3話 俺の妹が天使な件について
耳を劈く甲高い音が、深く沈んでいた意識に割り込んでくる。
あぁ、また今日が始まるのか。普段ならばそんな億劫な気持ちのもとに仕方ないなとベッドから身を起こしたことだろう。
だがこの日は違う。今日という日を待ち望んでいた。今日からは、普通の高校生のような趣味をもって生きることができるのだから。
素早く身を起こし、目覚まし時計を軽く叩いて部屋に静寂を取り戻す。それからさっさと顔を洗って歯磨きだ。普段はここまでやるのに軽く30分は要するが、今日はすこぶる軽快だ。10分で終わった。
まだ母さんから朝食の声がかかるまでにはもう少し時間がある。普段と順番は違うが、もう一度洗面台へと足を運び櫛とドライヤーを手に寝癖を直すことにした。
鏡台の前に立つと、自分の体が視界に入る。滅茶苦茶に鍛えられたお陰か余計な肉は全くない。元が細いせいか筋肉は――必要以上に――ついているのだが、服を着ていると普通の高校生の体つきにしか見えない。勿論服を脱げばその違いは明らかだが、人前で脱ぐような性癖は持ち合わせていない。それに体にはこれまでの修行で負った傷が至る所にある。こんなのを見られたら彼女どころか友達すら作ることはできないだろう。普通の高校生活を送るためにも、これは努めて隠さなければいけないことの筆頭だな。
体の至る所についた傷を見ると、古い傷はこれまでの厳しい修行を、真新しい傷は昨日の模擬戦をふと思い出してしまう。
昨日の模擬戦といえば……親父が思っていたほど――
「総一郎、もう起きていたのか」
思考を遮るように、ブロンドヘアのダンディズムマッチョ、通称アーミーゴリラが髭剃り片手にやってくる。
「おはよう親父。昨日の傷はもういいのか?」
「あぁ……昨日の模擬戦は正真正銘本気でやったからちょっと堪えてはいるが、まぁ日常生活には支障はないさ。お前は――心配いらないようだな」
ふっと何か含みを持ったような軽い笑いを親父が浮かべる。まぁ確かに大した怪我はしてないけど、仮にも息子に刃や銃を突きつけまくってたんだから、少しぐらいは心配しても罰は当たらないんじゃないか?
「意外とね。昨日は親父も本調子じゃなかったみたいだから、次やったらわからないけどな」
「はっはっは、冗談まで言えるほど余裕が出てきたか。いやいや、いいことだ」
いや冗談でもなく本音なんだけど。親父の性格からしてあの状況で手を抜いていたとは思ってないけど、それでも本調子ではなかったと思う。しばらく本気での手合わせはしてなかったけど、もっと手応えがあったはずだ。
だが親父はこの話は終わりだと早々に切り上げると、ウィンウィンと顎髭をそりながら非常に軽いノリで、俺に大事なことを告げた。
「父さんは今日から仕事でまたしばらく日本を離れる。それまではお前がこの家を守るんだぞ。まぁ今のお前に勝てるやつが日本にいるとは思えんが」
いやそんなことないからね。俺そこまで無敵超人じゃないから。確かに銃やナイフを携帯していればまず負けないとは思うけど、丸腰でプロの武闘家なんかと戦ったら多分負けるから。
「いや、俺より強い奴なんて沢山いるだろ」
「ふむ、力を持ちつつも驕らぬその姿勢、どうやら教えることは本当に無いようだな」
いや腕組んで「ふむ」とか言って1人で納得すんなよ。まぁいい、そんなことよりも
「あんまり家を、ってか母さんを放っておくと面倒なことになるから、ほどほどで帰ってきてくれよ?」
「あぁ、由紀子が暴走する前には帰ってくるよ」
由紀子とはこのゴリラの妻、つまり俺の母親のことだ。この外国産ゴリラと違い、純国産の母はこの家での俺の良き理解者だ。だがそんな母さんにも欠点はある。このゴリラのどこがそんなに好きなのか、母さんは時間さえあれば親父にベッタリだ。その愛は息子の俺から見ても過剰と思えるほどで、親父が1ヶ月ほど海外へ出張したときなんかは寂しさのあまり――
「あなた~、総ちゃん~、ごはんよー」
おっと、そんな時間か。しかしそうか、親父が日本を離れるのか。これは母さんには注意しとかないとな。
「あなた~、総ちゃん~」
おっと。
「はーい、今行くー」
俺は寝癖をサッと直すと、そのまま朝食の用意された居間へ向かう。
「おはよう総ちゃん」
櫛をスッと通すような長い黒髪の色白美人が声をかけてくる。自分の母親に対して甘いと言われるかもしれないが、贔屓目なしに見ても母さんは美人だと思う。18歳で俺を生んだらしいから今は35歳だが、町では母さんが通りかかると大抵の男は振り返るし、スカウトの人から声をかけられたという話も未だに聞く。こんな美人がなぜあんなゴリラにとも思うが、流石にそれは余計なお世話か。
それに俺は外見は――髪の色以外は――母親に、身体能力は父親に似たらしいので、夫婦の愛の結晶としては非常に恵まれているとも言えるだろう。
「おはよう母さん」
母さんに挨拶を返すと、母さんの横で朝食の準備をしている小さな女の子が次いで声をかけてきた。
「おはよう、お兄ちゃん」
この小さくて可愛らしい天使は最愛の妹、藤堂瑠璃。振り返った拍子に俺と同じサラサラなブロンドヘアが腰をなぞる。今年で小学3年生になった小柄な天使は、クリっとしたまん丸な瞳で俺を見つめる。マジ天使。最近は殆ど毎日誰かからラブレターを貰っているらしいが、絶対に誰にも瑠璃を渡すつもりはないぞ。
「おはよう瑠璃。今日もありがとう」
「えへへ、お兄ちゃんとお父さんに食べてもらいたくて、今日も頑張ったの」
何なのこの生き物。可愛すぎだろ。しかしこの天使の愛情の矛先に俺以外が含まれているのはけしからんな。誰だそのお父さんというのは、そんなやつ認めないぞ。
「あら、瑠璃ちゃんばっかり」
拗ねたような口調でクネクネと体をくねらせ美魔女がこっちを見つめる。ってか妹に対抗心燃やすなよ。まぁこれもこの人流のコミュニケーションか。本気で言ってるわけじゃないだろうし……本気じゃないよな?
「母さんもありがとう。いつも感謝してるよ」
「うふふ、どういたしまして。さぁお食事にしましょう」
皆揃ったねという空気を出していた母さんに「あれ、親父は?」と疑問に思っていると、背後からヌッと親父が姿を現し、そのまま流れるような動きで椅子に腰掛けた。
――うんビビッた。
ってか今完全に気配消してただろ。しかもすましてはいるが、どこかしてやったりなあの顔。完全に遊んでやがる。昨日のこともあり純粋な戦闘では幾分か自信がついてきたが、こと隠形に関しては全く親父に勝てる気がしない。もし昨日の模擬戦が奇襲でも何でもありの勝負だったら、負けていたのは確実に俺だろう。
「どうした総一郎、食べプフッ――ないのか?」
この野郎……。
「食べるよ、いただきます」
食事を済ませた俺と妹は同じ時間に家を出る。普段なら同じ時間に親父も出るのだが、今日から出張といっていたからまだ家にいるようだ。それに昨夜は俺の我侭に付き合ったせいで母さんにあまり構ってあげられなかっただろうから、今頃その反動が来ているんだろう。頑張れ親父。
我が家は少し山に入った辺鄙な場所にある。なぜそんな場所に家を建てたのかというと、まぁ……これまで親父に受けてきた地獄を考えれば想像に難くはないだろう。
だがそれには勿論弊害もある。学校のある区域まで、俺の足だとすぐだが瑠璃の足だと30分程かかるのだ。そのため学校に行くときは必ず俺と。帰ってくるときは途中から迎えに来た母さんと一緒に帰るのが我が家の鉄の掟だ。変質者に攫われでもしたら大変だからな。親馬鹿とも妹馬鹿とも思われるかもしれないが、決してこれはオーバーな話ではない。
瑠璃が小学校2年生の時。その頃瑠璃は1人で学校から帰っていたが、その途中に変質者から声をかけられ誘拐されそうになったことがある。幸いにも不審に思った他の大人が警察にすぐ連絡してくれたことで瑠璃が危害を加えられることはなかったが、それ以降我が家では瑠璃の学校の送り迎えには最大限の警戒を払うことにしている。
なおその変質者は警察にすぐ御用となったが、拘置所への護送中に謎の男二人組に襲撃され半殺しの目にあったとかあってないとか。全く怖い世の中だ。
そんな訳で、俺は今瑠璃と手を繋いで登校している。断っておくが手を繋いできたのは妹の方からだ。まぁ確かにガッシリと握り返したのは認めるし、鼻の下が伸びまくっているのも認めるが、俺が言いたいのはこれは一方的な愛情ではないということだ。その証拠に、手を繋いでいる瑠璃の表情はとても幸せそうだ。通学路の途中でいつも会うおばさんたちも温かい目で見てくれる。
おっと、考えことをしているうちにいつもそのおばさんがいる場所まで来ていた。そして今日も当然のようにそこにいる。いつも思うのだが、その時間になると必ず毎朝そこにいるあのおばさんたちは何か使命でもあるのだろうか。ゲームの村人Aのようだと言ったらキレられるだろうか。言わないけど。
そしてそんなおばさんたちに会った時、毎日欠かさず挨拶をする妹は天使だな。異論は認めない。
「オバちゃん、おはようございます」
「あら瑠璃ちゃんおはよう。今日もお兄ちゃんの手を繋いであげてるのね。偉いわね~」
……解せぬ。