嘘つきマイ・フェア・レディ
高木冴子(二十一歳)は地味である。
なんだか某文豪の作品冒頭のようであるが、まあいい。
私の友人知人から自分に対する印象を尋ねれば、皆口を揃えて言うだろう。
「性格は良い子なんだけど、印象が薄すぎて思い出を語れと言われても思い出せない」と。
そんな事は自身も痛感していた。だが、親からもらった顔を安易に整形する訳にもいかず、今日も今日とて地味である事は仕方ないと諦めの境地に入っていた。
とはいえ、地味なのが嫌という訳ではない。むしろ楽すぎて、気づけば普段の服装もオシャレから縁遠いものばかりで構成されていた。その点では、自ら進んで地味な雰囲気を作っているのかもしれない。
「うぅ、寒い」
私はパジャマ替わりのスウェット素材のワンピースの上にもこもこのパーカーを羽織ると、お布団リターン防止の為に、低めに設定したエアコンを入れて部屋を出る。
廊下に出ると、あたりはしん、と静まり返っている。昨日は両親も五つ上の姉も夜更けに帰宅したようで、みんなまだ熟睡しているのだろう。
なるべく起こさないように廊下を通り過ぎてから階段を降り、一階にあるキッチンへと慣れた足取りで向かう。
およそ一般家庭の数倍はあるだろうキッチンは人ひとりおらず、静寂だけが満ちている。微かに聞こえるのは冷蔵庫などの家電の稼動音くらい。
床もここだけは後から水で洗っても大丈夫なように、大理石状のつるつるしたもので、正直に言わせてもらうと冬は本気で寒い。いくら床暖房完備されていても冷えるものは冷える。
よくお母さんも「あそこに長時間いると冷え性になってしまう」って話してたし。
思わず急速に下がっていく体温を上げたくて、抱くように腕を擦りながら冷蔵庫の扉を開き中をあらためる。
実は大きめの冷蔵庫が二台あって、そのうち一台の一部分が私が自由に使える食材がある範囲となっている。補填は基本的に私自身が仕事の帰りやお休みの時、たまにお母さんにできるだけ安い物を買ってきてもらったりしているんだ。
だから隣にあるやけに高価な食材は恐れ多くて、自分用に使うなんてできないあたり、ちょっと貧乏性なのかなって。それに、お弁当に高級食材なんて入ってた日には、バイト先で色々探られそうで嫌だし。
どっちにしても、冷え切った高級牛肉やフォアグラなんて食べたくないから問題ないけどね。
私は自分スペースから作り置きしておいた惣菜が入ったタッパーと、昨日寝る前に下味をつけて置いた鶏肉と卵を出して、調理台の上に並べる。
惣菜は旬の小松菜と油揚げと細く切った人参とを白だしで軽く煮浸しにしてゴマと和えたものと、人参を鮪の油漬けと一緒に和えたのをレンチンたもの。
それをシリコンカップにちょっとずつ入れて、小さなフライパンで軽く下味の水分を取った鶏肉を軽く小麦粉をはたいたのを焼きつつ、スライサーで千切りにしたキャベツをこれまたレンチンしたのを、合わせて置いたハニーマスタードソースで和える。あとは定番の卵焼きとご飯を入れれば、お昼のお弁当の完成だ。
食べる時にバイト先にあるレンジで温めれば、鶏肉の下に敷いたキャベツがいい感じに鶏肉の脂と混じって、食も進むだろうと思う。
「うん、今日も美味しそう」
「冴子、もう起きてたの?」
「玲ちゃん」
思わず自画自賛してると、戸口から姉の玲子がひょっこりと顔を覗かせているのに気づいた。まだ寝衣姿かと思っていたら、姉はナチュラルに見せながらも一部の隙もない完璧なメイクと、白のニットと淡いグレーにピンクの小花が散ったプリーツスカートを着ていた。
少なくとも一時間以上前には起きて準備していたに違いない。
「今日バイトだもん。玲ちゃんも起きるの早いよね。昨日帰ってきたの深夜なんでしょ?」
昨日バイトから帰ってきた時に顔を合わせなかったから、そうじゃないかって思った質問をすると、玲ちゃんは「これから仕事があるの」と少し不機嫌そうに唇を尖らせていた。拗ねてる姿ですら麗しいとか羨ましいを通り越して神々しささえ感じる。
「大変だね。女優のお仕事も」
お弁当を包んで、次に紅茶でも淹れようとケトルに水を勢いよく入れて沸かす。
「まあ、大変といえば大変だけど、この仕事好きだから」
姉はフルメイクの綺麗な顔を笑みに変え、傍にあったスツールに座ると鞄から台本を取り出し、目を落としていた。
玲ちゃん――姉の玲子は現在売れっ子の若手女優だ。
ちなみに、お父さんは実力派の俳優さんで、お母さんはかつて容姿、実力共に秀でていた歌手で、お父さんと出会って、人気絶頂のまま引退してしまったそうだ。
で、玲ちゃんはお父さん譲りの演技力と、お母さん譲りの美貌を持つ、実力もあって、清楚な雰囲気を持つ女優さんとして、巷では老若男女に人気を博している。
それも彼女がそう世間に対して演じている部分も多いのだけど。
私は姉お気に入りの白磁のカップに蒸らした紅茶を注ぐ。カップの中でルビー色の紅茶が立ち上る白い湯気の向こうに満ちていく様は、淹れる人間の特権だ。芳しい香りが鼻先に届く。
「でも、あんまり無理しないでね」
「冴子も、私たちに遠慮しなくてもいいんだからね」
遠慮、とは。
姉が唐突に発した言葉に、私は首を傾げる。
「やだな。遠慮なんて全然してないよ」
「ホントに?」
私は内心を見透かされたようで一瞬ギクリと身をこわばらせたけど、急いで振り払うように否定を紡ぐ。玲ちゃんはじっと何か言いたげに見つめていたけど、何を言っても無駄と悟ったのか、形の良い薔薇色の唇から小さくため息を零した。
「まあ、いいわ。でも、冴子。相談があったらいつでも言ってね」
紅茶の最後の一口を喉に流し終えた姉は、静かに立ち上がる。そろそろマネージャーさんがお迎えに来るのだろう。
私は出来上がったお弁当と、あったかい紅茶が入ったボトルを抱え、玲ちゃんをお見送りする為に彼女の後をついていく。
玲ちゃんの緩やかにカールされた髪が背中に揺れるのを眺めながら、心の中で「ごめん」と呟いていた。
高木冴子は地味である。
姉の玲ちゃんが親の良い部分を受け継いだのに比べ、私はその逆を受け継いでしまったようだ。
親に擦り寄る大人たちは、よく影で私の事を揶揄していた。玲子ちゃんに比べて冴子ちゃんは存在感がなく、本当にあの夫婦の子供なのか甚だ疑問だ、と。
確かに幼少期から艶やかな両親と姉を見るたびに、自分は彼らと血が繋がってないのでは、と不思議に思った事がある。だけど、それを口にするたびに両親は罪悪感を滲ませ、玲ちゃんは「他人は冴子の可愛さに気付かないふしあななのよ!」と抱き締めてくれた。
流石に大きくなってからも否定をするつもりはないけど、コンプレックスとして引きずってるのは否めない。
でも、地味なら地味でもいいじゃない、って最近では開き直って、地味なメイクに服装を徹底させたら、ちょっとどころか、かなり楽になってしまった。
その様子が女を捨ててると思われてるのか、最近では両親や玲ちゃんの過保護ぶりが過熱してるような気がする。そんなに心配しなくてもいいのになぁ。
まあ、家族が心配性なのは、それだけが原因じゃないんだけど。
「まあ、おかげで恋愛から遠ざかってるのは否定できないんだけどね」
ドレッサーの鏡の中、薄付きメイクをした二十一の地味女が苦笑に顔を歪めているのを、ぼんやりと眺め、私は台に置いてあった黒縁眼鏡を掛ける。これで更に地味さ加減が加味され、存在が希薄になった。うなじで一つにまとめた一度も加工したことない黒髪も、地味さアップに繋がってるはず。
服装も白シャツに黒いパンツに着替える。
現在バイトしている書店では、他店との差別化を図っているため、店員全員が上は白シャツ、下は黒のパンツが徹底されている。そこにロングタブリエという胸当てのないエプロンを装着するんだけど、傍から見たらカフェの店員にしか見えない。一応、店内に買った本を読めるように小さなカフェスペースがあって、ローテーションで担当することもあるから、変ではないんだけど。
「地味女にコスプレって……色々残念すぎる……」
ぶつぶつぼやきつつ、去年のクリスマスに玲ちゃんがくれたカシミアのコートを羽織り、共布のベルトでリボンを作る。軽くて暖かいので最近のお気に入りだ。ベージュというのも地味な自分でも抵抗なく着れるのがいい。
玲ちゃんは時々というか頻繁に、私に似合うからと言って洋服やアクセサリー、メイク道具をプレゼントしてくれる。
好意だから固辞するのもあれだから、ありがたく頂戴してるけど、その大半はクローゼットの中で眠ったままだ。
でも、玲ちゃんが選ぶ服は丁寧な作りが多く、時々クローゼットから出しては眺めて楽しんでます。素敵な物には罪はないもんね。
「あっと、もうこんな時間!」
時計を見ると出勤時間が迫って慌てる。
私は急いで鞄を掴むと、転ぶようにして部屋をあとにしたのだった。
「おはようございます!」
ロッカーで荷物を置いた私は、素早く販売フロアへと出て行く。周囲から「おはよう」と同僚の温かい返事を受けながら、店長と主任が難しい顔をして並んでいるそこへ、ハキハキと挨拶をしたんだけど。
「ああ、良かった高木さん。これどう思う?」
主任が困った顔をしてペラリと渡してきた紙片に目を落とす。
そこには、現在姉の玲子とドラマ共演している、人気俳優のサイン会についての企画書だった──




