僕と俺の二律背反ディリュージョン
他人の迷惑にならないのなら、赤信号だろうと渡りなさい。
それが生前、母から聞いた唯一の教えだった。
時には社会の教えに背くこと。常識を疑い、自分にとって必要なら破る。ただし周りには影響の無い範囲で。
父さんから話を聞く限り、母は変わり者だったという。どこか浮世離れしている割りに、真に近かった。たった一言が心に残り続ける、そんな人らしい。
だから、僕が鉄骨の下敷きになった時も……穏やかな父さんの言葉より、いなくなった母の何気ない教えを思い出したんだ。
真っ暗闇の無音。五感は全て失われ、ただ無為な思考が続いていく。もう何分、いや何十分、こうしているのか分からない。
生死をさまよった人の多くが、何かしらの幻覚を見たり、幻聴を聞くのだという。
この黒く塗り潰された景色が永遠に終わらないのだとしたら――正直、ぞっとする。どれだけ自分を保てるのか定かじゃない。
『音声だけでゴメンナサイ! ついでにハイテンションなのも許してね! こうでもしないと死んだ人の相手なんて出来ないの。キミも病んだ女神なんて願い下げでしょ?』
突如として脳内に割り込んできたのは、とても早口な女性の声だった。僕が呆気に取られている合間にも、彼女はマシンガントークを繰り広げていく。
『ということで、はい! あなたに一つだけ、望んだ能力を与えます。あ、願いが叶えられるかは私のジャッジによりますので、悪しからず。それで別の誰かに生まれ変わって、異世界を平和にしてください! ここまでテンプレ!』
……何がテンプレなのか。さっぱり状況が飲み込めない。
女神? 能力、異世界の平和?
まるでゲームやファンタジー小説じゃないか。
『それっ、その通りなのです! いやぁ、手間が省けて助かります。やっぱり若い方は物分りが良くて助かりますねぇ! お爺ちゃんや赤ちゃんなんかだと、あちらへ一方的に送り出すことしかできないので。生まれ変わっても、能力持ちだったのを忘れたりしてるんですよね。あー、もったいない。というのは置いといて。はい、残念ながらキミは死にました!』
知ってます。空から鉄骨が降ってきたところまでは見えたので。
『ヒエッヒエにクールな坊ちゃんですねー! 普通はショッキングに絶句するものですけど。まあいいです! ぶっちゃけ面倒臭いので、欲しい能力だけ教えてくださいな。悪いようにはしませんから! もちろん拒否しても構いませんが、それだと何の取り得もなく異世界に飛ばされるだけ損しますよ』
なんだか悪徳セールスみたいな誘い文句だ。
『その認識で合ってます。でも世界の定めですので諦めてくださいね! さあさあ、私これでも忙しい身なんです。時間の概念は無いのですけど。なにせ一日十六万人くらい相手にしなきゃいけないので。後が詰まってますよぉ、さあ選択です!』
わけが分からない。
色々と知りたいことがある。訊きたいことも。
けれど、それより気になったのは――僕が『どうして悲しくならないのか』ということだ。
残された人を想っているはずなのに、もう別世界のことを考え始めている。
涙が出ない所為だろうか。それとも、この底抜けに明るい自称女神が、感傷に浸らせてくれないからか。
死んだ人間は蘇らない。
そんな覆らない原理が、現世での未練を絶っているように思えた。
常識、世界の定め、覆らない原理――
他人の迷惑にならないのなら、赤信号だろうと渡りなさい。
『……あ、あれ? ちょっと待ってくださいね。これって、もしかして、ひょっとしたら!』
僕が求める能力。
もし、それが叶うのなら。
『ス、ストーップ! 止めっ、無しです、やっぱり異世界行きは無し! 願いは中断、閉店お開き! だってキミは――』
強く願った瞬間、僕の意識はプツリと途切れた。
□◇◎◆■
俺の名前が逸見正だということを知って、ちょうど二年が経つ。
日暮れの涼風が肌寒い、十一月の初旬。かつての俺が好きだった場所――道ヶ丘公園で、黄色く染まったイチョウの葉を眺めている。こんな時、昔の俺だったら何を考えていたんだろう。
一般常識は分かるのに、自分のことになると何一つ思い出せない。物の好き嫌いさえ。
逸見正という人物に関する記憶だけが、すっぽりと消え去ったかのように。追えど探せど、どこにも見つからない。
ふと、誰かの足音が聞こえた。
「兄さん、迎えに来たよ。電話してるんだから、ちゃんと取ってよ」
「悪いな、楓。気付かなかったんだ」
「どうせマナーモードにしてたんでしょ。着信音にしなきゃ」
「目立ちたくない」
「今更じゃないの」
そう小言を漏らしながら、楓は車椅子のグリップを優しく握った。
肩まで伸びた黒髪、母親似らしい整った顔立ち。俺とは三つ歳の離れた妹。かいがいしく世話を焼いてくれる、かけがえのない家族。
初めこそ『ちゃん付け』していたが、本人たっての希望で呼び捨てに変えたのも、もう懐かしい。
建築中のビルに起きた事故――それによって俺は自分の記憶を失い、下半身が動かなくなった。けれども医者に言わせれば、命が助かっただけ奇跡的らしい。
治療費、逸失利益、諸々の慰謝料。大企業にとってはスズメの涙ほどの損金かもしれないが、ともあれ俺の将来は足と引き換えに保証された。初めから過去が無い分、喪失感に苛まれなくて済むのが、せめてもの救いか。
そんな俺でも、楓の時間を奪っているという実感が、今は何よりも苦痛だった。大学受験だって控えているだろうに。
「わざわざ迎えに来なくても帰れるって。ほら見てみろよ、この頼り甲斐のある腕。そこいらの連中には負けないくらいムキムキになっただろ」
力こぶを作ってやると、楓はクスクスと笑った。
「……前の兄さんも優しかったけど、今の兄さんも優しいよね」
「別に、普通だよ。ただ自分本位なだけさ。楓や父さんに、なるべく迷惑をかけたくないってだけで」
「まだ、本物の家族だとは思えない?」
「いいや……本物以上の家族だと思ってるよ」
嘘偽りない台詞だ。赤の他人なんて、どうでもいいと思えるほどに。
ここに俺がいるべきなのか。本来の自分を思い出すべきなんじゃないのか。その時、俺という人格は、どうなってしまうのか――最近じゃ、そんなことを考える余裕もできた。
閑散としたイチョウ並木の途中で、楓は車椅子を止める。強い北風が、ふわりと落ち葉を浮き上がらせた。
「楓……?」
上半身を捻って、後ろを振り返ると――
立って目をつむったまま、楓が眠っていた。
「お、おい」
「逸見正、こっちだ」
ひどく冷めた子供の声がして、すぐさま正面に向き直る。
誰も、いない?
「隠密、解除」
あり得ないことが、立て続けに起こっている。
さながら極薄の膜が何枚も重なっていくかのように、一人の男が現れた。
中学生ほどの体躯。サラサラとした銀髪が眉上で切り揃えられている。柔らかくも鋭い狐目は碧眼。白を基調とした、どこか現実離れした服装。
ともすれば眠ってしまったのは、俺なんじゃないか?
そう思ってしまうほど、目の前の光景は常軌を逸していた。
「ここ二日、じっくり監視させてもらったよ。楓や父さん達と仲良くやってるじゃないか。まさか本当に生きてるなんてね。しかも車椅子で、記憶喪失ときた」
こいつの引きつった笑いは、一体どういう意味なんだろうか。なんだか分からないが、とにかく嫌な感じがする。せめて楓だけは守らないと。
俺は、拳を固く握りしめた。
「……お、お前は、誰だ? どうして俺のことを嗅ぎ回ってる」
「俺、ね」
おっとりした切れ長の目が、徐々に開いていく。
なるほど、はっきりした。
これは怒りだ。
「僕は剣と能力の世界から来た。ルーデフォン・カーレクト――こっちの世界では、逸見正だった者だ」
景色が歪む、視界が暗くなっていく。様々な人から教わった逸見正の話が、頭の中を駆け巡る。
なんだ、こいつは何を言っているんだ?
狂った不審者。障害者を狙った新手の詐欺師。
そう決めつけるには、あまりにも馬鹿げた身なりに言い回し。
「単刀直入に言うよ。お前がカーレクトになって、集めた能力でクソッタレな女神を倒せ。僕は元の体に戻り、異世界の知識を使って平和に暮らす」
「な――っ!?」
「それが『あるべき姿』なんだよ、空っぽの僕。お前と僕は、生まれる場所を間違えたんだ。チュートリアルに経験値稼ぎは済ませた。あとは思う存分、あっちで暮らしてくれ」
一回りも背丈が低い少年に見下される。
俺は地面に大きく息を吐いて――夕焼け空を仰ぎ見た。
いつか出すべき結論が、形作られていく。
この答えは矛盾している。単なる我がままかもしれない。
それでも俺は。
「ふざけるな」
「……なに?」
「俺が生きてきた二年間の何を知ってんだ、お前は。いきなり現れて、たった二日見てたくらいで、偉そうに語ってんじゃねぇ」
こいつが本物かなんて、知ったことじゃない。
集めた能力? 要らねぇよ、そんなもの。絶対に譲らせてたまるか。
こいつに逸見正は任せられない。
何故なら――
妹を巻き込む兄貴なんてのは、ろくなもんじゃないからだ!