出来損ないのシャングリラ
佐野と先生
「ねーねー、知ってる?」
「ん? なに?」
「保健室の仲居先生いるでしょ?」
「ああー、あの美人な仲居ちゃん。あの先生がどうかしたの?」
「それがねー。その仲居先生と理科の新見先生が、デキてるらしいのよー」
「えっうそー! 新見先生ってあの新見先生?」
「そうそう、クールな大人の色気漂うあの新見先生だよ!」
「ええー、あたしちょっとファンだったのにー」
「ねー。でも仲居先生にとられたんなら、まあ仕方ないかも」
「美人だもんねー」
「―――うっそおおおおお!?」
どーんっ
べしゃ、
今まさにあたしにキスしようとしていた小山くん(最近できた新しい彼氏だ。ちょっとチャラそうだけどそこも好き)を全力で突き飛ばして、あたしはついでに絶叫した。
尻餅をついた小山くんは訳がわからないとばかりに目を白黒させている。そりゃそうだ。だって今の今まで空き教室で人目を憚りながらいちゃいちゃしていて、ちょっと学校だけどヤッちゃおうか?ってぐらいのムードだったのが突然張り倒されたんだから。
だけど生憎あたしはドア一枚挟んだ廊下から聞こえてきた会話にものすごくショックを受けていて、その様子は完全にスルーした。
「仲居……仲居ってどいつよ……? なんで先生がそんなどこの馬の骨とも知れないアバズレ女なんかと……!」
「え……おい、何言ってんの?未波」
「うるさい今話しかけないで!」
真相を問い質さなければ。
先生が他の女と付き合うなんて、お天道さまが許そうとこのあたしが許さん!
***
「……で、その彼氏とは別れちゃったんだ?」
「別れてないよ! ……まだ」
「あんたも馬鹿だよね。あんなに苦労して付き合いだしたっていうのに」
あの後、勇んで先生を探しにいこうとしたあたしは取り残されそうになった彼氏から、お前マジふざけんじゃねえぞ的なことを言われて一発張り手を食らわされた。
反射的に殴り返しそうになったけど、相手は大好きな小山くんだったのでそこはぐっと我慢だ。ちくしょう、和田だったら心置きなく往復ビンタできたのに。
「ていうか知らなかったんだ、その噂。だいぶ前から有名だったよ」
「なんで教えてくんないの!」
「だって未波、先生と仲良いでしょ。もう知ってるもんだと思って」
「知るわけないじゃん! あたしだよ?!」
「いや意味分かんないし……」
数少ないあたしの親友である智恵は、そう言ってめんどくさそうに紙パックのジュースをすすった。ただでさえあたしは友達少なくて噂話に疎いのだから、ちょっとくらい情報提供しようって気になってもいいような気がしますけどねえ! 地団駄を踏みながらまくしたてると、だってあんた基本他人のことに興味ないじゃんと返された。……確かに。
仕方ないので八つ当たりは諦めるとして、一番重要なのは噂の真偽だ。そこを推理してみよう。
あたしの記憶が正しければ、先生のあのゴミ屋敷に女の影なんて微塵もなかった。今まで通り、少しも片付いてない魔の巣窟みたいな部屋だったはずだ。あれでもし本当にふたりが付き合ってて家にもお邪魔してるんだとしたら、あたしは仲居先生の神経を疑う。
「……ていうか仲居先生って誰?」
「……あんたほんとに周りに興味ないんだね。いっそ尊敬するわ」
「そりゃどうも。名前は聞いたことある気するんだけど」
「保健室の先生だよ。今年赴任してきたばっかりの」
智恵の話では、その仲居先生とやらは若くてピチピチな上にかなりの美人らしい。保健室の先生っていうブランドも手伝ってか、今ではちょっとした学校のアイドルだとか。
そういえば、確か元カレも仲居先生ファンだったような。だから名前は知ってたのか……むかつく。
「あ、噂をすれば」
ぶすくれたあたしに苦笑しながらも、ふと智恵が窓の先に何かを見つける。
つられてそっちを見ると、運命的な確率で、そこに新見先生が立っていた。誰かとなんか話しているみたいだ。
噂の真偽を問い詰めようと思わず立ち上がってそこへ向かおうとしたあたしに、なんか珍しく愛想いいね、という智恵の呟きが投げかけられる。相手が校長なんじゃないの、とおざなりに答えたら、違うみたいよ、と可笑しそうな声が返った。
「あれって、新見先生と仲居ちゃんじゃないの?」
「なんで!」
「いや、なんでって私に言われても」
先生の隣にいたのは、見たことのない女のひとだった。智恵曰わく仲居先生らしい。ほんのり頬を赤く染めて恥じらいながら談笑している。対する先生も、あたしには見せたことがないような笑顔で楽しげに話していた。
信じられない光景を目の当たりにして二の句がつげないあたしに、とどめを差すかのごとく智恵が言う。
「やっぱりあのふたりって付き合ってんのかね」
あたしは、本日二度目の絶叫をあげた。
***
「あたし以外の女にやさしくしないでー!!」
「……お前は俺の彼女か?」
あたしはついに痺れを切らして、放課後に理科準備室へ乗り込んだ。
ドアを開けるなりそう叫んだあたしを見て、先生はものすごく迷惑そうに顔をしかめる。うわもうめんどくさい予感ビシバシするんだけど、と小さく呟いたのを聞き取って、八つ当たりがてら近くのフラスコを投げつけてやった。「あっ、この……! 割れたらどうすんだ馬鹿!」 あんたが弁償しろ!
「先生、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「あ? なに、大したことじゃなかったらぶっ飛ばすぞ」
「うん、あたしも今絶好調で先生を殴り倒したいです。……保健室の仲居先生と付き合ってるってほんとですか?」
早速本題を切り出すと、先生が訳わからんとでも言うように、はあ?と声を上げた。先生は座ったままだから自然とあたしが見下ろすような格好になって、ちょっとだけ機嫌が上昇する。ふふん、優越感。
「何言ってんのお前。なんで俺が仲居先生と」
「そういう噂があるんです。今日だって楽しそうに話してたじゃないですか」
「同僚なんだから話くらいするだろ」
「めっちゃ笑顔だったくせに」
「俺だって愛想笑いくらいすんだよ」
「ていうか先生のせいであたし彼氏と破局の危機なんですけど。ふざけるなよ!」
「……それ俺のせいじゃないだろ絶対」
「先生のせいなんですって! ほら、この頬見てください殴られたんですよあたし! だからあたしにも一発殴らせろ」
「阿呆か」
そう言ってのろのろと立ち上がった先生に、もしや逃げる気では、と思わず身構える。そんなあたしをかるーく無視して、先生はあたしの横にある棚から救急箱を取り出した。
そこ座れ、といつもの調子で言われて、あたしは渋々パイプ椅子に座る。
「何するんですか?」
「怪我アピールされたから一応手当て。なんかよく見たら結構腫れてんじゃん。お前よくその顔で普通に生活してたな」
「なんかむかつくんですけどその言い方」
「なんで保健室行かねえの」
「仲居先生に会いたくなかったんです」
「なんでだよ」
「あたしの先生を盗ったから」
至極真面目にそう答えると、正面に座った先生が可哀想なものを見る目であたしを見た。何さ、文句あんのか! つーんとそっぽを向いたら、顎を掴まれて無理矢理正面を向かされる。顎割るぞ、と脅されたので大人しく手当てしてもらうことにした。
ひた、と冷たい手が頬に触れる。これが小山くんだったらなーと妄想して、悲しい現実に溜め息をついた。
「……ね、先生」
「なに」
「ほんとに付き合ってないんですか?」
「付き合ってねえよ。あっちまだ大学卒業したばっかだぞ」
「関係ありますかそれ」
「わざわざ三十路の男選ばなくても、相手くらい居んだろっつーことだ」
湿布を貼られて、ぎゃ!と情けなく悲鳴を上げる。ちょっ、ものすごい冷たいんですけど。至近距離の顔に視線で抗議すると、そんなに見つめられると緊張するわ、と全く実感のこもらない声で言われた。このやろう。
「はい、終了」
「……ありがとうございます」
「お前さ、平気で殴るような奴と付き合うのやめれば?」
「嫌です。だってあたし小山くん大好きだもん」
「あっそ。……まあ、次殴られたらちゃんと保健室行けよ」
椅子から立ち上がって後ろを向いた先生を、視線だけで追いかける。
気付いたら手が伸びていて、先生のよれよれの白衣を掴んでいた。
「……なに」
「先生。あたし、お願いがあるんです」
さっきとは立場が逆転して、今度はあたしが見下ろされる側になる。
見つめてくる両目が、驚愕に見開かれた。
縋るように抱きついた先生の背中は、煙草とコーヒーの苦い匂いがする。
「先生は、ずっとあたしのものでいてね」
抱き枕を抱きしめる要領でぎゅうーと力を込めると、痛い痛い!と色気のない声が頭上から降ってきた。いや、色気なんか求めてないけども。
抱きしめ返してさえくれない両腕が、あたしの頭をべちべちと叩く。
「だれがお前のものだっつーんだコラ」
「先生はあたしのなんですぅー。だから恋人作んないで!」
「……お前はいいのか彼氏いて」
「だって彼氏と先生は別物ですもん」
「なにそれ」
まあ要するにあたしは独占欲の塊ってことです、と呟いて、先生の背中に額を押し付けた。
大好きな彼氏を一瞬と言わず数分間忘れるくらいには、あたしは先生を誰にも渡したくないのだ。
恋じゃないけど、すごく似てる。そんな感じ。
「お嫁さんなんかもらったら泣きますから」
「……うわあ、すげー迷惑」