…」

「八時四十分の、いつもの始業のチャイムだね」

 次郎になだめられ、まだ何か腑に落ちないこともありますが一緒に階段を上ります。今度は足を進めるたびに二階のにぎやかな活気が伝わってきました。どたどた足音が響いています。廊下では一年生ならまだしも高学年の先輩達ですら走り回っていました。駆けっこや鬼ごっこに興じている者など、皆この非日常を味わっていました。

「楽しそうだな」

 次郎は彼らに共感しているふうに言いましたが、その目はどこか大人びていました。

 騒がしいのは我々のクラスでも変わりないようで、ガラスが割れんばかりの奇声を上げている者も居ました。

「うるさいねぇ」

 私は苦笑して次郎に共感を求めました。彼は余所見をしていて、話しかけてもこちらを向いてくれません。肩をたたき、掴んで揺らすと振り払われました。しかし拒否されたわけではないらしく、今度は彼の方から肩を掴まれ、私がさっきしたよりも何倍も強く揺らされ、もう一方の腕を上げ、人差し指を伸ばしました。

私には彼の言いたいことがわかった。

私の席の斜め前の席を見ます。

「そこじゃない」

 次郎はじれったく思い、私の両頬を顎から掴むと力を込めました。誘導された先は、黒板の横の小さな掲示板の前、有象無象に紛れた貴方でした。「笑ってる」私はつぶやきました。「あぁほんとだ、ほんとだ」彼はまだ事態が呑み込めない様子でした。

 掲示板に張られていたあの記事は確か学校のプール開きを知らせるものでした。その記事を指さして、誰にも向けられないあの笑みを確かに浮かべていたのです。貴方が戻ってきました。

「ほんとだ、ほんとだ」

 目を細め、未だそう繰り返す次郎のあの満足そうな表情を、私は生涯忘れることはないでしょう。


 その日は体育館にて全校集会に始まり、全児童教員で町田玲(享年8歳)に黙祷を捧げた。校長は前に出ると「行方不明」とはっきり言い、続けて胸ポケットから何重かに折りたたまれた白く長細い紙を取り出し両親からのメッセージなるものを読んだ。娘と仲良くしてくれてありがとう、今日この場が設けられて娘も喜んでいるでしょう、などのことが書かれていた。手紙が終盤に差し掛かるにつれ、すんすんとすすり泣きの音があちらこちらから聞こえてきた。私は特に悲しむことも悔しがることも無かった。当然「すんすん」なんて鼻をならすまでもない。私にとって町田玲は失われたのではない、単なるデリート。よってその気持ちも無かったことになる。とはいっても、そんなにすんなりといかないのが人の気持ちというもの、ダメージが無いとは言はない。それも踏まえて彼女に対する気持ちは私の中で結構わかりやすい部類であったはずなのだが。例えばこの沈鬱とした場でも笑みを絶やさない者が居たとして、皆それを不謹慎だと言うだろう。でも私は、それが見たかったのだ。何よりも。それが叶った今、対象すら失った私の初恋は急速に色あせ、やがて透明になる。

それでも、また同じクラスになれたのは嬉しかった。

 さようなら。


「なぁ、オレたちのやったことって意味あったのかな」

 太陽は丁度真上にあり白く光っています。本日はろくに授業は行われず、昼から自由下校となり外遊びも解禁になりました。私たちは遊具や体育倉庫に走らず、ランドセルを背負いグラウンド端の日陰に居ました。お互いもう帰るつもりでした。

「そうだね、無かったんじゃない」

「おいっ」次郎は子気味良く突っ込んでくれました。

「嘘さ、でもわからないよ。今日の全校集会だってあらかじめ予定されてたかもしれないじゃない」

「でも今日はパトカーが来てない、オレたちが昨日、」

「たぶん関係無いよ」

 次郎は食い下がりましたが私のそっけない返事に「ちぇっ」と舌打ちをして黙ってしまいました。少し気を悪くしたかもしれません。しかしこの場を去りませんでした。二人はさっきから、頬が緩んで仕方ないのです。自分たちは大人たちに何の影響も与えられなかった、それなのにこの達成感は何なのでしょう。全身がくすぐったくて本当は今にも大笑いしたいのです。

 どちらも何も言いませんでした。

相手の気持ちも尋ねてみたかった。

ただ、言葉にしてしまうにはあまりにももったいないと思うのです。

楽しかった、と。

「なぁ」

「なぁに」何も聞いてくれるな。

「これから、ユウちゃんち行っていいかなぁ」

「…そんなことか」

「なんだよ」次郎はむすっとして言います。

「いいや、なんでも」私はふふっと笑います。

 ほら、やっぱり尋ねるまでもなかった。

「もちろん」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] ここはこうだから、という論理はないけれど、この文章の情景がすごく浮かびやすかったです。1~3の部分を読ませてもらって、会社を辞めて地元に帰り、地元の様子を主人公が感じているところで、背中が…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ