運命のフライト
二〇〇一年九月十一日、アメリカで同時多発テロが発生した。午前八時四十六分、ニューヨーク、ワールド・トレード・センタービル北タワーへ、十七分後南タワーへ旅客機が突入した。それから三十五分後、ワシントンDC外郭部にある国防総省へ旅客機が突入。さらに二十五分後の午前十時三分には、国会議事堂を標的にしたとされる旅客機が乗客の抵抗に遭いペンシルバニア州へ墜落した。
犯行は国際テロ組織アルカイダと断定された。テロリストは総員十九人。主犯格はモハメド・アタ。エジプト人である。
この自爆テロをきっかけに米国は西側諸国を巻き込んだ対テロ戦争へと突入して行った。
ここにはもう一つのドラマがある。ハイジャックされホワイトハウスを標的とした旅客機があったのだ。主人公の敏郎はサンフランシスコに行くため、前日妻のナンシーとニューヨークのホテルに泊まっていた。二人は自爆テロに巻き込まれて行く。早朝、ホテルのロビーから物語は始まる。
目次
プロローグ ・・・・・・・・・1
目次 ・・・・・・・・・2
ハイジャック自爆テロ ・・・・3
敏郎エリコに飛ぶ ・・・・・・16
知覧特攻平和会館 ・・・・・・30
アルカイダとの戦闘 ・・・・・45
エピローグ ・・・・・ 68
ハイジャック自爆テロ
二〇〇一年九月十一日早朝、ニューヨークのホテルのロビーで
「敏郎、フライト気をつけてね」
「君も気をつけて。サンフランシスコには夕方には着く予定だ。着いたら電話するよ。今日は君の誕生日だから一緒に食事をしよう」
「楽しみね。明日は学会の会議に出席だけど今夜は予定が無いのでゆっくり出来るわ」ナンシーは笑みを浮かべて言った。
二人とも早朝からサンフランシスコに向かうためホテルに宿泊していた。
二人はロビーで別れた。夫の敏郎(五十五歳)はニューヨークを拠点に航空貨物の運送会社を経営している。ジェット機、プロペラ機全十五機を所有し全米を飛び回る。自分でも操縦する。妻のナンシー(五十歳)は大学で政治学を教えている。
敏郎はデターボロー空港からシカゴ経由で、ナンシーはニューアーク国際空港からサンフランシスコに向かう。両空港ともホテルからタクシーで十数分だ。
敏郎は空港で荷物を積み終えると操縦席に座った。自社空港事務所の数人の女性達が外に出て笑顔で「行ってらっしゃい。お楽しみに!」と言って手を振ってくれた。今夜は妻のナンシーと二人で食事をすることを知っており、弾んだ敏郎の気持ちが彼女たちにも伝わったようだ。良い従業員に恵まれた幸せを感じながら敏郎も手を振って応え滑走路へ向かった。
ナンシーは大学で政治学という硬い職業に付いているが、気さくな性格からか彼女達とはウマが合うようだ。飛行機で出張の時は早めに自宅を出て、休み時間にナンシーの持参した手作りのケーキを一緒に食べ、はしゃぎながら雑談している。時々、敏郎も仲間に入る。ナンシーにとっても気持ちが安らぐ大切な時間だ。今日は早朝の出発なので直接ニューアーク国際空港に向かった。
ナンシーの飛行機は九時〇〇分発のボーイング767、アメリカン航空AA55便である。
〈出発は同じ時刻なのでしばらくは並行して飛行することになるだろう〉敏郎はそう思いながら離陸した。五分後、上空を西へ飛行するアメリカン航空AA55便が見えた。透き通った青い空で朝日を浴び銀色に輝いている。〈あれにナンシーが乗っているのか〉敏郎は夜のサンフランシスコに思いを馳せた。
〈レストラン「アクア」でシーフードもいいなあ。魚は何が旬だろうか。あそこのワインは最高だ。シェフの勧めてくれた白ワインはさっぱりしていて、淡白でシンプルな味付けの魚料理にぴったりだった。イタリア産で名称はなんといっただろうか〉自然と顔がほころんで来る。
〈花をたくさん飾ってあり雰囲気も最高だ。ナンシーも喜んでくれた。昔と変わっていないだろうか。場所はカルフォルニア・ストリートでチャイナ・タウンの東だった。すぐ近くのオークランド・ベイ・ブリッジから海の眺めも良かった〉十年ほど前に二人で行ったことを思い出しながら操縦桿を握っていた。
ふと上空を見上げるとAA55便の高度が少しずつ下がってきている。コースも外れてきた。
〈どうしたんだろう、何かトラブルか?〉そう思っている間にどんどん降下し自分の機よりも下がって行った。
そのとき無線が入った。
「ボス、聞こえますか」本社のスコットからだ。
「何だ、スコット。よく聞こえる」
「大変です。旅客機がワールド・トレード・センタービルへ突っ込みました。炎上中です。北タワー、南タワー両方に突っ込みました」
スコットは興奮し声が上ずっている。
「何? 何を言っているんだ」
「旅客機が突っ込んだんです。テロです。今、テレビに映っています」
「なに、テロだと?」敏郎は我が耳を疑った。
「旅客機がハイジャックされたんです」
「馬鹿な! ハイジャックだと?」敏郎の顔が見る見る険しくなって行く。ハイジャックされた旅客機が高層ビルに突っ込んで行ったなど聞いたことがない。
「そうです。間違いありません。ニューアーク国際空港の管制塔から連絡がありました。空港は閉鎖されました。我社の飛行機は管制官の指示に従います」
「分かった。有難う。宜しくたのむ。何か問題があれば知らせてくれ」
「了解しました。ボスもお気をつけて」
〈まさか?〉敏郎の前方下を飛行するナンシーの乗ったAA55便はハイジャックされたのか? 直ぐにナンシーの携帯電話を呼び出した。
「ナンシー旅客機の様子がおかしいようだが何かあったのか? 僕は君のすぐ後ろ上空を飛行している」
「大変! ハイジャックよ。三人いる。一人は体に爆弾を巻きつけているわ。大人しくしていれば何もしないと言っている」ナンシーは動揺した声で言った。犯人達に気付かれないようにしゃべっているのだろう声を押し殺している。
「ニューヨークで何かあったの? 乗客が騒いでいるわ」
「旅客機がワールド・トレード・センタービルへ突っ込んだんだ。今炎上しているらしい。本社のスコットから連絡があった」
「まさか? 冗談でしょう。信じられないわ」
「僕も信じられないが、本当のようだ」
「この飛行機も様子がおかしいわ。ずいぶん低空を飛んでいる。それに外の風景がいつもと違う。この飛行機は何処へ向かっているの?」
「飛行コースがサンフランシスコから外れている。ワシントンDCへ向かっているようだ」低空を飛んでいるのはレーダーに探知されないためだと敏郎は思った。
「なぜ、ワシントンDCへ向かっているの?」
「分からない」
「ワールド・トレード・センタービルへ突っ込んだというのはハイジャックされた旅客機なの?」
「わからない」敏郎は本当のことを言えなかった。
「ちょっと待って。犯人が近付いてくるわ。このまま電話をつないだままにしておく」
「分かった」
受話器から犯人の声が聞こえる。興奮しているようだ。ピリピリした空気が伝わってくる。
すぐにナンシーが話しかけてきた。
「犯人は通り過ぎた。話しても大丈夫よ。機内は騒然としているわ。ワールド・トレード・センタービルにテロリストが突っ込んだとみんな言っている」
乗客はワールド・トレード・センタービルの火災のことは知っているようだ。携帯電話で家族や友人と連絡をとっている人がいるのだろう。
「本当のようだね」敏郎はナンシーに不安を与えないように落ち着いて言った。
「じゃあ、この飛行機はどこかに突っ込むつもり?」
「わからない。でもそんなことはさせない」
「犯人達が乗客を分けているわ」
「逆らわずに大人しくしていたほうが良い。刺激するな」
「そうね。男性同士は離されている。抵抗されないためだと思う」
「分かった。一度電話を切る。犯人と話してみる」
よく訓練されているグループのようだ。隙のない行動だ。
このまま進めばワシントンDCまで二十分だ。時間が無い。敏郎は決意した。高度をさげ危険を覚悟でAA55便の左横にぴったりつけた。お互いの距離は四〇メートル弱。幸い気流も穏やかで揺れも少ない。操縦しているテロリストの顔が見える。風貌から中東の人間のようだ。
敏郎は無線機のスイッチを入れた。
「聞こえるか。君の左にいるビーチクラフト・スターシップからだ」
ビーチクラフト・スターシップとはビーチ・エアクラフト社製、双発ターボ・プロップエンジンでアメリカの先進ビジネスジェットである。
テロリストは驚いて敏郎を見た。何も答えない。
「君達はどこに向かっている。何をしようとしている」
「……」
テロリストは黙ったまま敏郎をじっと見ている。
「あなたはアジア人のようだな」やっと口を開くと落ち着いた口調で言った。
「日本人だ」
一瞬テロリストは驚いて敏郎を見つめた。
「日本人! 何をしにきた」
「君たちは何をしようとしていると聞いている」
「答える必要はない」
「旅客機がワールド・トレード・センタービルへ突っ込んだ。君たちの仲間か?」
「……」
「答えないところを見るとそのようだな」
テロリストは敏郎を見つめて言った。
「あなたは日本人と言ったな。『カミカゼ』なら良く知っている。我々は尊敬している」
「俺の父はカミカゼだったが、君達テロリストに尊敬される筋合いは無い」
「カミカゼは、祖国のために散ったのではないのか」
「そうだ。家族や祖国のためだ」
「我々も同じだ」
「カミカゼは一般市民を巻き添えにはしない。君達は何の罪も無い乗員乗客を巻き添えにしようとしている。ワールド・トレード・センタービルに突っ込み乗員乗客とビルにいる一般市民を標的にした。君達は卑怯ものだ」
「しかたがない。これは正義だ。聖戦だ」
「一般市民を標的にして何が正義だ。ふざけるな」敏郎はカミカゼとテロを同一視しているテロリストに怒りを覚えた。特に自分の父をテロリスト扱いされていることに我慢が出来なかった。
「アメリカも同じだ。イスラムの国へ来て一般市民を大勢殺した」
テロリストは敏郎を睨み付けた。口調からも怒りが伝わってくる。
「殺したくて殺したのではない。君たちとは全く違う。市街戦では敵と一般市民の判断が難しい。兵士にすれば自己防衛を優先せざるを得ない。厳しい交戦規定を順守すれば自分がやられる。最前線は甘くない。黙って殺されるわけには行かないのだ。空爆も限定し、最先端技術でピンポイントに攻撃しているが、巻き添えになる一般市民も出る」
「それは強者の論理だ。我々には我々のやり方がある」
「議論している時間はない。君達の標的は何だ」
「……」
「君はホワイトハウスに突入するつもりか?」
一瞬テロリストの顔に緊張が走った後、敏郎を見つめて言った。
「それならどうした」
「ホワイトハウスを攻撃すればどうなるか分かっているか。アメリカを本気で怒らせることになる。アメリカ国民を全員敵に回すことになる。報復によりもっと多くの犠牲者がでる」
「元はといえばアメリカに原因がある。それに私のねらいは他にある」
「ねらいとは何だ」
「いずれ分かるときが来る。すでに仲間はワールド・トレード・センタービルを攻撃した。もう遅い」
「だがホワイトハウスだけはだめだ。国民の誇りと心の支えであるホワイトハウスを攻撃され、国家元首を殺された国民の怒りや悲しみは計り知れない。それに大統領はもうホワイトハウスにはいない。すでに脱出している。ワールド・トレード・センタービルの突入がテロと分かった時点で全員避難している。誰もいないところを攻撃しても意味が無いだろう」
「それでもいい」
「それでは犬死だ」
「アメリカに我々の苦しみを分からせればそれでいい。アメリカに勝利しようとは思っていない」
「やり方が間違っている。他に方法があるだろう」
「あなたにはパレスチナ人の絶望感は理解できない。アメリカがイスラエルを支持しているかぎり我々に明日は無いんだ」
「アメリカをテロ攻撃しても事態は好転しない。悪化させるだけだ」
「やむを得ない。これまで世界の列強に翻弄され続けた我々の存在を世界中に知らしめればそれでいい。それが私の使命だ。もう我慢できない。これしか道はないんだ」
「君達をこのまま突入させるわけには行かない。俺は決断しなければならない。どんなことがあっても阻止する」
「どうするつもりだ」
「その飛行機に体当たりする」
「……」
「俺の妻がその飛行機に乗っている。自分の手で妻を殺すことになる。それでも君達の犠牲になるよりはましだ。妻もそのほうが幸せだ」
テロリストは少し考えた後
「あなたの妻がこの飛行機に乗っているのか。申し訳ないが救うことはできない」
「もう時間がない。体当たりすれば我々は墜落する。市街地に落ちれば犠牲者が大勢でる。これ以上何の罪も無い人々を巻き添えにはできない」
「本気か?」
「もちろん本気だ」
「怖くないのか」
「もちろん怖い。死ぬのが怖くない人間はいない。どうしても君達を阻止しなければならない。他に選択肢はないのだ。もし君達が思いとどまるようならアメリカ政府と交渉する。君達の安全は保障する」
「それは出来ない」
「これ以上話す余地はないようだ」
「……」
「おまえに俺の気持ちが分かるか。十分前まで妻と今晩のディナーを楽しみにしていた。それが自らの手で妻を殺し自分も死のうとしている。他の乗客も同じだ。お前達のために命を落とさなければならない。この無念さがわかるか」
「……」
テロリストに一瞬沈黙が流れたが再び口を開いた。
「一般市民であった私の父はイスラエルのミサイル攻撃の犠牲になった。父の無念さを思うと、あなたや乗客の無念さは分からなくはない。しかし大義の前では仕方がない。個人的な感情の入り込む余地はない」
「他の家族はどうなんだ。母親はどうなんだ」
その言葉を聞いてテロリストの顔が曇った。
「母が残っている。一人残していくのは耐えられないが、日本の特攻隊員の中にも身重の妻を残して散った人もいる」
「どうしても止めないのか」
「・・・」
敏郎は無線を切った。
携帯電話で妻のナンシーを呼び出した。
「犯人と話したが交渉は決裂した。残念だが終わりだ。彼らはホワイトハウスに突っ込むつもりだ。僕はその旅客機に体当たりしてテロを阻止しなければならない」
「何を言っているの? 体当たりすればあなたも死ぬ。馬鹿なことは止めて!」
「これしか方法はないんだ。もう時間がないんだ」
「私は覚悟は出来ているけど、あなたは死んではだめ! 子供はどうなるの。両親を一度に亡くした敏和はどうなるの」
「敏和は大学生だ。心配ない。ナンシー分かってくれ。僕のとる道はこれしかないんだ。これで大勢の人が助かる。テロを許しては駄目なんだ」
「いやよ! あなたは生きて!」
「ナンシー、許してくれ。僕は逃げることは出来ない」悲痛な叫びが二人を包む。
「ナンシー、愛してる。あの世ですぐに会える」
敏郎はスロットルを最大にした。ぐんぐん前に出る。マキシマムを超えている。そのまま上昇、宙返りし反転すると真正面から突っ込んで行った。
突然の行動にテロリストは動揺した。
「正気か?」真っ向から突入してくる。テロリストの顔が引きつった。
敏郎の脳裏に過去のことが走馬灯のように流れる。
皆が叫ぶ
〈敏郎止めろ。母さんが悲しむ〉亡くなった父の祈るような声。
〈敏郎!止めて!〉悲痛な母の叫び声
〈父さん!だめだ〉敏和が大声で叫ぶ
〈あなた!〉妻のナンシーが目を閉じ胸で手を組み神に祈る。
スピードは両機合わせて時速約千キロメートル。AA55便の操縦席がグングン迫ってくる。極度な恐怖心が敏郎を襲う。全身の毛が逆立ち、背筋が凍る。テロリストの必死の形相が飛び込んで来た。
「ナンシー!」妻の名を叫んだ。思わず目を閉じた。
「………」
「??」
数秒後目を開ける。AA55便が視界から消えている。
〈どうしたんだ?何が起きた?〉目の前には何も見えない。
間一髪で避けられたのだ。
「しまった!」
慌てて反転すると全速力で後を追った。AA55便は同じスピードで飛行している。
〈なぜ速度を上げて逃げない?〉敏郎は思った。
無線機から必死のテロリストの声が聞こえた。
「あなたはなぜ自分の命を捨てる」
「これが俺の使命だ。運命だ」
「良くわかった。あなたは本気だ。少し時間がほしい」
「いまさら何だ。ワシントンDCの市街地上空は直ぐだ」
「分かっている。これ以上近付くつもりはない」
AA55便は反転した。
テロリストのリーダーは他の三人を呼んだ。
「このまま続行すればあの日本人は我々の行動を阻止するだろう。次は避けることが出来ない。この大きな旅客機ではかわすことが出来ない。もう突入は不可能だ。彼に体当たりされれば目的は達成できない。そうすれば彼は世界中のヒーローになる。彼にはそれだけの価値はあるが、我々は彼の引き立て役だ。そうなれば我々の仲間もピエロにしかならない。私は着陸する。君達の安全は保障する。反対の者は私を殺しても良い」
他のテロリストは驚いて顔を見合わせた。動揺の色は隠せない。サブ・リーダーは顔を曇らせじっと考え込んでいたが、仲間の二人に向かって言った。
「リーダーを殺しても意味が無い。他に操縦できる者もいない。私は従う」
「我々は一蓮托生だ。私もリーダーに従う」若いテロリストも同調した。
「聖戦はどうなる!」
爆弾を腹に巻いた一人がリーダーにかみついた。
「次の機会を待つんだ。罪の無い一般乗客を巻き添えにするのはアッラー(神)の教えに反する。我々は人殺しではない」リーダーは声を荒げて言った。
「何のためにこれまで訓練してきたんだ!」
「今突入すれば取り返しのつかないことになる。一般乗客を犠牲には出来ない。私は間違っていた」
爆弾を腹に巻いたテロリストはしばらく考えていたが
「分かった。このまま続行しても失敗するだろう。我々はピエロにはなりたくない」爆弾を床に下ろした。
再びマイクを手に取り
「あなたの名前を教えてほしい。私はサミーフ・ビシャーラだ」
「俺の名前は結城敏郎だ」
「敏郎、着陸すれば我々の身の安全を保障してほしい。一部の過激なアメリカ国民だけでなく、裏切り者として仲間からも命を狙われる可能性がある」
「もちろんだ。俺がアメリカ大統領に交渉する。君達の安全は保障する」
直ぐに、近くのオーティス空軍基地から緊急発進した二機のF-15戦闘機が迫ってきた。AA55便を撃墜するためだ。空港のレーダーがAA55便の異常な動きをキャッチしテロと断定したからだ。F-15戦闘機の指示に従わない場合は、即撃墜の命令が下っていた。
敏郎はアメリカ政府に無線をつないだ。実はこのころブッシュ大統領は多くのマスコミを引き連れ、ワシントンDCから千キロメートル以上離れたフロリダ州サラソタにある小学校で授業の参観をしていた。学校教育に熱心であることを国民にアピールするためだ。前日から近くのホテルに宿泊していた。世界の運命を握るアメリカ大統領といえども所詮人気商売なのだ。朗読が終わった児童に「上手だ」と褒めて見せた。だがその顔は穏やかではなかった。
ワールド・トレード・センタービルへ旅客機突入の情報はすでに大統領に伝わっていたが、テロと断定され正確に伝えられたのは小学校の授業参観中だった。そこへAA55便の異常行動の情報が飛び込みホワイトハウス突入の可能性が報告された。ホワイトハウスにはまだ多くの職員が残っている。大統領はAA55便撃墜の重大な決断をした。座席数二百三十席の満席に近い二百人以上の乗員乗客を乗せた民間機撃墜は苦渋に満ちた辛い決断だった。
敏郎は始終を簡潔に説明した。政府高官は驚きすぐにブッシュ大統領に確認した。ブッシュ大統領は狂喜した。AA55便撃墜は回避されたのだ。撃墜すれば自分の政治生命も終わると覚悟をしていた。
「それが事実ならAA55便の乗員乗客の安全が第一で何物にも代えられない」と大統領の伝言を興奮した口調で敏郎に伝えた。高官はまだ信じられないといった様子であり、官邸内の大歓声が無線を通じて伝わってくる。当然、その後の動きは大統領に逐一報告された。
旅客機突入後、政府内では既に緊急体制に入っており、ブッシュ大統領初めホワイトハウス、エアフォース・ワンそれに国防総省他の政府機関の主要幹部の間は瞬時に情報が伝わるようになっていた。電話回線は諜報部へつないだままで、あらゆる出来事をもらさず伝え続けている。世界の憲兵を自負し、常に危険と隣り合わせの中で仕事をするアメリカ政府として当然のことである。
F-15戦闘機は引き返して行った。
敏郎が先導し、出発したニューアーク国際空港に着陸した。着陸するとテロリストから無線が入った。
「約束どおり着陸した。約束は果たした」
「有難う。君達の身の安全は保障する」
「感謝する。あなたの名前は結城敏郎と言ったな。お父上は結城祐一郎少佐ではないか」テロリストは落ち着いた声で聞いた。
「そうだ。結城祐一郎は父だ」
「そうか。あなたのお父上のことは知っている。尊敬している。鹿児島の知覧に行ったことがある。あなたに阻止されたのは運命を感じる」
「私の父、祐一郎は昭和二十年に知覧飛行場から特攻隊として出撃した。悲しい時代だった」
「今の我々も悲しい時代だよ」テロリストは寂しく言った。
「希望をもてば必ず良くなる。時間が必要だ」
「そうだな……」テロリストはポツンと言った。
そして続けた。
「あなたと会えて良かった。この飛行機に乗ったとき乗客を見て心が痛んだ。周りではしゃいでいる子供、サンフランシスコで恋人に会うのを心待ちにしている若い女性の声も聞こえた。隣の席で顧客との契約を楽しみにしているビジネスマンもいた。彼らの未来を奪わなくて本当に良かった。あなたの命をかけた行動が私の目を覚ませてくれた。私は人殺しをするところだった。取り返しのつかないことをするところだった」しみじみ言った。
敏郎の脳裏に不安がよぎった。
「罪を償い、パレスチナの平和のために言論で戦うんだ。世界は見放しはしない」
「有難う。感謝している。心苦しいがひとつだけお願いがある」
「何だ。俺に出来ることは何でもする」
「私の母に伝えてほしい。『親不孝を許してほしい』と、名前はラウダ・ビシャーラ、パレスチナのエリコにいる。世の中が平和になってからでもいい」
言い終わると無線は切られた。
「パーン」
隣に駐機したAA55便の操縦席から拳銃の発射音が聞こえた。
「しまった!」
敏郎はAA55便の操縦席に急いだ。タラップから降りてくる乗客を押し分けながら駆け上がった。
操縦席に入ると頭から血を流したテロリストの死体があった。機長席に座ったままだ。流れ出た赤い血が濃い眉毛の脇をつたい揉み上げを濡らしている。歳のころは三十歳過ぎか。穏やかな顔だ。直ぐに空港警察隊が到着し他の三人を連行した。死体も直ぐに運び出された。乗客は全員すでに降りていた。
敏郎が機外に出ると妻のナンシーが待っていた。何も言わず敏郎に飛びつき、きつく抱きしめてきた。敏郎も抱きしめた。お互いに声にならない。
アメリカ政府の要請でニューヨーク警察が万全の態勢で警護に当たった。それを察知したマスコミが世紀の大スクープと色めきたった。
周りでカメラのフラッシュが焚かれる。二人にマイクロホンが幾つも差し出され矢継ぎ早に質問してくる。遠くで聞きながら二人は警官に保護され空港のゲスト室に入った。「ナンシー大丈夫か?」敏郎はやっと口を開いた。
「大丈夫よ。あなたは大丈夫?」
「大丈夫だ。もう心配ない」
二人はしばらく休むと警察の用意した近くのホテルに行くためゲスト室を出た。外に出ると報道カメラマンやテレビカメラでごった返している。二人を見ると一斉にシャッターが切られる。間を縫うように警察の用意した車に乗った。警護の私服警官がついて来た。ホテルに着くと警官は部屋の前やホテルは警護しているので安心するように言った。あなたたちは米国をテロリストから守ったヒーローだ。責任をもって守ると言った。
部屋のテレビをつけるとワールド・トレード・センタービルはすでに崩壊し姿はなかった。南タワーは九時五十九分に、北タワーは十時二十八分に崩壊した。
国防総省へ一機突っ込んだ報道も流れている。他のチャンネルではAA55便のニュースが流れている。乗客たちのインタビューが写っている。
ドアがノックされルドルフ・ジュリアーニ ニューヨーク市長が入ってきた。行動派の彼はワールド・トレード・センタービルへ旅客機突入後真っ先に現場へ駆けつけその足でこちらに向かったのだ。AA55便を救ったこと、ホワイトハウスを守ったことを最大限の表現で讃辞した。二人は記者会見のためホテルのロビーに向かった。何人もの私服警官が二人の周りを取り囲みながら先導した。部屋の前や角にも制服を着た警官が立っている。
ロビーには、会見用の机とイスが並んでいた。机の上には数えられないほどのマイクが並んでいる。ロビーに出てくる時からカメラのフラッシュが焚かれる。
席に着くとジュリアーニ市長が興奮した口調で言った。
「ワールド・トレード・センタービル、そして国防総省で犠牲になった人々を思うと心が痛みますが、ここにいるヒーローを紹介せずにはいられません。彼がAA55便の乗員乗客とアメリカ合衆国ホワイトハウスを救ったヒーロー Mr・トシロー・ユウキと彼の奥様です。ブッシュ大統領からも感謝の念と讃辞のメッセージが入っています」 ジュリアーニ市長はメッセージを読み上げた。そこには、自分の命と妻を犠牲にしてテロリストに立ち向かった敏郎の勇気と、多くの人々を救ったことへの感謝の気持ちが述べられていた。
一斉にフラッシュが焚かれた。
CNNテレビのキャスターが自殺したテロリストについて質問した。敏郎は答えた。
「彼は人の心を持った人間だった。人殺しではない。絶望は人間を狂わせる。我々は肝に銘じなければならない」
「それはどういう意味ですか?」続けてキャスターは質問した。
「争いの原因は幾つかある。貧困に宗教の違いや民族間の対立、それに領地問題など。これらは努力で解決は可能だ。しかし絶望は違う。アメリカ始め大国、先進国は他国の人々に絶望を与えてはならない。特に若者にとっては耐えられない。テロに走る若者を止めることは出来ない」
「あなたの提言は我々アメリカ人、大国や先進国の人間にとって重い言葉だ」CNNテレビのキャスターは頷きながら言った。
質問は次々に出され敏郎と妻ナンシーはそれに答えた。
その後、二人はブッシュ大統領から面会の要請があった。大統領専用空軍機エアフォース・ワンだ。ホワイトハウスはまだ危険で帰ることは出来ない。大統領は二人を見るなり両手を挙げ破顔で近付いて来た。握手を求めながら言った。
「君は日本人だね。有難う。アメリカ国民を代表してお礼を言わせてもらう。パール・ハーバーのことはこれで帳消しだ」一見軽口のようだが本心である。ブッシュは興奮し目は爛爛とかがやいていた。
大統領就任から僅か七カ月余り。一連のニュースは全世界に流されている。この危機をいかに乗り切るかが自身の政治生命に直結する。南北両タワーに国防総省、さらに一機ハイジャックされペンシルバニア州へ墜落。これらの打撃はアメリカ政府にとって大きな痛手である。世界中に危機管理の甘さを露呈した結果となった。
民間機であるAA55便の撃墜を決断した自分の政治生命はこれで終わったと覚悟していた。議会や国民の追求を受けるだけでなく人道的にも大統領を続けることは出来ない。また、これから一生、この重い十字架を背負っていかなければならないと苦悩していた。
ハイジャックされた旅客機の乗員、乗客を救い、ホワイトハウス突入を阻止し、さらに自分自身をも窮地から救ってくれた敏郎はブッシュにとって救世主である。テロリストに一矢を報いた結果となった。握手する手に力が入った。〈奇跡の逆転打をどう生かすか。このアドバンテージを国民の前でいかにアピールするか・・・〉ブッシュの目はぎらついた。敏郎は苦笑しながら握手を交わした。AA55便撃墜決断の事実は公表されることはなかった。
それからテレビ、新聞を始めメディアの取材を受け、敏郎の意に反して世界のヒーローとなって行った。勇気を持って引き返し、自ら命を絶ったサミーフも人々から同情を寄せられた。
崩壊したワールド・トレード・センタービル瓦礫の上に立ったブッシュは国民の前で高らかに宣言した。
“皆の怒りはしっかり受け止めた。テロリストに思い知らせてやる”
結城敏郎。一九四六年(昭和二一年)一月二一日大分県日田市で生まれる。父は太平洋戦争で特攻隊員として戦死。
敏郎は父が戦死した後、小学校の教師を勤める母によって育てられた。生活は楽ではなかったが、農家の子供に比べれば生活はまだましだった。近くに空手道場があった関係で物心ついた頃から通っていた。性格はおとなしく決して喧嘩の道具として使ったことはない。武道としての空手の奥深さに魅せられ技の習得に励んでいた。高校生になると一〇〇メートルを十秒台で走る運動能力と、一八〇センチメートル近い身長にがっちりした体格で、県内では一般人も含めて相手がいないほどになった。
一九六四年春、日田の高校を卒業すると自由と繁栄の国アメリカを目指した。母は心配したが敏郎の意志を尊重し送り出してくれた。無口ではあるが思慮深く、意志の強い性格は父の祐一郎に良く似ていた。既に母の手の届かない存在になっていた。
アメリカでは、第三十五代大統領ジョン・F・ケネディーが暗殺された次の年だ。人種差別がひどかったが、エネルギッシュな国、アメリカが敏郎を惹きつけた。特に若きケネディーの大統領就任演説が敏郎の心を捉えた。
『国があなたのために何をしてほしいか問うのではなく、あなたが国のために何が出来るか問うべきだ』
これを聞いた時アメリカに行きたいと強く思った。新鮮に映った。敏郎中学三年の時だ。熱い血が騒ぎ高校を卒業すると“先進国アメリカ“という光の中に飛び込んで行った。
マサチューセッツ州の大学では航空学科を選んだ。飛行機に興味をもち大空を自由に飛んでみたいという願望もあった。何処かに父の影響があったのかも知れない。
アメリカの若者の中には、敏郎に興味を示し喧嘩を売って来る者もいた。日本人にしては体格も良く、空手家の敏郎に体力自慢の若者が挑んでくる。敏郎は相手にしなかったが、時には一方的に殴りかかって来る者もいる。それでも決して手は出さなかった。命まで取られるわけではなかったからだ。殴られても強靭な肉体はダメージを受けない。自ずと急所は外している。空手では武術としての強さばかりではなく、むしろ精神的な強さを求められている。本気でやれば相手に怪我をさせることになる。無意味なトラブルは避けなければならない。一時の感情に流されてはいけない。小さい時から母に良く教えられてきた。その教えを守ってきた。父によく似ていると母から褒められた。
その内に、地区や州の空手の大会で優勝するようになると誰も手を出して来る者はいなくなった。むしろ彼の実力を認め「チャンプ」と親しみをもって近付いてくるようになった。アメリカでは強いものは尊敬される。
アルバイトをしながらマサセッツ州の大学、大学院の航空学科を卒業すると、アメリカ陸軍で空手の教官をした後、大手の航空機製造会社に就職し主に機体の許認可申請の仕事をした。そこで妻のナンシーと知り合い結婚する。敏郎三十歳、ナンシー二十五歳だった。その後操縦士のライセンスを取得した後、航空貨物の会社を設立した。ナンシーは大学に戻り教官となった。会社の経営は順調に推移し家族も社員も平和な日々が続いた。
敏郎エリコに飛ぶ
二〇〇一年十二月
「ナンシー、パレスチナへ行ってみようと思う。サミーフの母親に会い彼の最後の言葉を伝えなければならない。なぜ自殺したのかも知りたい」
「分かったわ。彼の気持ちを考えるといたたまれない気持ちだわ。米英軍のアフガニスタン攻撃でアルカイダの指導者ウサマ・ビン・ラディンと彼を庇護するタリバン政権は崩壊したと聞いているから安全だと思うけど十分気をつけてね。ビン・ラディンは捕まったわけではないから。それから、あなたはアメリカにいることにしておくわ。そのほうが安全でしょう」ナンシーは微笑み、力づけるように言った。
「僕ももうこりごりだ。二度とあの恐怖は味わいたくないよ」
敏郎は苦笑いした。
米国民の支持を得たブッシュ大統領は、米英軍を中心として十月十四日アフガニスタンのタリバン攻撃を開始した。十二月七日最後の拠点であるカンダハルを制圧した。タリバンに匿われた国際テロ組織アルカイダの指導者ウサマ・ビン・ラディンはタリバン幹部と共に逃走した。
敏郎はパレスチナの地に飛んだ。
エルサレムの東 エリコ
ニューアーク国際空港を飛び立ちイスラエルのテルアビブ空港に着くとタクシーを拾った。エリコまで約三十キロメートル、一時間弱だ。
「だんな、どちらからですか」
中年の運転手はルーム・ミラー越しに片言の英語で聞いてきた。アジア人の顔をしているが流暢な英語を話す敏郎に興味を持ったようだ。
「ニューヨークからだ」敏郎は答えた。
「ジャーナリストですかい?」
「そうではないが、ジャーナリストに興味があるのかな」
「そうではありやせんが最近はエリコへ行くジャーナリストがやたら多くなったんですよ。9・11の時サミーフのことが世界中でニュースになったでしょう。それからですよ」
運転手はなおもルーム・ミラー越しに、ちらちら敏郎を見ながら話しかけて来る。
「エリコの町は有名になったんだ」敏郎は話を合わせた。
「そうなんでさあ。大昔の伝説で『エリコの戦い』に負けないくらいの注目度ですよ」
「ジャズのスタンダード・ナンバーにもなっている。古代イスラエルとの戦いだったね」
敏郎は話題をなるべく自分のことから離そうと努めた。素性を安易に知られるというのは未知の土地では危険が大きすぎる。
「そのようですね」
運転手は話しながら何度も敏郎を見て、何かを思い出そうとしている。ルーム・ミラーで目が合うと慌ててそらす。左手で無精ひげを撫でまわしながら首を何度も傾けている。
「だんな、どこかでお見かけしたような気がするんですが」
運転手はそう言ったとたん「ハッ」として急ブレーキを踏んだ。敏郎は思わず前の助手席のシートの背もたれにぶつかりそうになった。
「だんなはサミーフのテロを阻止した日本人。名前は確かトシロー」
振り向きざま興奮した口調で言った。
「………」敏郎は無視した。
「大丈夫ですよ。サミーフの人殺しを思いとどまらせた恩人に危害を加えるようなことはしやせん。サミーフの母親もあなたには感謝していますぜ」
「母親の居場所を知っているのか?」母親と聞いて思わず聞き返した。
「いいえ。そこまでは知りやせん。でもサミーフの元恋人を知っていますぜ。タクシー仲間から聞きました。彼女は母親のことを良く知っています」
敏郎は運転手をじっと見つめた。〈どこまで信用できるのか?〉それを察した運転手は
「だんな、あっしを信用してくだせえ。あっしの名前はアベド・ティービー。だんなの味方です。エリコの人間は皆感謝していますぜ」
「サミーフの元恋人に会わせてくれるか?」
「もちろん。マーリーと言います。彼女も会いたがっているでしょう」
アベドの言葉に嘘はないように思えた。もし彼が危険な人物であれば黙って敏郎を何処へでも連れていけるからだ。彼の目は嘘をついているようには感じられなかった。
「分った。君を信用しよう。できれば拳銃を一丁欲しいのだが手に入らないか」
アメリカでさえも自分の身を守るためには銃が必要だ。中東のような治安の悪い所では何が起きるか分からない。金を持った外国人と思われ強盗に襲われる可能性もある。ここでは拳銃はおろか自動小銃や手榴弾だって簡単に手に入る。エリコは比較的治安の良い町だと聞いてはいるが安心は出来ない。
「お安いごようで。ここで丸腰では殺してくれと言っているようなものですぜ」
敏郎の思いを見透かしたようにアベドは言った。そして、自動拳銃と回転式拳銃のどちらが良いか聞いて来た。敏郎は回転式拳銃を頼んだ。構造がシンプルで故障が少なく扱いやすいからだ。自動拳銃は精巧に出来ているため故障の可能性がある。どちらにしても新品は手に入らない。このような所では扱いがラフな上、手入れもされていない。自動拳銃は信用できない。信頼性が第一だ。命に直結する。
エリコに着くと運転手のアベドはホテルに案内した。町外れの小さな安ホテルで、明日の昼過ぎにマーリーを連れてくる約束をして帰って行った。
エリコの町は人口およそ二万人、海抜マイナス二五〇メートル。世界で最も標高の低い町である。また紀元前八〇〇〇年に集落が出来たと言われる歴史のある町でもある。
ホテルはレンガ造りの二階建て十五室程度で一階がロビーになっており、テーブルが四、五台並ぶ。カウンターには受付の中年の男性が立っている。何処にでもある目立たないホテルである。赤茶けた大地の中でこの辺りには緑も目立つ。
夜、敏郎は部屋の窓から外を眺めた。明りが疎らに点いているだけの静かな町だ。この辺りは戦闘とは程遠い平和な町に見える。しかし夜になると時々遠くで銃の音が聞こえると、受付の中年の男性が教えてくれた。ここは中東の町だ。何が起きてもおかしくはない。〈無事にサミーフの母親に会えるだろうか。無事にアメリカに帰ることが出来るだろうか〉敏郎はベッドに入っても気持ちが高ぶり、眠りにつくまでに時間がかかった。
次の日の昼過ぎ約束どおりアベドが回転式拳銃一丁とマーリーを連れてきた。マーリーは中東特有の目鼻立ちのはっきりした眉の濃い小柄な女性だ。肩までのびた栗色の髪を後ろで束ねていた。
敏郎はマーリーを連れて近くのレストランに入った。平屋でテーブルが十五卓ほどあり窓が小さく薄暗い古めかしい造りだ。入って左側に厨房があり、奥にトイレがある。昼食時を過ぎており客はまばらだった。二人は一番奥の席の窓際に掛けた。室内が見渡せ、入り口が良く見える。外の様子も分る。自然と危機意識が身に付いてきた。
マーリーは最初敏郎に会い驚いていた。緊張した面持ちだった。テレビのニュースで知ってはいたがサミーフのテロを阻止した本人に会えるとは思ってもみなかったからだ。
敏郎はエリコに来た理由を説明した。旅客機でのサミーフとの会話や、着陸後の拳銃自殺までを話した。マーリーは黙って聞いていたが、最後に「死に顔は穏やかだった」と聞くと下を向き涙を流した。
マーリーは静かにサミーフとの関係を話し始めた。二人はカイロ大学時代からの恋人で同級生だと言った。カイロ大学で、政治活動に宗教活動それに社会奉仕を行った。特に福祉に力をいれた。中東の国々は貧富の差が激しく街や地方に多数の貧困地域がある。そこでは粗末で狭い家に大家族で住んでいる。不衛生で劣悪な環境に大勢が暮らす。カイロでも同じだ。彼らを見てショックを受けた。仲間の学生たちとボランティアで寄付をつのり人々に食物や小学校に教科書を送った。時には病人の世話や怪我の治療もした。そのために看護の勉強もした。ほとんどの人々は治療費がなく病院に行けないからだ。しかし、それは一時しのぎにしかならず、問題は人々が自分の立場を訴えられない民主主義の欠如にあるのだと言った。何をするにしても役人は賄賂を要求し金のない人々には諦めしかないのだという。マスコミを通じ世界に訴えているが声が届かないことを憂慮していた。
サミーフとはボランティアで知り合い約十年の付き合いだとマーリーは言った。テロを故郷のカイロで知った。サミーフの母親のことが心配になりエリコに来たと言った。
敏郎は改めて、ここは中東の地だと感じた。先進国で育った敏郎にはこれまでそのような体験はなかった。
その時、敏郎の目に窓の外で一台の黒塗りのバンが止まったのが見えた。窓ガラスにスモーク・シートを貼ってあり中は見えない。一人の若い男が助手席から降りレストランの入り口へ向かった。表情がこわばっている。敏郎は直感的に危険なにおいを感じた。
男はドアを開け、入り口から少し入ったところで立ち止まり中を見回した。テーブルの下の敏郎の右手には拳銃が握られている。男は敏郎を見るといきなり手榴弾を投げつけドアへ走った。手榴弾はテーブルの上に当たり床に転がった。
すかさず敏郎は男をめがけて拳銃を発射した。弾は当たらずドアに当たった。同時にテーブルをひっくり返し手榴弾の上に覆いかぶせた。直後爆発した。分厚いテーブルのおかげで幸い二人とも怪我はなかった。敏郎は大声で客に奥のトイレへ逃げ込むように指示した。マーリーがアラビア語でトイレへ逃げるように叫ぶ。数組の客がパニック状態でトイレに逃げ込んだ。ウエートレスは慌てて厨房に駆け込む。
手榴弾の爆発を合図にしたかのように窓の外の車から三人の男が飛び出してきた。旧ソ連製自動小銃AK47を持ち、入り口ドアへと走って行くのが見えた。
敏郎は咄嗟に窓から男達に向かって拳銃を発射した。一番後ろの男がつんのめって倒れた。マーリーもテーブルの下からドアの入り口の男と拳銃で応戦している。マーリーは小柄だが勇敢で俊敏だった。直ぐに入り口からAK47の男が銃を発射してきた。無差別に乱射しては直ぐにドアの外に隠れる。テーブルが邪魔になり二人の位置を正確につかめないようだ。弾は当たらない。
何度か繰り返すうちに攻撃の幅が狭まってきた。少しずつ位置をつかんできたようだ。
「一緒にいては危険だ。離れていた方が有利だ」そうマーリーに告げ敏郎がマーリーから離れようとした時、二人の目の前に、二つ目の手榴弾が転がってきた。敏郎はマーリーを突き飛ばし自分もとっさにテーブルの陰に身を伏せた。爆発と同時にAK47の男が飛び込んできて敏郎めがけて撃ってきた。敏郎の左上腕に痛みが走った。突然AK47の男が倒れた。マーリーが撃ったのだ。その時、窓の外に男が手榴弾のピンを抜くのが見えた。同時に敏郎めがけて投げようと振りかぶった。
「しまった!」敏郎は撃たれた左上腕をかばいながら焦った。
その時だ。
“パーン”
一発の銃声とともに男は倒れた。手榴弾は男のすぐ近くで爆発した。
〈どうしたんだ?〉マーリーの拳銃と音が違う。大型拳銃の重い音だ。
“パーン パーン”
さらに銃声が響き、辺りは静かになった。
敏郎がそっと入り口に近付き外を見ると、もう一人のAK47の男が倒れている。窓の外に二人、部屋の中に一人全部で四人だ。
「私が一人と、敏郎が一人。倒したのは二人ね」マーリーが近寄り不思議そうな顔をしながら言った。
「残りの二人は誰が?」二人は顔を見合わせた。
周りを見回したがレストランの駐車場や道路を挟んだ民家にそれらしき人影はない。すでに身を隠したのだろう。
「分からない。とにかくここを離れましょう。危険だわ」
二人はレストランを後にした。
敏郎の左上腕は弾が貫通しており病院で手当てをしただけで入院の必要はなかった。
「なぜ我々は襲われたのだ」敏郎は尋ねた。
「それはサミーフのホワイトハウス突入を阻止されたからよ。アルカイダにとっては大きな痛手よ。それにあなたは世界中のヒーローになった。生かしておくわけには行かないのよ。さすがにセキュリテーの完全なアメリカでは命は狙えなかったけど、こちらでは危ないわ。米英軍の空爆でウサマ・ビン・ラディンとタリバンはほとんど力を失ったけど、残党は各地に残っている」
「それなら君は俺と一緒にいては危険だ」
「分かっているわ。でもサミーフがテロリストになるのを私は止められなかった。私には責任がある。サミーフのテロを思い留まらせてくれたあなたまで失うことは出来ないわ。あなたを一人には出来ない。私も銃の使い方や武術の訓練は受けている。それに看護もできる。これからは腕の傷の手当ては私がする。足手まといにはならないわ」
「そのようだな。先ほどの戦闘を見れば分かるよ。俺も空手の黒帯で拳銃の射撃訓練はやっているが実戦は今日が初めてだった。君がいなければ命を失っていたかも知れない。それに傷の手当てをしてもらえれば助かる」
敏郎は身長一メートル八十センチで体重が八十キログラム。筋肉質でガッチリした体格をしているが銃の前では無力に等しい。二人は病院を後にした。
次の日の昼過ぎ二人はサミーフの母親のラウダ・ビシャーラを訪ねた。町外れの小さなみすぼらしい一戸建ての平屋に住んでいた。命を狙う敵や付きまとうジャーナリストから身を隠すためにマーリーが探したのだ。母親は敏郎を見ると一瞬狼狽えた。すぐに落ち着きを取り戻すと狭い居間に案内した。
明りの消えた裸電球が天井に一つポツンとぶら下がっている。停電中だとマーリーが言った。この辺りは停電が頻繁に起こるのだという。片隅に小さな台所があるが電気製品はあまり見当たらない。ポットがぽつんと一つ置かれていた。周りは似たような民家で、近所付き合いはなく身を隠すには都合が良いとマーリーは説明した。
マーリーはすぐ近くに住んでおり夜間母親を訪ねて身の回りの世話をするのだと言った。二人で一緒に住むよりこの方が安全だと言った。
小さなテーブルの周りに置かれたイスに腰をかけた。マーリーは母親のラウダに代わりポットからお湯を注ぎ紅茶を入れた。ラウダはヒジャブという頭と首をかくし顔を出した黒のヘッドスカーフをつけている。外出しなければならない時はニカブという目の部分以外は全てベールで覆ったものを着けるとマーリーが言った。サミーフの母親と気付かれないためだ。五十歳半ばの黒い眼をした無口な女性だ。沈黙が流れる。敏郎が母親に声をかけた。
「息子さんを失った悲しみ、お察しします。サミーフの伝言を持って来ました。『親不孝を許してほしい』と、最後の言葉でした」
母親は上目遣いに敏郎を見ながら静かに言った。
「息子は戦乱の世に生まれました。過激派がイスラエルと戦闘し、中東の国々は内戦やクーデター、そして国と国が戦争していました。息子が巻きこまれても不思議ではなかったのかもしれません。せめてもの救いは何も罪もない大勢の犠牲者をださなかったことです。あなたには感謝しています」頭を下げたラウダの目から涙がこぼれた。
「彼には生きていて欲しかった。生きてパレスチナのために、世界の平和のために働いて欲しかった」
「しかたがありません。彼の選んだ道です」ラウダはうつろな目で紅茶のカップを見つめながら辛そうに言った。
「パレスチナとイスラエルの関係は絶望しかありません。サミーフが目標を見失ったとしても無理はありません」
「ただアルカイダのメンバーとしてハイジャックしたことは残念に思っています。あなたの言われるように生きて帰ってほしかった」
ラウダはサミーフのことを話し始めた。
「サミーフは幼少のころから正義感の強い子供でした。日ごろは口数の少ない子でしたが、友達と意見が分かれた時は強く自分の考えを主張しました。意見が通らないと時々喧嘩をして泣いて帰り私や父親に訴えました。それを聞いてあげ助言するのが私達夫婦の仕事でした。納得するとすぐに仲間とは仲直りする素直なところもありました。それを繰り返すうちに自分の考えを持った芯の強い子になって行ったようです。
また、好奇心が強く高校生になると良く本を読んでいました。中東だけでなくヨーロッパやアメリカそれに日本のことにも興味を持っていました。日本は世界でも稀な国です。アメリカとの戦争で悲惨な目に合ったにも関わらず驚異的な復興をとげました。戦争を放棄した世界でも類をみない国です。近代国家にもかかわらず伝統的な文化も大切にしています。
カイロ大学を卒業した後日本に留学したいと相談があった時、私達は反対しませんでした。優れた技術力や勤勉で規律正しい日本人に私達も興味がありましたから、彼がそこで何かを学んでくれればと思ったのです」
「日本に留学したのですか?」敏郎はサミーフが自殺の直前、鹿児島の知覧に行った事があると言ったのを思い出した。
「カイロ大学で建築を専攻した彼は日本の五重塔や社殿の精巧な木造建築に興味を持っていました。もし、彼がそのまま日本で勉強を続けてくれていればもっと違った人生があったでしょう」ラウダは机の上に飾られている息子の写真を見ながらしんみりと言った。
机の上にはサミーフの高校時代の友達と二人で写っている写真がおかれている。白っぽい長袖のシャツを着てラフな格好で肩を組み微笑んでいる。まだ少年の顔で旅客機ハイジャックの時の彼とはかなり印象が違う。隣の少年は少し照れながらも胸を張り誇らしげである。希望に燃えているようだ。少しちじれた髪で濃い眉毛に大きな目が印象的である。二人とも聡明そうに見える。
写真はこちらに身を隠すために整理している時偶然見つけたと言った。他の写真は全てサミーフが処分し、たまたま一枚だけ残っていたようだ。サミーフはテロを決心した後仲間の安全のため処分したのだろう。敏郎はそれ以上何も言わなかった。母親の苦しそうな表情を見ると何も言えなかった。
母親は敏郎が遠くからわざわざ訪ねて来てくれたこと、マーリーが自分を匿い身の回りの世話をしてくれていることに感謝していると言った。敏郎とマーリーは母親の家を後にした。
タクシーを捕まえると昨夜のホテルに向かった。
「同じホテルに泊まるのは危険だわ」タクシーの中でマーリーは言った。
「ホテルは他にもあるのか」
「目立たないホテルが何軒かあるわ。私が案内する」
ホテルに着くと直ぐに今夜の予約を取り消しチェックアウトした。ロビーで待っているマーリーのそばに行くと一人の若い男が近付いて来た。浅黒い顔で濃い眉毛に黒い短めの髪が少しちじれている。
敏郎は警戒し瞬時に反撃出来る態勢を取った。マーリーは身構え懐の拳銃に手を伸ばす。それを見た若い男は両手の平を自分の顔の前に上げ素手であることを示すと小声で言った。
「Mr・トシロー・ユウキですね。私は怪しいものではありません。名前はラシード・アブディー。サミーフの仲間です。レストランであなた方を襲った男達を撃ったのは私です」
突然の出現に二人は驚いて男を凝視した。
「レストランで我々を救ってくれたのは君だったのか?」
「ここでは人目につきます。私のアジトへ行きましょう。詳しいことはそこでお話します」
敏郎とマーリーは顔を見合わせた。状況がまだ正確に掴みきれていない。信用するには情報が少なすぎる。前日アルカイダに襲われたばかりだ。
「ラシード、そういえばサミーフから聞いたことがある。幼馴染でしょう」マーリーは思い出したように言った。
「そうです」ラシードは頷いた。
「それに母親のラウダの家の机の上に飾ってある高校時代の写真にあなたが写っていたわ」写真の彼は少し幼いが誠実そうな顔つきは変わっていない。
「確かにそうだ。君に間違いない」敏郎はラシードの顔を見ながら言った。顔は浅黒く日焼けしているが濃い眉毛の大きな目は写真のままだ。
敏郎は念のために拳銃を見せるように言った。確かに幼馴染には間違いないようだが助けてくれた証明にはならない。敵の可能性もある。敏郎とマーリーは自分の懐の拳銃に手をやり警戒する。サミーフは一瞬不審な顔をしたが頷き、周りに注意しながら脇の下のホルスターから取り出すと上着の内側で隠し敏郎に示した。コルトガバメント、真新しい大型のアメリカ製自動拳銃だ。敏郎が射撃訓練で使用しているものと同型だ。二人を助けてくれた時の拳銃の音が一致する。
「分かった。君を信用しよう」
ラシードはホッとした様子で拳銃を元に戻すと軽く会釈をし歩き出した。
二人は彼の後に従った。
ラシードの車に乗り十分ほど走ると二階建ての小さなアパートに着いた。サミーフの母親の家から一〇〇メートルほど離れており高台になっている。周りは似たようなアパートが連なり木々に囲まれており隠れ家にはもってこいだ。二階に上がると六畳ほどの広さの部屋に同年輩の仲間の一人がいた。名をアントンと言い敏郎と会えて光栄だと言った。中東の人間にしては色白のまゆ毛の濃い青年で、握手するとすぐに部屋を出て行った。
「ここは彼が用意してくれたんです。このアパートは我々が借りきっています。一般の人を争いに巻き込まないためです。ここでサミーフの母親を双眼鏡で監視しています。アルカイダから守るためです。サミーフは裏切り者です。見せしめのために家族は狙われる可能性があるのです」
母親の家の出入口が良く見える。そばにはスコープ付きの狙撃銃が母親の家の方向にセットされている。ここから狙えば確実に敵を倒すことが出来る。
「母親の居場所を知っていたの?」マーリーは驚いて聞いた。
「9.11の後私は直ぐここに帰って来ました。アメリカにいると警察の捜査が厳しく、またサミーフの母親のことが気になっていました。マーリーが母親をかくまった後でした。昔の仲間が教えてくれたのです。エリコは我々の生まれ故郷です。庭と同じです。何でも分かります」
「君は9・11の時アメリカにいたのか?」
敏郎は驚いて聞いた。
「あの同時テロは五機ハイジャックしました。二機はワールド・トレード・センタービルの北、南タワー。一機は国防総省、そして一機は国会議事堂に向かいましたが、乗客に阻止されペンシルバニア州へ墜落しました。サミーフはホワイトハウスに向かいました。私はサミーフの機に乗る予定でした。一機五人がチームになっているのです。アパートを出る直前にサミーフから電話があり『テロは延期になった。そこで待機するように』と言われました」
敏郎とマーリーは固唾を飲んで話を聞いた。
「テレビを見てハイジャックをしたことやサミーフの自殺のことを聞いて驚きました。次の日に手紙が届きました。サミーフからです。出発の直前に投函されたものです」
「何と書いてあったの?」マーリーは身を乗り出した。
「サミーフの心の揺れが感じられました。乗客や一般市民を巻き添えにすることを迷っていました。でも引き返すことは出来ない。私には生きて戦えと書いていました」
二人は黙って聞いていた。ラシードは自分の身の上を話し出した。
「私とサミーフはエリコの生まれです。彼は私より二歳年上です。小、中、高校生までは同じ学校でした。家が近くということもあり私は彼を兄のように慕っていました。母親のラウダの机の上に飾ってあったという写真はその頃のものでしょう。彼はエジプトのカイロ大学に進学しました。テロの主犯格で最初に北タワーへ突入したモハメド・アタと同じ建築学科でした。サミーフはアタの一年後輩です」
「私も同じよ。私達は学内で宗教活動や政治活動それに社会奉仕を行ったけどアタとは面識は無かったわ」マーリーは言った。
ラシードは頷いた。
「知っています。アタとはドイツで知り合ったと聞いています。サミーフは大学を卒業した後日本に留学し、二年後に帰ってきた彼と再会しました。私はガザのアル=アズハル大学でイスラム教を勉強し帰ってきたばかりでした。我々は意気投合しました。パレスチナ建国について話しました。私は正しいイスラム教の布教について、彼はイスラムの伝統的な建物や街並みの建設について話しました。また、彼は日本の“カミカゼ”にひどく心酔していました。小さな島国で有りながらアメリカという大国と全面戦争をしたことに驚嘆し、自分を犠牲にして死んで行ったカミカゼに心を揺さぶられたようです。特にトシローの父、祐一郎少佐にはあこがれのような感情がありました」
「なぜ父にあこがれたのか?」
「あのころ日本の敗戦は色濃くなっていました。突入しても好転の可能性はほとんど無く、絶望の中での決断だったと思います。少しでも敵に打撃を与えれば光が見えるかも知れないという可能性に賭けたのでしょう。また先に逝った仲間を裏切って自分だけ生き残ることは出来なかったのかも知れません。結婚したばかりの妻や生まれてくる赤ん坊を残して特攻に行くのは辛い決断だっただろうと言っていました。彼の勇気と責任感に心を打たれたのでしょう」ラシードは敏郎を見ながら言った。生まれてくる赤ん坊とは敏郎のことだ。
ラシードは手紙の内容に戻った。
「自分がホワイトハウスに突入してもアメリカに勝利するわけではないが、この事実がいつか世界を動かすことになるという思いを綴っていました。大国のエゴで力の弱いものがしいたげられるというこれまでの歴史と現状を、世界の人々に伝わればいいと言っていました。彼には絶望しかなかったのです。これしか光を見出すことが出来なかったのです。自分の行動がいずれはパレスチナにも日本のような平和が訪れると信じていたのです。私も同じです」
「サミーフが旅客機の中で俺の忠告に対して『自分のねらいは他にある。いずれ分かるときが来る』と言ったのはこのことだったのか」
敏郎はサミーフの言ったことが理解できた。
ラシードは一呼吸すると再び続けた。
「日本の特攻隊員達はいやおうなしに歴史の中に呑み込まれていった。しかし、彼らの行動が平和な時代の礎となったことが、後世に語り継がれている。我々も同じだ。時代は我々を必要としている。このことを世界に伝えるのだ。だから生き残れと記していました」
「主犯格のアタとはドイツで知り合ったといったな」
敏郎はサミーフとアタとの関係を知りたかった。アタは9・11同時多発テロの実行犯の中心人物である。
「留学先のハンブルク工科大で会いました。サミーフが留学した年、一九九五年のことです。二人ともカイロ大学で同じ建築学科ということで親しくなったようです。
アタはエジプト生まれでカイロ大学を卒業した後、エジプトで就職を試みましたが希望する職業にはつけませんでした。コネや賄賂が無ければ何も出来ない社会に失望しました。ドイツで資格をとりヨーロッパに活路を見出そうとしましたが、差別や偏見のためイスラム社会から西欧社会に溶け込めなかったようです。
西側社会は抑圧者、イスラム社会はその犠牲者との意識を強くしました。まともな職業にも就けないことに悩みました。小学校では一年飛び級したほどの秀才で大学卒業までエリートできたアタにとっては耐え難いことです。真面目でおとなしく、政治や社会的な問題とは無縁だったアタの心に少しずつ変化が現れました。
広い道路や大きなビルディング、全てが西洋化しイスラムのアイデンティティも喪失した。邪悪な西側社会の物質文明や金権主義が伝統的なイスラム社会を犯していると考え始めたのです。西側列強の力の象徴であるアメリカを憎むようになりました。サミーフと出会う少し前です。イスラムに目覚めたアタは、祈りの場であるモスクを訪れるようになりました。そこへアルカイダが近付いてきたのです」
「サミーフはどうなんだ」
敏郎はサミーフのことが気になった。
「サミーフは一九九八年にドイツからパレスチナに戻って来ました。サミーフはその時点で、アメリカにテロを起そうなどとは思っていませんでした。ドイツでは都市環境工学を専攻しパレスチナ建国後に生かそうと思っていました。そのために留学したのです。
イスラエルでは一九九九年五月に和平推進派のバラクが首相になりパレスチナに希望の光が射しました。しかし今年(二〇〇一年)の二月、イスラエルに和平反対派のシャロン政権が生まれるとイスラエルとパレスチナの間は決裂した。アメリカに後押しされたイスラエルはジェット戦闘機や戦車で我々を攻撃します。子供や老人が見境無く殺されました。パレスチナ人は将来に対する希望を失ってしまった。残ったのは憎しみだけです。光を失ったサミーフはイスラエルを後押しするアメリカを急激に憎むようになったのです。
丁度その時テロのメンバーを集めるためアタが近付いてきたのです。サミーフとアタのテロの理由は異なるのですが共通するのは『絶望』です」
「君はなぜ参加した」
敏郎はラシードを見つめた。
「サミーフと一緒にアタに会いました。私も将来に絶望しており過激派と行動を共にしていた矢先でした。サミーフは猛反対しましたが、私の決心は変わりませんでした。若者は皆同じ考えでした」
それを聞いていたマーリーが口を開いた。
「私はカイロ大学時代、二年間サミーフと行動を共にしたの。その後は手紙や電話で連絡を取り合っていた。サミーフの心が二月に急に変化したのは気がついたけど、テロに参加することまでは気がつかなかったわ」
マーリーは顔を曇らせて言った。
「それはあなたを巻き込みたくなかったからです。話せば必ず参加すると言ったでしょう。あるいは反対に止めるでしょう」ラシードは言った。
マーリーは頷いた。
「これは聖戦ではあるが一般人を犠牲にするのです。イスラムの教えに反します。私も悩みましたが最終的に一般人の犠牲もやむを得ないという結論に達しました。生き残るためにはこれしか方法はないと思いました」
「君は我々を助けてくれたがどうして我々の居場所が分かったんだね」
「私の仲間はマーリーの動きも監視しているのです。マーリー、あなたも危険な立場にあります。あなたの乗ったタクシーの後を不審な車が後をつけ始めたのです。直ぐに連絡が入り私は後を追いました。アメリカにいるはずのトシローと会った時には本当に驚きました。襲った犯人達も同じでしょう。彼らはアルカイダの仲間です。即行動に移ったと思われます」
「君達とアルカイダは仲間ではないのか?」
「サミーフと私がアルカイダの一員としてテロに加わったときは仲間とは一線を隔しました。あなたの忠告で突入を中止したときからアルカイダが敵になったのです。我々は一般人を巻き込むことはしません。それに国際テロはしません。ここには幾つものグループがあります。それぞれ主張が異なります。それに民族、宗教がからみ問題は複雑なのです。ここだけの話ですがサミーフの母親を守るために、本来敵であるはずのアメリカのCIAから活動資金や武器を支援してもらっています。母親がアルカイダに裏切り者の見せしめとして殺されればアメリカの威信にかかわります。しかし、CIAが直接母親の警護をすることは出来ません。サミーフはあくまでテロリストなのです。我々は資金が潤沢にあるわけでは有りません。母親を守ることについては我々と利害が一致するのです。お互いきれいごとではいかないのです」
そばにある狙撃銃はM24アメリカ、レミントン・アームズ社製だ。ラシードが持っているコルト、ガバメントもCIAから支援されたもので、このアパートも資金から支払っていると言った。
「私が彼の母親と会ったときから監視されていたとは知らなかったわ」マーリーは大きなスコープを付け黒光りする銃を見ながら言った。
「敏郎は日本人ね。私、サミーフが行った日本に行って見たい。日本で何を見たのか知りたいの。特に知覧に行って見たいわ。彼はあそこで何かを感じたみたい」マーリーは自分の知らないところで事が起こっていることに不安を感じていた。
「そのほうが賢明です。ここにいればまた狙われます。日本の方が安全でしょう。母親のことは心配いりません。我々の仲間が守ります」ラシードは何度も頷きながら言った。
「サミーフは父の祐一郎のことを尊敬していると言った。自殺の原因も知覧にあるのかも知れない。俺も四十年近く日本に帰っていない。故郷に戻って見たい。二〇〇一年もあと数日で終わりだ。年が明けたら一緒に行こう」
敏郎は父や祖先の墓参りをしなければならないと思った。気にはなっていたが帰る機会を逸していた。望郷の念が急にこみ上げてきた。位牌は母がアメリカに持ってきたが墓に線香をあげなければと思った。
その後マーリーは敏郎の上腕の治療を甲斐甲斐しく行った。包帯を巻くその手は優しく心が籠っているように感じられた。恋人のサミーフが殺人者になるところを救ってくれた感謝の気持ちがそうさせているのか、死んだサミーフの面影を敏郎の何処かに見たのだろうか。二人は身体つきも似ているが、正義感が強く思いやりのある性格も良く似ている。
レストランで二人がアルカイダから襲われたとき、敏郎は自分の危険を顧みずマーリーを突き飛ばして手榴弾の危険から救った。サミーフもテロリストとしてホワイトハウス突入のことは一切知らせなかった。二人で写った写真も全て処分し一枚も残っていない。全てマーリーのことを気遣ってのことだ。サミーフの残像を敏郎にダブらせているようだ。
その健気な姿に敏郎は心を打たれた。また手つきも手慣れている。カイロでは怪我人の治療もしたと言っていた。彼女もまた正義感の強い献身的な女性に見えた。
知覧特攻平和会館
二〇〇二年一月初め知覧で
成田空港に着くとマーリーがサングラスを買った。あれだけの大ニュースだ。日本でも大騒ぎになっているのは間違いない。現にアメリカでは日本のマスコミから取材の大攻勢を受けた。見つかれば身動きがとれなくなる。
福岡便に乗り換え、それから電車で鹿児島駅まで行った。一泊し次の日タクシーを拾い知覧特攻平和会館で降りた。駅から三十キロメートル余り、そこは台地で元飛行場の一角にあった。今は建物や木々で覆われており滑走路の痕跡も無い。こんな所に飛行場があったのかと思える所だ。
入り口から参道を進むと沖縄特攻で散華した隊員達の石灯籠が並ぶ。雰囲気が下界とは異なる。神秘な世界だ。周りの桜の枝が風もないのにざわつく。敏郎は立ち止まりじっと目を閉じ耳を澄ました。
一刻の休息だろうか、若くして散った勇士達の話し声が聞こえる。この世に対する未練も断ち切ったのか明朝出撃だというのに笑い声も聞こえる。ここは英霊の住む空間、霊が飛び回っている。
記念館正面右手に飛行服で身を固めた特攻銅像が建っている。彼はどこを見ているのだろうか。左手を硬く握り数時間後の敵艦突入の決意と、将来平和な時代が訪れることを固く信じた眼差しが、心静かに空の彼方をじっと見つめる。
太平洋戦争。日本軍は一九四一年十二月八日ハワイ・オワフ島の真珠湾を攻撃、大戦果を挙げた。その勢いで香港、マニラ、シンガポール陥落をはじめ南方へ進出した。しかし一九四二年六月、北太平洋のミッドウエー海戦の敗北を機に物量、質に優る米軍の反撃により撤退を余儀なくされた。次第に追い詰められた日本軍は起死回生のため組織的な特攻作戦を開始した。一九四四年十月、フィリピン、レイテ湾沖で海軍による神風特別攻撃隊の体当たり攻撃で米軍空母機動部隊に甚大な被害を与えた。
神風特別攻撃隊の戦果を受け、陸軍も特攻隊を組織し同年十一月十三日初めての特攻を行った。それから全軍特攻へと突き進んで行った。
その後米軍は進撃を続け沖縄まで迫ってきた。陸軍では「陸軍沖縄戦特別攻撃隊」を組織し一九四五年三月二十六日から七月十九日まで一〇三六人の隊員が出撃した。ここ知覧基地からは四〇二人が飛び立った。
記念館の中に入ると出撃した順に全隊員の遺影が壁に飾られている。おびただしい遺影だ。飛行服や軍服に身を固め逞しい顔をしている。まだ少年のような幼顔をした者もいる。
「トシロー、みんな若い人ばかりね。十代も大勢いるわ」
マーリーが驚きながら言った。
「みんな二十歳前後の若者だ。十七歳もいる。少年飛行兵学校を出たばかりの少年兵だ」
「どうしてそんなに若くして特攻隊員になったの?」マーリーはなお驚きを隠せない。
「このころは飛行機に乗って大空を駆け巡り敵を撃ち落すというのが子供達のあこがれだったんだ。それが特攻に組み込まれて行った。時代に呑み込まれて行ったんだよ。『自分がやらなければ』という強い意識が働いたのも事実のようだが、死にたいと思った人間は一人もいない」
「自分がやらなければというのはパレスチナの人間も同じだわ。ただ一般人を犠牲にするというのは許せない。サミーフも絶望の中で最後まで葛藤し続けた。トシローのおかげで救われたわ」
「俺がいなくても彼は引き返していただろう。彼は罪も無い人を殺せる人間ではない。彼は俺の体当たりをかわした後、逃れることが出来たが逃げなかった。ボーイング767型機は巡航速度八百六十キロメートルだ。俺の乗ったビーチクラフト・スターシップは最高速度六百二十キロメートル、彼が速度をあげて逃げれば俺は追いつけなかった。彼は仲間にそれを隠し、次は体当たりを避けることは出来ない、もう突入は不可能だと説明している。自分は間違っていた。我々は人殺しではないと言っている。この会話はコクピット・ボイスレコーダーに記録されている。
彼は渡米した後操縦の訓練学校へ何ヵ月も通っており、各種飛行機の性能は学んでいる。だから、お互いの最高速度の違いは良く知っている」
「有難う。そう言ってもらえると嬉しい。救われるわ」
マーリーは涙ぐみながら敏郎の手を握った。
コクピット・ボイスレコーダーとは航空機事故が起きた場合、事故原因究明のために搭載されているものでブラック・ボックスとも呼ばれコクピットの会話等を記録している。他にフライト・データレコーダーがあり、これは飛行機の高度や速度、エンジン回転数等詳細なデータが記録される。これらはなくてはならないものだ。航空機事故は乗員乗客全員死亡することも珍しくない。残された唯一の重要な手掛かりとなる。墜落時の衝撃や火災、海没に耐えられるように頑丈に作られている。ちなみに巡航速度とは、最も経済的に運航できる速度で最高速度はもっと速い。
一枚の写真を見て敏郎は動けなくなった。父、祐一郎だ。
「父さん!」敏郎は思わず声を発した。真剣な眼差しで見つめている。ここで見る父親は生きているような錯覚を覚えた。特攻服姿でじっと敏郎を見ている。
マーリーは思わず振り返った。敏郎の目線の先にいる人はまぎれも無く彼の父親だ。目鼻立ち口元までそっくりだ。享年二十四歳。若くて凛々しい。入り口にある特攻銅像は彼をモデルにしたものではないかと思える顔つきをしている。マーリーは黙って写真を見ていた。
敏郎は父の遺影を見て思いを巡らせた。
〈父は母とお腹にいる俺を残して飛び立って行った。沖縄まで片道六〇〇キロメートル、約二時間半の飛行だ。これまで隊員達の心を支えてくれた薩摩富士、開聞岳に最後の別れを告げ本土を後にした。それから沖縄上空まで何を考えていたのだろうか。母のこと生まれてくる子供のこと、それに、ついてくる少年飛行兵のこと。この戦争は負けると分かっていたであろうに、自分に何と言い聞かせて操縦していたのだろうか。それとも全てを振りきり突入のみを考えていたのだろうか〉・・・ 自分に分かるはずもない。父は黙って微笑んでいるような気がした。
マーリーは一枚の写真を見て
「明朝出撃だというのに」不思議な顔をした。出撃を明朝に控え、一匹の子犬を抱いた少年兵を囲み、五人の少年兵が無邪気な笑顔で写っている。
「彼らも突撃したの?」
「もちろん。次の日の早朝出撃し全員帰らなかった」
「みんな、こんなに無邪気な顔をしているのに」
マーリーは信じられない顔をした。
「仲間同士一緒にいると心強くなる。弱い心も紛らわせられるんだ。つかの間の安らぎだ。無邪気な笑顔は今の人間には分からない」
敏郎は父が特攻隊員だったこともあり、高校生の頃父の事を知ろうとカミカゼの書物を何冊も読んだ。特に同じ年ごろの少年兵の心情を察すると身震いがした。自分の意志とは関係なく死んでいかねばならない彼らに涙した。自分が同じ立場になった場合など想像も出来なかった。心の奥に突き刺さった棘として残り今でも忘れることはない。
「でも行かなければならないんでしょう」
「そうだ。逃げることは出来ない。敵が憎いわけではない。両親や家族、国を守るため。先に逝った仲間、沖縄で戦っている仲間のため『自分も行かなければ』という強い思いが彼らをかきたてたんだ」
「敵が憎いわけではないの?」
マーリーは一瞬不思議な顔をした。
「これは国と国の戦争だ。個人的に憎いわけではない」
「私達とは違うわね。私達は敵が憎いわ。怨念で戦っている」
マーリーは目を見開いて言った。
これから語り部のお話があるというアナウンスが流れた。陸軍四式戦闘機「疾風」の展示室に観客が集まりだした。二人は後に続いた。戦後米軍から第二次世界大戦で最高の戦闘機と絶賛された名機がスポットライトに浮かび上がる。機体前部の老語り部の前に観客は集まった。部屋に入りきれないくらい大勢いる。老語り部は広瀬と名乗った。
広瀬語り部は一枚の少年兵の遺影を見せながらエピソードを語り始めた。
「午前四時過ぎ、夜を徹して自分の飛行機を整備してくれている整備軍曹のそばに来てこの少年兵が言いました」
「軍曹殿、僕の弁当を食って下さい」
「いいよ、君の朝飯だろう」と軍曹は遠慮した。少年兵は
「あと三時間もたてば、突っ込むんだからいらない。腹もへってないですから」
「食えよ。腹が減っては戦が出来んぞ」
「すぐでかい空母を喰うんだから大丈夫ですよ」と笑って言うと弁当の入った風呂敷包みを渡した。午前五時〇五分、彼は軍曹に敬礼し仲間と共に飛び立った。享年十八歳だった。
広瀬語り部は観客に語りかけた。
「十八歳といえば高校三年生です。この中に高校三年生はいますか?」
四、五人の高校生が手を上げた。
「君達と同じ歳で敵艦に突っ込んで行ったんだ。信じられますか?彼は東北の出身で家族と最後の別れも出来なかったんです。悲しいことです。今の平和な日本からは信じられませんが真実です。戦争は絶対にいけません」
高校生達は「信じられない」という顔をしながら広瀬語り部を真剣な眼差しでじっと見つめた。
三角兵舎の中の写真を観客に見せながらさらに続けた。三角兵舎とは特攻隊員が出撃の前の数日間待機するところだ。敵の飛行機に発見されないように林の中にある。半地下になっており真ん中に通路、両脇が数十センチ高く、板をはってある。その上にマットを敷き、一兵舎十六人が宿泊できるようになっている。
「出撃の前夜はここで壮行会が催され、酒を酌み交わしながら隊歌をうたい、薄暗い裸電球の下で遺書を書いたのです」
手に知覧高女生たちから贈られた手作りの人形を持ち、子犬とじゃれあっているあどけない少年兵の写真を見せながら言った。
「この少年兵は子犬を抱きながら無邪気に笑っていますが、夜、壮行会で酒を飲み床についた後、軍用毛布を頭からかぶり肩を震わせていたのです。遠くの肉親に最後の別れが出来なかったことへの心残り、死への恐れで心が張り裂けそうになり涙を流したのでしょう。出撃の後、枕がぐっしょり濡れていました。彼は十七歳です」
広瀬語り部は、しんみり話した。涙を流しながら聞いている老人もいる。戦争に行ったことがないほとんどの観客も目頭を押さえている。敏郎も父の無念さを思うと胸が熱くなった。父は彼の教官だった。マーリーは言葉が分からないにもかかわらず目頭が赤くなっている。
広瀬語り部は敏郎の父の写真を見せながら語り始めた。敏郎の目は広瀬語り部にくぎ付けになった。父の話をされるとは思わなかったからだ。つい身を乗り出した。
「この人は少年飛行兵の飛行教官で結城祐一郎少佐と言います。教官になる前は、疾風に乗り何十機という敵を撃墜したエース・パイロットでした。最初は特攻の護衛をやっていましたが隊員達の技量に懸念を抱き教官を買ってでました。ここで彼らの訓練が終了した後、司令部に異動になったのですが、自分も行かなければならないと知覧基地最後の少年飛行兵四人を連れて飛び立ったのです。
亡くなったのは昭和二十年六月十一日。沖縄は雲に覆われ視界が悪かったが、たまたま雲の切れ間が出て敵艦隊を発見しました。その一瞬を見逃さず突撃しました。空母一隻、戦艦一隻 駆逐艦一隻を撃沈した。戦果を確認するため特攻機に随行した機の報告によれば、急降下し激突までわずか十秒足らずだったと報告されています。
隊長機の結城少佐が右手を大きく振り上げ突撃の合図をすると、全機一直線に突っ込んで行ったそうです。隊長機に続き二番機も空母に、三、四番機は戦艦に、最後の一機は駆逐艦に体当たりした。敵は不意を襲われあえなく沈没したと記録されています」
広瀬語り部は観客を見渡しながら話していたが一瞬敏郎と目が合った。敏郎の視線を感じたようだ。敏郎はゆっくり頭を下げた。
広瀬語り部はその後も続けて幾つかエピソードを語った。観客は皆黙って聞いていた。
話しが終わると広瀬語り部が敏郎に声を掛けてきた。
「あなたは結城敏郎さんですね。結城少佐の息子さんですね。あなたのことはテレビで見ました。サングラスをかけていても私には分かります」
サングラスを外そうとする敏郎に「どうぞ、そのままで」と広瀬語り部は気遣った。
「あなたは広瀬さんでしたね」
「そうです。ここで整備隊長をしていました。特攻隊員全員を見送りました。もちろん結城少佐や少年兵もです。少年兵が抱いているこの子犬は私が拾ってきたものです」
広瀬語り部は、写真を指差しながら言った。
「隊員たちの心の慰めになればと思ったのです。あなたのお父さんにも喜んでもらえました。少年兵のことを一番思い悩んでいましたから」
広瀬語り部は敏郎を見ながら言った。
「あなたが説得したテロリスト、たしかサミーフと言いましたね」「そうです。自殺しました」
「彼は昔ここに来たことがあります。何日も来て見学していました。私の話も熱心に聞いていました。外国人だったので記憶があります。結城少佐のことで質問されました」
「どんなことをですか?」敏郎は身を乗り出した。
「なぜ特攻に行ったのか?とかれました」
「何と説明しましたか?」敏郎は理由を聞きたかった。
「米軍は沖縄まで来ている。沖縄の人々を救うため、本土を守るため、いずれ平和な時代が訪れるのを信じて死んでいった。それに自分だけ助かるというのは許せなかった。そう伝えました。彼は黙って何度も頷いていました。彼が自殺したのも自分だけ生き残ることは出来なかったのでしょう」
敏郎は頷いた。
広瀬老語り部は続けた。
「そしてどんな気持ちで少年兵に操縦を教え、特攻に送り出していったのか、と聞いてきました」
広瀬老語り部は敏郎を見て言った。
「操縦技術だけでなく特攻の方法も教えていました。彼はそのことで大変悩んでいました。戦い方を教えるのではなく死に方を教えるのです。しかし同じ死ぬのなら戦果を挙げて死なせたほうが本望だと自分に言い聞かせていたようです。彼らもそれを熱望していました。また特攻機は二百五十キロの大型爆弾を積んでいるため自由に動きがとれません。そのため護衛の機が前後に何機もついていきます。護衛機は敵のグラマンが攻撃してきても特攻機を守るのが使命です。自由に動けず犠牲になることが多かったのです。彼の悩みは尽きませんでした。私はサミーフにそう説明しました。しかし、私にはあの時彼がテロをするような人間には見えませんでした」広瀬語り部は不思議そうな顔をした。
「確かにあの時点ではテロを起そうとは本人も思っていなかったでしょう。決心したのは今から一年前、イスラエルとの和平交渉が決裂した後です。日本の太平洋戦争の悲劇、現在の平和と繁栄、それとパレスチナの悲劇を重ね合わせ、いずれはパレスチナにも平和が訪れると信じて突入を決意したのかも知れません。絶望の中でサミーフにはそれしかなかったのかも知れませんね」
広瀬語り部は頷いた。
敏郎はマーリーにも英語で説明した。
「ラシードもそう言っていたわね。私は何も知らなかった。何も力になれなかった」マーリーは涙ぐんだ。
「男は恋人を争いに巻き込むことはしない。サミーフが君を大切にしていたからだ」敏郎は優しくマーリーの肩を抱いた。
戦争は簡単に男女の間を引き裂く。若者の青春も奪う。夢も希望も全て奪ってしまう。自分の意志とは関係なく死んでいかねばならない。戦乱の世に生まれたことを恨み、逃げることも出来ず死の恐怖と闘いながら死んで行く。人の命を奪う権利が誰にあるのか。人間の命はそんなに軽いものなのか。一度しかない人生、簡単に失って良い訳はない。
特攻だけではない。硫黄島では玉砕。沖縄では手榴弾を抱き一般人も大勢自決した。敏郎は怒りを覚えた。
「それから結城少佐については強烈な思い出があります」
広瀬語り部は話し始めた。
「あれは五月の初めでした。どんよりした日で空から雲が垂れ下がっていました。私は部下と共に訓練を見ようと外に出ていました。戦闘機のエンジンの調子や機体の動きを見るためです。我々整備の者は担当機を最高の状態に保たなければなりません。特に疾風のエンジンは高性能です。高性能エンジンは調整が難しいのです。エンジンのクセもつかまなければなりません。
その日は一対一の訓練で結城少佐は先に滑走路を飛び立ち雲の中に消えていました。少し遅れて一式戦闘機隼に乗った訓練生が離陸を始めました。その時です。訓練生の後方から四機のグラマンが接近し、二機が襲いかかってきました。離陸中を襲われればひとたまりも有りません。先頭の機が訓練生めがけて機銃を撃って来ました。私は“やられた”と思いました。
次の瞬間、先頭のグラマンが“バッ”と火を噴き、続けて二機目からも炎が上がりました。一瞬何が起きたか解りませんでした。その時、前方から疾風が急降下し火を噴いた敵機と交差して行きました。撃ったのは結城少佐です。すぐに三機目のグラマンが結城少佐を追撃しました。結城少佐は急上昇し宙返りに入りました。グラマンも続いて宙返りし追いかけました。結城少佐が宙返りの頂点にきたときです。急にエンジン音が小さくなりふらふらっと落ちてきました。私はエンジンの故障かと思い頭が真っ白になりました。するとすぐにエンジン音が大きくなり態勢を立て直し逆にグラマンの背後に付いたのです。そのグラマンもすぐに火を噴きました。つかの間、最後の一機がまたも結城少佐を追撃しました。今度は急上昇はせず左右上下にスライドしグラマンの機銃弾をかわしました。やはりエンジン不調かと思いました。するとまた機首を上げ急上昇に入りました。その時です。グラマンが火を噴いたのです。訓練生が後方から撃ってきました。全機撃墜まであっと言う間の出来ごとでした。ほんの数十秒です。私は実戦を見たのはこの時が初めてです。見事な空中戦に度肝を抜かれました。
二人が着陸すると私は走って行きました。少佐にエンジン不調のことを詫びると少佐は「エンジンは絶好調でした」と笑って去って行きました。私は何のことか解りませんでした。訓練生が近寄り説明してくれました。宙返りで失速したように見えたのは高等技術であれが出来るのは戦闘機乗りでも数えるほどしかいないそうです。俗に『木の葉落とし』という技で、これは小型軽量で機動性に優れた海軍の零戦ならではのなせる技です。大型機の疾風では難しいのです。失速状態から姿勢を立て直し敵の背後に回り込むのは至難の業です。「まぼろしの技」と呼ばれています。疾風の高性能エンジンと機体そして卓越した操縦技術のなせる業です。
そのあと左右上下に滑らせて逃げたのは敵を結城少佐に引き付けるためです。これも高等技術です。追いかける敵機も並行して機体を滑らせているため弾は逸れて行き当たりません。その間に訓練生は敵の背後に回り込みました。敵機を照準に捕捉した瞬間、結城少佐は急上昇して訓練生に機銃を撃たせたのです。敵の前にいると訓練生が機銃を撃つことが出来ませんから。それを聞いた私はベテラン戦闘機乗りのすごさに感服しました。結城少佐がエース・パイロットだというのは聞いていましたが、これほどとは思いませんでした。
それから訓練生の話では、結城少佐は普通宙返りの頂点から「捻り込み」という技で機体を右か左に捻り込み敵機の後ろに回り込むそうですが今回は木の葉落としというさらに難しい技を使いました。敵の技量を見て咄嗟に変更したのか、本当にエンジンの不調か分からないと言っていました。
私はすぐに疾風のエンジンを分解して調べましたが異常は認められませんでした。敵の技量が良かったのでしょう。それにしても瞬時に見抜くとは結城少佐はすごい人です。
それまで私の知っている結城少佐は違ったイメージの人でした。彼は戦争反対論者でした。人と人が争い殺しあうほど愚かな事はないといつも言っていました。もちろん特攻にも反対でしたが彼も軍人の一人です、戦争末期の危機的状況で一億玉砕の風潮の中で一人だけ反対し、反抗することは出来ません。当時は大本営に日本中が振り回され、社会状況やイデオロギーが現在とは全く異なります。今の人は想像も出来ない世の中でした。
彼は知覧最後の特攻が終わると司令部に異動になる予定でしたが拒否して自ら特攻に行ったのは抵抗の意味もあったと思います。彼は戦闘技術だけでなく作戦計画でも非常に優秀でしたからこれ以上隊員を犠牲にする作戦に荷担することに耐えられなかったのかもしれません。
それまで特攻隊を出しても意味がないと再三抗議していました。隊員は飛行学校で即席の訓練を受けただけで技量は未熟です。ここでの訓練には限界があります。特攻機もぼろぼろで爆弾を積んで飛び立つのがやっとの機も有りました。燃料も粗悪でエンジン性能を発揮出来ません。戦争末期には護衛機も付きませんでした。そんな状態で戦果を望むのは酷であり、現にほとんどの機が敵艦隊に近付く前に要撃機に撃ち落とされました。敵は高性能のレーダーで何十キロメートルも手前から捕捉し何倍もの要撃機で迎え撃つのです。運よく突破出来ても次の要撃隊が待っています。それを突破しても最後は敵艦の集中砲火を浴び体当たりどころではありません。特攻も初めの内は戦果があがっていましたが、末期には米軍も対応してきます。犬死にです。それでも軍上層部はやめませんでした。これは人の命は機械以下だと思っていたのです。なんという世の中だったのでしょう。
特攻隊員は死ぬのが使命です。指揮する上層部は隊員に死んでもらわなければなりません。後から続く者の士気に関わります。たとえエンジンの故障で帰ってきても“臆病者”と罵倒されます。“国賊”と口汚く罵られます。自分の隊から生きて帰る人間が多くなれば管理能力を疑われ自分の立場が危うくなるからです。こうなると戦果は二の次です。死んで行った隊員は救われません。「俺も必ず後を追う」と送り出し、本当に追いかけた人はほとんどいません。
結城少佐が飛び立った頃は護衛機はもちろん戦果を確認する随伴機も有りませんでした。突入のときは電信機のボタンを押したまま突っ込んで行きました。 “我、突入す”の合図です。信号が消えた時が激突の瞬間です。死の瞬間でもあります。それを基地の電信機で傍受します。傍受する側もたまりません。数時間前に見送った仲間が死んだ瞬間なのです。しかし本当に体当たり出来たのか本当のところはわかりません。それでも新聞では大戦果と報道されました。結城少佐の抗議もむなしく終わりました。
少佐らの護衛と随伴には仲間である教官の一人が買って出ました。その教官は自分も一緒に突撃すると言いましたが、結城少佐が許可しませんでした。生き残り平和な時代を築くために働けと言ったそうです。
その教官もその後、他の特攻基地から出撃し戦死しました。上層部に反抗した見せしめに特攻に参加させられたと噂されています。戦争も末期になると、特攻は志願ではなく命令だったのです。今考えると本当に有ったのだろうかと疑いたくなるような話です。人間はなんという愚かな生き物でしょう」広瀬語り部は唇を震わせ怒りを顕にして言った。
敏郎は黙って聞いていた。戦争の生き証人である広瀬語り部から父、祐一郎の悩み苦しみを聞かされ、戦争の悲惨さ人間の愚かさ醜さを聞かされると声も出なかった。敏郎の眉間には怒りの皺が刻まれ、それを見たマーリーは驚き息を呑んだ。敏郎は広瀬語り部から聞いた戦争の愚かさ醜さを説明するとマーリーは涙を浮かべて聞いていた。
「実は結城少佐とグラマンとの戦闘の話には続きがあります」広瀬語り部は続けた。
今から五年前のことです。一人のアメリカの老人が日本人の奥さんを連れてここに来ました。結城少佐の遺影をじっと見つめていましたが、急に大粒の涙を流し始めると直立不動の姿勢で敬礼をしました。その後二人は私に近付き結城少佐について話し始めたのです。訓練生がグラマンに襲われたときの話です。名はジョージと言いました」
『一九四五年五月初め、我々米軍は九州中部の日本軍基地を爆撃しました。私達は四機で編隊を組み他の隊と爆撃機の護衛として参加しました。爆撃が終わり空母に帰還途中、我々四機は戦列を離れ知覧に向かいました。我軍に体当たり攻撃してくる狂人達に一撃を加えようと思ったからです。発進前から打ち合わせていました。幸い知覧上空は雲に覆われ難なく近付くことが出来ました。
我々の搭乗機は米海軍のグラマンF6F艦上戦闘機で、二千馬力の強力エンジンを積んだ攻撃、防御ともに優れた最新鋭機です。向かうところ敵なしでした。一方、終戦間際の日本軍は旧式の戦闘機が多く、戦闘員も熟練者は戦死し経験の少ない若い搭乗員ばかりでした。物量、質ともに我軍の方が圧倒していました。我々は勢い掛かりました。
昼過ぎ雲の間から攻撃態勢に入ると丁度一機の隼が離陸するところでした。ここぞとばかり隊長機と二番機が後方から襲いかかりました。先頭の隊長機が機銃を発射した瞬間でした。突然隊長機が火を噴き続いて二番機も火ダルマになりました。私は何が起きたのか解りませんでした。その時前方から急降下してきた一機の疾風が火を噴く隊長機と二番機の横をすり抜けて行きました。このとき彼が撃ったのだと解りました。私はすぐに追撃しました。
急上昇し宙返りして逃げる疾風を追いかけました。疾風は左右どちらに行くのか解らない微妙な動きをしましたが、私は必死で食らい付いていきました。頂点付近に差し掛かった時です、急に姿が見えなくなりました。一回転して水平に戻った時、私の左側頭部に衝撃が走りました。同時に血しぶきが操縦席の風防に飛び散りました。右主翼から炎が上がりました。この時も私は何が起きたのか解りませんでした。やられたのだけは確かです。その時、私の横を疾風がすり抜けて行きました。彼にやられたと思いました。何とか姿勢を立て直し海上へ向かいました。幸い意識ははっきりしており炎も消えましたが、エンジンにも被弾し止まる寸前でした。
その時後ろから機銃弾が飛んで来ました。先ほどの隼です。曳光弾が赤い筋を引きながら横をすり抜けて行きました。数発が翼に当たり燃料が漏れだしました。私は観念しました。その時です。疾風が間に割り込み隼の射撃を遮りました。疾風は接近してくると操縦士はじっと私を見つめました。〈大丈夫か?〉と言っているようでした。私は咄嗟に彼に敬礼をしていました。彼らはすぐに引き返していきました。私は東シナ海へ不時着しました。機は海中に沈み、それから四、五時間漂流しました。日も傾き出血で意識も薄れ「もうこれまでか」と思いました。
仰向けになり波間を漂いながら空を眺めていると、疾風に撃たれたこと、疾風に救われたことを思い出し、自分はまだ生きている、生かされていると感じました。銃弾があと数センチずれていれば、結城少佐が助けてくれなければ、私は確実に死んでいたでしょう。生きたいという欲望が湧いてきました。必死で薄れ行く意識と闘いました。
それから間もなく味方の偵察機に発見され近くの潜水艦に救助されました。基地で治療したあとアメリカ本国に送還され、三カ月後終戦になりました。これらの経験が現在まで私を支えてきました。苦しいときにはこのことを思い出します。
あの時は疾風の操縦士が結城少佐だとは知りませんでした。ここで教官をしていることも知りませんでした。分かっていれば不用意に追いかけなかったでしょう。我々だけで攻撃しようとは思わなかったかも知れません。基地で治療している時、見舞いに来てくれた上官から彼であったことを知りました。生きて帰ったのは自分一人というのもその時聞きました。
結城少佐は我々パイロットの間でも有名でした。彼の動きには無駄がありません。空中戦では、仲間はあっという間に追い詰められました。やっと捕捉したと思うといつの間にか後ろに回られているのです。我々は彼を殺人マシンと呼んでいました。でも本当の彼は殺人マシンではありませんでした。特攻隊員達も狂人の集団だと思っていましたがそれも違いました。戦争が人間を狂わせ、追い詰めていったのです。
太平洋戦争は日本が国家の生命線と位置付ける満州権益を守るため、またそれを阻止し日本を封じ込めようとするアメリカに対抗して始めたものです。絶望の中から光を見いだすために始まったのです。そう仕向けたアメリカにも責任はあります。一度始まると人間は狂ってしまうのです。アメリカは原子爆弾を広島と長崎に投下しました。太平洋戦争では日本だけで三百万人以上が死んだのです。今考えると信じられないことです。戦争はお互いの努力で回避できます。戦争の傷はあまりにも大きすぎます。
結城少佐が特攻で亡くなったことは戦後に知りました。今、私は七十三歳になりました。体が動けるうちにと思い今回知覧を訪れました。少佐の遺影を見たとき、ここ知覧上空での戦闘と傷ついた私を助けてくれた時のことが蘇ってきました。彼はあの時と同じ目で私を見つめていました。〈無事でよかった〉と言っているようでした。私は涙が溢れだし咄嗟に敬礼しました。私を助けたのは武士の情けというのでしょう。勝負はついていましたから。彼はサムライでした。私は妻に日本人を選びました。今、私は幸せです』
「ジョージは話し終えると奥さまの肩を抱き寄せ目を見て微笑みました。奥さまも微笑み返しました。私は嬉しかったです。ここは悲しい思い出ばかりではないと思いました。肌の色、国籍が違っても人は変わらない。愚かな半面、人間はいいものだと思うようになりました。その後二人で大分県日田市にある結城少佐の墓参りに行くと言って帰りました」広瀬語り部は微笑みながら言った。敏郎は頷
いた。
これは敏郎にとって初めて耳にする話だった。勇敢で心の優しい父だったとは母から聞いていたが、サムライと呼ばれる存在とは知らなかった。敏郎はじっと父の遺影を見た。〈一度でもいい父の胸に抱かれて見たかった。遊んでみたかった〉敏郎の頬に涙がつたった。
敏郎とマーリーは広瀬語り部に別れを告げると平和会館を後にし富屋食堂へと向かった。
特攻隊員が利用した富屋食堂は今記念館になっている。遺品や写真を展示し当時を再現している。平和会館から約一、五キロメートル離れた町の中にあり昨年の十月オープンした。偶然か九月十一日同時多発テロの次の月だ。
二人が記念館に入ると広瀬語り部がやって来た。
「やはりここでしたか。ちょっと用事があったので立ち寄って見ました」
「特攻の母と呼ばれている鳥濱トメさんは亡くなられているようですね」
「一九九三年四月二十二日、八十九歳でこの世を去りました。ここには私にとって忘れられない思い出があります」
広瀬語り部は話し始めた。
「出撃前夜、新潟県出身の宮川軍曹がここに来ていました。この日六月五日は彼の二十歳の誕生日でした。トメさんは手料理で誕生日を祝い出撃のはなむけをしました。
窓の外は蛍が飛び交っていました。宮川軍曹はそれを見て『小母ちゃん、おれ明日の夜蛍になって帰ってくるよ。追っ払ったらだめだよ。帰ったらみんなで同期の桜を歌ってくれよ』と言ったそうです。そして次の日の早朝出撃しました。
その夜窓を開けていると一匹の源氏ホタルが光を放ちながら入ってきて梁にとまったんです。トメさんが『宮川さんが帰ってきたよ!』と言い、私達はみんなで同期の桜を合唱しました。涙が止まりませんでした。結城少佐も一緒にいましたが涙を流していました。そして五日後に知覧最後の特攻として出撃しました。戦争は悲しいです」広瀬語り部は涙をぬぐいながら話した。
「二十歳にも満たない若者が、なぜ自分の意志とは関係なく死んで行かねばならなのですか。前途有望な若者がです。しかも他人の命令によってです。私は四〇二人の若者を見送りました。二時間半後にはみんな死んでいくと分かって見送るのです。やり切れませんでした。戦争とは一体何ですか?」こみ上げる怒りを押し殺しながら言った。
「私は戦争を知りません。もし特攻がなければ私の父も死ぬことはなかったかも知れません。残念でなりません」敏郎も同じ気持ちだった。
「人間は一日でも長生きしたいものです。どんなに歳をとっても変わりません。私もそうです。辛いことはあっても本当に死のうと思ったことは一度もありません。人間は自然に寿命が尽きるまで生きなければなりません」
「今でもパレスチナでは戦争が続いています。パレスチナでは若い自爆テロリストが後を絶ちません」
「悲しいことです。人間は何百年、何千年も同じ殺し合いを繰り返して来ました。目を覚まさなければなりません。しかし、民族、宗教の違いによる壁は人間にとって乗り越えなければならないとてつもなく大きな試練なのですね。日本は戦争に負けた後、素晴らしい民主主義国家を作りあげました。しかし、これとて永遠に続くとは断言できません。近隣の国が日本を威嚇したり、実際に攻め込んで来たとき我々はどう対応するのでしょうか。
ここにいても感じます。訪れる人も戦争を知らない人が多くなりました。彼らは戦争の痛みを知りません。やられればやり返し同じ過ちを繰り返すのでしょうか。私は語り継いで行くことで戦争の悲惨さや悲しさを伝えることが自分の使命だと思っています。世界中の人がそれを感じてくれれば戦争は起きないと思います。戦争はもうこりごりです」広瀬語り部は自分自身に言い聞かせるように言った。八十歳は優に超えているであろう額に刻まれた深いしわが苦悩を感じさせる。
隣は富屋旅館になっている。訪れた遺族の人が泊まれるようにとトメさんが始めたものだ。昔風の小さな旅館だ。二人はそこに泊まった。
敏郎は床に着くと様々な思いが脳裏を駆け巡った。特攻で亡くなった兵士、その遺族の方々の姿が脳裏に浮かんだ。そこからは悲しみや辛さしか出てこない。
敏郎は自分の思いや人生を反省した。
これまで人間は常に進歩し続けてきた。様々な試練を乗り越え現在までやってきた。戦争は科学技術に大きな進歩にを与えた。市街地への原子爆弾の投下によりその恐ろしさを知り、二度と使用してはならないとの教訓も得た。しかし、まだ教訓を生かしきれないものもある。平和利用のはずの旧ソ連チェルノブイリ原子力発電事故による放射能汚染。今後何処かで同じような事故が起きても不思議ではない。本来人々を救うはずの宗教が争いの原因となっている。過去何百年、何千年も繰り返し終わる気配はない。
これらは全て人間が永遠に生き抜いていくための通らなければならない試練であると人ごとのように思っていた。神が与えた試練で有ると思っていた。しかし、特に二十世紀に入り人間は全速力で走り過ぎているような気がする。人間のエゴが暴走を始めて止まらなくなっている。あまりにも犠牲が大きすぎる。人ごとでは済まされない。
これまでぬくぬくと平和な世界で自由を享受し人生を謳歌してきた自分が恥ずかしく思えた。自分は仕事を通じて社会の役に立っていると思っていたが独り善がりだったのか。父、祐一郎ならどうするのか? 敏郎は悩んだ。
次の日、敏郎はマーリーと一緒に生まれ故郷の大分県日田市に向かった。父や祖先の墓参りをするためだ。日田市は大分県の西方内陸部、福岡県との県境に位置する。実家は日田城跡のすぐ近くにある。登城口まで歩いて数分だ。家には誰も住んでいない。母は六年前にアメリカの敏郎の家に移り住んだ。
墓は七十五歳になる叔父が守っている。きれいに掃除され花が飾られていた。結城家の祖先が眠る。父、祐一郎の遺骨は無いが、以前母が沖縄に慰霊祭に行ったときに持って帰った海辺の小さな石が入れられている。敏郎は墓の前で目を閉じ手を合わせた。
木造の家屋は年月の経過で古びているが庭や周りの風景は昔と変わっていない。叔父が手入れをしてくれているのか庭には雑草もなく昔のままだ。
〈日田城跡も昔と変わっていない〉敏郎はそう思いながらマーリーとお城の長い石段を上がった。風もなく温かい日だった。正月が過ぎたばかりだというのにセーターの下が汗ばんでくる。所々に植えられた古木の梅の枝に早くも小さな蕾が付いている。幹に付いた苔が子供のころより多く感じた。〈やはりここを離れて四十年近くになるのか〉敏郎は感慨にふけった。
すれ違う人と軽く挨拶をかわす。小学生が四、五人はしゃぎながら二人を追い越して行った。登りつくと眼下に城下町が広がる。子供の頃ここで遊んだ。
マーリーが言った。
「平和な町ね。人々は穏やかな顔をしている。子供たちは無邪気で戦争なんて縁の無い世界ね」
「俺は終戦後すぐに生まれた。子供の頃は貧しかったが、今の日本人はゆたかな生活をしている」
「私達の世界とはあまりにも違いすぎる。日本は民主主義国家の見本ね。貧富の差がない。日本では不況と言っているけど中東の国々とは次元が違いすぎるわ。イギリスやフランス初め欧州の帝国主義の植民地からやっと解放されたと思ったのもつかの間、今度は独裁者に押さえつけられる。民族、宗派の対立も多く国は疲弊し人々は不満が溜まっている。何時かは爆発するわ。民主国家は何時になったら実現できるのかしら」マーリーは、無力感に襲われたような口調で言った。彼女にとって、ここは遠い遠い夢の世界なのだ。
「ここまで来るには大変な努力をしてきたんだ。戦争に敗れた後、欧米に追いつき追い越せと一致団結してきた。いきなりなったわけではない」
「私達も努力すればこんな世界が作れるのかしら?」マーリーは半信半疑で敏郎に問いかけた。
「当然だ。誰かがやらなきゃあならない」敏郎は力づけるように言った。
「そうね。頑張るわ。あれだけ悲惨な戦争を体験し、全てを失った日本もここまで復興して来たんだから私達も不可能ではないわ。でも一時でも平和な世界に浸れるのは幸せね」
マーリーは祖国のある西の空を仰ぎ見た。
敏郎はそんな彼女を見ていると罪悪感を感じた。このまま見過ごしてもいいのか? 自分に何か出来ることはないのか? アメリカに帰って彼女たちのために何か出来ないのか? 何が出来るのか?敏郎も同じ空を見つめた。
この日は叔父の家に泊まり、敏郎は次の日再度墓参りをしたあとアメリカに帰ることにした。マーリーはエリコに帰ると言った。
そのことを知らせるため敏郎はラシードに電話をした。アジトで会ったアントンが出て、『ラシードが拉致された、アルカイダ系のグループからアジトが襲われ銃撃戦になった。ラシードは負傷し連れて行かれた。自分は不在で難を逃れた。犯人達は敏郎を差し出す様に要求しているが、アメリカに帰った、連絡が取れないとつっぱねている。ラシードのことは心配しなくても良い、我々が解決する』と言った。
アルカイダとの戦闘
敏郎は迷わずマーリーとテルアビブ空港に飛んだ。到着ロビーを出るとマーリーがアベドのタクシーを呼んだ。敏郎が前回拾ったタクシーの運転手だ。すぐにアベドが到着した。
「どうしたんですかい。日本に行ってたんじゃあないんですかい。そのままアメリカに帰ると思ってましたが」
タクシーに乗り込むとすぐにアベドが聞いてきた。
「実は問題がおきて戻ってきた」
敏郎はアドベの目を見て言った。アベドは敏郎の視線の奥にただ事ではなさを感じた。
「あっしにお手伝い出来ることですかい。こう見えてもパレスチナ人です。パレスチナのためなら体をはる覚悟は出来ていやす。幸い独身ですから心配することは何もありやせん。何でも言って下せえ」
「分かった。君の力を借りたい」
アベドは世界の英雄、敏郎が自分を必要としていることに精神が高揚した。敏郎はラシードの仲間について聞いた。アジトはもう使われていないはずだ。
「仲間なら分かると思いますぜ。タクシー仲間の連絡網があるんでさあ。彼らは自分達の車では危険なときタクシーを使うんですよ」
アドベは仲間に連絡を取った。すぐに返事が帰ってきた。
「彼らの車が出入りしているところにお連れしやす。我々の情報網も捨てたもんではないでしょう」アベドは自慢げに言った。
アベドが連れて来たところは前のアジトとサミーフの母親の家をはさんで反対側にあった。周りはごみごみした繁華街の裏手になる。
車を止めて様子を伺っていると、電話に出たアントンが周りを警戒しながら小走りに古びた二階建てのアパートに向かった。敏郎とマーリーはすぐ後を追った。アントンは二人に気付くと驚いて一瞬立ち止まった。すぐに手招きすると二階の部屋に案内した。
アントンは話し始めた。
「私がアジトに戻ってくると、犯人からラシード拉致の電話がありました。丁度そのあとあなたから電話が掛かってきました。目的はあなたです。どうして戻ってきたのですか」
アントンは困ったように頭をかかえた。敏郎を差し出せば必ず命が奪われる。彼はサミーフのテロを思いとどまらせた英雄としてエリコの人たちに尊敬されている。差し出すわけにはいかない。苦渋の選択に色白の顔が曇る。
続けて言った。
「我々は常に命を懸けています。ラシードの救出には全力を尽くしますが彼も覚悟は出来ています」
「それは俺も同じだ。覚悟は出来ている。彼には命を助けてもらった。見殺しには出来ない。俺が目的ならなおさらだ。敵のボスにはどうやって連絡をとる」
「前のアジトに電話が掛かれば転送されるようになっています」
アントンは敏郎の意志の強い性格をすぐに悟った。人間の中には目的達成のためには自分の命を顧みない人間がいる。敏郎もその一人だ。迷いが無い。
「我々も戦います。このアパートには仲間が七人潜んでいます。他にもアジトは数ヵ所あります。あなたのことは命を懸けて守ります」
アパートは一階、二階に各三室あり茶色っぽいレンガ造りになっている。二階の一室に武器庫があった。自動小銃AK47に各種手榴弾それに迫撃砲、歩兵用ロケット弾にナイフ等、壁や床に整然と並べられている。製造国はばらばらで手当たり次第購入した様子がうかがえる。隣には小さな倉庫があり山岳用オートバイが数台隠されていた。オートバイは使い勝手が良く、特に緊急時の行動には欠かせないのだと言った。
マーリーは、サミーフの母親のことが心配だと言って帰って行った。二人はアルカイダ一派の連絡を待った。
数日後ボスから連絡があった。敏郎はラシードとの交換条件に即応じた。ボスは驚いたが小躍りして場所を指定した。アントンは交換に反対したが敏郎は聞かなかった。
交換はエリコの東、ヨルダンの国境で行われることになった。敏郎の意向でお互い付き添いは運転手を除き一人とした。大勢では予期しないことが起きかねない。アントンを同行した。
国境まで車で一時間弱。国境手前で左折した後、原野の中を何処までも続く道路を走る。車は全く通らない。何があっても気付かれることはない。敏郎を乗せた車は土誇りをあげて進む。
道路沿いに大きな岩がありそこから一キロメートル走った所だと言った。高さ一〇メートルはあろうかと思える、むき出しの大きな岩はすぐに見つかった。交換場所に近づくと道路から外れた原野の中に四輪駆動のバンが止まっているのが見えた。我々に気がついたのか大きく手を振って合図をしてきた。
敏郎の顔に緊張が走った。自動小銃AK47を持つアントンの手に力がこもる。いよいよだ。腰の高さほどのブッシュが点々とある中を三人を乗せた日本製の4ドアピックアップトラックはゆっくり進んだ。ブッシュが途切れ赤土が露出しているひと際広い場所に敵のバンは止まっていた。
着くと目隠しをされ両腕で松葉杖を突いたラシードが一人の兵士に左腕を支えられて立っていた。かなり重傷のようだ。ズボンの左脚部が切り取られ、むき出しになった左太股に巻かれた白い包帯が痛々しい。血が滲み大きく腫れ上がっている。かなり衰弱しているようだ。頭をだらりと垂れ上体を松葉杖にもたれかけている。双方とも自動小銃AK47を構え警戒する。
交換が始まった。間合いは二十メートル。敏郎は一人で歩いた。兵士に付き添われたラシードは足元の悪い中、松葉杖を突き弱弱しい姿でゆっくり歩いて来た。擦れ違うとき一瞬立ち止まり「トシロー」と声を絞りだした。目隠しの下から無念の涙が光って見える。
「気にするな、俺は運命に従うだけだ」敏郎は励ますように力強く応えた。
交換が終ると敏郎は手錠をはめられた上、目隠しをされ車に乗せられた。車は走り出した。どうやら南下しているようだ。肌に感じる太陽の位置でおよその方向が分かる。
走り出して三十分くらい経った頃、敏郎は自分の置かれた立場を冷静に判断できるようになった。この状況で捕虜として連行されるということは、生きて帰れる保証はない。恐らく処刑され彼らの宣伝に利用されるだろう。
サミーフの操縦する旅客機へ突入の時には、ホワイトハウスへのテロ攻撃を阻止することで無我夢中だった。ラシードとの人質交換の時は、自分の身代わりとして捕まった彼を見捨てるなど出来ることではなかった。躊躇出来る状況ではなかった。
今、自分は敵の手中にある。出来れば脱出したいが、手錠をはめられ目隠しをされた無防備の状態の上、脇腹には拳銃が付きつけられている。逃れる術もない。座っている後部座席窓側のドアは開けることが出来るが飛び出してもすぐに捕まってしまうだろう。
妻、ナンシーの顔が頭に浮かんだ。日本からアメリカに帰る予定を変更し、再びパレスチナに向かうことは電話で伝えたが本当の理由は言っていない。しかし長年連れ添った敏郎のことはナンシーが良く知っている。それなりの大事な理由があるに違いないと思っているだろう。危険な目に合わなければ良いがと心配しているに違いない。それだけに心が痛んだ。
彼女と結婚して二十五年が経つ。会社を設立した後、経営も落ち着いた今から十年ほど前、サンフランシスコのレストラン「アクア」で彼女の誕生日を祝った。次の日はレンタカーを借りてロサンゼルスのサンタモニカの海岸を散歩した。九月の風は涼しくて気持ちが良かった。長いブロンドの髪を風になびかせたナンシーはきれいだった。ハリウッドではコダックシアターの階段を上がった。二人とも映画俳優になったようだった。ナンシーはポーズをとっておどけて見せた。両手で髪を掻きあげながら「私はジュリア・ロバーツよ! アンジェリーナ・ジョリーに見えるかしら」二人は新婚時代に戻ったようだった。たった二日の休日だったが今でも忘れられない。
息子の敏和も自分のことを案じているだろう。エリコに出発の時、二度と危険な事は止めてくれと言った。父さん一人の命ではないと言って送り出してくれた。彼ももう二十歳を過ぎた。大学では生物学の勉強をしている。人類のためになる仕事をしたいという夢をもっている。将来は大学に残り遺伝子の研究を通じてメーカーと共同で人間の病気を治す薬の研究開発をしたいと言っている。目を輝かせながら酵素やタンパク質の話を夢中で話してくれた。難病が治るのだという。良く理解出来なかったが話を聞いているだけで幸せになった。
母は六年前、日本からアメリカに引っ越し今年で七十九歳になる。もう心配はかけられない。長い間日本で一人暮らしをさせこれからは親孝行をしなければと思って呼び寄せた。本人は近所の仲間や訪ねてくれる教え子に囲まれ幸せに暮らしていたようだが、呼び寄せるには年齢的にも限界だと思い無理を言って来てもらった。自分が死ねば落胆も大きいだろう。親不孝はしたくない。
仕事は同時テロ以降も順調に行っており、スコットも信頼できる男だが、操縦士にメカニック、事務員に宅配等の関連会社を含め三百人を超す社員をまとめていくのは大変だ。顧客との対応も気になる。
様々な思いが頭を駆け巡る。出来ればこのような事態は断じて避けたかったがこれも運命か。敏郎は車で揺られながら心が動揺した。
一時間半ほど走るとアジトに着いたのか車から降ろされ両脇を抱えられ歩いた。銃で撃たれた左腕はほとんど痛みを感じない。マーリーの献身的な治療のおかげで傷は回復しているのか、それともこれから起きる出来事に体が反応し麻痺しているのか。
目隠しと手錠を外されると部屋の中だった。意外にもボスは敏郎を暖かく迎えた。四十歳代前半で油がのりきり自信に満ち溢れた顔をしている。カーキ色の軍服を着て腰には拳銃を下げている。体格が良く背恰好は敏郎と変わらない。
彼は旅客機に体当たりしテロを阻止しようとした敏郎の勇敢さと彼の父、祐一郎のカミカゼに畏敬の念をいだいていた。敏郎はテロリストの間でも英雄として扱われている。カミカゼも有名だ。
「トシロー、私の部下があなたを襲ってすまなかった。彼らの勇み足だった。我々を攻撃するためにエリコに来たものと勘違いしたようだ。それにしても仲間四人全員を倒すとは、あなた達たちは凄腕のようだ。
サミーフはアメリカへ出発前、訓練のためしばらくここにいた。その時お父上のことを尊敬していたのを知っている。あなたの勇敢さは我々も敬意を払っている。あなたの力を貸してほしい。そしてアメリカと戦って欲しい。作戦参謀になってくれないか」
首領は世界の英雄、敏郎を目の前にして興奮して言った。
「残念だが俺はアメリカと戦う意思はない。君達のやり方は間違っている。一般市民を巻き添えにしたテロに協力はできない」
敏郎は自分の意志をはっきり伝えた。自分が第二の祖国と信じているアメリカを敵に回し、一般市民を攻撃するなど考えられないことだ。
「確かに間違っているかも知れない。個人的には決して容認はしていない。しかしイスラエルの横暴は許せない。このままでは我々が安心して暮らせる地は永久に手に入れることは出来ない。アメリカがイスラエルの支持をやめない限りパレスチナに平和は訪れない。アメリカを攻撃して世界の目をこちらに向けさせなければ光は見えない。パレスチナの惨状を世界の世論に訴えるのだ」
「君たちの仲間にはなれない。武力では解決出来ない」敏郎はさらに言った。ここまで来て迷うことは何もない。後は運命に従うだけだ。死ぬ時は日本人として堂々と死にたい。父、祐一郎に恥ずかしくない死に方をしなければならない。
ボスはしばらくこめかみに手を当てじっと考えていた。手を外すと言った。
「分かった。時間を与えよう。ゆっくり考えてほしい。最初から快い返事をもらえるとは思っていない。ゆっくり考えれば我々のことを理解してもらえるはずだ。あなたほどの男だ、私は慌てない。考えが変わるまで待つつもりだ」
敏郎は部屋に監禁された。バラック建ての兵舎で十畳ほどの部屋の真ん中に机とイスが二つ、角にベッドがあった。バス、トイレが片隅にある。部屋の外には銃を持った兵士が二人常に見張っていた。
見張りの兵士の一人が夕食を持ってきて机の上に置き食べるように促した。パンとジャガイモ、ナス、それにタマネギを煮込んだもので味は美味である。
「あなたは客人待遇です。大切に扱えと言われています。ゆっくりくつろいで下さい。ボスは悪い人間ではありません。自爆テロリストも進んで送り出したことはありません。本人の強い要望によるものだけです。ボスはアメリカを憎んでいますが、一般市民を巻き添えにするのに抵抗を感じています。敬虔なイスラム教徒なのです」
微笑みながら言った。名をエミールと名乗った。背が高くスリムで精悍な顔つきの中に少し幼さが残っている。
「君は若く見えるが幾つだね」敏郎は尋ねた。
「私は十七歳です。外の彼は十八歳です」
「そんなに若いのに兵士になったのか」敏郎は驚いて言った。
「今は全員が立ちあがっている。日本も昔、若い特攻隊員がアメリカの戦艦に突撃したと聞いています。その結果今は平和な国になっている。誰かがやらなければならない。我々も礎になるんだ」
興奮しながら目を輝かせた。
「そのために一般人を犠牲にするのは悪い。サミーフもそれで思い止まったんだ。日本の少年兵も君たちと同じだが、人質を巻き添えにはしない」敏郎は若いエミールの一途な熱情を感じながら反論した。
「我々には、戦闘機が無い。ハイジャックしなければならないんだ。アメリカに天誅を加えるにはこれしか方法はないんだ」
「日本の少年兵は、決して喜んで逝ったのではない。悩み、苦しみ、死への恐れを克服して散ったんだ。両親や家族に最後の別れも言えずに出撃した。君が憧れるような存在ではない」
「我々は憎しみで出撃する。自分は死ぬのは怖くない。アッラー(神)がついている。あの世に行けばアッラーの下で幸せになれる」エミールは両手を握り締め力を込めて言った。
「それは間違っている。憎しみは憎しみを生む。世界の人々は決してパレスチナに同情はしないだろう。それに君たちの神は罪の無い人を殺すのは禁じているはずだ」敏郎は諭すように言った。
「このままでは我々の生きる道はない。追い詰められているんだ。彼らは悪魔だ。後からやってきて我々を追い出そうとしている。今も大勢の仲間がイスラエル兵に殺されている。戦闘機や戦車で一般市民も殺されている。子供や老人も見境が無いんだ。アメリカが彼らを支援している限り我々には絶望しかないんだ。一九八九年、旧ソ連との冷戦終結以来アメリカの一人勝ち状態になった。軍事費も世界の三分の一以上を占めている。今も金に飽かせて増強している」
エミールの言葉には危機せまるものを感じた。確かにアメリカの国内総生産は空前の好況下にある。クリントン前大統領が二〇〇〇年の演説で「我が国の状況は史上最強」と誇ったことをみても分かる。敏郎は黙って聞くしかなかった。サミーフがハイジャック・テロに走ったのも無理からぬことかも知れないと思った。
「アメリカのユダヤ人は六〇〇万人と言われている。彼らは金も地位もある。大統領選挙では無視出できない存在なんだ。残念ながら所詮アメリカ大統領にとってパレスチナは小さな存在だ」敏郎も悔しそうに言った。
「だから我々は、世界の目をこちらに向かせるために、アメリカをテロ攻撃するんだ」
「逆効果でしかない。ユダヤ人は自分の国を持たず何千年も放浪の旅を続けた末ドイツで何百万人も虐殺された。彼らに対して同情をする人達もいる。一般人を標的にするテロに目を向け同情する人はいない。アルカイダの指導者オサマ・ビン・ラディンや彼をかくまうタリバンへ武力による壊滅にほとんどのアメリカ人が賛同している。国民を敵に回してはだめだ」
エミールは静かに考えていたが寂しく言った。
「あなたには我々の苦しみが理解できない。ガザに住んでいた私の父母兄妹はイスラエル軍の戦車で殺された。他のメンバーの家族もイスラエル兵に殺された」
そして大声で叫んで出て行った。
「インシャー・アッラー」“神のお導きのままに”という意味だ。今、エミールを支えているのはこの言葉だけだ。
第二次世界大戦後、一九四八年にユダヤ人の国イスラエルが建国された。それからパレスチナ住民の悲劇が始まった。ユダヤ人過激派に女や子供それに非戦闘員が襲われ虐殺された。土地を追い出され難民となった人々はゲリラとなって対抗した。しかし、イスラエルは占領地をさらに広げ、争いはひどくなって行った。
一九六四年、PLO(パレスチナ解放機構)が結成されゲリラ活動を活発に行うが限界を感じ、次第に和平の道を探るようになった。お互い争いに疲れ共存の道を探り始めたが交渉は難航し、二〇〇一年二月イスラエルにタカ派リクード党シャロンが首相に就任すると和平の扉は完全に閉ざされた。
次の朝、エミールは朝食を持ってくると机の上に置き、敏郎と目を合わせようともせず黙って出て行った。敏郎はアメリカや日本では到底感じることの出来ない疲労感に襲われた。ここには両親兄妹を殺され憎しみに燃える小年兵がいる。パレスチナには同じ境遇の人々が大勢いる。半世紀以上もの間戦い苦しみ続けている。エミールの言ったように彼らの気持ちは到底理解できない。
知覧で見た日本の少年達は戦争も知らず、何不自由なく平和に暮らしている。アメリカも大差ない。自分も戦争に行ったことはない。誰が彼らのことを非難できるのだろうか。復讐に燃える彼らに何と言えばいいのか。敏郎は自問自答し自分の過去を振り返った。
小学校の教師を務める母に育てられた敏郎は裕福ではなかったが、伸び伸びと育った。小学校の頃は現在のように勉強を強要されるわけではなく、近所の子供たちと小川で魚を釣ったり、鳥もちで小鳥を捕まえて鳥かごで飼った。道端の草で毎日小鳥の餌を作り与えた。次第に馴れてきて外に出しても戻って来るようになった。小鳥が愛しく思えた。
中学校では高校受験のため勉強をした。この頃からアメリカを意識するようになった。ジョン・F・ケネディーが四十三歳という若さで大統領に当選し、日本でも大ニュースになった。特にこの頃はアメリカと旧ソ連の世界の覇権争いで一触即発の状態にあった。一歩間違えば第三次世界大戦も起きかねない危機的状況だ。核戦争が起きても不思議ではなかった。その中での若いケネディーの大統領当選は世界中を驚かせた。
保守的な日本に比べて全てが革新的でダイナミックなアメリカは敏郎の心を捉えた。それから現在まで平和な世界で伸び伸びと生きてきた。
パレスチナでの経験は敏郎の常識を一変させた。ここでは先進国のまともな感覚は全く通用しない。戦火の中で生まれ憎しみの中で育った彼らとは所詮、社会に対する認識がまるで異なるのだ。
ここは日本の太平洋戦争の末期と同じ状態だ。敏郎の中の何かが目覚めてくるのが感じられた。このまま何もせずにもとの生活に戻ることは出来ない。
エミールが昼食を持ってきた。机の上に置くと黙ってイスに座った。敏郎を見て静かに語り始めた。
「我々はイスラエルと戦っている。一般市民を無差別に殺す彼らを絶対に許すことは出来ないが、我々がアメリカの一般市民を標的にして良いとは思わない。殺された人の肉親は深い悲しみに包まれる。敏郎の言うように憎しみだけしか残らない」
エミールは悩んでいた。
「アメリカが後ろにいる以上アラブが手を組んでも勝ち目は無い。アラブはアメリカの世界戦略の中に組み込まれている。狡猾な敵には世界の世論に訴えかける意外にない。心情に訴え共感を呼ぶんだ」
敏郎は力を込めて言った。
「確かにアルカイダがアメリカのワールド・トレード・センタービルや国防総省ビルに突っ込んでいき世界の人々の反感を買った。アメリカはテロ攻撃には容赦はしない。イスラエルがパレスチナの過激派ハマスの自爆テロ攻撃に対して徹底して我々を攻撃するようになってきた。我々が攻撃されても同情をする人はいない。以前ならインティファーザ(民衆蜂起)で世界中の目を向けさせることが出来たが今は違う。お互い様と思われても仕方がない」
エミールは焦燥感を漂わせながら言った。
「テロ組織に対して徹底的に攻撃する。それに反感を持ちテロで応酬する。きりがない。このままでは世界中のイスラム教徒がアメリカや属国に対してテロを行うようになるだろう。イスラム教徒は他の文明を受け入れないところがあるからな。君は若いのに良く理解している。生き方を変えるべきだ」エミールを見ながら敏郎は言った。
「私はサミーフの行ったカイロ大学で勉強しパレスチナ国家を作るのが夢だったんだ。自分と同じような若者が大勢いる。しかし今は夢が破れて自爆テロに走っている。このままでは夢は永遠にかなえられないと思う。しかしどうしていいか分からないんだ」エミールはもがき苦しんでいた。
「パレスチナとイスラエルの関係は武力では解決できない。根本的にやり方を変えないと解決は難しい。君に出来ることを考えてみよう」敏郎はエミールを見つめて言った。エミールは敏郎の言葉を良く理解できないままただ黙って頷いた。
「敏郎、ここから逃げましょう」
エミールは突然真剣な眼差しで言った。
「ここから逃げられるのか?」
「今晩、ボスがアルカイダの幹部と会うためにここを出るんです。あなたを確保したことで呼び出しがありました。幹部はサウジアラビアの支援グループの所にいます。ボスはあなたと共に戦いたいと思っていますが、アルカイダは処刑を主張するでしょう」
「確かにそうだと思う」
「ボスはあなたを処刑することはありません。そのために行ったのです。我々はアルカイダと密接な関係にありますが、下部組織ではありません。命令に従う義務はありません。ここではテロリストを訓練して送り出すことが出来ます。格闘技や武器の使い方はもちろん、諜報活動も専門的に教えることが出来る貴重な組織です。アルカイダにとっても価値ある組織です。ボスの意見は無視できません」
エミールはそういった後付け加えた。
「それでも交渉は難航するでしょう」
「たぶん決裂するだろうな。でも、俺が逃げれば君の責任になるだろう」
「私も一緒に逃げます。敏郎一人では不可能です」
確かに未知の荒野を一人で逃げることは出来ない。
「我々が逃げれば後はどうなる」
「アルカイダは追いかけます。ボスは阻止するでしょう。戦いになります」
「それなら逃げない。俺も戦う」
「戦いになれば死者が出ます。敏郎も危険です」
「当然だ。自分だけ助かるわけには行かない」
「分りました。明日の結果を待ちましょう」
敏郎は逃げるような性格でないことは、エミールもよく知っている。サミーフの旅客機に体当たりを仕掛けホワイトハウス突入を阻止したこと、ラシードとの身柄交換に即応じたこと、命を掛けたこれらの行動はエミールの心をしっかり捉えていた。
次の日の夕方、エミールが慌てて部屋に飛び込んできた。
「敏郎すぐここから出ましょう。ボスからの命令です。私が先導します」
「どうしたんだ」
「決裂しました。ボスは今こちらに向かっています。すぐ逃がせとの命令です。アルカイダとの戦いになります」エミールは息を切らせながら興奮した口調で言った。
「俺は逃げない。みんなを犠牲にして逃げるわけが無いだろう」
「敏郎の命は我々が守ると言っています。敏郎にパレスチナのために力を貸してほしいと思っているのです」
「ならば戦うしかないだろう。敵に後ろを見せれば返って勢い付かせる」敏郎は武者震いした。
「分かりました」エミールは敏郎の気迫に感動し次の言葉を待った。
「副官と会わせてくれ」
「副官は、ボスと一緒です。指揮を執れる人間はいません」
「それでは、俺が指揮を執る。武器は何がある」
実は敏郎は戦闘とは全く無縁ではなかった。大学院を卒業した一九七一年、敏郎二十五歳の時だった。ベトナム戦争も終わりに差し掛かかり苦境に陥ったころ、アメリカ陸軍から要請され特殊部隊の格闘技の教官になった。敏郎が有名な空手の有段者であったためだ。多くのアメリカ人の友人も入隊しており、少しでも彼らのために、アメリカのために役に立てればと思い引き受けた。そこでアメリカ軍ベトナム撤退まで約二年間、格闘技を教えながら戦略や戦術を学んだ。それらは表裏一体であり学ぶ必要があったからだ。状況によって格闘手段も変わってくる。
訓練を終えた隊員たちは、次々にグリーン・ベレーとしてベトナムへ行きゲリラ戦を戦った。グリーン・ベレーとはアメリカ陸軍所属の特殊部隊であり、主に対ゲリラ戦を行う。語学が堪能で他国戦闘員の教育を行い、作戦の計画、実施を行う優れた戦闘技能を持ったエリート部隊である。
今回は、教官ではなく命をかけての実戦だ。父譲りの天性のものが有ったのか、それとも父の魂が乗り移ったのか、心の奥に沸々と湧き上がるものを感じた。
「武器は歩兵用ロケット弾十二門、迫撃砲十門、十二・七ミリ重機関銃五丁。ジープ十六台、それに戦車三両があります。弾薬はふんだんにあります。自動小銃AK47は十分あります。ボスが対イスラエル戦に大金を出して買いそろえたものです」
「戦車もあるのか、それなら戦える。戦闘準備だ。皆を集めてくれ」
エミールは、大広間に集合をかけた。総勢四十八人。全員集まった。敏郎が状況を説明すると、一斉に武器弾薬庫に向かった。全員戦闘意欲満々である。
戦えば人が死ぬ。それでも戦わなければならない。どうしても戦わなければならない時がある。それは今だ。大勢の兵士の命を預かり自らも命を掛けて戦う。旅客機へ突入のとき感じた恐怖感ではなく、今の自分は戦うことで自身のDNAが活性化していくような錯覚を覚えた。
敏郎は別室に地図を持って来させた。幹部が二人きた。エミールも同席した。
「我々のいる、ここは何処だ」地図を広げるとエミールに聞いた。敏郎は目隠しをされ連行されたので位置が正確に把握できていない。
「ヘブロンの東です。この辺りは草木はありませんが、四百メートル級の山々が連なり複雑な地形です。ここは丘になっており周りは平地です。塹壕を掘りトンネルでつないでいます。近くの谷間に戦車を隠しています。地形は良く知り尽くしています」
ヘブロンとはヨルダン川西岸、パレスチナ自治区南部にある町である。
「ボスが行っているところは何処だ」
「ここから南下しイスラエルを通りヨルダンを通過したあとサウジアラビアに入った所です。国境から約百キロメートルです。タブークという町のどこかでしょう。サウジアラビアはウサマ・ビン・ラディンの故郷ですから支援グループが潜んでいるのです」顔中にひげをたくわえた幹部が答えた。
「ここからかなり遠いな」
「五百キロメートルはあります。車で十時間以上です。急いでも明日早朝になるでしょう」もう一人の背の高い幹部が答えた。
「分った。今夜の内に展開しよう」
四人は作戦を立てた。アベドに情報を頼んだ。彼のタクシー仲間の情報網はヨルダンまで浸透している。どこかで敵に気がつくはずだ。斥候も三人出すことにした。
皆はアベドの情報を待った。時間が長く感じられた。アベドからはタクシー仲間の動きが逐一送られてくる。彼の情報が勝敗を分けることになる。アベドも必死だ。
午前三時、ついにヨルダン領マーンの北でアルカイダの一団を発見。幌付きの大型トラック一台と十二・七ミリ重機関銃で武装したジープ二台がこちらに向かっていると情報が入った。十数人はいるだろうとひげの幹部は言った。下部組織でないとしてもアルカイダと密接な関係にあるのならこちらの情報もある程度はつかんでいるはずだ。十数人とは少なすぎると敏郎は思った。アベドには続いて情報収集を続けるように頼んだ。
「要撃班十五人は歩兵用ロケット弾と十二・七ミリ重機関銃を持ってここから十キロメートル地点で待つんだ。谷を挟んだ丘の両側で待機しろ。谷の幅は約二百メートル。片側百メートル、狙うには十分な射程距離だ。敵はヨルダンからイスラエルに入り死海に沿って北上している。山岳沿いのため時間が掛かっている。夜、車のライトを点け平坦地を来るのは危険だからな」 二人の幹部も頷いた。
それから二十分後、再びアベドから情報が入り、幌付きの大型トラック二台に十二・七ミリ重機関銃で武装したジープ三台が後を追うようにスピードをあげて走っていると言ってきた。アベドも事の成行きにピリピリしている。幹部の間に緊迫した空気が流れた。全部で四十人はいる。こちらと変わらない人数だ。こちらが戦車を保有している情報も入っているだろうから対戦車ミサイルも大型トラックに積んでいるはずだ。敏郎のいる隠れ家からおよそ百キロメートルだ。
それから一時間後、五十キロメートルまで迫ってきた。既に敵は合流している。四人に緊張が走る。
「真っ直ぐこちらに向かっているようだ。斥候に情報を伝えるんだ。敵の動きも逐一こちらに知らせるように伝えるんだ」敏郎はひげの幹部に指示した。これからは情報の収集が勝敗を分けることになる。
ボスから連絡が入り要撃班と合流することになった。
さらに二十分後アベドから連絡が入った。
「幌付き大型トラック三台、十二・七ミリ重機関銃で武装したジープが四台こちらに向かっている」大部隊にアベドは動揺している。
別ルートでマーンのさらに北のカラクという町を経由してこちらに向かっているようだ。カラクのタクシー仲間から連絡が入ったと言った。タクシー仲間には彼らを追跡するように指示していると言った。
別行動はこちらに戦力を気付かれないようにしているためだ。敵も手ごわい。大部隊の出現は予期しなかった。敏郎の眉間に皺がよる。目付きも鋭くなってきた。
その後全速力で敏郎のいるアジトに向かっているとのタクシー仲間の情報をアベドが伝えてきた。
「山岳沿いのうえ夜だと思って大胆になっている。既に全部隊は合流している。トラックとジープには兵士が全部で八十人は乗っているはずだ。こちらのほぼ倍だ。相当な武器弾薬も積んでいるだろう」ひげの幹部が言った。
「そんなにいるのか」皆は口々に言い顔を曇らせた。
敏郎の命を奪うということはアルカイダにとって大きな意義を持つ。彼らの最大の目標であったホワイトハウス突入の失敗は、アメリカだけでなく西側社会に対する挑戦の失敗に等しい。ここで敏郎殺害が成功すれば再び力を誇示することが出来る。米英軍の攻撃でばらばらになったアルカイダの力を世界に示すことが出来るのだ。八十人という兵士の数がそれを表している。アメリカに戻られれば手は出せなくなる。彼らにとってチャンスは今しかない。全力を挙げて攻撃を仕掛けてきていると思える。オサマ・ビン・ラディンの直接の指示であることは間違いない。
時間は刻々と過ぎて行く。夜は白み始め肉眼でも見通しが利くようになった。斥候から報告が入った。
「パレスチナ自治区へ少し入った所、要撃班の待ち伏せ地点まで約一キロメートルの所で停止し、二手に分かれ大きく迂回しました。要撃班は挟まれるような格好になりました」意外な展開に動揺している。
「分った。すぐに応援部隊を送る」敏郎はすぐに動いた。この状況で要撃班十五人では圧倒的に不利だ。応援部隊を送るといっても数では敵には及ばない。しかし、ここは複雑な山岳地帯だ。こちらには地の利がある。地形は知り尽くしているとエミールは言った。
続けて報告が入った。
「要撃班です。敵の攻撃が始まりました。迫撃砲で正確に打ち込んできます。我々の歩兵用ロケット弾では射程が足りません。スナイパーもいるようです。一人一人狙撃されます」思いがけない攻撃に要撃班はうろたえている。
〈どうしたんだ。敵に完全に読まれている〉
敏郎は焦った。
〈まさか!〉次の瞬間不安がよぎった。
敏郎は幹部二人とエミールに状況を告げ作戦を練った。応援部隊が敵を一番攻撃し易い山頂に送ることを決めた。要撃班の手前一キロメートルの山頂から攻撃する。敵の動きが一目で分かる。すぐに二十人送った。戦車を送りたいが山頂では動きがとれない。下手をすれば戦車まで失うことになる。
しばらくして応援部隊から報告が入った。
「攻撃地点に到着しました。敵の様子が良く見えます。すぐ攻撃準備にかかります」
「分った。準備出来次第すぐに一斉攻撃してくれ」
「了解」
敏郎は応援部隊が到着し、まもなく攻撃すると皆に言った。
すぐに背の高い幹部がトイレに出て行った。
数分後応援部隊から報告が入った。
「五百メートル後方の山に迫撃砲弾が次々に打ち込まれています」
「分った。そこから一斉に攻撃してくれ」
「了解。攻撃に移ります」
敏郎は黙って拳銃を取り出すと、戻ってきた背の高い幹部に向けた。幹部は驚き両手を挙げた。後ろ手に縛ると部屋の柱に括りつけた。
「どうしてスパイと分ったんです」エミールは驚いて尋ねた。
「応援部隊を要撃班の一キロメートル手前に配置と言ったが、実際は五百メートル手前に手配したんだ。思ったとおり一キロメートル手前の山頂に攻撃してきた。彼がこの部屋を出て行きまもなくだった。彼は無線機を持っている」
「それではここの話は筒抜けだったのか」ひげの幹部が信じられないという顔をして言った。
「敵の人数が八十人というのもおかしいと思った。我々の倍だ。ウサマ・ビン・ラディンの支援グループといっても八十人は多すぎる。特に今はサウジアラビア駐留アメリカ軍の目が厳しいから戦闘員を保持できない。彼の連絡で我々に戦車が間違いなく三両あるのを知って急遽集めたものだろう。それに我々の動きが逐一読まれていた。だから罠をかけたんだ」
「まさかあいつがスパイだったとは思わなかった。トシローを確保した場合、支援グループに引き渡したほうが良いとボスに進言したのもあいつだった。ボスも最初そのつもりだったんだが、考えが変わったんだ。ラシードとの交換条件を出したときにまさか応じるとは思わなかった。敏郎の勇気に改めて敬服したんだ。しかし、あいつが了承もなしに報告した後だった。だからアルカイダの幹部に会いにいったんだ」
エミールは幹部を睨み付けながら言った。スパイは観念した様子でうなだれている。
要撃班は合流した副官を含め八人がやられた。ボスは重傷を負った。これからボスを連れ応援部隊と合流すると報告が入った。応援部隊からも五人が死亡、敵は二十人近く倒した。スナイパーは斥候が倒したと連絡が入った。
「このままでは次第に押されてくる。ラシードのグループに支援を頼もう」敏郎はすぐに連絡した。
ラシードは敏郎の支援要請に驚いた。敏郎を救出しようと戦闘員、武器弾薬を準備していたところだったからだ。
「傷は大丈夫だ。すぐに援軍と一緒に駆けつける」と言った。
敏郎は要撃班と応援部隊に引き上げるように命じた。本部で戦ったほうが有利だ。地の利がある。本来ならここでの戦闘は避けたいが多勢に無勢だ、仕方がない。
本部は高さ五十メートル程の小高い丘の上にある。丘の下は平地で前は奥行き六百メートルほど広がっており塹壕を張り巡らしている。その先は山岳部が連なる。敵がここに近付くためには平地を抜け丘を上がらなければならない。最悪でもここには容易には近づけない。
「戦車を配置しよう。丘の上で視界のよいところがいい。前に土嚢を積んでバリケードをはるんだ」
「旧ソ連のT72戦車でミサイルも発射出来ます。これは射程五千メートル。威力があります」エミールは力強く言った。
「分った。敵の進行方向、正面と左右の三方向に配置しよう。二千メートルまで引き付けてトラックを狙うんだ。弾薬を積んである」
敵はジープを先頭にトラックを盾にしながら引き上げる要撃班と応援部隊に銃やロケット弾を発射してくる。この辺りは道路が曲がりくねっており、さらに山裾が邪魔になり思うように当たらない。本部は高台になっており敵の動きがわかる。特に本部に近付くにつれ歴然となってきた。
戦車三両はすぐ配置についた。土嚢が戦車の前に次々と積まれた。敵の一団が目標圏内に入ってきた。ジープの後部に設置された十二・七ミリ重機関銃を乱射しながら要撃班と応援部隊を追跡している。要撃班と応援部隊もジープの十二・七ミリ重機関銃で応戦しながら退却する。
双眼鏡を持ち戦車の横で指揮をとる敏郎の目には敵の動きが手に取るように分かるようになった。巧く地形を利用していると敏郎は思った。
敏郎の合図で対戦車ミサイルを次々に発射した。ミサイルはオレンジ色の火を吐きながら猛スピードで突き進む。敵の大部隊に吸い込まれて行き、一台のトラックに命中し積んであった弾薬が大爆発した。付近にいた兵が吹き飛び、少し遅れて大音響が聞こえた。爆発の振動が本部まで伝わって来るほどだった。ミサイルの威力に敏郎は思わず息を呑んだ。
驚いた敵は追撃をやめ山陰に隠れた。射程の長い対戦車ミサイルがあるとは知らなかったようだ。この対戦車ミサイルはウクライナでT72戦車の火力増強のため開発されたが、価格が高いため実際に使われたことはほとんどない。スパイが気付かなかったのも無理は無い。
戦車は丘の上からさらに戦車砲の一二五ミリ滑腔弾を打ち込んだ。戦車は砲撃が終わると一度後退し、位置を変えて再度攻撃する。敵も対戦車誘導ミサイルで応戦してきたが、急造グループのため不慣なれで、またバリケードが邪魔になり戦車に当たらない。崖の中腹で爆発したり上空を通過して行く。高速で飛ぶ誘導ミサイルは熟練しないと命中させるのは難しい。下からの攻撃のため敵からはバリケードの土嚢の上から時々戦車砲が見えるだけだ。まして三両の戦車の攻撃の合間をぬっての反撃は訓練を積んだ正規軍でも容易ではない。
迫撃砲は命中精度が悪く、また彼らが使用しているものは小型のため移動には有利だが戦車の装甲にダメージを与える火力はない。本部は奥まった場所にあり敵には見えない。敵は山陰に隠れたまま動かなくなった。動けば戦車の標的になる。お互い犠牲が多くなり戦況は膠着状態になってきた。
要撃班と応援部隊が帰ってきた。敏郎はそのまま戦闘態勢で待機するように言った。戦車があるとはいえ白兵戦になれば、まだ敵のほうが多い。五十人は残っている。こちらは三十六人だ。これ以上犠牲者は出したくない。
数人の敵が平地まで近付き窪みから散発的に機関銃を撃ってくる。塹壕やトンネルから仲間が応戦しているが、お互い大きな動きはない。
突然、スパイが逃走した。ナイフを隠し持っていたようだ。縛っていた縄が鋭利な刃物で切られている。要撃班数人が追いかけた。AK47の発射音が聞こえた。敏郎はすぐに駆け付けた。スパイは部屋から数十メートル離れた広場の片隅でうずくまっていた。腹部から血を流し手で傷口を押さえている。鋭い目で敏郎を見上げた。強い意志を感じる。並みの兵士ではない。先ほどまでの幹部の目ではない。
敏郎の脳裏に父、祐一郎の顔が浮かんだ。とどめを刺そうとする兵士を制止し、部屋に運び治療するように命じた。兵士は「こいつのために仲間が大勢死んだ。許さない」と息巻いたが敏郎はそれを制した。
手当が終わると敏郎はスパイに会った。ベッドの上で横たわっている。重傷だが命に別状はなかった。スパイは敏郎を見上げ「自分はアルカイダの事は何も知らない。早く殺せ」と言った。傷が痛むのだろう顔を歪めている。スパイは捕らえられると拷問されたあと射殺されるのが運命だ。すでに覚悟は出来ている顔だ。
「お前はなぜスパイとして潜入した」敏郎は詰問した。
じっと敏郎を見つめ何も言わない。歪めた顔に油汗が滲んでいる。
「そうだろうな。たやすく答える訳はないな。俺は日本人で中東での出来事には関知していない。しかし暴力による解決には反対だ。俺は抵抗できない者を殺しはしない。早く傷を治せ。命を大事にしろ」と言った。スパイは一瞬意外な目で敏郎を見たが黙ったまま下を向いた。敏郎は部屋を出て行った。
一時間後、後方からラシードのグループをアントンが率いて到着した。二十人いる。ラシードはまだ動けないため残ってもらったと言った。アントンは敏郎の無事な姿を見て感激し、これからの戦闘に闘志を燃やした。敏郎を救出しようと出動態勢を整えていたところへ敏郎と共に闘うことになったからだ。弔い合戦になってもおかしくはなかった。握手する手に力がこもった。
マーリーもいた。負傷者の手当てをするために来たのだと言った。それに、敏郎のことが心配で居ても立っても居られなかった様子だ。敏郎を見ると思わず涙を浮かべた。
マーリーは敏郎や兵士だけでなく、スパイの手当ても甲斐甲斐しく行った。
「よし、戦車を先頭に突撃だ」
敏郎は先頭の戦車の司令塔から右手を大きく振り上げ、大声で全戦闘員に合図を送った。三両の戦車が坂を下り唸り声をあげ正面から突っ込んで行った。要撃班のジープが後に続いた。アントンの部隊にはエミールが同行し敵の左翼へ、応援部隊は右翼に回り込んだ。
戦局は急激に動いた。山陰に隠れていた敵は、左翼のアントンの部隊によって山の上から歩兵用ロケット弾攻撃により追い出され、塹壕に身を隠した右翼の応援部隊の餌食になった。エミールの助言は的確だった。敵が良く見える位置から攻撃しすぐに隠れる。地の利を生かした攻撃だ。
敵にしてみれば何処から銃弾やロケット弾が飛んでくるか分からない状態だろう。敵も果敢に反撃するが、上から攻撃するのと下から反撃するのでは雲泥の差がある。上からでは敵の動きが良く分かるが、下からでは敵がどこにいるのかもつかめない。次第に統制は乱れ慌てふためき来た方向へ後退を始めた。そこを要撃班が狙い撃ちする。さらに戦車砲が火を噴き数台のジープが吹っ飛んだ。戦車の威力は絶大だ。赫々たる戦果だ。
「我々は引き上げよう。深追いをして無駄な血を流したくない。後はイスラエル空軍に任せよう。敵はイスラエル領内を退却しなければならない。来るときは暗かったが、今は明るい。すぐに発見される。近くの町ベエルシェバにある空軍基地の戦闘機の餌食になるだろう」敵の敵は味方だ。
二十分後二機のF-15戦闘機が南へ向かって行くのが見えた。直後、遠くで黒煙が上がった。敵は生きてサウジアラビアに帰ることはない。
F-15戦闘機、愛称イーグル。アメリカ マクダネル・ダグラス社製。この戦闘機は高性能主力戦闘機で非常に高価であるため世界でアメリカ以外に日本、サウジアラビア、イスラエルしか持っていない。イスラエルという小国が保有しているのは、この国の持つ特殊性からだ。侵入者でイスラムの国々に囲まれた異教徒ユダヤの国。強い軍隊を持たなければ生き抜いていけない。またそれを後押ししなければならないアメリカの事情もある。大統領選挙だけでなくイスラムの国々へ睨みをきかす世界戦略上の重要な拠点なのだ。
数日後、アントンと仲間は敏郎に別れを言いエリコに帰って行った。マーリーは残り、負傷者の手当てをした。
ボスは腹に包帯を巻きベッドの上で敏郎に言った。
「トシローは逃げずに戦ってくれた。それに、素晴らしい指揮官だった。スパイの存在にすぐ気付いた。おかげで最小の犠牲で済んだ。無理をせずラシードのグループに支援を要請したのも良かった。我々はアルカイダとは縁を切る。一緒にイスラエルと戦ってくれないか」
「俺のために組織を危険にさらせてくれたことは感謝する。残念だが自分はアメリカに帰らなければならない。妻や家族が待っている。しかし自分に出来ることを考えて見たい。パレスチナをこのままにしてはおけない」
「そうか、残念だが仕方がない。無理は言えない。敏郎の性分は良く理解している。アメリカに帰ったら是非我々に力を貸してほしい。パレスチナの惨状を伝えてほしい」ボスは敏郎を見つめ訴えるように言った。
「分かっている。幸いアメリカ政府との繋がりも出来た。パレスチナの事も理解できた。アメリカ政府の一員となりこの問題に取り組めるように努力するつもりだ。イスラエルとパレスチナの和平がアメリカにとっても重要な課題だ。火種を抱えているのは得策ではない。
それから、エミールを連れて行きたい。本当のアメリカを見せたいんだ。善良なアメリカ人を見れば考えも変わる。本人とは良く話した。そして彼をアメリカの大学で勉強させ、いずれはパレスチナとイスラエルの和平とパレスチナ独立のための仕事をさせたい。彼にはその資質がある。別の道を探らなければ独立はおろか和平も難しい。アメリカはエネルギッシュな国だ。夢と希望がある。エミールはそこで育てたい。アメリカ政府を動かすには国民の力が必要だ。社会運動を通して市民の良心に訴える。彼にはその仕事が適任だ」敏郎は熱く語った。
「そうか、彼が望むならそれもいいだろう。私は喜んで送り出す」
ボスはイスラエルとの戦いには限界を感じている。敏郎の言うように武力ではなく言論や政治の力で世界を動かさなければ解決出来ない問題だということも良く理解している。特にアメリカ国民の心を動かさなければ光は見えない。エミールがそれに係わることが出来れば大きな前進だと思った。
敏郎はスパイに会うため治療室へ向かった。彼は単身でスパイとして潜入し幹部として働いていた。並みの人間に出来ることではない。腹の据わった人物に違いない。仲間として戦えば大きな戦力になる。
部屋に入るとスパイはベッドで横たわり天井をじっと見つめていた。敏郎に気付くと頭をゆっくり敏郎の方に向けた。捕らえられた時の殺気立った気配はなく静かに落ち着きはらっていた。敏郎は傍らの椅子を引き寄せスパイの横に座った。
スパイは話し始めた。
「自分の本名はタカール・マレク。三十五歳だ。支援グループからの指示でここに潜入した。ここは協力関係にあるだけで本当の仲間ではない。常に動きをつかんでおく必要があった」
オサマ・ビン・ラディンと同じサウジアラビア出身でイスラム主義急進派の人間で国際テロリストの仲間であると言った。
タカールは本心を話し始めた。
「自分はこれからここでどうなるか分からないが、たとえ命があってもアルカイダに戻ることは出来ない。ここで捕らえられていることはすでに幹部には伝わっているはずだ。作戦が見破られたことは連絡が行っている。自分は射殺されたと思っているかも知れない。生きて帰れば二重スパイの疑いが掛けられ、拷問の末処刑されるだろう。命は惜しくはないがまだ死にたくない。まだやり残しているものがある。これまでは権力に対する憎しみばかりで生きてきたが、平和で民主的なイスラムの国を創るのが、自分の真の目的だと感じてきた」この数日間でタカールの心に変化が現れたのが感じられる。敏郎を見つめきっぱり言った。
さらに続けた。
「敏郎からもらった命だ、これからは生き方を変える。自分の死に場所は他にある。エミールが悩んでいたのを知っている。一般市民を標的にするのは自分も反対だ。アメリカは力が強すぎるため不満の鉾先が向けられ攻撃の的になるが、アメリカがいなければ独裁国家や多民族国家は内戦がひどくなり弱い国民が犠牲になるのも確かだ。世界の警察は必ず必要だ」タカールは言い終わると宙を見つめ神妙な面持ちになった。
「君はスパイとしてここに潜入した。相手の懐に飛び込むことは腹の据わった人間でないと出来ない。ここのボスは度量の大きい人間だ。君がここでイスラエルと戦う気持ちがあるならボスに伝えよう。君もボスに幹部として起用された男だ。実力は認められている。きっと役に立つ。だが、グループのメンバーに認められるかどうかは君次第だ」敏郎はきびしい目で見つめた。
「グループのメンバーに仲間として認めてもらうのは難しい。自分のために多くの仲間が死んだ。それを考えるとここにいることは出来ないし彼らも認めない。しかし自分はイスラム教徒でイスラムを侵略してくる異教徒は許すことは出来ない。それに一度捨てた命、アラブのために戦いたい。アラブの正義のために戦う」タカールは吹き切れたように言った。
「君は立派な戦士だ。何処へ行っても戦える」
敏郎はラシードのグループで共に戦うことを勧めた。タカールは了解した。ラシードは、有能な戦士は願ってもないと喜んだ。ボスは、ラシードのグループとは今後共同戦線を張れれば有り難いと前向きに答えた。
敏郎はマーリーとエミールを連れてエリコに帰った。ラシードとアントン暖かく出迎えてくれた。ラシードは車いすに乗っていたが血色は良かった。サミーフの母親もアルカイダの危険が去り元の生活に戻った。一方、イスラエルとパレスチナの衝突はさらに激しくなり戦争状態が続いている。
「自分は傷が直り次第、戦闘に参加します。仲間が待っている」ラシードはきっぱり言った。傍でアントンが大きく頷き胸の前で両こぶしを力強く握って見せた。
ラシードは続けて言った。
「過激派ハマスに自爆テロを止めさせるよう働きかけるつもりです。自爆テロはイスラエル首相、シャロンを刺激させるだけです。自爆テロが続く限り平和は訪れない」
「シャロンはタカ派リクード党だから強行に出る。前首相バラクのようにはいかない」
敏郎の言葉にラシードは無念の顔で頷いた。
「戦いはこれからだ。諦めなければ必ず光は見える。絶望に明日は無い」
ラシードは右手の親指を突き上げ力強く頷いた。
「私はエジプトに帰る。エジプトはとても貧しい国だわ。貧困地帯の人々を何とかしなければいけない。教育に医療それに公衆衛生等で富裕層と貧困層の格差が激しすぎる。乳幼児の死亡率も高く、増加する人口に食糧が追いつかない。問題が多すぎる。このままほってはおけない。幸い日本を始め先進国は私達を積極的に支援してくれている。私はこの仕事に従事しなければならない。今回、日本に行ってすばらしい社会を見せてもらった。私達もやれば出来るわ。日本のように平和で豊かな国を目指す。知覧に行ってよかった。敏郎の故郷、日田に行ってよかった。日本に行ってよかったわ」
マーリーは希望に目を輝かせた。
「エミールは私がアメリカに連れて行く。アメリカの高校であるボーディング・スクールに入学させその後大学で勉強させる。卒業後は国連で働くのがいいと思う。パレスチナの独立を勝ち取るため、そして発展のための仕事が待っている。イスラム圏に四百万人いると言われる貧困パレスチナ難民のためにも彼の力は必要だ。このままではさらに増えるだろう。教育に保健それに福祉、救急、仕事は沢山ある。パレスチナだけではなく中東の国々のためにも彼の力は必要だ。それをアメリカ国民に理解してもらうことが最終目標だ。そうすれば中東は変わる。本人は学費が払えないと遠慮したが、奨学金と足りない分は私の会社でアルバイトしてもらう」
「でも敏郎の会社も今大変なんでしょう」
マーリーは心配顔で聞いた。
「確かに9・11の後、航空貨物業界は大打撃を受けた。一つの荷物を運ぶだけでもキュリティ・チェックが厳しくとても仕事が出来るような状態ではなくなった。倒産する会社が続出している。幸運にも私の会社はアメリカ政府の荷物を運ぶ特別の仕事を任された」
「それは良かったわ。政府も敏郎の会社を倒産させるわけには行かないわね。エミール頑張ってね」
マーリーは安心して言った。
「有難うございます。感謝しています。敏郎を信じます。生きる希望が湧いてきました」エミールの目は輝き希望にあふれた少年の表情にかわっていた。敏郎と初めて合ったあの時の憎しみの顔は何処にもない。
エミールにとってこの上ない人生の展開のチャンスが巡ってきた。かけがえの無い家族を失ったが、仲間を救い平和な時代を作れるチャンスを敏郎が与えてくれた。これまで憎んできたアメリカで学びパレスチナのために、中東の平和のために働くことなど考えられなかったが、それが可能なアメリカという国のスケールの大きさにエミールは感激した。世界は広いと思った。エミールは期待で身震いがした。
敏郎はアメリカに、マーリーはエジプトに帰る準備をし、アベドのタクシーを呼んだ。エミールは渡米の手続きをするため残った。
テルアビブ空港に着くと
「アベド、君には大変お世話になった。おかげで無事に帰ることができる。感謝する」
「とんでもありやせん。敏郎のお役に立ててよかった。またいつか帰ってきて下せえ」 二人は硬い握手を交わした。
ニューヨークの自宅で
「敏郎お帰りなさい」妻のナンシーは涙で迎えた。夫を中東という危険地帯に送り出すというのは、妻としても勇気のいることだった。夫を信じてじっと待つのは言葉では言い表せない辛い日々だった。平穏な家庭の有り難さが身にしみた。
「敏郎はお父さんの子、祐一郎の子だから私は何も言わない。私の出る幕ではないわ。良く無事で帰ってくれたわね。有難う」母は目頭を押さえた。
息子の敏和は
「父さん、お帰り」安心した目で言った。
敏郎は黙って頷いた。左腕の傷もすっかり良くなった。
遠い中東の地で何があったか誰も知らない。ただ無事で帰ってきたことにみんな感激したのだ。
その後、敏郎は会社の仕事をスコットにまかせ第一線から退いた。アメリカ政府の中でパレスチナ、イスラエル和平に関する仕事、それに中東の民主化に向けた仕事をするようになった。いずれエミールもこれに関わることになる。アラブの人間であるエミールが関わることでより早く平和が訪れる。亡くなったサミーフの目的も達成されることになる。
アベドもその後は、タクシー仲間の情報網を再編成し強化して行った。敏郎と協力し中東の平和のために尽くすためだ。中東の動きは逐一敏郎に知らされ重要な情報源となった。
タクシー内での客同士の会話は、時として国家機密のような重要な内容のものもある。重要人物の動きや、政情を早急に掴むことも可能だ。一般客の情報も捨てたものではない。客との会話の中には新聞他のメディアでは得られない貴重なものもある。現在は情報戦が勝敗を分ける重要なカギとなっている。
中東という広い地域から毎日新しい情報が入ってくれば膨大な量となる。それを分析し敏郎に送るのがアベドの重要な仕事となった。敏郎はそれを政府スタッフとともに再度分析し対策を練る。パレスチナとイスラエルの動き、中東の不穏な動きも伝わってくる。それらきめ細かい情報はアメリカ政府にとっても欠かせない情報源となった。速やかな対応が可能となった。エジプトにいるマーリーからも医薬品や学校の教材の支援要請が入って来る。それら全ての情報は敏郎にとって驚きの連続だった。
敏郎自身もこのハイジャック事件から帰国までの経験をとおして、自分の中の何かが動き出したように感じた。命をかけた経験が敏郎の魂を呼び起こした。自分の人生の最後の仕上げを見つけた気がした。
この熱い感覚は何処からくるのか? この使命感は一体何だろうか。これからの行動が敏郎自身の中でフォーカスされ、一気に集中力が高まった。今の自分は完全燃焼している。もう以前の自分には戻れない。高校を卒業後アメリカに渡ってきた時の心の高ぶりが蘇ってきた。
建国して百年に満たない中東の国々はこれから民主化に向けて試練が待っている。一致団結し、世界の先進諸国の力を借り民主化を進めなければ将来はない。敏郎の肩に大きくのしかかってきた。中東で戦っているかつての仲間のためにも敏郎の果たす役割は大きい。
人間は宗教の壁、民族の壁を乗り超えなければ永遠にテロを止めることは出来ない。絶望の中で生きることは出来ない。