75話 あの日言われた言葉を俺は再び思い出す
「そろそろ休憩しましょうか」
「……お願いします」
ペンを取ってから3時間。俺の精魂は尽き果てようとしていた。
神経を削るような密林での戦闘だったら何十時間も続けられる自信はあるが、精神を削り取られる勉強はどうも苦手だ。
「っくあ~……総、俺はもうだめかもしれん。もしもの時は、俺の屍を越えていってくれ」
我、裏切リ者ヲ発見セリ。
「わかった。家の裏山は証拠も隠滅しやすいから任せろ」
「あ、ゴメンナサイ。冗談なんです。マジでゴメンナサイ」
「そうか、その気になった時は教えてくれ。お前の為なら俺は協力を惜しまないぞ」
「……お前と一緒に勉強するのも命がけになるとはな」
何を言う。俺とお前は一蓮托生。裏切りなど見逃すはずがないだろう?
「っとこんな時間か。着替え持って来てるだろ? そろそろ風呂にするか?」
俺の提案に皆表情を緩める。
「総、それは素晴らしい提案だぞ! じゃあまずは俺と翠が入って、その次に総と冬川が――ぐぼあっ!?」
おお、綺麗にみぞおちに入ったな。しかし伸二、なんて無謀な提案を……骨は拾ってやるからな。
「じゃあまずは私と葵からでいいかな、総君」
「あぁ、俺と伸二はここで待ってるよ。家は母さんの趣味で露天風呂もついてるから、ゆっくりしてくるといいよ」
「えっ、家に露天風呂あるの!? 何それ凄い楽しみ」
「じゃあ総君、高橋君、また後で」
そう言って2人は部屋を後にする。
残された俺たちはというと、ギラついた眼光を互いにぶつけ、
「総……据え膳食わぬは」
「男の恥!」
本日最大のミッションを開始した。
■ □ ■ □ ■
我が家は親父がこれまでの稼ぎを存分に使ったせいか、4人住まいの家にしてはかなりデカい。だが同時にそのセキュリティも異常なまでに硬く、浴室のドアに関しては一度鍵を内側から掛けられると、俺程度の解錠能力では突破に相当な時間を必要としてしまう。
なにより、母さんや瑠璃もいる我が家でそのような狂行に堂々と挑むほど俺は愚かじゃない。
ならば外から覗ける露天風呂という話だが、母さんや瑠璃に異常なまでの愛情を見せる親父がその辺に対処していないはずがなく、露天風呂周囲のセキュリティは特殊部隊ですら易々とは突破できない作りになっている。
だが俺は、俺だからこそ知っている。この露天風呂は、ある山の頂からのみ望遠鏡で覗くことのできる作りになっていることを。
しかし、家族に対し異常なまでの愛情を見せる親父がなぜそのようなポイントを見逃したのか。それを説明するには、親父の異常なまでの愛情を説く必要がある。
『総一郎……覗きとガン見は別腹なんだよ』
親父曰く、堂々と見ていい環境でのガン見と、見てはいけない環境での覗きは全く違うものらしい。その対象が母さんであったから俺には全くもって気持ち悪い理論だったが、こうして自分の立場で見直してみると、中々に悪くない考えだ。
「総……やっぱ覗きは男のロマンだよな」
山中を注意深く進む俺の耳に、親父と実に気の合いそうな男の声が入る。
「伸二、油断するなよ。この山は家の私有地だから他人が入ることはないが、その分罠とかが仕掛けられている可能性があるからな」
あの親父のことだ。自分以外が覗ける可能性を徹底的に排除しにかかっていてもおかしくない。
だが今の俺なら、覗きのロマンを理解した俺なら突破できるはずだ。
「伸二、そこに何か埋まってる。絶対に踏むなよ」
「おう!」
……気になるな。あの罠はまだ新しい。親父が仕掛けたにしては時間的に無理がある。
「――っ!? 伸二、止まれ!」
「お、おう」
いきなりの声に伸二は体をビクッと震わせその場で止まる。
「これは……おかしいな」
そこにあったのは糸。と言っても手で切れるようなものではなく、頑丈で罠などに用いられる類のもの。
だがどれもこれも正直すぎる。親父のやり方はもっと狡猾で、相手の精神を確実にすり減らすものだった。それに数も多すぎる。
これはどちらかと言うと、罠の作り方だけを教わった素人が作ったかのような感じだ。
――まさかっ!?
「……母さんか」
まさか俺の行動を読んでいたとでもいうのか? いや、これはほぼ確定だな。
なら――
「伸二、駆け抜けるぞ」
「え!? でもそれ危なくないか?」
「この罠の狙いは時間稼ぎだ。1つ1つは単調だが、その数で足を止める作戦だ」
あの人は駆け引き、というか情報戦に優れている。自分の特性も踏まえた上で、こちらが最も取りたくないであろう戦術に誘導してくる。
こんな罠だらけの山の中を走り抜けるなんてこと本当なら絶対にしたくないのだが。
「時間がないなら仕方がない。今の俺たちには、何よりも大事なことだ」
今の俺たちに選択の余地はない。覚悟を決めてやるしかない。
「行くぞ伸二!」
「おう、やってやるぜ!」
俺たちは、爆炎、矢、銃弾、槍、丸太、岩の降る山中を駆け抜けた。
そして……
「俺たち……勝ったんだよな」
「あぁ……俺たちの、勝ちだ」
山の頂で、俺たちは互いの肩を支え合い、勝利の言葉を呟いた。
短くも、濃い戦いだった。久しぶりに、死ぬかと思った。
だが、それも――この瞬間のため!
俺はバッグから望遠鏡を取り出し、その先を我が家の露天風呂の方向へと向ける。
「伸二、ここまでよくやった。まずはお前から行くんだ」
「なっ、総……いいのか?」
「いいんだ。ここまでお前は本当によくついてきてくれた。お前の存在が俺の心の支えにもなっていたんだ。だから」
「総……」
星々の煌めきを受ける山頂で、俺たちは男の固い友情を結び合う。
「さぁ伸二、急げ。桃源郷が、お前を待ってるぜ」
「……ありがとう」
伸二は呼吸を整える間すら惜しみ、距離を合わせるべくダイアルを調節する。そして何かの引っかかるカチッとした音が鳴り、俺たちの夢を乗せた望遠鏡は――
爆発した。
■ □ ■ □ ■
「あ、やっと帰ってきた。2人ともどこに行ってたの?」
「心配してたんですよ? 総君のお母さんは笑顔で大丈夫よって言ってましたけど」
……それはさぞいい笑顔だったことでしょうね。
「いやちょっと伸二と星を見に、ね」
「い、いや~いい星だったよな。危うくこっちが星になるとこだったぜ」
「? まぁいいわ。次、2人が入ってきたら?」
「とっても気持ちよかったですよ」
「……そうするか」
「……あぁ」
そうして俺たちは、汗を流すべく風呂へと向かった。その間あまりの疲労で一言も口にすることは無かったのだが、それは仕方のないことだろう。
あぁ、今なら親父の言葉の意味がよくわかる。
『総一郎……ロマンとは命がけなんだ』
■ □ ■ □ ■
「そ、総……起きてるか?」
「……あぁ、何とかな」
時刻は完全に深夜。普段であれば心地よい夢の中を漂っている時間だ。普段であれば。
「翠と冬川は……寝てるな」
「あぁ……ってか女の子に寝不足はあれだってことで寝てくれって頼んだのは俺たちだぞ」
「そ、うだったっけ……か」
「頑張れ伸二、これが終わったら一先ず明日のテスト範囲はクリアだ」
……ん? 返事がないぞ?
「伸二?」
「……」
返事がない、ただの屍のようだ。
「……喉乾いたな」
この戦線は俺には厳しすぎる。ここは補給物資を得るべく一旦後方へ退避しよう。
「……そう、くん?」
葵さん? しまった、起こしてしまったか。
「ちょっと喉が渇いたから台所にね。葵さんも何かいる?」
「い、いえ、大丈……あ、でも」
まだ寝ぼけてるのか? いやそれにしては顔が赤いな。
「一緒に行く?」
「は、はい」
まだ視界がぼやけていそうな彼女を連れ、暗くて静かな廊下を歩く。
「廊下は暗いから気を付けてね」
「はぃ……」
ん? さっきよりも元気がない? あぁ、怖いのか。女の子だしな。
「――え、わっ!?」
彼女の声が聞こえた直後、背中に2つの柔らかい感触が伝わる。
――え、これってまさか。状況を考えれば躓いて寄りかかったんだよな。そうなるとこの感触の正体って。
いやいやいや落ち着け、餅つけ、ここで俺が慌てたら葵さんを余計に慌てさせてしまう。ここは落ち着いた大人の男の雰囲気で安心させてやるべきだ。落ち着け、餅つけ、近所に配れ、俺はデキる男だ。デキばやれる子だ。変に飾り過ぎず、気取らず、俺らしさを忘れずにいくぞ、行くぞ、行くぞ。
「大変柔ら素晴らしいです」
「へぅ!?」
逝ったぁあああ。
やっぱりやっちまったよ。しくじっちまったよ。言うな言うなと変に意識するとかえって言ってしまう俺の悪い癖出ちゃったよ。
もう駄目だ、絶対に嫌われた。
「もぅ……総君のエッチ……」
「ご、ごめん」
「いえ、私が最初に躓いたのがいけないので……私こそごめんなさい」
あれ? そこまで怒ってらっしゃらない?
「……怒ってる?」
「そ、そんなことありませんよ、ちょっと恥ずかしいだけです」
そ、そうか。良かった……ん、良いのか? まぁ嫌われるよりは全然いいか。
台所の明かりを点け、冷蔵庫の取っ手に手をかける。
「珈琲、ホットミルク、オレンジジュース、何が良い?」
「えっと、総君と一緒で……」
「じゃ、ホットミルクで」
「ありがとう……」
「それはこっちのセリフだよ。俺の為に夜中まで付き合ってくれて、ありがとう」
その言葉に彼女は頬を染め少し俯いた後、気恥ずかしそうに笑みを向けてくれた。超かわいい。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
そう言うと彼女はカップに注がれたミルクに軽く息を吹きかけ、口をつける。
「……あったかい」
あぁ、1つ1つの仕草が可愛いのぉ。たまらんのぉ。癒されるのぉ。
「あの、総君……」
先ほどまでの見ていて蕩けるような顔から、緊張した面持ちにチェンジした葵さんが、俺の目を見つめてくる。
「どうしたの?」
「その、私……」
何かの相談事かな? 顔も赤いし普段よりもモジモジしてるってことは込み入った要件かも知れない。それともまさか恋愛の相談事か!? 正気か葵さん、俺の経験値はゼロだぞ! 訓練すらまともに受けていない、新兵以下の存在だぞ。そんな俺に相談なんて。
「わたし……私――」
いやここはしっかりと聞こう。神経を集中させ、彼女の一言一句をもらさず受け止めよう。
覚悟を決めたかのような瞳を向ける葵さんに負けないよう、俺は全神経を聴覚に集中させ彼女の言葉を、
「総君、私――「お兄ぃ~ちゃん! こんな時間にどうしたの?」です!」
聞き逃した。
次回、『この日生じた感情の名を俺はまだ知らない』
更新は木曜日の予定です。