恋
白い煙が舞い上がり、澄んだ秋空に溶けていく。
それを、真緒は思い詰めた顔で眺めていた。
亡き母が残した秘密に触れたあの日から、彼女はずっと悩み続けている。
このまま何もなかったかのように、やり過ごしていいのだろうか。
とはいっても、全ては過去の出来事だ。今更ほじくり返すことではない。
そう頭では分かっていても、どうしても受け入れ難かった。
燃えさかる炎へ目を向けると、並べられた二つの文箱が、ぱちぱちと音を立てながら燃えている。
その炎の前では、住職が朗々とした声で経を読み上げていた。
二つの文箱は、一年前に亡くなった母がかつて愛した男の想いがこめられたものだった。そしてそのなかには、恋心がつづられた手紙と日記がしまい込まれている。真緒は思った。二人の思いをしまい込んだまま、この世から消えていくさまはまるで心中みたいだと。
隣にいる父親を見ると、同じように空を見上げていた。
その姿は一見すれば普段となんら変わらない。でも、空の向こうを眺めているような瞳や、硬く引き結ばれた唇を見ていると、深い悲しみに耐えているような気がした。そう見えてしまうのは、さきほどの出来事のせいだろう。真緒は、二つ目の文箱をここへ持ってきたことを悔いた。
父親は、今何を思っているのだろう。
どんな思いを抱いて、空を見上げているのだろう。
そのようなことを考えているうちに、なぜだか急に気がせいて、真緒は声を掛けていた。
「お父さん」
父親は、ゆっくりと娘へ視線を向ける。
見慣れた穏やかな笑みを向けられて、真緒は声を潜めながら問いかけた。
「これで、いいの?」
「え?」
「ねえ、お父さん、これは本当にお母さんが望んだことなの?」
真緒が思い詰めた表情を向けると、父親は目線を下げてため息を漏らした。
「……これでいいんだよ、真緒。董子が死んだあと、こうするべきだったんだ。それに、私もこうしてやりたいと思っていたから」
思いがけない言葉を耳にして、真緒は驚いてしまう。
父親は目線を下げて、立ち上がる炎を見つめだした。
話は一週間前に遡る。
その日、亡き母の一周忌を迎えるにあたり、真緒は遺品整理を行っていた。本来ならば母親が亡くなったあとすぐにやるべきことなのだが、父親がどうしてもいやだと言ってきかなかったのだ。
娘の目から見てもとても仲のいい夫婦だった。最愛の伴侶に先立たれた現実を父親は受け入れられずにいたから、遺品を片付けたくなかったのだろう。そう思った真緒は、以降亡き母の部屋に立ち入ることをしなかった。それから一年が過ぎた。亡き母の一周忌が近くなり、そろそろ遺品を整理しようと真緒が切り出すと、父親は承諾してくれた。それを見て、ようやく母の死を受け入れてくれたのだと真緒は安堵した。
父の承諾を得たあと、早速遺品整理を始めたのだが、そのとき真緒はあるものを見つけてしまう。
それがあの文箱だったが、そのとき見つけたものは一つだけだった。文箱は風呂敷に包まれて、クロゼットの奥深くにしまい込まれていた。中身を確かめるために風呂敷をとり外してみると、美しい装飾が施されていた。黒い漆塗りの蓋に、ヒナギクと二匹の蝶が螺鈿で描かれている。その蓋を恐る恐る開いてみると、中には色あせたノートとともに、蓋と同じ装飾が施された栞が入っていた。何も考えず、ノートを取り出し読んで見ると、そのなかには終わった恋が書かれていた。
供養をおえたあと、真緒は控え室でこの一週間の出来事を思い返していた。
母の日記を見つけたあと、偶然通りがかった先で母の遺品と装丁が同じ文箱を見つけたときや、そのなかにしまわれていた手紙を読んだときのことを。そして、密かに供養してもらおうと密かに持ち込んだもう一つの文箱を父親に見つかってしまったときや、供養してもらっているときに父親から掛けられた言葉も。
もう一つの文箱は、母の恋人だった男の遺品だった。その男は十六年前に他界している。
以降その文箱は彼の息子が保管していたが、このたび真緒が見つけてしまったあと、押しつけられたものだった。その中に、母親が恋人だった生島にあてた手紙が入っていたからという理由で。
彼・生島が亡くなった事実と時期を聞かされたとき、真緒の頭に浮かんだものがある。
それは、庭の隅でうずくまりながら泣きじゃくる母の姿だった。その足元にはヒナギクが植えられていて、文箱に描かれたヒナギクとが繋がり、しかもそれが生島が死んだ時期と重なるものだから、真緒は母が泣いていた理由を思いがけず知ることになった。
真緒は、部屋の窓の外へと目を向けた。
視線の先では住職が供養の後片付けをしているようで、燃やしたあとに残った灰を白い陶器に移している。もしも、もう一つの文箱がなかったならば、ただの供養で済んだだろう。しかし、その文箱があるせいで、ただの供養ではなくなった。
生島の息子から文箱を押しつけられてしまったあと、真緒は悩んだ。密かに持ち出した日記と文箱に収められていた手紙を読んだあと、更に思い悩んだものだった。そして考えた末に、母の遺品を供養してもらったあと、押しつけられた文箱を父親に内緒で供養してもらおうとしたのだ。
しかし、それを父親に見つかってしまった。
生島の遺品である文箱を見たとき、父親は驚いていた。だが、すぐに安堵したかのような表情を浮かべて、二つの文箱を一緒に供養してもらおうと言い出した。
なぜ、父親がそのようなことをしたのか娘は分からない。ただ、これだけは言える。父親は、母の恋を知っている。そう思うと、ますますやり切れなくなった。窓の外を眺めている真緒の表情が、みるみるうちに沈んでいく。するとそのとき、からりと引き戸が開く音がした。真緒は顔をはっとさせ、部屋の入り口に目を向けた。
「真緒、帰ろうか」
部屋に入ってきたのは父親だった。
「一周忌の法要の話になってしまって、遅くなった」
「そう……」
「あと、遺品を焼いた灰だが、当初の予定通り寺へ預けるつもりだ」
その言葉を聞いた瞬間、真緒は目を見開いた。
それまで押さえ付けていた感情が、勢いよく口から飛び出していく。
「いやよ! 絶対にいや! お父さんはそれでいいの?」
真緒は思い詰めた表情で、父親に勢いよく言い放った。冗談じゃない。誰が好き好んで、母親と過去の恋人を一緒にしたままいられようか。今の真緒は、まるで子供だ。母親を奪われそうになっている、幼い子供。燃えさかる炎のなかにあった二つの文箱を見ていたとき、彼女が心中のようだと感じたのは、現世で叶わなかった恋が、常世で成就しようとしている気がしたからだ。それを父親とともに、現世に取り残されたまま見ていることしかできなくて辛かったのだ。
激しい怒りを隠そうともしない娘に対し、父親は冷静だった。涙ぐみながら睨んでいる娘を、じっと見つめている。しばらく言葉もないままそうしていると、父親がため息をはく。
「真緒。落ち着きなさい。ここは声を荒げて良い場所ではない。亡くなった方々を静かに供養する場だ」
険しい声で諭されて、真緒は怯んだ。ふだんの父親は、とても物静かで穏やかな人だ。険しい声を出すような人ではない。それだけに、父の怒りの度合いがいかほどか分かってしまい、真緒は怯んでしまったのだ。
真緒は所在なさげにしながら、顔を俯かせる。父親に訴えたいことも聞きたいことも山ほどある。だが、それを口にしてしまえば、感情を抑えられなくなってしまうだろう。だから真緒は耐えた。膝の上に置いた小さな手がぎゅっと結ばれている。
「まずは家に帰ろうか。家に戻ってから、ゆっくり話そう」
聞こえてきた声に険は感じられなかった。真緒は気まずそうに父親へと目を向ける。目に映る父親の姿は、いつもと変わらぬ姿だった。優しい笑みを向けられて、こわばった体から力が抜けていく。娘の体から緊張が解けたのを気づいたのか、父親はほっとした顔をした。
それまで、二人のあいだにあった張り詰めた空気が緩む。父親は、立ったままだった娘に近づき、背中に手を添える。大きな手の感触と、温かい体温が喪服越しに伝ってきた。
「さあ、帰ろう。董子が待ってるから」
部屋から出るよう、背中に添えられた手が遠慮がちに促した。
真緒は父親の言葉に頷いて、ともに部屋から立ち去ったのだった。




