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ookami

作者: 札中A斬

表題

ピスタ~少年狼、牙を得た

ペンネーム・本名

大澤弘規

400字詰め換算枚数

生年月日

昭和五九年、八月一三日

職業 アルバイト

住所北海道根室市駒場町二の四の一

電話番号

09062188439

メールアドレス

q86s4vb1ge0yt8wuq3mb@docomo.ne.jp

あらすじ

 遊牧民の少年、アルゲレリオン・ブルトチノはライバルのオユントゥルフールを追って日本の大相撲の世界に飛び込んだ。

 しかし、入門早々ブルトチノは兄弟子の久山 (ちから)と共に暴力事件を起こした。部屋の規律違反、くび確定だった。

 時を同じくして、赤瀬部屋の師匠・赤瀬 峰夫が死んだ。

 ブルトチノと久山は自分達をかばってくれた幕内力士・漣が興した五味部屋に移籍した。

 弱小部屋は金銭面などあらゆる面で不利だったが、おかみ・律子の手腕が部屋経営を助けた。

 ブルトチノは「狼」の四股名をもらいデビューした。

 たった二人の力士は相撲漬けの環境で実力をつけて行った。

 しかし、二人に壁が立ちはだかる。

 久山には十両の壁。

 一人前に認められる十両力士。それまでとは待遇が一八〇度違う。給料は雲泥の差、手足となって世話をする付き人がつく。

 久山は東幕下筆頭にまで登り詰めた。半枚上は天国。また、あとのない十両力士にとっては久山は地獄へと足を引っ張る存在。彼らは久山を全力で潰してきた。久山の体はぼろぼろ。何とか三勝三敗で最後の相撲にたどり着いた。相手は赤瀬部屋の赤烈風。赤烈風はアマチュアタイトルを総なめにして角界入り、入門二場所で十両力士・関取になった。

 赤烈風との対戦。馬力は久山に分がある。捌きのうまさでは赤烈風。両者、自分の長所を生かし素晴らしい相撲になった。最後は稽古量がものを言う。久山が赤烈風を押し出した。

 久山は関取になった。

 久山を追うブルトチノの壁はバータル。対戦成績、四戦全敗。歯が立たなかった。

 ブルトチノはもがいた。想像を絶した猛稽古。砂まみれ、どったが顔かわからない。そんな猛稽古でも自信が沸かない。見兼ねた師匠・五味、ブルトチノに胸を出した。相撲とは押すことである。

「押せば押せ引かば押せ押せ近場押して勝つのが相撲なりけり」

 師匠はこの言葉をブルトチノの体に刻んだ。

 押すとは何ぞや。それは力士のコア。押さなければ隙が生まれない。投げもいなしも意味を持たないのだ。相撲は少年の狼に牙を与えた。

 牙を持った狼は鮮やかに獲物を仕留めた。

 ブルトチノの相撲は人々の視線を釘付けにする。

 ろくすっぽ相撲を見ないくせに街頭インタビューで日本人横綱がどうとか、モンゴルがどうとか、と平気ほざく連中。ゆるキャラが相撲を取ってる感覚、テーマパークだと勘違いしてで国技館に足を運ぶ連中。は相撲を知った。

 そして、バータルとの対戦に勝利した。

 バータルに勝って六戦全勝。次を取れば、十両昇進。

 しかし、勝負は時にしてあっさりと決まる。ブルトチノは相手の立ち合い変化で負けた。

「ビスタ」下がる花道、ブルトチノは叫んだ。

 釣り屋根の房、四人の相撲の神様は少年狼を温かく見守った。

 ブルトチノは通りすぎる横綱・志師の背中を見つめる。狼はてっぺんだけを見据えた。


















 大草原。背の低い草が揺れている。

「ハアハアフッハアハア」

 草原に寝そべる少年は白い息を吐く。また、その胸は、浮き上がっては沈むを繰り返した。少年、アリオンゲレル・ブルトチノはゆっくりと目を閉じた。

 ブルトチノはこんな夢を見た。幼少時のブルトチノが祖父・ソングの膝の上で絵本の読み聞かせを聞く。

「昔々、狼は草原の神様でした。神様である狼は時々、家畜の羊・馬を殺しました。人々は困りました。狼は神様なので危害を加えると祟りがおこると人々は恐れていました。しかし、そんな掟を破る若者がいました。なんと、狼を投げ飛ばしました。狼は草原に倒れました」

 白黒映像の世界にいきなり(あか)が飛び込んできた。そして、その世界は終わった。

 ブルトチノは目を開く。太陽光の刺激は目をぱちぱちとさせた。蒼い空の向こう、微かに甲高い鳴き声が響く。鷹だろうか。

 馬頭琴の音色とホーミーが聞こえてきた。風が草原を駆け抜ける。ブルトチノの鼓膜は耳小骨振動を繰り返す。内耳はその振動を心地よい音に変換した。

 オユントゥルフール・バータルは両手を広げて、勝利の舞いを踊る。

 ジュニアブフの決勝戦。ブルトチノはバータルに負けた。相撲部屋の親方・松能勢 朗(52)が見守る中の対戦だった。

 体を起こしたブルトチノはバータルに目を向けて下唇を噛む。「ピェスタ」と言って唾を吐き捨てる。

 松能勢はバータルに歩み寄った。

「いい投げだ。日本に来たらすぐに強くなるぞ」

 松能勢はバータル手を差し出す。バータルは分厚く大きい手を握った。強い力で握り返す松能勢。ブルトチノは結ばれた手をじっと見つめる。その視線を感じた松能勢はブルトチノに目を向けた。

「お前も日本に行きたいか? 行きたいだろうな。その眼は」

  ブルトチノは頷いた。

「親方。今回は枠がひとつでは?」と叫ぶ通訳の東出 晋が駆け寄ってきた。

「赤瀬部屋のトンガ人がスカしたから、こいつを連れて行こうと思う」

「そういう事情は先に言って下さい」

「今決めたから」

 松能勢はバータルの手を離すと酒を配布するテントに向かった。

 ブルトチノは目線を上に向けた。空を舞う鷹。雲ひとつない青空、水平に広げる羽が映える。


 念願の日本行きが叶ったブルトチノは家族に別れを告げる。

「父さん。母さん。行って来ます」

 ゲルの中、ブルトチノの母・クトゥグがすすり泣く声だけが聞こえる。

「母さん泣かないで」

 クトゥグは民俗衣装を着たブルトチノに抱き付いた。

「何やってるんだ。一張羅が濡れてるよ。離れろ」

「すみません」

 クトゥグの体を起こす父のアリオンゲレル。ブルトチノはクトゥグをじっと見つめた。

「ブルトチノ。これを持っていくんだ」

 アリオンゲレルは懐から刃渡りの長いナイフを取り出す。その柄にはサイコロ大の狼の骨が紐でくくりつけられていた。

「ありがとう」

 ブルトチノは帯にナイフを挿した。

「あなた。そのナイフは?」

 クトゥグは手で涙を拭った。拭う手の奥には鋭い眼が控えている。

「街で羊と交換した」

「羊? ナイフと羊?」

 拭った手を下ろすクトゥグ。

「あと、狼避けのピストルをおまけにもらった」

 懐からピストルを出すアリオンゲレル。

「嘘。そんなの嘘。そのナイフは私のお父さんの形見でしょ。無駄遣いばかりしないで。ライフルがあるんだから食料と変えてきて来てね。わかった?」

「両方使うんだよ。さっと打てる用に」

「じゃあ。ライフル売りな」

 ゲルの外に車が止まる。その音に気づいたブルトチノは大きなリュックサックを背負った。

「……無理だよ」

 ピストルを見つめるアリオンゲレル。

「アリオンゲレルさん。昨日電話した東出です。入ってよろしいもですか?」と扉越しの東出が呼び掛けた。夫婦の言い争いは止まない。

「どうぞ」

 細い声のブルトチノ。東出がゲルの扉をゆっくりと開けた。

「お前誰だ」

 アリオンゲレルは銃口を東出に向けた。

「東出です。怪しいものではありません。ブルトチノ君を日本までエスコートします。昨日の電話、この声、覚えてませんか? 理解できたら銃をお仕舞いください」

「あなた。仕舞いなさい」

「そうだったな。お前が連れてってくれるのか」

 アリオンゲレルはピストルを腰帯に挿し込み、東出に手を差し出した。

「東出よ。頼んだぞ」

「しっかりと日本に届けますよ」

 東出はごつごつとしたその手を握った。

「じゃあ、もういかなきゃ」

 手を放した東出の視線はブルトチノに注ぐ。

「その格好じゃ駄目だよ。ズボンないの?」

「これじゃだめなのね」

 慌てて箪笥を開けるクトゥグに目を向けたアリオンゲレル。

「あとね、飛行機乗れないよ。そんなもの下げてたら」

 ブルトチノは頷き、ナイフを腰から抜いた。

 次の日の朝、飛行機の機内。窓に額をつけるブルトチノ、ジーパンを履いた足をバタバタさせる。東出はその足に目を移した。

「どうだい。飛行機は?」

 動き出した飛行機。そして、離陸。

「緊張する」

「俺も緊張したよ。銃口向けられたのはじめてだったから」

 音を立て、離陸する飛行機。

「ああ。やっと日本に帰れる」

「おー。お腹が絞られる」

「そう、そりゃ大変だ。……あっ、そうだ。日本語はしゃべれるのかい?」

「ありがとうございます。ありがとうございました」

「まあ、そんなもんだよね。なんか聞かれて、わかんなかったら頭下げて、日本語わかないって言っとけば同情してくれるよ。あとはどすこいだな。これを言っとけばなんとかなるさ」

 と東出は笑みを浮かべた。

「東出。だんだん気持ちわるくなってきた」

「窓ばっか見てるからだよ。そのうちつくから寝てな」

 ブルトチノは背もたれにもたれ、目を瞑った。

「苦労するだろな。この子」

「なんか言った?」

「寝なさいよ」

 目が覚めたブルトチノは窓に目を向けた。

「もう日本だよ」

 東出はコーヒーをすすった。

「東出。ここが日本か」

「モンゴルとかわらないでしょ まあそんなに草原はないけどね」

 窓越し見える周辺の山々。

 ブルトチノは耳に指を突っ込んだ。

「耳がキーンとする」

「イヤホンでも耳に突っ込んどけば」

 ブルトチノは小物入れに手を伸ばした。

「冗談、冗談。着けば直るから」

 ブルトチノは顔に苦痛の表情を浮かべる。そして、機体は着陸。

 離着路。ブルトチノらはタラップを下りた。あちらこちらに目を向けるブルトチノは階段に躓いた。しかめっ面の東出。

「危ないよ。ちゃんと前見て」

 ブルトチノらは連絡通路を進む。

「東出。あれに乗っていい?」

 ブルトチノは動く歩道を指差す。

「あれね。いいよ」

 ブルトチノは動く歩道に駆け寄った。

 あとを追う東出。

「走ったら危ないよ」

 動く歩道の前で止まるブルトチノ。

「早く乗りなよ」

 東出はブルトチノの背中を軽く押した。

「おっ。おー」

 ブルトチノは目をキョロキョロとさせながらベルト上を流れていく。

「ほら。前を見て」

 ブルトチノはベルトとカーペットの境界線で躓く。東出は口を押さえて笑った。

 タクシー乗り場。ブルトチノらは松能勢とバータルにばったり出会した。

「おう。同じ便だったか」

「親方、どうも」

「おい、少年。赤瀬さんの言うこと聞くんだぞ。じゃあな」

「お疲れさまでした」

 頭を下げた東出はブルトチノの頭を下に押しつけた。

 ブルトチノらに向けて右手を挙げた松能勢はタクシーに乗り込んだ。

「ああ、機内食くい過ぎた。羊ばっかだったから塩鮭はうまかったな。やっぱ日本人は塩鮭だな。塩鮭、塩鮭」

 バータルがタクシーに乗る。扉が閉まると、バータルはスマホに目を落とした。タクシーが動き出し、東出は大きく息を吐き出した。

「ビシネスとタクシーかよ。こちとら硬い椅子とファストフードのめしに狭いバスだっていうのに」

 行き交うバスや車を目で追うブルトチノ。

「バスが出るよ」

  バス停へ向かって東出が歩き出す。追うブルトチノ。

「ビジネスは和定食だったのか。味噌汁飲みてえ。それにしてもあのパッサパサビーフのハンビャーガー不味かったわ」

「今、あっちに行った二階建てのバスに乗りたい」

「あれは成田。あれに乗ってモンゴルに帰るといいよ」

 と東出は日本語で言った。

「日本語わからない。モンゴル語でしゃべって」

 東出の横に並ぶブルトチノ。

「気にしないで独り言だから」

 バスに乗り込む東出を追うブルトチノ。

 そして、車が行き交う森下の交差点。横断歩道を渡るブルトチノら。車や人を目で追うブルトチノ。

「キョロキョロしない。さっきから言ってるでしょ」

 ブルトチノらは路地に入った。路地をスマホ片手に進む東出。追うブルトチノ。

「ナビではこの路地なんだけどな」

 更に路地の奥へすすむ東出ら。

 東出は四階建ての建物の前で足を止めた。

「ここだ。ここだ」

 東出は後ろを向いた。木製看板に目を向けるブルトチノ。

 ブルトチノは〈赤瀬部屋〉その文字の迫力に体を仰け反らした。

 すると、腰をくの字に曲げた赤瀬峰夫は植木鉢と如雨露を持って玄関から出て来た。

「おじいさん。部屋の人いるかな?」

「はっ? 赤瀬だけど。ここの城主だけど何か?」

 東出は頭を下げる。

「これはすいませんでした。親方」

 息をのむ東出。赤瀬は下から上に舐めるようにブルトチノを眺めた。

「用件は」

「松能勢さんに申し付けられまして、この子を連れて来ました」

 ブルトチノは東出の目線の誘導で一歩前に出る。

「やっぱり新弟子か」

「アリオンゲレル・ブルトチノ君です」

 東出の目線を合図にブルトチノは頭を下げた。ガラガラッと扉を開ける赤瀬。

「(叫ぶ)おーい。誰かこーい」

二階のちゃんこ場に力士・駒場武夫が寝転んでテレビを見る。

「なんだ。なんだ。早く降りてこいよな。おやじが呼んでんぞ。俺の下部たち」

 天井に目を向ける駒場。

 玄関前。東出は赤瀬に近付いた。

「親方。では私はこれで」

 赤瀬は如雨露で、盆栽鉢へ水やりをした。

「おお、そうか。なんにもお構いできなくてすまんな」

「いいえ」

 ブルトチノに目を向けた東出。

「格段優勝したら電話してね。通訳すっから」

「電話わからない」

「名刺渡したでしょ」

「あれに入ってる」

「あの民俗衣装か?」

 ジャケットの内ポケットを探る東出。

「ここに電話してね。それから、仕事以外では電話しないでよ」

 名刺入れの名刺をブルトチノに差し出した。

「うん」

 東出の目を見つめるブルトチノ。

「そんな悲しい顔しないで」

 東出はペンを取り出して名刺に文字を書いた。その文字はモンゴル語。〈嫌になったら大使館に逃げ込め。大使館の住所~〉

「頑張れよ」

 東出は名刺をブルトチノの手に握らせた。そして、赤瀬に頭を下げ、交差点の方に消えた。

 盆栽を剪定する赤瀬。

「モンゴル語ってよ。早口で全くわからんな」

 頭を下げるブルトチノ。

「意味不明ってか」

 頭を下げるブルトチノ。

「よう。中に入っとけ」

 赤瀬は玄関を指差した。

 ブルトチノは恐る恐る玄関の中へ。玄関マットを踏むブルトチノ。その柔らかさにはっとした。奥へと進む、ブルトチノは稽古場から気配と息づかいを感じて稽古場方向へ目を向けた。目の前には稽古場扉。扉の細長い窓を覗く。そこからは見える土俵は薄暗い。

 スッスッスッ、と低い音。砂と足が擦れる音が聞こえる。

 ブルトチノは窓に顔を寄せた。稽古場には幕内力士・(さざなみ)連が摺り足に励む。両手に丸い石の塊を抱える。額から出た汗が胸、腹を伝ってまわしに染み込む。また、漣の背中からは体を覆うような湯気が見えた。

「なんだ」

 漣はブルトチノに目を向けた。漣の耳にはブルートゥースのイヤホン。ブルトチノは頭を下げる。

「新弟子か?」

ブルトチノは頭を下げた。扉を開ける漣。階段を下る音。階段から駒場が下りてきた。

「お前、誰だ?」

駒場はブルトチノを睨んだ。頭を下げるブルトチノ。漣は稽古場扉を開けた。

「新弟子だろ。つれてけ」

「はい」

 ブルトチノに目を向ける駒場。

「おい。ついてこい」

 ブルトチノは頭を下げる。

 階段を上がっていく駒場の後をついていくブルトチノ。

「部屋は三階だ」

 頭を下げるブルトチノ。階段を上る駒場ら。

 駒場は三階に着くと、扉をゆっくりと開けた。

「静かに入れよ。みんな寝てんだから」

 頭を下げるブルトチノ。

「ドア、静かにしめろよ」

 バタンとしまる扉。

「おい。バカ。音たてるな」

 頭を下げるブルトチノ。川の字で眠る力士たち。駒場はその間をどかどかと歩いて、久山 力の枕元で止まった。

「おい。ちから、起きろ。新弟子来たぞ」

 駒場は久山の枕を蹴った。

「なんすか?」

「新弟子だ」

「俺に言わなくても。俺より下の奴に言ってくださいよ」

 まわりの力士たちが起きはじめた。

「はっ。くらわすぞ」

「まあ、まあ駒場さん。落ち着きましょ」

 と力士たちが駒場をなだめた。

 久山へにらみを利かす駒場。

「お前がモンゴル人の教育係な。はい、決定」

「わかりましたよ」

「ちゃんとやれよな」と駒場は布団を蹴った。

「はい」

 夕方、ちゃんこ場。脚無しの円卓テーブルで食事する力士たちとブルトチノ。

「もっと食え、ブルート」

 頷くブルトチノ。

「新弟子検査受かったらお前もあっちなんだから」

 テーブルの後ろで立つ力士たち。久山もいる。

「早く食えよな。デブ」と久山は呟いた。

 夜、大部屋。川の字で眠る力士たち。涙を流すブルトチノ。いびきと無呼吸症候群治療装置の動作音が部屋中に響く。

 翌朝の稽古場。ドン、という足を落とす音。いくつもの足音が集まった音。それは揃ったり、微妙にずれたりする。四股を踏む力士たち。見よう見まねでふらふらした四股を踏むブルトチノ。そのうしろには久山。

「ブルート。ふらふらだな。親指に力を入れてみろ。ましになっから」

 少しふらついた四股を踏むブルトチノ。

「まあ、いきなりは踏めんよ」と久山は笑みを浮かべた。

「ちから、笑うんじゃねえよ」

 久山の右斜めうしろ、駒場が睨みを利かした。しばらくして、漣と幕内力士・大谷 一輝が稽古場に入って来た。

「おはようございます」力士たちは発声した。

 大谷は目をキョロキョロさながら歩く。

「おはよう」漣は穏やかな表情。

 座敷にあぐらをかく赤瀬。大谷と漣は赤瀬の前で蹲踞して挨拶をしてから、稽古場隅へ進む大谷と漣。赤瀬は遅れて頷いた。

 久山がブルトチノの脇腹を手で(つつ)く。

「おい。ブルート。ついてこい」

 頷くブルトチノ。久山は隅に置くバケツから水を柄杓に汲み、漣の元へ。久山を追うブルトチノ。伸脚運動をする漣。

「おう、ちから」

 蹲踞する久山は漣の口元に柄杓を近づけた。漣は柄杓に口をつけ、口に水を含んで、足元に吐き出した。

「おう」

「はい?」

「お前じゃないよ。ちから」

 漣と目が合うブルトチノ。

「ちゃんと挨拶しろ」

 久山はうしろを向く。頭を下げるブルトチノ。大谷がブルトチノに目を合わせた。

「新しい外人か。頑張れよ」

 大谷に頭を下げるブルトチノ。立ち上がって、バケツの方に向かう久山。

「ちから、俺はいいわ」

「はい」

 漣の方に目を向ける大谷。

 二階の調理場。まわし姿で調理する久山とブルトチノら。

 カットされた肉はボール。野菜はバッドに入る。野菜を切るブルトチノ。

「うまいもんだな」

 頷くブルトチノ。

「沸騰したら肉からドボンだ。オーケー?」

 頷くブルトチノ。

「絶対わかってねえな」

 ガス台、沸騰しかけている鉄鍋。扉が開く。スマホでダースベーダーのテーマを流す駒場が調理場に入った。

「どうもダースベーダーです」

 愛想笑いをする力士。首でリズムをとりながら野菜を切るブルトチノ。

「笑ってよ。ちからちゃん」

「火をかけてるんで」

「ちゃんこ長のちゃんこチェック。イエー」

 拍手する力士たち。遅れて拍手する久山とブルトチノ。

「どれ、どれ」

 お玉でスープを掬う駒場。

「色はまあまあだな」

 駒場はお玉を口につけた。

「うっすいぞ。ちから」

 駒場はそばにいた力士の口元にお玉を近づけた。スープをすするその力士は久山に目を向けてから、駒場の方を向く力士。

「うっすいですね。これは」

「そうだろ」

 ガス台脇の塩の入れ物から塩のつまむ駒場。駒場は鍋の中にその塩を振った。

「これとしょうゆをいれれば完成だ」

「(小さな声で)あーあ」久山の方を向く駒場。

 円卓テーブルのまわり、座布団に腰かける漣と大谷。ちゃんこ鍋をよそう久山。

「今日は塩か」

 久山はよそった丼を大谷に渡した。丼の底を少し熱そうに持つ大谷は丼に口をつけた。

「あれっ。しょっぱくね。色濃いしよ」

 大谷は丼を置いた。

「誰つくった?」

 テーブルのうしろに立つ駒場は目線を隣にいるブルトチノに移す。

「すいません」と久山は頭を下げた。

「まあ関取、俺らとこいつじゃ運動量が違うから濃くなったんじゃない」

「連さん。それもわかるけど……こっちよりに寄せてもらわんと」

「ちから、とりあえず水足せ」

「はい連関」

 久山は調理場に向かった。


 ブルトチノが来日して一週間。朝六時、赤瀬部屋玄関前。赤瀬が盆栽の剪定を行う。鉢から落ちる葉を野良猫が口にくわえた。野良猫は玄関に入っていくと、開けっ放しの稽古場扉の前で漣、少し離れて大谷が腕立て伏せを行う。

「おい。今日もそれで歯磨きか?」

 野良猫は漣の顔の前を通って大谷の方へ。漣は野良猫を目で追った。

「なんだよ。こっちくんな」

 毛を逆立てた野良猫。

「あっちいけ」

 大谷は野良猫の鼻を指で弾いた。

「あーあ」

 稽古場では久山の胸にぶつかるブルトチノ。乱れた息遣いが稽古場に響いた。

「ほら、押せ。ブルート」

 ブルトチノは左足を前に出そうとするが、足を前に出せない。

「押せって」

 久山がブルトチノの背中を叩いた。白い背中の真ん中、久山の手のかたちに紅潮した。反射的に首を横に振ったブルトチノは力強く足を前に出す。馬にムチが入ったようだった。

「そうそうそうそう」

 ブルトチノは久山を土俵の外に押し出した。

「ありがとうございました」

 ブルトチノは久山に首を押さえ付けられながら腰を割った。

「ちから、次お前だ。入れ」

 駒場が土俵の中に入り、足で砂をならした。

「あっ。はい」

 土俵の中に入った久山は徳俵の前で仕切った。

「はい。がんばろうね」

 駒場は久山の正面に構えた。

「さあ、こい」

 久山は勢いよく駒場の胸に、ぶつかった。駒場は下がらない。駒場は久山より五〇キロ重い。太鼓腹の駒場はびくともしない。

「押せよ。早く」

 右の上手まわしをつかんだ駒場は久山を土俵に叩き付けた。

 駒場を押せない久山の体はあっという間に砂まみれになった。

 玄関先、赤瀬は依然として剪定を続けた。玄関扉のわずかに開く隙間、野良猫が顔突っ込む。

「あのねこ、こっちみてるよ」

「ほんとねこ嫌いだよな」

 稽古場前、ダンベルトレーニングを行う大谷と漣。二人は土俵に目を向けた。

「駒場も好きだよね。出る杭打つの。連さんどう思う?」

「うーん。困ったもんだよね。稽古で勝てないからってあの腹いせ。やりすぎだ。今はそういう時代じゃない」

「行き過ぎたらとめなきゃいけないけど、叫ばれてるじゃないですか。日本人のハングリー精神。俺は天然記念物の保護派にまわろうかな」

 駒場は砂まみれの久山の髷を持って引きずり回す。

「駒場。もういい。下がれ」と大谷。

「あっはい」

 鋭い眼光の久山は肩で息をする。


「おい。久山とブルート呼んでこい」

 調理場、駒場はガス台に腰掛けた。しばらくして、駒場の前に久山とブルトチノが現れた。

「なんすか?」

 ガス台の脇には長財布と大学ノート。また、 久山らのうしろには力士たちが立つ。

「きのう。買い物最後に行ったのお前らだよな」

「そうですけど」

 ブルトチノは殺伐とした空気を読み取り、落ち着きがない。目をキョロキョロと動かした。

「ノートの残金と財布の金があわねえ」

「俺、ちゃんと金庫にしまいましたよ」

「じゃあブルートがとったのか」

「てらきってません。なんで俺ら二人なんすか。金庫の番号なんてみんな知ってることでしょ」

「おい。口が過ぎるぞ」久山のうしろに立つ力士が久山をこづいた。

「そうだぞ。ちから」駒場は壁に掛かる中華おたまを手に取った。

「やってません。俺ら」

「俺も信じたいよ。でもな落とし前をつけなきゃな」と言って駒場が立ち上がった。

「はっ?」

「そこで提案だ。ブルートが金を落としたってことにして、オヤジに報告する」

「そんなんでオヤジ納得しますかね?」久山は駒場を睨んだ。

「俺がうまく言っとく。たかが三〇〇〇円だかんな」

「納得いかないけど。それでおさまるなら、それでいいです」

「じゃあ、そういうことで」

 駒場は中華おたまを振りかぶった。

「ちょっと待ってよ」

 おたまを振りおろす駒場。久山はおたまをかわす。おたまはシンクに当たって、少し曲がった。

「あーあ。どうすんだよ。これ」

「なんで俺がくらわされなければならないんすか」

「教育係だろうが。お前は」

 駒場が叫んだ。

「おい。押さえろ」

 力士たちが久山を押さえる。駒場は久山が動かなくなったのを確認して、おたまを振りかぶった。「死ね。デブ」と言ってブルトチノは駒場の足にタックルを決めた。駒場はブルトチノに持ち上げられ、ガス台の銀色の壁に頭をうちつけた。ものすごい音、車の物損事故のような衝撃音だった。

「駒場さん」力士たちが歩み寄った。ブルトチノは駒場の足を離さない。

「どけ」

 久山は力士たちを押しのけた。

「気、失ってんじゃんか」

 駒場はうつろな目をして動かない。

「デブが寝てるよ」

 久山は駒場を殴った。

「よし。行くぞブルート」

 ブルトチノは調理場をあとにする久山を追った。階段を下りる久山は開けっ放しの座敷扉の方を覗いた。

「オヤジいるじゃん」

 座敷前方にぽつんと置いてあるスマホ。その後方の檜製のベンチ。赤瀬はベンチに腰掛け、うつ向きながら眠る。

「しょうがねえ。行くか」

 部屋を出た久山らは地下鉄乗り場へ向かった。

「ブルートごめんな」

 頭を下げるブルトチノ。

「お前どっか行くところあんの? 通じねえか。通訳アプリないから。あーあ。スマホ忘れたの痛いな」

 ブルトチノは久山に名刺を差し出した。

「なに、なに」

 東出は名刺に目を向けた。

「東出?」

 ブルトチノは名刺をひっくり返せとジェスチャーをした。

「裏かい。なになに。嫌になったら大使館に逃げ込め。住所も書いてんじゃん。ここ行きてえのか?」

 ブルトチノは頭を下げた。

「行きますか。モンゴル大使館」

 モンゴル大使館の門前。扉が閉まっていく。門前に立つ久山ら。

「あーあ亡命失敗だな。追い返すように日本相撲協会に言われてますからの一点張りだもんな。この人に電話かけるか?」

 久山はブルトチノに向かって名刺の表面を掲げた。ブルトチノは首を横に振った。

「そうかい。そうかい。俺の実家が市川だったらな。お前も連れてってやるんだけど、なんせ北海道ですから俺の実家。そうだ。市川へ行こう」

 マンションのエントランス。久山は壁のダイヤルを押した。

「こんちは。めしくいに来ました」

「ちからさん。なんで来たの?」

「ゆめちゃん。地下鉄東西線で来ました」

「とりあえず入って」

 自働扉が開いた。中へ入る久山。追うブルトチノ。扉がしまった。

 「漣」の標札を掲げる部屋。扉が開くと、漣の娘 夢花が出てきた。玄関前、久山のうしろに隠れたブルトチノ。

「えっ。もう一人いんの。」

 夢花がうしろを向く。

「お母さん。ちからさん知らない人、連れてきた」

 部屋のなかに入る久山ら。

「ゆめちゃん。今日高校休み?」

 リビングへ進む久山ら。

「日曜なんだから休みでしょうよ」

 漣の妻 律子がオープンキッチンで調理をする。

「奥さん。こんちは」

「ちから君。着物で来なくちゃダメよ」

「すいません。急いでたもんで、携帯も持ってこれなかったっす」

「ママ。ちからさんまた問題おこしちゃったんじゃないの」

「ちから君。そうなの?」

「あそこは引けませんでした。前に出るしかなかったす」

「それは土俵でやってよね。大事なところで引いて負けるくせに」

「ゆめちゃん。ひどいいいようだな」

「ちから君。それからブルトチノ君。座って、焼きうどんもうすぐできるから」

 ソファーに腰掛ける久山。遅れてブルトチノも腰掛けた。

「奥さん。なんでこいつのこと?」

「パパが話してたから、新しくモンゴルの子来たって」

「でも顔は?」

「それは女の勘よ」

「えー。そうなんだ」

「ゆめちゃん。こいつ日本語、死ねとデブしか話せないから」

「アプリいれれば会話できるじゃん」

 夢花はテーブルにあるスマホを手にした。


「うん。アプリ使わなきゃなんにもつたわらん。スマホのない時代はどうやって意志疎通できたんだろうね。摩訶不思議だわ」

「よし。ダウンロード完了」

 夢花はスマホを口に近づけた。

「私は夢花です」

 夢花はスマホをブルトチノに向けた。スマホ音声はモンゴル語をしゃべった。すると、ブルトチノは笑みを浮かべた。

「できたわよ。ゆめ取りに来て」とキッチンから聞こえた。

「はーい」

 夢花はキッチンへ向かった。

「おー。ママの高速焼きうどんおいしそう」

「高速とかつけないでくれる。道路じゃないんだから。それに手抜きしてるみたいじゃない。高速って」

 夢花は料理がのるおぼんを持って、ソファーに向かう。

「ごめんなさい」

「すいません。ゆめちゃん」

 夢花はテーブルにおぼんを置いた。

「食うぞブルート」

 ブルトチノは頷いた。

「通じるんだ」

「通じてんだかわかんねえ」

「いただきます。ごっつぁんです」

 箸を持つ久山とブルトチノは声を合わせた。

「言えるじゃん。偉い偉い」

 律子は洗い物をしている。久山らは勢いよくうどんをすすった。

「ねえ。ちからさん。パパに連絡する?」

「そうだよな。しなきゃいけないよな」と久山は口をもぐもぐさせながら言った。

「はい」

 夢花は久山にスマホを渡した。

「もうコールしてんじゃん。やべえ」

 久山はコップの水を一気に飲み干してからスマホを耳に当てた。

「もしもし、お疲れさんでございます。ちからです」

「(電話音声)なに。なんでゆめの携帯?」

「関取のお宅にお邪魔してます」

「(音声)お前、駒場殴ったらしいな」

「すいません。やっちゃいました」

「(音声)だからって言ってうちはシェルターじゃないぞ」

「ほんとすいません」

「(音声)でもな、それどころじゃないんだ。オヤジが死んだ」

「えっ」

 夢花が律子に目を合わせた。シンクから聞こえていた水の音が止まった。

「(音声)俺も信じられないよ。ジムに行ってたら、大谷から電話入って危篤で運ばれたから早くこいって言うんだもん」

「すぐに亡くなられたんですか?」

「(音声)脳内出血が酷くて、止まらなかったらしい」

「いや、ちょっと急すぎて……」

「(音声)みんなそうだよ。……あっそうだブルートも一緒なのか?」

「はい」

「(音声)だったらうちにいとけ。オヤジの前での殴り合いは避けたいから」

「反省してます。もうしません」

「(音声)明日には呼ぶから。いいな」

 音声が切れた。

「まじか」

 久山は大きくため息をついた。「ちから君?」

 律子は久山に歩み寄った。何か悲しい事が起こったと察知したブルトチノは箸を置いて、目をキョロキョロさせた。

「オヤジ死にました」

「うん。聞こえたよ」

「奥さん。俺、出てくるときオヤジ見たんす。ベンチで寝てました。あん時、声かけとけば血が止まったんじゃないかと思います」

「ちからさん。そんなこと考えても仕方がないって」夢花はじっと久山を見つめた。久山の目が潤んでいる。

「食べて寝なさい。昼寝の時間でしょ。体、大きくならないわよ」

 久山は目尻を手で拭ってから箸を持つと、鼻水をすすりながらうどんをすすった。

「ほら、ブルちゃんも」律子はキッチンに戻った。


 赤瀬部屋ちゃんこ場。部屋の真ん中に布団、赤瀬が眠る。

 稽古場の座敷では大谷と漣、部屋付き親方の新城 孝之がベンチに腰掛ける。

「親方、疲れてませんか? 忙しいのに福岡からすいませんね。九州場所の準備これから忙しくなるっていうのに」

大谷は新城に向けて頭を下げた。

「いえいえ、他の先発隊の親方もいますから。では始めますか……」

 新城は漣に目を向けた。

「漣関。大谷関が部屋を継ぐことに承認で異論なしですね?」

「異論はないですよ。オヤジの娘さんもらってるんだし、そういう流れなんで」

「では、新親方を我々で支えましょう」

「いや、ちょっといいですか」

 新城と大谷ははっとした表情を隠せない。

「俺、独立します」

「えっ」

 新城と大谷の声が揃う。

「……関取。関取ならあと三年はとれるでしょ。筋肉落ちてないし」と新城が言った。

「そうですよ」

「決めてたんです。オヤジの定年まであと二年だったでしょ。じつは物件とかも探してました」

「弟子は?」

 大谷は漣に顔を近付けた。

「弟子は……。ちからどブルを連れてきたいのですが」

「関取。それはダメ」

「まあまあ親方。いいじゃないですか。ちからは素質があってもったいない気もするけど、相撲が正直過ぎるから私は大成しないと思います。それに駒場を殴った件、その類いを何回も起こしましたから正直いらないです」

「俺が福岡に行ってる間にまたやったの」

「駒場にはめられたんですよ。新親方。結果だけ見て罰をあたえてたら弟子はいなくなりますよ」

「ご忠告ありがとうございます。でも、必要悪があってこそなんですよ。何糞が身に付かないでしょ。みんなそうやって強くなったし、俺も関取も。それに弱いものいじめばっか、一般社会に巣立った時に理由があったとしても殴ったらアウトですよ。時代は今も昔も変わってませんよ」

「そんなの間違ってる」

 漣は立ち上がった。

「モンゴルの子もどうぞ連れてってくださいね。好みじゃないです」

「しかし、部屋の戦力が落ちますよ」

「親方。心配しないでください。唾をつけておいた実績のある大学生が二人、来年の一月に入ります」

「では、私はこれで」

 漣は大谷らに背を向けた。

「漣関、いや親方。忘れ物のないようにね」と大谷は稽古場の名札板に目を向けた。

 漣のマンション。エントランスの自働扉が開くと、大きな段ボール箱を抱える漣が入る。

 漣の部屋。玄関扉が開く。

「パパなにそれ?」

 夢花が顔を出した。

「なにそれじゃなくて。お帰りなさいでしょ」

「お帰りなさい。なにそれ」

「はいただいま」

「だからなにそれ」

 漣はリビングに入ると、ソファーの脇に段ボール箱をおいた。夢花は段ボールのわずかな隙間をのぞく。

「おかえり」

 律子がキッチンの方から現れた。

「ばかどもは?」

「お風呂入ってる」

「俺より先に入りやがってあいつら」

「古い考え嫌いなんじゃないの。ゆめ。パパに言ってあげな」

「パパ、古い」

「はいはい。すみません」

 ソファーに腰掛けた漣は段ボールを開けた。

「はーあ。こんなもんしかのこんねえのか長年いて」と呟く漣は自分の名前の名札板を取り出した。

「パパ。代が変わるから新しい板にかえるの?」

「まさか」律子の目付きが鋭くなる。

「パパは独立します」

「ばっかじゃないの。まじで」

「ママ怖いよ」と微笑む夢花。

 段ボールの中身は三本のまわしと二枚の名札板。

 一週間後、漣は日本相撲協会の年寄名跡・五味を襲名。五味親方となった。しかし、肝心な城、部屋がない。

 漣の自宅マンション。リビング、隅には明荷や衣装ケースが積んである。それをよそに漣家の人々は朝食を取る。

「早く部屋見つけないとな」

「どうすんのよ。いつまでペーパー相撲部屋をやる気?」律子はいらいらしている。

「あれは惜しかったな。最近廃業した平井の清風部屋。これなら居抜きでいけるなと思ったら、不動産屋に吹っ掛けられたんだよ。とてもじゃないけどあんな値段じゃ買えないわ」

「パパ。相撲居酒屋、土俵付いてる。間取りも相撲部屋っぽいよ」

「うそだろ。そんな物件あるかよ」

 夢花は漣にスマホを差し出した。

「ほう、すごいな。こんな値段で」

 律子が夢花のスマホをのぞく。

「いいじゃない。これなら。しかも行徳」

「ゆめ、よくやったぞ」

「じゃあ行こう」

「学校行ってください。高校生」

「えー。公欠でいいじゃん。ゆめが見つけたんだよ」

「行きなさい夢花」

「鬼ママ。怖い」

「誰が鬼よ?」

「ゆめ。パパのお願い、行って」

「うん、わかった」

 夢花は食器を持って立ち上がった。

「稽古、見に行かなくていいの?」と律子は漣の方を向いた。

「今日はその物件見にいくから無理かな」

 シンクから水が流れる音。洗い物をする夢花はリビングを除いている。

「パパ、あのさ。砂場で相撲取るのやめてくれない。うちの高校で話題になってるよ。ニット帽のがたいのいいやつと肌の白いひょろひょろのやつが相撲取ってるって」

「あそこの砂場、広さが一五尺ぐらいだし囲いの木材の縁が低いから俵みたいなんだ」

「そういう問題じゃないから」

「そうか。まわしもつけてないし。なるべく子供のいない時間を見計らってやってるんだが」

「あそこは通学路だっちゅうの」

「フッフッフフフ。うける」と律子は笑った。

「笑うな。一生懸命やってるだから」

「それは分かるんだけどさ、体育館に屋内土俵ついてる公共施設利用したら、ちょっと遠いいけど港区は五〇〇円で二時間だったかな。とりあえず砂場はやめて、砂場はこどものものだよ」夢花は水を止めて、ぶら下がるタオルで手を拭いた。

「ご迷惑お掛けしてます」と小声で呟いた漣は味噌汁をすすった。

 漣の住むマンション近くの公園。その脇を通る会社員や学生、散歩する高齢者が視線を砂場に向けた。

「押せって」久山が激を飛ばす。久山はブルトチノを投げ飛ばした。砂場に転がるブルトチノ。

「やべえ、ブルを汚しちゃった。。奥さんに怒られる。おい、立て」

 久山は慌ててブルトチノのジャージの砂をほろった。

 木陰に隠れる大柄な体、自転車にまたがる駒場だ。使い古した浴衣・泥着に身を包む。泥着の腰部分が盛り上がっている。それはまわしの結び目で、駒場はまわしを締めている。

「やってんな。あいつら。俺も出稽古がんばろ」

 駒場は公園を出た。

「よし、あと一〇回だ」

 ブルトチノは頷いてから、久山の胸にぶつかった。

「ほら、左足を前に」

 公園脇、夢花がうつ向いて歩く。


 地下鉄東西線行徳駅。駅を出た漣と律子は線路沿いを東京方面に歩いた。

「信金から左に曲がって消防署、それも左に曲がって焼肉屋。その向かいにあるんだって」

 漣はスマホ片手の律子を追った。

「あったここだ」

「ママ。速い。疲れたわ」

「ついこないだまで現役やってた人が何言ってんの。この先に公園あるから摺り足でもしたら」

 律子は不動産屋の脇に立つ幟に目を向けた。

「部屋探しのエキスパートだって、相撲部屋さがしてまーす」

「ほら、行くよ」

 漣は店の中に入った。追う律子。

 カウンター席に座った漣夫婦。カウンターを挟んで田所一雄の名札を着けた男。

「今日はどんな物件を」

「相撲部屋ありますか?」

「えっ」

「そうなりますよね。ママ。ダイレクト過ぎるって。相撲居酒屋、売りに出してましたよね?」

「ああ、あれですか。少々お待ちください」

 田所はタブレットを操作し、画面を漣らの方に向けてタブレットを差し出した。

「この物件はですね。まだ内装もきれいですし。いい物件ですよ」

「ぶっちゃけ、土俵なんてつくってしまったから売れなくて、ここまで下げたパターンですか?」

「奥様」

「おかみです」

「おかみ様」

「おかみさんです」

「やめろって、恥ずかしい」

「あの。いいですか?」

「どうぞどうぞ」夫婦は声を揃えた。

「御察しの通りです。この物件はオーナー様、私どもの利益はほとんどありません」

「親方、他のところはもっとやすかったよね」

「あっ、ああ」

 些細な嘘もつけない漣は視線をタブレットに落とし、不自然に画面をスライドさせた。

「無理して私達が買う必要がないか。コンクリ張って売り出せば売れる物件でしょ。わざわざこんな値段で買う理由はないか」

「おかみさん。では、これで」

 電卓をはじいた田所は電卓を律子に差し出した。

「あの、この物件のオーナーさんって固定資産税かかるから早く売れって言ってますね。絶対。それなのに利益出そうとする魂胆が気に食わない。では、次のところ見に行く時間なので」

「おかみさん。勘弁してください」田所は電卓の向きを変えないでキーを弾いた。

「うーん。物件ぐらい見てあげてもいいかな」

「鬼だな」と呟く漣は顔を上げなかった。

 店の外に出た漣らは田所を待つ。

「まだいけるな」

「もう勘弁してやりなよ」

「ダメダメ。たまには損させないと」

「地主の娘、こわっ」

「自分は網元の息子でしょ。大した変わらないじゃん」

「規模が違うだろ」

 田所が車にのって現れた。田所は窓から顔を出す。

「行きましょうか?」

「開けてくんないの?」

「おかみさん、すみません。いま開けます」

 田所は車から下りた。

「あんまりいじめんなって、かわいそうだよ」

 車で少し走ったところにその物件があった。

 漣らは田所のあとについて玄関に入った。

「へぇー。写真で見るよりいいじゃん」

 玄関に入ってすぐのところに、土俵がある。

「おかみさん、どうぞ入ってください」

「田所さん。女は土俵に入れません。ここはプロが使う土俵になるんだから。そんなの常識でしょ」

「失礼しました」田所は深く頭を下げた。

「わかればいいよ」

「田所君。奥見せてよ」

 田所が通路奥に進む。追う漣。律子は目をキョロキョロさせながら歩いた。

「段差があるので気を付けてください」

「はいはい」

 田所と漣は靴を脱ぎ、座敷に上がった。靴を脱いで上がってくる律子は段差に躓いた。

「あぶなっ。なんでこんなところに段差があるの。こんな物件買う人いないでしょ。値引き対象ね」

「あの……すいません」

「ごめんね。君の肩をもったら俺が怒られる」と漣は小声で言った。

 律子はフローリングの床を見渡した。

「フローリングか。傷んでないしそのまま使える」

「親方様」

「いや、親方でいいよ」

「親方様って、織田信長かって」

「すいません」

「早く説明してよ」

「田所君をせかすなって」

「土俵の説明なんですけど、オーナーが相撲好きといこともあって、知り合いの呼び出しさんにたのんで作ってもらったようです。酔っ払って相撲を取るっていうのがここの定番で、流行った時期もあったみたいですね」

「あっそう、キッチン見せて」

「だそうです」

「はい」

 田所は座敷奥に進んだ。

 キッチンを見た漣らは二階へ向かった。

「おかみさん。階段が急になってるので気を付けてくださいね」

「階段急だから安くしてくれる?」

「おかみさん……」

「田所君。負けんな。階段を上がるんだ」

 二階に上がった漣ら。

「二階はパーテンションで仕切って事務所と更衣室、休憩所に使っていました」

「そのまま大部屋に使えるな」

「田所さん。さっきのホシザキの冷蔵庫、製氷機、諸々ついてくるんですよね?」

「あとで確認してみます」

「確認? ついてこないならこの物件買わないから」

「はっ、はい。オーナーに泣いてもらいます」

「話はやい。そういう人好き」

「逃げよう」漣は窓の方に歩み寄った。

 窓からは駐車場が見えた。

「結構広いな。これなら千秋楽パーティーで来たお客さんの車、とめれるな」

「パパ、間違った。親方、ここは月極にするの。まわりマンションばっかだからそこの相場より何千円か安くすれば、こっちに取り込める。うちのお客さんはタクシーか駅からの歩き。飲酒運転防止対策よ」

「完璧ですね。おかみさん」

「完璧? こっからが私の仕事。さあ、どこまで下がるかな?」

「おかみさん。私もう土俵際です」

「たぶん力尽きるまで押し出してくれないと思う。うちのおかみは」

 格安で物件を購入した漣。一行はすぐに引っ越し作業に取り掛かった。

 五味部屋。玄関前に止まる一台の軽トラック。荷台にはなにものってない。

「引っ越し終了」と言ったランニング姿の久山は漣に尻を蹴られた。

「ここからだバカ。土俵作り直すし、必要なもん揃えるんだかから」

「パパ」

「何?」

「土俵って、あのまま使えそうだけど」

「ゆめ、プロが使う土俵は神様に下りてきてもらわなきゃいけないから、土を起こして固めてから儀式をやるんだよ」

「親方。俵入れるんすか?」

「入れない。お前ら俵に頼ってのこそうとするからな。俵の無いところで普段から足の親指に意識して土俵際で踏ん張ってたら本場所ではかなり踏ん張れるぞ」

 細かくうなずくブルトチノ。

「お前絶対にわかってないでしょ」

「まあ、俵入れなかったら土俵が長持ちするんだよ。俵がぼろぼろになる心配もいらないし。赤瀬も昔はそうだった。力士の数が昔の半分になっちゃたな。あのころが懐かしい」

 律子が玄関から顔を出した。

「親方。三時に布団のリースが来ますからね」

「うん。わかった」

 軽トラックのうしろに止まる黒のワンボックスカー。漣は運転席の窓に目を向けた。

「えっ」

 運転席には漣の父 透。助手席に母 美咲。 透らは車から下りた。

「おー。親方」

「親方じゃねえよ。親父」

「サプライズで来たぞ」

律子が駆け寄ってきた。

「お父さん。お母さん。ご苦労様です。岩手から来てもらって」

律子は深く頭を下げた。

「まあまあ顔上げて、おかみさん」

「まだまだおかみなんて言われる器ではないんですけどね」

「まんざらでもない顔をしてるぞ」律子は漣の尻を軽く叩いた。

「いきなり、部屋持つなんてびっくりしたわ。お父さんと船一つ売らなきゃいけないかしらって話してたんだけど」

「母ちゃん。祝いにベンツ買ってくれや」

「親方になってもばかだなてめえは」

「はいはい。で、何しに来た?」

「何しに来たじゃねえよ。電話しろよな。大事な決断したんだから」

「律子の方には連絡したよ」

「こっちにも連絡しろよ」

「お父さん。いいじゃないの。律子さんから連絡もらったんだから」

 律子が夢花を手招きした。

「おー。ゆめちゃん」

「どうも」と夢花は会釈をした。

「愛想よくしなさいよ」

「すいませんね。そういうの持ち合わせてないから生憎」

「若い衆」

「はい」

 久山が透のもとに歩み寄った。追うブルトチノ。

「人の弟子、勝手に呼ぶなよ」

「うしろ、開けてくれ」

「はい」

 久山とブルトチノはその車のうしろにまわった。そのあとを追う透。

「あれっ。あんちゃん。付き人やってた子か? 北海道の」

「そうっす」

 久山は扉を開けた。

「そうかそうか。来てくれたか」

「プチプチで巻いたやつ運べばいいんすか?」

「そうそう」

「おい。ブル、そっち持って」

 久山とブルトチノは衝撃緩衝材で包まれた縦長の荷物を運んだ。

「なんだ。金の巨大延べ棒か?」

「親方ボケないで剥がしてきな」

「へい。おかみ」

「ママ。看板でしょ」

「さあどうかな?」

 緩衝材の中から出てきたのは五味部屋の看板。

「母さんが書いたぞ」

「書いたぞ。じゃねえよ。あっちのお父さんにたのもうと思ったのに」

「親方。うちのお父さんは地方場所でいいよ」

「それで納得してくれればいいけど。あーあ。書家は身内で二人もいらねえ」

「おい。げんのあるか」

「こっちでつけるから」

 この後、看板を壁に立て掛けて皆で記念撮影を行った。五味部屋の船出を記する日になった。


 その後、土俵が完成。土俵開きの神事が行われたのちに初稽古が行われた。

 座敷前方に漣と大谷。そのうしろに五味部屋の支援者、が並ぶ。

「ちから、止まるな」

 土俵、久山と駒場が相撲を取る。土俵のまわりには赤瀬部屋の力士たちとブルトチノ。久山は駒場を吊り上げて土俵の外に出した。

 そして、初稽古が終わった。大谷が立ち上がる。見上げる漣。

「親方。今日はどうもありがとうございました」

「いえいえ、互いに切磋琢磨して頑張りましょう。兄弟子」

 漣は頭を下げた。

「では」

 この後、久山らは支援者達にちゃんこを振る舞った。

 食事を終えた支援者が帰っていく。後片付けを行う久山ら。

「おかみさん。疲れた」

「ちから君、あともう少し頑張って」

「ちから甘えんな。殺すぞ」

「ちょっともう、親方の使う言葉じゃありません」

「ちからさん。ブル君ちゃんとやってるんだから。ちゃんとやりな」

「ちから君、JKもああ言ってるから頑張ってね」

 円形テーブルを転がすブルトチノ。

「ブルちゃん。ダメ、床が傷付く」

 ブルトチノは頭を下げてから、円形テーブル持ち上げた。

「あれっ。伝わった」

「ゆめちゃん。そうだね。怒りは共通言語なんだな」

「ちから君、て動かして」

「はい」

「あーあ。息つく間もなく、福岡か。しんどいな。休みたい」

「何言ってるんですか。親方。頑張って下さい。まあ、うちのお父さんが稽古場も宿舎も確保してくれたから、大船に乗ったようなもんよ」

 九州場所が近づく一〇月下旬、巡業に行かない力士たちはの宿舎整備をするため東京を離れる。

 羽田空港。出発ロビー、五味部屋一行が待ち合い席に座る。

「お母さん。もう東京についたかしら」

「まだ午前中なんだから、ゆめは帰ってこないだろ」

「まあ、そうなんだけど、お母さんに預けるのはじめてだから心配なのよ」

 スマホゲームする久山。それをのぞくブルトチノ。

「帰ったら、部屋中に書が張ってあるかもな」

「ちょっとやめてよ。それちゃんと言っといてよね」

 漣は通路に目を向けた。

「おい。ちから、立て」

「はっ、はい」

 久山はスマホを帯に差して、立ち上がった。それを見て立つブルトチノ。松能勢が近づいてくる。

「お疲れさんでございます」

 久山は上体を前方に倒し、右手を床につけた。真似をする

ブルトチノ。

「おう」松能勢は右手を上げた

 漣と律子も立ち上がった。

「親方お疲れ様です」漣は頭を下げた。遅れて律子も。

「五味をもらったんだね。頑張れよ」

「はい頑張ります」

「では」

 漣の前を通りすぎる松能勢。漣らは頭を下げた。

「相撲お辞儀って、やくざみたい」と律子は呟いた。

「フッ、そうだな。おっ来たぞ」

 松能勢部屋の力士が漣の前で止まる。

「お疲れさんでございます」その力士たちは相撲お辞儀をした。

「出た。相撲お辞儀」と小声で言った。

「はい。お疲れ様」漣は席に腰かけた。

「お疲れ様です」久山、ブルトチと松能勢部屋力士たちは挨拶を交わした。松能勢力士たちの後方にはバータルがいた。

「相撲取りって、すごいつかれてると終われるよ」律子は漣の耳元で呟いた。

「さっきからうるさいよ」

 羽田空港を発った飛行機は福岡へ。空港に着いた一行はタクシーで宿舎のある大野城市へ向かった。

「飛行機は早いね。やっぱり」漣は助手席に座る。

「前割りだともっと安く乗れたけどね」律子は前の席を軽く膝で蹴った。真ん中の席に座るブルトチノは久山のスマホをのぞいた。

「ちから君。かわってあげなよ」

「むりっす」

「もうけちなんだから」

「親方、残りの力士さんは巡業かなんかに出掛けてるんですか?」

「うちはこれで全部です」

「今は、これだけです」と律子は言った。

「大きな声、出すなよ」漣は首をうしろに回した。

 タクシーが宿舎に着いた。宿舎といっても、一般的な二階建ての民家だ。律子の父、松本民雄が軒先に出ていた。

 タクシーから下りる一行。

「お父さん。お久しぶりです。今回は無理を言ってしまいすみませんでした」

「おお、親方。こんなんしか用意できんかったと。もうちょっと早く言ってくれれば、競売で落としたでかい家があったんだけど吹っ掛けて売っちゃたから」

「親方なんて照れ臭いですよ。ほんとに立派な宿舎を用意していただいてありがとうございます」

 門には五味部屋の看板。

「来年は体育館もついてる町開館借りてやるからな」

「ありがとうございます」

 松本が看板に目を向けた

「おー。達筆ですね。お父さん」

「三回は墨を捨てたかな。看板は部屋の顔をだからね。かなり自分と格闘したな」

「長話しないで早く入ってよ。お父さん」

 律子が玄関に入っていく。そのうしろ、キャリーケースを引っ張る久山と紙袋を両手に持つブルトチノは松本に頭を下げた。

 リビングでは律子の母、利佳子がお茶を用意していた。一行は小休止をする。

「お前ら明日から稽古だからな」

「はい」うなだれたようすの久山。ブルトチノは頷いた。

「稽古って、番付発表終わってからじゃないの?」と律子はお茶菓子をぱくついた。

「稽古しかないのうちは」

 宿舎近くの公園。四本柱三角屋根の土俵。早朝、久山とブルトチノは四股を踏む。土俵下、パイプ椅子に腰かける漣。泥着姿の漣、腰部分の盛り上がりからまわしをしめいるのが確認できた。

「ちから、そんな四股でいいの?」

「いいえ」

「親指に力いれろ。いれないからふらふらすんだろお前は」

「はい」

「抜いて踏んでたら、本場所に出るぞ。今場所勝ち越して幕下戻るんだろうがよ」

「はい」

「だったら踏め。ブルもな」

 ブルトチノ頷いた。

「ちゃんと返事しろ」

「はい」

「ブル、日本語わかるじゃん」

 汗で足元がびちょびちょになるまで四股を踏む。それから、ブルトチノが久山の胸を借りる。それが終わると、久山が漣の胸を借りた。二人ともどっちが裏か面が見分けがつかない程に砂にまみれた。

 文字通りの猛稽古。番付発表日は以外は休みはない。ブルトチノの新弟子検査の日は緩い稽古だった。小休止はそれだけ。稽古漬けの毎日だった。

そして、二人は九州場所初日の前日稽古を終えた。

「どうもごっちゃんでした」蹲踞をする久山とブルトチノは叫んだ。

「お前らうるせえよ。にわとりじゃねえんだから」と土俵下の漣。

 土俵中央。足の親指の跡が四つ、深く刻まれた。その跡からは二人の四股の回数がうかがえた。

「親方、しゃっこいっす」

 漣は公園の水道にホースをつけて久山の泥を落とした。

「つぎ、ブル用意しとけ」

 ブルトチノは逃げた。漣はホースを潰して水を遠くに飛ばす。水がブルトチノにかかった。

「無駄遣いするな」公園の斜向かいの家から怒号が飛んできた。

「すいません」漣はその家の窓から顔を出す年輩男性に向けて頭を下げた。そして、窓が閉まった。

「ちから、ブルの泥を落としてやれ」俯く漣は久山にホースを渡した。ホースから水が流れ出ている。

 漣らは宿舎に戻った。リビングに入ると、律子と夢花がいた。朝一の飛行機でやって来た。律子は一〇日ぶりに福岡に戻ってきた。

「おかみさん。会いたかったす」

 久山が律子に近づいた。

「おかみさん」とブルトチノが言った。

「お前ら。俺が拷問してるみたいだろ」

「時代遅れの稽古してんじゃないの?」夢花は惣菜の入った包みからコロッケを取り出した。

「汚いな。JK」

「飯、ってこれ?」

「そうらしいよ」夢花はコロッケを口にした。ブルトチノと久山は生唾を飲み込んだ。

「おかみさん。前日はソップ炊きかとりの塩ちゃんこだろ。何やってんだよ」

「親方。八つ当たりしないでよ。ちゃんこは夜でいいでしょ」

「八つ当たりなんかしてねえし」

「さっき怒られてたよね? 二階から見えたよ」

「あれはあれだよ」漣はコロッケを口に入れた。

「ねえ、ブル君の四股名って決まったの?」

 九州場所中日。ブルトチノは化粧まわしを締めて土俵に立つ。

(おおかみ)。モンゴル出身、五味部屋」

 行司の口上が始まる。

「ここにおります。力士儀でございます~」

 ブルトチノは前相撲を取って出世披露を果たした。化粧まわしは漣のもの。戦績は三勝一敗。黒星を喫したのはブルトチノの前に立つ背中、バータルだ。

「礼、右礼~」

 新弟子たちは五割ほどに埋まった観客席に頭を下げた。

 この後、新弟子たちは理事長室、審判部、九州場所事務所、各所に挨拶まわりをした。

「久山、勝ちました。四連勝」

 仕度部屋に戻ったブルトチノは赤瀬部屋の力士の助けを借りて、化粧まわしを外した。仕度部屋奥のテレビに久山が映る。リプレイが流れた。会心の相撲、見事な電車道の押し相撲だった。

「ブルート一人で帰れるの?」

「呉服町から乗る」ブルトチノはその力士に答えた。

 久山が仕度部屋に戻ってきた。

「おう、ブル待ってろよ」

「ブルートは帰り方知ってるぞ。呉服町って言ってたよ」

「信用しないで。こいつ前科ある、呉服町から志免の山までいっちゃったからね」

「そんなこと言うなよ。兄弟子。恥ずかしいと」

「めちゃくちゃ流暢じゃん」

「仕込まれたんだよ。おかみさんのお父さんに」

 久山の快進撃は止まらない。幕下以下は七番の相撲を取る。六連勝で最後の相撲を向かえた。

 一三日目の花道奥。高く上がった足、支えるのはぎゅっと力が入った親指。足を象るように汗が溜まる。

「おい。あとで拭いとけよ」力士の世話をする若者頭が久山の前を通った。久山は近い付いてくる気配に気付く。しかし、四股を踏む。

「おい。ちから」久山は反応しない。その気配は駒場だった。

「あのさ、実は俺、今場所で引退するんだ。邦の宮崎に帰る。単刀直入に言う。勝たせてくんない? 俺達兄弟弟子だろ。金は払う。ソープランド行っても余るぐらいの金。お前好きだろ。熊本のシャトークイーン」

「フウ」久山は息を吐き出すと、くるっと壁側を向いた。久山の目の前には消火器。消火器に掛かる下がりを手に取って、まわしに差し込んだ。

「おい。聞いてくれよ」駒場は久山に近づいた。

「兄弟子。今までありがとうございました。俺に恩返しさせてください」久山は頭を下げた。

「おう。そうか」駒場は足を滑らした。

 三段目、全勝同士の一番。

「この取組の勝者が今場所の三段目優勝になります」アナウンスが観客の目線を土俵に向けた。

「駒場に久山」と行司の裏返った声。

 二人は塵手水、上段の構え、四股、所作に消さなければならない殺気が籠る。

 二度の仕切り。二人は立った。鋭い立ち合い頭から当たる久山、対して駒場は久山の頭を肘で弾くかちあげ。鈍い音、音は大きくないが痛々しさを感じた。足を交互に出す久山は駒場を土俵際に追い詰めた。駒場は一発逆転、首投げを試みる。しかし、久山の圧力の前にはもろい技だ。首投げはすっぽ抜けた。駒場は土俵の外に押し出された。

 力士は土俵上で恩を返す。四股を教えてもらった恩。ちゃんこの味をしみこませてくれた恩。必要以上に体を痛めつけられたが結果的に強靭な体づくりにつながった恩。すべてを土俵で返した。最高の恩返しを贈った久山。そして、駒場は散った。

「すっぽ抜けた人生の先っぽか」土俵下、仰向けの駒場は呟いた。 

 きれいな勝ち名乗り。駒場へのわずかばかりの敬意だろか。土俵下に降りて、礼をする。花道を引き上げる久山はその対戦を見たものにとってヒーローだった。花道奥にはフラッシュを焚く多くの記者。また、敗者が引き上げる花道にはまばらな拍手。ひきずる足は痛々しい。花道奥には花束を持つ弟弟子、あくびを手で隠した。

 久山は宿舎に帰宅した。高級魚、アラ鍋を囲む大宴会。皆、美酒に酔いしれた。

 酔っ払って眠るブルトチノ。久山と漣は方付けをする。

「ちから、満足か?」

「いえ」

「上があるんで、まだまだ」

「次の場所からは世界が違うぞ」

「はい。早く稽古がしたいです」

「化け物たちの住み処。それが幕下上位だぞ」

「はい」

 久山はビール瓶を運んだ。


 東京に戻った五味部屋一行。弱小部屋、九州巡業には縁がない。久山は出稽古、ブルトチノは相撲教習所に向かった。

 教習所。寒空をまわしでランニングして、稽古して、風呂はいって、勉強、めし、そうじ。日本相撲協会錬成歌を歌って帰る。

「巌のごとく胸板に、鋼の腕火花散る~」

 教習所は楽しい。

 相撲甚句を教えてくれる。

 月一でご厚意の牛乳一リットルが飲める。レアアイテム、飲むヨーグルトが稀に手に入る。新弟子という生物にはお調子者率が多い。一気飲みで腹をこわして怒られて、トイレに行く。

 冬の間は教習所の生徒が少なくおかずは豪華、ミックスフライにバンバーグ。ブルトチノの好物が頻繁に出た。

 稽古でくたくたのはずの生徒達が元気になる授業があった。性教育だ。力士がかかりやすい性病の授業だ。特にヨーロッパ出身力士のテンションが最大限に上がる。「ペニス」と連呼し、教官室に連行される内幕もあった。


 教習所は厳しい。

 授業で居眠りすると怪我をする。各部屋から派遣された兄弟子教官はバスタオルをこれでもかというぐらいに捻り凶器を作る。そいつは痛い。お経なような相撲史、社会の授業でもブルトチノはその恐怖で一回も居眠りしなかった。

 嘘や遅刻をすると、担当親方が黒いスプレーで塗装した角材で尻を叩く。あざができる程度に。

 もちろん、連帯責任もある。数名がたるんでいると、長時間の四股、蹲踞。脚の感覚が消える。これはまだましで。摺り足列車という生徒が連なって行う摺り足をエンドレス。均整の型という腕と脚を破壊する拷問があった。

 貴重な体験をする半年間。

 それを乗り越えないと卒業ができない。ブルトチノは卒業できた。真面目な性格、苦手な習字はときどき来る。漣の母、律子の父に習った。また、この間の本場所成績は三場所連続六勝一敗。その一敗はすべてバータル。対戦成績は四戦全敗。悔しかった。

 一方、久山はもがいていた。三段目優勝で一気に幕下上位へ。そこでも負け越すことなく。番付を上げた。七月、名古屋場所では東幕下筆頭になった。力士にとって一番プレッシャーがかかる。なぜならば、半枚上は十両。十両とは力士が一人前に認められる場所。給料はもちろん幕下とは雲泥の差。手足とも言っていい付き人がつく。夢の場所。しかし、何千、何万の力士はそこに上がれずやめていった。反対に十両力士にとっては半枚下は地獄。自分の生活を守ために必死でやる、手段は選ばない。

 場所まで一週間。七月の愛知県は暑い。五味部屋の二人は赤瀬部屋に稽古相手を求めて出稽古へ行った。赤瀬部屋には二人の有望力士が入った。一人目は三段目格付出しでデビューした石田 健。

 ブルトチノは石田と何度も稽古をした。バータルと同じ右四つ、体型も一九二センチ、一三〇キロとほぼ同じだった。

「石田。もういっちょやろう」

 石田に何度負けても挑む。ブルトチノはバータルに勝つことを諦めてない。

「もういっちょねえよそんな相撲で」挑む姿勢は認めるが安易な投げなど相撲の甘さが露呈する相撲を繰り返すブルトチノへ漣の檄が飛ぶ。

 久山は幕下一〇枚格付出しでスタートし二場所で十両に昇進した仲村改め赤烈風(あかれっぷう)と稽古を重ねる。

「おい。おい。そんなもんかお前は」

 久山は土俵際まで押し込むがあと一歩が出ず、勝てない相撲が続く。漣もその壁を乗り越えたもの。久山に足りないのは相撲勘、それは稽古によって血肉に染み込ませるもの。漣はあがく弟子に檄しか飛ばせない自分を恥じた。

 この日の夜、珍客が来た。

「すいません。久山の父ですけど」

 ブルトチノが対応する。

「はい。少々お待ちください」

 しばらくして、久山が来た

「なにいきなり来てんの?」

「悪いな。漁期になる前に親方としゃべりたくて」

 久山父・由伸は北海道の歯舞で冬はミズダコ、夏はハナサキガニを捕る船頭。人望も厚く若くしてタコ、カニかご部会の会長をやっている。 由伸と漣は宿舎近くの寿司屋で一時間程話した。

 そして、漣は宿舎に帰ってきた。

「ちから、俺の部屋に来い」

 漣はちゃんこ場で横になる久山を自室に呼んだ。

「お父さん。一宮のホテルに泊まるって、稲沢はあんまりないからな」

「そうですか」

「端的に言う。お前、今場所上がれなかったらやめろ」

 二人は膝を突き合わせて話した。

「えっ。なんすかそれ」

「一五で入って、お前もうはたちか」

「八月で」

 ブルトチノはその部屋の襖に耳を当てた。

「オヤジ。約束したんだってお前のお父さんと」

「……はい。しました。はたちになるまで十両じゃないと歯舞に帰るって」

「そういうことだ。俺にも守る義務がある」

 久山は息を吐き出す。

「なればいいんだよ。関取になれば」

 久山俯いた。

「ばっきゃろう。下向くな。お前の相撲はな、めりとはりねえんだよ。おっかなびっくり取って、上がれるわけがないだろ」

「俺、むりっす。先場所は不戦勝があって勝ち越せたけどあの世界では通じないです」

「お前さ。父さんの船乗ったことあんの?」

「あります。中坊なんで海保にみつかないようにないしょで漁に。ハナサキの漁は漁期短いから、少々の波なら突っ込んで行って、落ちて親父に浮き輪なげられて助かりました。マジ死にそうでしたよ」

「漁師って、そうなんだぞ。おっかなびっくりやってたら、おまんま食い上げだ。板子一枚下は地獄。うちのとこの漁師は何人も死んでる。震災でな、沖だしをちょっと三分ぐらいためらっただけで波にのまれてしまった」

「相撲で失敗しても死なねえだろうがよ。思いきってやれ」

「はい」

 バン。ブルトチノが襖に頭をぶつけた。

「ブルか。明日かわいがりだな」

 久山らは本場所まで赤瀬部屋に出稽古を続けた。

 仲村との稽古は五分五分といったところだが久山の相撲に減り張りがついたのは目に見えてわかる。また、ブルトチノの盗み聞きの件のかわいがりは冗談だったが、十両までスマホをもたないという約束を破り、律子の父・松本にスマホを買ってもらい。連日、漣のかわいがりを受けた。

 本場所、前日。チーム五味部屋はとりの塩ちゃんこを食べた。

「とうとう明日からだね」

「おかみさん。俺、上がったら四股名付けたいっす」

「なんで私に言うの?」

 漣は支援者たちの誘いで小料理屋へ行った。

「言ってくださいよ。おかみさん。赤瀬って基本、本名で四股名付けない部屋だったんで言いにくかったんですけど部屋変わったんで付けてくれるのかなと」

「やめた方がいい。パパのネーミングセンス最悪。だってブル君。ブルトチノ、日本語で狼だから狼だよ」

「俺になんて付けるかな?」

「蟹。ひねってハナサキガニかな」

「ひねってねえし。でもありえるな。蟹」

「でも夢花はいい名前だな。夢花にぴったりだ」ほほが赤くなった夢花はマックシェイクを吸った。

「太るよ。JK。あっ赤いカニさんだ、照れてんの」

「もう、ママからかわないで」

「夢花はいい女だよ」

「おい。口説くな。殺されるぞ。オヤジに」

「十両、になったら許してくれるかな。オヤジ」ブルトチノは親指立てた。角界のハンドサインで親指は親方、小指はおかみさんという意味がある。

「まあ、死ぬ覚悟は持たなきゃな」

「そうですか。わかりました」

「ちから君。だめよ、変なことばっか教えちゃ」

「いやあ、こいつが教えてっていうから」

「もう、思春期男子はハレンチよ」

「ママ。ほんとにパパが付けたの? ゆめの名前 」

「私に決まってんじゃん」

「おかみさんよろしくお願いします」

 久山とブルトチノは頭を下げた。

「お前はだめだ。もうついてるから」

「だってバータルの名前かっこいい」

松勇士(まつゆうじ)か」

「渋くてかっこいい」

 母娘は声を揃えた。

 本場所が始まった。

 激戦区。相撲通は幕下上位が終わると、相撲場を後にする。つまり、土俵が一番充実しているという意である。

 一一日目を終え、三勝三敗。楽な相撲などなかった。

 初戦は十両力士。久山は大銀杏を結って土俵に上がった。相手は曲者。叩いては突っ張る、フックのような張り手。そうかと思えば足を飛ばす。散々ぱら痛め付けられた。久山はそれを凌ぎながら勝機を窺う。安易な引きを見逃さなかった。さっと二本差して前に出る。白星を掴んだ。

 二戦目以降は幕下の土俵。しかし、弱い相手はいない。十両を経験するもの、相撲巧者やミスター幕下上位の番人など。久山は苦戦していた。

 五味部屋名古屋宿舎。ちゃんこ場の壁に星取り表。

「黒白黒白黒。ちから。オレオ賞だな」

 漣はちゃんこ鍋を頬張る久山を見下げた。

「親方、俺にオレオ買ってくれます」

「お前が買ってこい。殺すぞ。一方、狼はクリームだけ。胸焼けしそうだな」

 ブルトチノは白星を六つ並べた。

「親方、優勝したらスマホ返していいか」

「返してくださいだろ」

「よし。まわしつけろ」

「えっ」とブルトチノは言った。

「お前殺す」

「親方。やめましょうよ。俺、明日運命の一番っすよ」

「お前は見てろ」

「ブル、お前約束したろ。十両になってからだって。約束まもろうとしないやつは俺が殺す。あとな、お前夢花と日帰りで京都に行ったろ。お忍び京都かよ。芸能人気取りかよ。ふんどし担ぎの分際でよ」

「冗談でしょ?」

「ブル、謝れ、土下座しろ」

 夜の土俵。か細い電柱の灯りが土俵を照らした。宿舎横の土俵、屋根はガレージルーフを四つ程、溶接したもの。手作り感がはんぱない。

「早く。つけろ」

 土俵下、久山はブルトチノのまわしをグッと引っ張りあげる。まわしが尻に食い込んだ。

「どうもごっちゃんでした」

「フウ」ため息をついたブルトチノは土俵に上がった。ブルトチノはこれから生じる苦痛を想像し、戦慄する。

 タンクトップに太い腕と首。漣は腰を割った。短パンの下、盛り上がったふくらはぎ。

「ほら、こいよ」と漣は右胸を叩いた。仕切るブルトチノはそこにぶちかました。

 かわいがりが始まった。

 久山はスマホを耳に当てた。

「おかみさん、今から来て下さい」

「(音声)残念、最終間に合いません」

「明日、上がれるかどうかの相撲なのに」

「(音声)がんばって」

「頑張りたいんで、寝かせてください」

「(音声)寝ればいいじゃん」

「ブルのこと心配じゃないんですか?」

「(音声)最近、調子に乗りすぎよ。あの子、モンゴルに仕送りしないでさ、夢花にばっか貢いでる」

「給金、預かりの刑ですね」

「(音声)そうね。ねえ、ちから君はどうなの? あの娘、大学生の」

「ふられました。結局、論文の材料ですよ。論文終わったら、ぽいですよ。俺なんて。というか相撲取りって評価低いですよ。スポーツマンとして。朝は稽古、夜だって暇ありゃトレーニング。アミノ酸のサプリに月二万も掛けて体作ってます。こんだけストイックにやってんのに、ゆるキャラ扱いってどういうことですか? もう街で笑われたくないっす。サッカー選手のキャーキャー少し分けろよって話ですよ」

「(音声)そうだよね。それにしてもスー女は力士を軽視し過ぎよ。寝顔かわいいとか、塩のまき方ティンカーベルとか。ふざけんなって。でも、私はかっこいいと思う。私が大学四年の時、就活うまくいかなくて隅田川で散歩してたら、腕立てしてた。一心不乱、かっこよかったな。一目ぼれよ。そっからすぐに出来婚」

「それから、先代とおかみさんのお父さんにやき入ったって話ですよね」

「(音声)そうよ。大変だったんだから。ねえ、文学部の女なんてもう忘れな。見てるわよ。いい汗かいて頑張ってたら。どうする、広瀬すずが一目ぼれしましたって寄ってきたら」

「いや、ないでしょ。おかみさん」

「(音声)わかんないよ人生。で、まだやってんの。女ったらし連中」

「終わりそうにないですね」

「(音声)ブル君のスマホって今誰使ってるか知ってる?」

「親方が持ってるんじゃ」

「(音声)それで悪いことしてんのよ。グラブの女の子と京都だって」

「かわいがる資格ねえじゃん。オヤジ」

「(音声)そうよ」

 久山はスマホを耳から外した。

「親方。おかみさんがギャラクシのスマホ件で話があるそうです

」と久山はが叫んだ。

 砂だらけのブルトチノは漣を押す。足が棒立ちになった漣は土俵の外に押し出された。

「ばれた」と漣は呟いた。

 土俵下。久山はスマホを耳に当てた。

「おかみさん。止まりました」

「(音声)明日勝ったら即、新幹線乗って行きます」

「プレッシャーかけないでくださいよ。おかみさん」

 一二日目、十両取組の初口。土俵下の久山は目をつぶる。

「ひがいし。あかれっぷうう。にいし。ひさやあま」

 呼出しの趣ある声は二人の力士の緊張感をグッと強める。

 相手は赤烈風の仲村。大勝ちを期待された仲村はここまで五勝七敗。調子が上がらない相手とは言え、出来ればやりたくない相手だ。

 あがり階段を踏みつけ土俵に上がりる。終盤戦、何千回だろう。勝負に挑む力士の足を受け止めた土の階段はくたびれた様子を見せずしゃんとしている。

 次に目礼をして、力水を付ける力士の方へ。その力士の前で蹲踞をする。久山は柄杓に口をつけた。さっと渡された塵紙で口を隠す。口をゆすぎ、桶に水を吐き出した。体内にある雑念を吐き出す。そんな意味があるという。顔をあげると花道を下がる力士の背中が見えた。

 十両は幕下と違って所作が増える。

 そして、軍配が返った。

「手をついて」

 白線の前、久山は先に手を置いた。

「手をついて」と行司は促す。

 すると、仲村はチョンと手をついて立った。いわゆる、チョンづき。久山は立ち遅れた。

 左回りの上手まわしが早い。

長身の仲村は頭をつけた。久山は落ち着いていた。仲村の上手を小手に振って仲村のバランスを崩した。そこで一気喉輪で上体を起こす。久山は止まらない。喉輪押し、土俵際まで持っていく。仲村は上手を探る、しかし届かない。

仲村は上体を前に倒す。これを待っていた。久山は右から突き落とした。つっかえの消えた仲村はただ前に倒れるのみ。土俵がどんどん近づく恐怖、仲村は手をついた。これが漣の言うめりとはり。相撲勘だ。

 事情を知っている観客から歓声が上がる。いわゆる入れ替え戦。

制したの久山。

 肩に力が入った勝ち名乗りは二人のオヤジへ贈る。一人は船から荷を下ろす。もう一人は相撲場の警備、酔っぱらう客に絡まれている。

 久山は下がり階段を降りた。下がり階段は油断している。勝った力士は足取りが軽い。稀にジャンプ気味に下りる力士もいる。反対に負けたほうの下がり階段はどしっと重みが来る。怪我なんてしたらなおさら重い。たった今、東の下がり階段が僅かに欠けた。常に気を張っとけよ、下がり階段。

 夕方、テレビは幕内の取組。

「次かな。兄弟子」

 ブルトチノは寝転んでいる。

「姿勢を正せ」

 久山は正座していた。

テレビ画面。十両の勝敗表。久山の文字が黄色い。

「(テレビ音声)東幕下筆頭、久山。赤烈風を右からの突き落としで破りました。久山は四勝三敗の勝ち越し。入門五年目で十両昇進が濃厚。また元幕内力士・漣、師匠の五味親方にとっては部屋設立九ヶ月での関取誕生濃厚です」

 アナウンサーの進行が続く。 

「関取って言ってましたね」

「だな」

「(音声)では、十両この一番は宇良と石浦のスピード感のある一番です」

「うらうら対決に負けた」と、うなだれた久山は足を崩した。

「関取、ゲームやっていい?」

「おだててんじゃねえよ」

 テーブルに置く久山のスマホが鳴った。

「鳴ったよ」

「持ってこいよ。付き人」

「まだ関取じゃない」

「ツッ」舌打ちをした久山は手を伸ばしてスマホを取ってから耳にあてた。

「お疲れさんでございます」

「(音声)おめでとう」

「さっき聞きましたよ」

「(音声)ママじゃないし。夢花だし」

「おう。ありがとう」

「(音声)映像、宇良だったね」

「それを言うな」

「(音声)ブルに代わって」

「やだ」

 しばらくして、律子らの乗るタクシーが宿舎に着いた。久山らが駆け付けた。夢花はタクシーから飛び出した。

「イェー」夢花が叫んだ。夢花を追う律子。ブルトチノと夢花がハイタッチをした。

「おれだろまずは」

 タクシーと入れ替わりで運送屋やのトラックが入って来た。

「なにかしら」律子は運転席の窓に目をむけた。荷物を取り出した運転手は律子に歩み寄った。

「あの。北海道のはまう、違うなはまい、しまうか。しまうの。久山よしのぶさんからこちらの久山ちからさんにお荷物です」

 久山は笑みを浮かべながら、運転手に近づいた。

「はぼまいです」

 ペンを受け取った久山はサインをした。

「はぼまい。難しいな」

「読めなくていいですよ。大臣も読めないで」

 トラックが出て行った。

「おかみさん。かにです」

「やった。ちからとお父さんに感謝ね」

「カニ。カニ」

 夢花とブルトチノは踊った

「カニってなに?」

 ブルトチノは言った。

「えびみたいやつかな」

夢花は首を傾げた。

「出たバカップル。ペコりゅうみたい」

「認めてるんですね」

「私はね」

「おかみさん。親方からの伝言で遅くなると言ってました」

「出た。薄情もの」

「まあそれは突っ込まないでおきます。笑う(しょうたい)いきましょうよ」

「あそこはまずいじゃん。えっ。ご飯の用意は」

「すいません」

「もう、甘えん坊」

「今日はカニと寿司でも取るか。やつにはふんどしとガリしか残さない。決定だ」

「ですね」

夢花とブルトチノがいちゃついている。

「密告だな」

スマホのシャッター音。

「あっ、週刊久山にやられた」

夢花らは叫んだ。

「バカなことやってんじゃないの。あんたたち」

漣がカニのあしを箸でつついた。

「味が濃くてうまいな」

漣は出てきた身を食べた。

久山のスマホが鳴る。

「親父だ。親方ちょっといいすか」

「おう。お礼言ってくれな」

「はい」

久山はちゃんこ場を出た。

「カニありがとう」

「(音声)おう」

耳にスマホをあてる久山は廊下の壁にもたれた。

「こっちで頑張らしてね」

「(音声)帰ってきも仕事はねえぞ。うちの若いやつに操縦教えるからな」

「うん」

「(音声)そうだ。組合が化粧まわしつくるってよ」

「そっか。ありがたいね」

「(音声)負けて帰ってこれねえぞ。お前のことをみんなが応援する、金を出すっていうのはいいことばっかり言ってくれる人が陰で悪口を言う。応援してることを盾にとんでもないことを言うやつがいる。それを覚悟しろよ」

「うん」

由伸はねぎらいの言葉をかけなかったが、息子には父の優しさがひしひしと伝わった。

名古屋場所。五味部屋の成績、久山が勝ち越し、ブルトチノは全勝優勝。次はブルトチノが激戦区で戦う番が来た。久山は与えられた地位を守り、さらに上を目指す。

本陣に戻った。一行は束の間の休息。

ブルトチノは行徳公園にいた。東屋で昨日、お土産でもらったボーズ(羊肉の饅頭)をつまんで羊のミルクティーを飲む。

「ああ、スマホほしい。夢花と結婚したい」

田所 学が東屋に入って来た。胸のポケットからタバコを取り出した。学はブルトチノの対面に腰掛けた。

「食べるか?」

「いや、めし食ってきたんで」

「そうか」

学のズボンポケットが光った。

「光ってるぞ」

「気にしないで下さい」

ブルトチノのTシャツに小さく五味部屋の文字が入る。学はタバコを吸った。

「暑いね」

「そうすね」

学は煙を吐き出した。Tシャツのその文字が目に入った。

「俺のこと知ってます」

「知るわけないじゃん」

五味部屋。ちゃんこ場に田所と漣、律子。

「すいません。コンビニなんて行かせなければ」

「逃げる元気があるんだから、いいことだよ」

「ねえ、田所君。留学生をここに泊めてさ、お金取ろうと思うんだけど、どう思う」

「えっ」

「だらかそれはダメって言ったじゃん。シェアハウスじゃあるまいし」

「部屋の独立性を協会も認めているから、いいんじゃないの?」

「ダメ」

「けち。部屋の経営は一二人ぐらいいないと成り立たないんだからね。親方の給料持ち出しでぎりぎりだよ。ほんとに」

「十両に昇進したからって、育成費みたいなのはあがる訳じゃないんですね」

「そうだといいんだけど、維持費はかける人数なのよ。だれでも入れればいいと言うもんじゃないけど、ほしいよ人」

「鑑別所とかでスカウトしてる話を聞いたんですが、そんな部屋ってあるんですか? ほんとに」

「中にはな。でもそれって育成じゃなくてビシネスでしょ。相撲で身を立てたいやつらの居場所だよ。ここは」

 玄関が開く音がした。

「ブルちゃんかしら」

「私もうそろそろ、会社に戻らないといけないので」

 ちゃんこ場の襖が開いた。

「お兄様、来ましたよ」

 漣は学を手招きした。

 田所の隣で正座をする学。ブルトチノは調理場に入っていった。「このやろう。お前バカか」

「ごめんなさい。こわくって」

「そうだよね。怖いよね。よく来てくれました。ありがとう」

「相撲部屋と脱走はイコールだ。さっきのやつなんて大使館に逃げたもんな。大使館と協会がつうつうじゃなかったら国際問題だぞ」

「やっぱり結びつくんだ」

 学は笑みを浮かべた。

 翌朝、学は稽古場にいた。

 土俵では久山とブルトチノの激しい稽古。稽古場の隅、腰割りをする学。

「どっちも、力抜くな」

 漣は座敷であぐらをかく。漣のうしろに田所。

 稽古が終わり、ちゃんこを囲む漣ら。

「どうだった?」律子が学の前に料理ののる皿を置いた。

「すごかったです」

 丼のうえにおかずをのせて、ご飯をかきこむ久山とブルトチノ。 その日の夜、行徳公園の東屋に学。田所に電話をしていた。

「俺、やってけんのかな?」

「(音声)厳しいか。稽古」

「俺があんなことをやると思うと、ぞっとするよ。それと親方の体洗ってたわ。三助が都市伝説の今、俺より若い子がけっつの奥まで洗ってたよ。すげえな日本相撲協会」

「(音声)じゃあ、帰ってこい。久し振り、外に出て、人と触れて、いいリハビリになったろ」

「ポケモンで毎日、でずっぱりだったし」

 学はうつ向いた。

「そんなとこで張り合ってもダメか。ニートのひきこもりが」

「(音声)頑張った頑張った。朝起きれたし。腰……割りだっけ? あれもちゃんとやってたじゃん。次はバイトするか。にいちゃんのとこで、部屋点検のバイトやろうな。それが出来たら大学いこうぜ。せっかく大検とったんだから」

「にいちゃんにそう言われるのが一番つらいわ。情けなくてさ」

「(音声)そうか。ごめんな」

「それがつらいんだってば。……俺やってみようかな。相撲。続くかどうかわからんけど。言われたんだ。ブルトチノ君に、家族に心配かけちゃいけないって。ああ、あっちが兄弟子だから、ブルトチノさんか」

「(音声)一六歳の子にさん付けか。厳しい世界だな」

「じゃあね。一〇時門限だから」」

「(音声)また行くわ」

「もう来ないで。甘えちゃうから、家にも帰らない」

「(音声)わかった。頑張れよ」

 電話が切れた。

 学の視線の先、ベンチに足を掛けて腕立てをする久山とブルトチノ。

「来ませんね。ギャル」

「明日は川っぺりだな。東京よりの」

「はい」

「お前でも、夢花に怒られるんじゃね?」

「えっ。その日本語わかりません」

「お前、日本語うまくなりすぎだ」

 新弟子の朝は早い。

 まわしをつけて、水をくむ。

座敷を掃いて、土俵をならす。

「学。兄弟子起こしてこい」

「はい」

 四股を踏む学。

「ふらふらすんなよ。親指で踏ん張れ」

「はい」

 学はブルトチノを押す。ブルトチノの胸に頭を押し付ける学。頭から足にかけて汗が吹き出している。

「脇を閉めろ。だから押せないんだよ」

「はい」

「ほら、押せ」

 ブルトチノは声を張り上げた。 ブルトチノと久山が三番稽古。 久山に押し出されたブルトチノは壁にぶつかる。

「糸の切れた凧だな。モンゴル帰る?」

 漣は笑みを浮かべた。

「いいえ」

「帰っていいよ。だってそんなんじゃ上位で勝てない。帰っていいよ。お前が辞めれば、有望な外国の人が入れるからな。そんな相撲とるやつに外人枠使いたくないよ。帰れ」

「いいえ」

「だったら。土俵際のこれ」

「はい」

 ブルトチノは息を切らした声を張り上げた

 立ち合い。久山はブルトチノを突き放す。ブルトチノは頭を下げてけて、突きのダメージを和らげた。久山の引き落とし。ブルトチノはぱったりと前に落ちた。

「さっきよりいいか」

 穏やかな表情の漣

 ブルトチノは頷いた。

「もう一回やり直しよろしくね」 学は稽古場隅からブルトチノを見つめた。

「学、俺より汗かいてないじゃないか。夏なんだぞ、汗かけ。なんかしろ」

「はい」

 学は腰割りを始めた。

 稽古が終わったら、ちゃんこを作る。

 ガス台の前に立つまわし姿のブルトチノはスープの味を見る。鍋にソップ炊きのスープ、沸々と沸いている。

「うん。ウマイ」

「野菜とか入れますか?」

「おう。そこ置いて」

 学は野菜等の入ったバットと肉の入ったボウルをガス台の脇に置いた。肉のボウルを手に取った。。

「まず肉からいれるんだぞ。あくをちゃんと取ってな」

「はい」

 ブルトチノはバットに目をむけた。

「なあ、白菜少ないよ。白菜の甘味でこの鍋は成り立つだからな。もっといれなきゃだめだぞ。まあ今日はいいけどよ。えっ、なんだこれ。学、野菜を上にあげてみろ」

 学は手で野菜を掴んだ。

「落としてみろ」

 バットに落ちる野菜は不揃いな大きさ、極端に長い大きさの白菜か最後に落ちた。

「すいません」

「もう一回やり直し。よろしくね。あと、白菜を一.五倍増やせ。丁寧にな。わからんかったら定規使え。三センチ大だ」

 ブルトチノは目線をホワイトボード、マグネットでとまる小物入れに三角定規と直線定規。

 学は三角定規を当てて、白菜を切った。ソーダ味のアイスキャンディーをなめる久山が鼻歌を歌って調理場に入ってくる。

「(鼻歌)愛し合う二人しあわそのとき、フフフフフフあなとあたしさくらんぼ、ぼ、ぼ」

「バカがうたってるよ」とブルトチノは呟いた。

「学、直線定規の方が使いやすいだろ。バカ」

「すいません」

「ブル、今日何?」

「何じゃないっすよ。番付発表まで関取じゃないんだから、ちゃんとやってくださいよ」

「ごめんごめん。DMM見てたわ」

「もう、スッキリした顔して」

 鍋、鶏肉がぽこぽこと鍋のなかをまわる。

「おっソップか。お前色濃いぞ、水でうすめろ。」

 久山は煮立つ鶏肉をつまんで口に入れる。

「あつっ。しょっば。アイシングだ」

 久山は口にアイスキャンディーをつっこんだ。

「おー。頭がキンキンだ」

 アイスキャンディーを口から出した久山はその手を滑らした。

「あっ、バカ」

 水の入ったボールを持つブルトチノが叫んだ。アイスキャンディーが沈んでいく。

「もう、ちゃんとして」再び叫んだ。

「ちゃんこだけに」学が呟く。


 ちゃんこ場。

「うまい」漣はちゃんこ鍋を食べた。

「今日はうまい。あっさりしてて、ほんのり甘い」

 給仕する力士らは漣を見つめる。

「うまくいったな。ブル」

「バーを菜箸でつかむの大変でしたよ」

 確信犯達は小声で犯行を語った。学は笑みを浮かべた。

「おい。何こそこそしてる。毒でもいれたか?」

 確信犯たちは首を横に振る。学は吹き出しそうになった。

「俺が死んだら、お前らどこにもいくとこないんだかんな。特にこそこそばなしのお二人さんよ」

 確信犯たちはなんとも言えない表情をした。

「それと、お前らちゃんこ場で騒ぐな。新聞読んでたら、ブルの叫び声聞こえたからびっくりしたよ。静かに作れ、おまらの唾入りのちゃんこ食べる身にもなれよ」

「すいません」

 確信犯たちは声を揃えた。学は吹き出した。

「いい顔してんな。学」

 ちゃんこを食べら寝る。

 3時になったら四股を踏む。汗で足元が水溜まりになるまで。

 そうじをする。

 調理場裏に外付けした風呂場から学が出てきた。ごみ置きにごみを置いた律子と鉢合わせ。学は律子の目線をそらした。内心穏やかでない。やばいと思った。

「あら、学くん。終わったの?」

 律子は風呂場の扉を開けた。

「ねえ。砂残ってるじゃない。適当なことをしちゃだめ。もう一回、やり直し。排水溝もね。よろしくね」

 もう一回やり直しよろしくね。は五味部屋では流行語。律子自信は真似されてるとは気づいていない。

「すいません」

 主に律子がつくる夜ちゃんこを食べてから、トレーニング、おもにダンベルトレーニングを四〇分。筋肉が悲鳴をあげる。

 力士たちは叫びながらダンベルをあげる。

 あがり座敷兼ちゃんこ場。

 夢花が食事をする。

「うるせえな。やろうども」

 それが終わると、やっと自分の時間。

 大部屋。学はMacを開いた。

「おーい。学」

 久山はMacをのぞく。

「なんすか?」

「地元の漁協の人に化粧まわしのお礼にTシャツ配りたいんだけど業者さがして」

「業者より、デザインデータをプリント屋に渡して作ってもらった方が低コストですよ」

「お前デザインできんのかよ。アウトソーシングのサイトでやってました。結構稼げます。大検の費用とかそれで賄いました」

「アウトなんとかって、お前ニートじゃねえの」

「まあ、新ニートっていうやつですかね」

「へぇー。まあ意味わかんねえけど、作ってくれよ」

 部屋の隅でいちゃつく夢花とブルトチノ。

「できました」

 学はペイントマットとペンを駆使してあっという間にTシャツをデザインした。

「しゅしゅっと、アベック達がいちゃついている間に。すげえな」

 デザインは久山の念願の四股名、東朝陽(あずまあさひ)をイメージして海から上る朝陽と隅っこに小さくカニをとる漁船。その上に相撲字のフォント、でかでかと四股名、東朝陽を入れた。裏面はアルファベットであずまあさひ。かすれ字のフォントを使って。

「おー。かっこいい」手を繋いだアベックがMacをのぞいた。

「私たちも作ってもらおうか。ペアルック」

「学、キス写真プリントしてやれ、俺が盗撮したやつ送ってやるから」

「最低」

 アベックは声を揃えた。

「最低で結構です。アベックなんて死ねばいい」

 力士たちは夜九時になると、行徳公園へ行く。六本の足がベンチにかかる。ひたすら腕立て。一日中酷使した筋肉・さっきあれほどが悲鳴をあげたはずの筋肉なのに。腕立てをする。原動力は女。女だ。

 きれいな女性が公園の外を通って駅へ向かった。

「兄弟子。ネイルサロンの女、今日は外を通って行きましたよ」

「ブル。意識的してるんだよ。俺らをな」

「ちからさん。今日は上半身脱ぐのやめましょうね」と学は言った。

 三人は上半身裸で腕立てを続ける。

 自転車のヘッドライトが彼らを照らした。

「眩しい。女だぞ。警察の。一人は男か?」

「兄弟子。とりあえず、漣神話再びですね」

「絶体、職質されますよ。俺ら」

 学は正論を言った。職質を受けた。ブルトチノは在留カード不携帯で注意を受けた。あの女の密告だった。三人は後にこの件が漣にばれ、たっぷりと可愛がりを受けることを知るよしもない。

「帰るか。職質受けたし」

 学のスマホが鳴った。スマホ画面、にいちゃん、着信。

「すいません。電話かけてから帰ります」

「女かもしれませんよ兄弟子」

「お前が言うなブル」

 公園を離れる久山ら。

「もしもし。」

「(音声)今いいか?」

「いいよ」

「(音声)どうだ」

「滅茶苦茶な毎日」

「(音声)あの人たち滅茶苦茶だけど人間臭いだろ」

「臭いね。プンプン臭うよ」

「(音声)それがいいんだよ。相撲の魅力って人間臭さだろ」

「時代に逆行してる。今無味無臭が時代の流れ。それと人間関係の間合いが遠くなった。その代表例がネットリンチだよね。関係性のないところしか人を攻撃できないくずども。俺も前はやってた。でも、今やんない。そんなじかんないしね」

「(音声)お前も臭うぞ。いい臭いだ。相撲ってほんとにいいよな。焼き付け刃、ちがった。付け焼き刃だ。付け焼き刃だけど庇い手ってあるだろ。先に手がついて普通なら敗けだけど、相手を怪我させたくないっていう思いやり、人間臭さを認めてる。これってすごいよな。利益のためなら他の人はほっとけなんてダサいよ。人間臭さもっとつけろよ」

 既に消灯。午後、九時五〇分。学は枕に頭をつけた。学は充実感でいっぱいだ。ぱっちり開く目は天井を映す。久山のイビキが部屋中に響いた。ブルトチノはヘッドランプをつけて、手紙を書いた。家族と恋人にあてて書いた。

 新弟子検査を控えた学。この日、入門を希望者が部屋の門を叩いた。名前を濱田勝夫。濱田は大学の職員、アマチュアの実績は申し分のないもの。赤烈風の仲村と同じ学年、公式戦で仲村に土をつけたこともある。岩手出身、生活保護を受ける両親に育てられたため、相撲の特待生での高校、大学進学を選んだ。入門資格、年齢制限(二三歳)直前で入門を決意。プロで今よりもっと稼いで両親に家を建てたいと話した。そして、入門希望者がもう一人。嵐山 悟志だ。嵐山は相撲経験がない。今春大学を卒業。内定していた大手企業の内定を返上。あこがれだった北欧へバックパックを決行。一国目のデンマークで相撲と出会い。相撲道場で寝泊まりをした。相撲づけの毎日だった。四ヶ月のデンマーク旅行から帰った嵐山は五味部屋へ入門を決意。決めては田所のスモウブログだった。二人が入門を決めると、学の同期生となる。ちなみに学の歳も二人と同じ二二歳だ。

 学は心強い仲間だと思った。しかし、思い描いたものとはちがっていた。

 濱田は学の言うことを聞かない。

「濱田君、野菜切って」

「自分で切れば」

濱田は人目のつかないところに学を呼び出し、暴行を加えた。

 稽古でも、必要以上に学を痛め付けた。

 漣がこんなことを許す訳がない。

 濱田の入門三日目の朝。

 漣が稽古場へ来た。

「おはようございます」

 稽古場の空気が締まる。

「濱田。お前もう帰っていいよ」

「理由を言ってくださいよ。納得できません」

「理由がありすぎるよ。このウソつき。俺のかわいい弟子傷つけられたくない。この腐ったみかん」

「ばれました。早いな」

「赤瀬に呼ばれなかったからうちに嫌がらせしてんのか? お門違いだぞ」

「違いますよ。去年あんたに可愛がられて、それから全然勝てなくなった」

「バカかてめえは、かわいがってやる」

 久山が叫んだ。

「バカはおめえだよ。一般人に手、出したら、廃業だぞ」

「漣さん。あんたやっぱ頭がいい。相撲にもでてたよ」

「お前も頭がいいな。世田谷出身のボンボン、趣味はピアノだって。お前のママ、泣いてたぞ」

「あんなババア、泣こうがわめこうが何にも感じないよ」

「かわいそうだな。お前、同情するよ」

「はいはい。じゃあもう帰るわ」

「その前に。学と相撲取ってやれや」

「なんで、こんな雑魚と。嵐山にも勝てないのに」

「いいからやれ」

 学と濱田は相撲を取った。

 立会い。足を狙う学。しかし、濱田に突き放され、そのまま押し出された。

 何度も何度も足を狙う。おんなじ結果。愚直。それが学の性格だ。

 高校で酷いいじめに遭い。中退。ひきこもった。その生活の中で学は闘った。経済的負担だけはかけたくないとウェブ・広告デザインの仕事をした。小さい仕事だが大企業にも採用される。コンテストで賞も取った。部屋の中で闘った、歯を食い縛って懸命に。

 体力は尽きた。目はパンダ。くちびるは浜田雅功。口内出血が止まらない。体は全身の皮膚に砂がめり込む。擦り傷は数えきれない。だが、学は仕切り線に手をついて。立つ。足を狙う。負ける

また足を狙う。濱田の突きは学の顎に。学は変な倒れ方、腰から崩れ落ちた。目は虚ろで起き上がれない。膝にちからが入らず、小鹿のよう。それでも、学は親指、足の親指にちからを入れる。一ヶ月、言われ続けた言葉。足の親指。学の脳は足の親指に信号を送る。人間は意思・脳が命令をすれば体力なくても動く。アメージングだ。制御したがる脳はを一〇〇パーセントに近いぐらい作動している。危険な状態。ブルトチノは今にでも学を抱き抱えたい。しかし、漣の眼光で一歩も足を動かせないでいた。

 すると、学が立った、二本の脚。

「かっこいい」

 嵐山の真一文字に結んだ口が開く。嵐山悟志は挫折をした事がない。野球をすれば、エースで四番。勉強はトップの成績。父は財務官僚。コンプレックスが見当たらない。それがコンプレックス。器用貧乏。何かに食らい付く源、それを探し求めて。北欧へ。しかし、答えは行徳の相撲部屋にあった。やっと見つけた。嵐山はそう思った。

 学はまた仕切る。また足をとる。負ける。

 人間が動いても発汗しないとき、それは限界を超えた証拠。

 仕切る。足を狙う、足とり、足を取る。学は額をその膝小僧にくっつけた。濱田は突きで学を放したいが突く箇所がない。濱田が足を振り解こう、振り解こうとする度に上体が上がっていく。学は前に出た。人間は二足歩行の動物、どんな強い力士でも足一本では何も出来ない。そして、濱田は倒れた、仰向けに。共に倒れた学は起き上がらない。濱田はゆっくりと立ち上がる。背中にはべっとりと砂がついた。

「感動させんな学。なあ濱田よ。お前の作り話、感動ポルノは確かに泣けた。でもな、感動ってこういうことだろ。無様なやつが起こした感動。涙なんていう飾り物は出ねえけど、ちゃんとしまったぞ刻んだぞ。てめえは刻めたか?」 

 よろけながら歩く濱田は稽古場を後にした。

 ブルトチノは学に駆け寄った。

「寝せとけ。いい夢見てんだ。邪魔すんな」

 息を吐く漣。学は穏やかな寝息を立てた。

 番付発表日。先場所勝ち越した幕下以下の力士が国技館に番付表を取りに行く。担当はブルトチノ。眠い目をして担いできた番付。五味部屋では苦行が始まる。ペタンペタンとスタンプを押して、はしっこ合わせてきれいに折る。それが永遠に続く。地獄の番付送付作業。

 苦行を全うした。次は新弟子検査だ。体重の足りない学と嵐山は大量の水でかさまし。会場へ向かう。国技館地下、相撲診療所。

 ステテコ姿のがたいのよい連中が並ぶ。

「おい。お前ら、お前らの細い体みて笑ってるこいつら全員の顔、覚えとけ。土俵でぶっ殺すためにな」

 漣は言った。

「はい」

 学と嵐山は頷いた。

「親方、おしっこ。急に来ました。あっ大もきました」

 嵐山は股間を抑えた。

「さとし、バカ。そんなこというから俺も」

「お前ら、行ったら殺すかんな」

「はい」

 二人とも合格した。

 場所前は忙しい。久山の昇進パーティーが終わった。久山父の大号泣が印象的だった。

 二次会は五味部屋。

「おーい。細いあんちゃん。焼酎ロックこっこっち」

 学はアルコールの入ったグラスを運ぶ。

「氷の量、すくねえよ」

 漣は険しい表情。上座の漣は下座の後援者・久我山 寿の背中を睨んだ。

 久我山は学に絡んだ。

「すいません。」

「まあ、いいよ。次はちゃんと作れよな」

「はあ」

「はいだろはい」

「はい」

「でも、俺はあんたのこと期待してるぜ。日本人がんばれ」

「はい」

「モンゴルなんかに負けんなよ」

「大相撲は国別対抗ではありません。全員がにっぽんの相撲力士です」

「意見すんのか貴様」

 下座テーブルの客がざわざわする。

「うちにはモンゴル出身がいるんで、狼さんに対して失礼じゃないですか。モンゴルがどうとか」

「うるせえな。謝れ」

「僕は敬語を使って、しゃべっています。頭を下げる理由が見当たりません」

「謝れ」

 学は顔を横に振った。

「あやまんねえか。これなんだかおわかり?」

 久我山は後援会申込み用紙を学の顔に押し付けた。

「一〇万円会員カケル五イコール五〇万円。中卒大検くんでもわかるよな。フッ、大検ってお名前書けばうかるんですよね?」

 学は久我山に顔を近付ける。漣は学の横顔をじっと見つめた。

「喧嘩売ってんな。中卒」

 久我山はグラスを手に持った。そして、グラスを学のあたまの上で逆さにした。アルコールと氷が頭上に落ちると。それらは重力に従って顔、ステテコを濡らす。久我山が連れてきたホステスの悲鳴が聞こえた。オールバックの頭、びんづけ油は水を弾く。

「どうだい。頭冷やしたろ。謝れ。許してやっからさ」

 久山とブルトチノが同時に立ち上がった。

 すると、「部長。新弟子に勉強させてくれてありがとうございます」

 漣はゆっくりと立ち上がって、久我山に歩み寄る。

「親方、教育してやったよ」

「部長、ステテコは濡らしたら駄目だ。乳首とバンツがスケスケだ。隠すために着るもんだから」

「わかりましたよ」

 久我山はハンドバックを手に取った。

「部長、お帰りですね」

「あんたまで俺の顔を潰すのかよ」

「潰してるのは部長だ。社長の代理で来てるのにこんな真似。社長が一番嫌がることでしょ。違う?」

「ふ、ふっ、不快だ」

「不快なのはこっち。それと女の前で女々しくしちゃだめだ。どっちが男か女かわかんねえ」

「意味わからん。帰るぞ」

 久我山はちゃんこ場を出た。追うホステスの女。

「学。よくがまんしました」

「いいえ」

「着替えてこい」

「はい」

 学は二階にあがる。漣はその背中を見つめた。力士たち、律子、夢花も。

 二次会は終わった。

 タンクトップ姿の学は黙々と方付けをする。久山の口ずさむ歌が聴こえて来た。

「(口ずさむ歌)建前でも本音でも本気でも嘘っぱちでも限られた時間の中で借り物の時間の中で本物夢を見るんだ。本物の夢を見るんだ」

 大島つむぎを纏う久山はちゃんこ場をのぞく。学を手まねいた。

「はあ、暑い暑い。はす向かいのあんな寿司屋に行くだけなのにおかみさんが来てけって」

 稽古場の鏡に久山の姿が映る。

「馬子にも衣装だな。似合わねえもん着て。こうやってみんな老けてくんだろうな。俺の親父と行くんだけど行くか? お前も」

「頭焼酎臭いんで、迷惑になります」

「ならねえよ」

 方付け終了後、学は姿を消した。そして、門限の一〇時が過ぎた。学はスカした。

 行徳公園。五味部屋のメンバーはブルトチノを先頭に公園に入って行く。

「東屋にいない。いつもあそこで電話してるのに」

「ブル。他はどっかないの?」

 久山は辺りを見回した。

「田所君がおうちの近辺、浦安の方を探してるみたい」

「ママ。学さん変なこと考えてないかな?」

「夢花。あいつはそんなこと考えない。頭いいからな。でも考え過ぎなんだよ。頭でっかちで暴走する。今日みたいに。ちからみたいに、頭が空でエロ動画、エロ動画言ってればこんなことおこんねえな」

「親方。学は最近、マルエツによくいってます。ちからさんが前田敦子来たら知らせろって張り込ませてたんです」

「へぇー。前田敦子が出没するんだ。実家あるし。駅の真下だし。ちから。一回死んどけ」

 漣は久山に中指を立てた。

 スーパーマルエツ。店からちょっと離れた電柱の前。学がいた。船橋市方面の電車が学の頭上を通った。スマホを眺める学。画面。にいちゃん、着信。

「ごめん。裏切ってばっかで」

 学は息を吐き出した。

 ぞろぞろと、五味部屋のメンバー。

「ちゃんと見張ってないとダメだろ。あっちゃんを」

 久山におぶさる漣が言った。

「何、息あげてんだ関取。今場所負け越しか」

「つむぎがべちょ濡れじゃない」 漣らのうしろ、律子が歩く。

「五〇万、働いて返します。佐川の深夜仕分けだと一日、一万三〇〇〇円稼げます」と学はうつ向いて言った。

「ダメだ。許さんうちの門限は一〇時だ」

「辞めさせて下さい。辛いっす。俺ってこういう星のもとに生まれたんです。高校のとき、仲間がドラッグをキメテました。注意したら死ぬほどいじめられました。正しいことを言うって損。大損ですよ。正しいことわかってるから逃げるんですよ。俺は正しいからひきこもったんです」

「昔は逃げた。今もまた逃げようとしてる。逃げんな。逃げるとかあり得ない。でもさっきは立ち向かった。ブルのために闘った。かっこよかった。それ言うために来たんだ。最高にかっこよかった。だから逃げる必要なんてない」

 久山から降りた漣は学を抱きしめる。学は泣き崩れた。声をあげた。

「お前受け入れる時、正直気持ち悪いと思った。引きこもりって気持ち悪いよ。俺からすれば」

 漣は札付きの不良(わる)だった。一四歳で鑑別所。鑑別所に迎えに来たのは亡くなった先代・赤瀬だった。相撲部屋は地獄だった。鑑別所の教官が仏に思えるぐらいに。反抗心を暴力で押さえつけられ、押さえつけられる度に振りほどいてきた。

「そしたらさ、根性の塊みてえなやつで。俺、びっくりしたよ。そんでわかった。引きこもりって、ガンジーみてえなことだな。俺は正しい、正しいんだって。すがりたいはずの世間と決別して訴えかける。殴るのは簡単。ストライキでやつらに罪の意識を背負わせる。俺がこんなにみすぼらしくなったのはお前らのせいだって。大抵のやつらは直視できない。出来ないで逃げるんだ。お前の勝ちだ。こっからは自分のため、自分のために根性使え。もう逃げなくていいんだよ。ここにいていんだよ。ここ一ヶ月いろんなことに刺激されたろ。もう自分の部屋なんて狭くて、引きこもれないだろ」

「親方。俺を見捨てて下さい。みんなのこと好きだけど。結局、家族じゃないんで、もう迷惑掛けれません」

「親方、俺が父ちゃんで、おかみさんが母ちゃんで、性欲モンスターが長男、お前らみんなが子供。俺はそういうの、否定派で。生まれた環境っていう絶対的な食い違いが存在する。だから家族にはなれない。でもさ、バカが集まると最高に楽しいな。裸になって職質されたバカ。俺の娘に手を出すバカ。エリート人生捨てたバカ。勢いで相撲部屋興したバカ。バカの嫁さんと娘もバカ」

「ちょっと」

 夢花と律子は声を揃えた。久山の足を蹴る律子。夢花も。

「なにすんすか」

「めんごめんご」

「お前は正義バカ。愚直でバカどっちがいい?」

 漣は学の体を起こした。

「愚直の方で」

「バカがバカとバカやってさ、まともなやつが指くわえるぐらいすごいことになるんじゃないか。もちろん、お前らみんながライバル。誰か勝って、誰かは負けて。おめでとうの内心はひがみだったり妬みだったりするかもしれない。誰かはいつかやめるかもしれない。ここはそういう場所。さあ、寝るぞ。明日も稽古だ」

 すっぽ抜けた学の人生は終わらない。

「おまえまもういい大人だろ」この言葉を言われるのが嫌で嫌でしょうがなかった。

 でも今は自分自身を追い込める。奮い立つことができる。

 お前、もういい加減諦めるなよ。

 ときに身が心に引き摺られ、ときに心が身に引き摺られ。。の、繰り返し。繰り返し。雨あられ。雨あられ。。身も心もぴったりしっくりきっちり“俺”になれる日なんて、365日の中で2日間がいいとこでしょうよ。多分、昨日がその初日。多分、今日がその最終日。

 そんじゃあ記念に今一度確認しとくぞー。いいかー。

 走り続けないと食っていけねーぞー。

勝ち続けないと食っていけねーぞー。

欲しがりましょー、勝つ為にー。

蹴落としましょー、食う為にー。

 えいえいおー!えいえいおー!えいえいお。

 最終列車の窓ガラス。

 35歳の私が、ちゃんと35歳みたいな顔で私を見つめている。

 お前、もういい大人だろ?

 お前、もういい加減諦めるなよ。

 と、私を見つめている。


 お前、もういい大人だろ?


 お前、もういい大人だろ?

 今声高々に。今だからこそ歌える歌がある。

 部屋の中で何度も見た、竹原ピストル。いくつかの歌の歌詞が混ざって頭をよぎった。

 脱走したはず、もうその足を部屋に入れないと堅く決心したつもりがここで俺は生きていくといつの間にか決心していた。だから、明日からもマルエツの張り込みを丁寧にやろうとそう思った。

 ここにいる人たちとしっくりくるのはなぜだろう。おなじちゃんこ食べてるから、同じ砂にまみれてるから。そうだろきっとそうだろ。ここに来たのはきっと偶然ではないでしょう。

 あ、ちょっと待った、思い出した!そういえば清めの塩、切らしてた。思い出したよ。とりあえずコンビニで買ってごまかそう。

 学はそう思った。

 歩く漣。漣の影。学はその影を踏みながら歩いた。

 遠くなる七つの人陰。電車の音。高笑いが響いた。

 翌日。稽古を見学を終えた久山の父 由伸は看板の前で記念撮影。白まわしの久山と黒まわしの学とともに。二人とも砂だらけ。スマホカメラの撮影はタクシー運転手。運転手は由伸にスマホを渡した。

「ちから。しっかし、まずかったな。昨日の寿司屋」

 五味部屋のお向かえはブティック青山、客はいない。右隣は寂れた寿司屋、ランチの張り紙。

「魚の質の差だな。歯舞がすごすぎるだけだ」

「となり、となりの洋服屋は潰れないのか?」

「なんかさ、制服、地元学校の代理店だけで食えるらしいよ。ここいらは団地ばっかだからそこまでガキの数少なくない。だからやってけてるんだってさ」

「へぇー。島崎和歌子みたいな店だな。感謝祭で一番感謝してるのはきっとあいつだぞ」

「親父、待たしてるから乗れ」

 タクシーの運転席、運転手は窓を開けて稽古場のようすをのぞいた、嵐山が小さな板で集めた砂を成形する。

「そうだな。田所君。頑張れよ。いい部屋に入ったんだから。今度、ちからと一緒に来いよ歯舞に」

「はい」

「ちから」

「待たしてるんだからな」

「わかってるって、しゃべらせれや。ちから、お前は力があるんだからあとは紳士になれよ。田所君は紳士なんだから力をつけろ」

「おっし。行こう親父」

 タクシーに押し込まれた由伸が手を振る、タクシーは動きだした。久山と学は小さく手を振った。「学。紳士がどうのこうのくだり、あれなに?」

「立派な力士になれ。ということかと」

 力士。それぞれ違う理想の力士像。だが、この部屋の力士は師匠を模範とする。力のある紳士を目指す。

 番付発表後の稽古は激しさを増す。もちろん休みはない。しかし、猛稽古をこなすには息抜きが必要。ブルトチノは夢花と両国のモンゴル料理屋「スーホー」に向かった。店内、モンゴル語が飛び交う。二人は入ってすぐの席に座った。すると、オーナーの後藤 彰がブルトチノのもとへ。

「横綱が呼んでるよ」

 後藤が笑みを浮かべた。

 後藤はモンゴルから国籍を日本に移した。後藤は元関脇・白駿馬。力士晩年時にこの店を開いた。帰化した理由は商売をする上で有利だから。

 一番奥のテーブル、横綱・志師 雷太がどかっと腰を掛けている。

「お疲れさんでございます」

 ブルトチノは相撲お辞儀をした「はじめしまて、手前は五味部屋の狼と言います。以後お見知り置きを願います」

 ブルトチノは相撲お辞儀をした。夢花はブルトチノのうしろで頭を下げる。

「センベノウ、ようこそ同郷の後輩会いたかったぞ。それから、ここはグフだ。堅苦しいのはやめろ」

 店内、ぽつぽつと髷が見える。

「座れ、座れ。場所ではバタバタしてるから話しかけたかったんだができなかった。お前も近づけなかったろ。俺は一応、ミスターストイックで通ってるからな」

 ブルトチノは固まっている。また、夢花は横綱のモンゴル語に頷く。ブルトチノにいくつかモンゴル語を教えてもらった。愛してるだの。ほしがきれいだね、君のほうがもっときれいだけどね。などの愛の言葉。出てきやしない。

「センベノウ」

 藤堂 真介。藤堂も後藤同様、元力士で日本に帰化をした。

「おっ。話題の狼か。写真より大きく見えるな」

「先輩。こいつは一五だから、昼寝するだけで一センチは伸びるよ」

「横綱もそうだったもんな」

「そうですね」

「狼。お前大使館、逃げ込んだって」

「すいません。知り合いの通訳が困ったら、大使館に行けと言ったので行ってしまいました」

「懐かしいな。大使館事件」

「先輩、してくださいよ昔のはなし」

「横綱に言われたら話すしかないでしょ。俺はさ、君が生まれるずっと前に入門した。モンゴル人力士第一号だ。一人でにっぽんに来た、金を稼ぎに来たんだ。にっぽんに。あんときは十倍だぞ。お金の価値の違い。日本から一〇〇万もってけばでかい家が建つ。まあ、稼ぎに言ったわけよ。最初まわし渡されたとき、ホースだと思って外の水道に繋ごうとしたら兄弟子にくらわされたよ」

「先輩、それはネタでしょ。いつも思うけど」

「ネタじゃないよ。横綱。必死だったな、毎日が。白ご飯なんて食ったことがねえからさ。受け付けないんだわ体が。だからとろけるチーズのっけて食った。チーズなかったらノルマのとんぶり三杯は無理だったな。まあそんなこんなで一年経って、モンゴルの後輩が入ってきた。そいつも苦労してたな。そいつは気性が荒いから兄弟子に噛みつくわけよ。稽古のときなんて本当に噛みついてたよ。兄弟子のおでこに歯の跡くっきり強かった。メチャクチャハート強かった。あんまりにも暴れるから手錠、首輪。SM用だったかな、犬用だったかな、忘れたけど。それから、足輪も。トイレの時も外せない。稽古と風呂だけ。それでも暴れたらスタンガンで失神させられてさ。かわいそうだったな。あれは。さすがにやつも精神的にまいってさ。首輪かみちぎって、手と足の輪っかぶっ壊してスカした。発狂したら更に力出すタイプだったから。行くとこなんてないからおのずと大使館になるよね」

「その人はどうなったんですか?」

 夢花が尋ねた。ブルトチノの同時通訳は正確だった。

「戻ってきたよ。大使館が協会に抗議したんだ。奴隷じゃあるまいしって。それからは酷い仕打ちはなくなったよ。俺も危害加えられなくなったからラッキーだったよ。そいつはそっから一気に強くなった。十両、幕内、三役。あっちゅう間だったな。上位の連中は暴れ竜って言って恐れてたよ。そんな性格だから潰された。膝の靭帯切られたんだ。それで引退。モンゴルに戻ったよ。稼いだ金かなり溜め込んでたからそれ注ぎ込んで。羊、馬をたくさん買って。人を何人も使った。いまや遊牧の王さまさ。今はカシミヤバイヤーの仲介もやって、かなり儲かってる。やつに番付抜かれた俺の最高位は幕下三枚目。一〇年やったけどさ。関取になれなかった。おれもやつみたく羊かいたかったけど、元手がなかった。オヤジがさ、帰化して日本で働いてモンゴルに仕送りすればって、薦めてくれたからそうした。耐震工事のコンクリ流す仕事したんだ。会社入って何年か経った時、時代が味方して耐震工事の需要が爆発的に伸びて俺みたいなもんでも重宝された。主任になったよ。相撲でなれなかった親方

やってる」

「なあ、狼。先輩が道を作ってくれなかったら俺ら、日本に来れなかった。先輩に乾杯だ」

 ブルトチノらはウオッカが入るグラスで乾杯した。夢花はコーラで。

「大丈夫なの?」

「大丈夫だ。夢花」

「娘さん。モンゴルでは寒いから子供の頃からウオッカをのむんだよ」

「先輩。嘘はだめだ。子供はヤギのミルクでしょ」

「横綱、冗談ぐらい言わせてよ」

「先輩ごめんなさい。俺はA型だらか」

「モンゴルの人って、B型が多いですよね?」

「そうだよ。夢花、ほとんどB。おれもB。Bボーイ」

「狼。もう酔っぱらったか。子供だな」

 藤堂と横綱は笑った。


 場所まで、あと幾ばくもない。

 漣は気が立っていた。

「ブル。もっと残せよ」

 ブルトチノは土俵外に押し出された。

 赤瀬部屋への出稽古。幕下の稽古。ブルトチノは歯が立たない。

「ブル、お前そんなんじゃ一番も勝てないよ。今場所」

 申合い稽古。勝ったものに飛びついて稽古を申し込む。

 赤烈風の仲村が勝った。飛び付く力士たち、ブルトチノは遅れる。石田が買われた。

「ブル。なんで飛び付かねえのよ。根っ子でも生えてんのか?」

「いいえ」

「きれいなからだして。おい、ちから。気合い入れろ」

 稽古場隅でダンベルトレーニングをする久山は手をダンベルから砂を成形する板に。

「おい。おい。そういうのはやめてくれ、自分の部屋でやれよ」

 赤瀬親方の大谷が言った。

 ブルトチノの背中、真っ赤な手跡がくっきりと。

「どうもごっちゃんでした」

 ブルトチノは声を張り上げた。

「九月に紅葉か風流だな」

 裸足になった漣は稽古場に下りた。勝負がついた。飛び付くブルトチノは仲村に買われる。

「しっかりやれよ」

「はい」

 ブルトチノが仕切る。

 ブルトチノは押し出された。勢い余って壁にぶつかる

「おい。おい。砂のついてないきれいな体してんな。バンバン壁にぶつけられてさ。そんなにやせっぽっちだから凧になっちまうんだよ。飯、食ってんのか。食えねえなら酒呑め酒を」

「俺、一五です」

「じゃあ、米のジュースでも作れや、ミキサー買ってやっから。この米嫌い。隠れて羊の肉くって、赤身のおいしい焼肉屋に行ってOLか。贅沢になりやがったな遊牧民。グルメになって女に金使って何しきにきたのよ。日本に。目的を思い出して下さいよ」

「勘弁して下さい」

「勘弁なんて、難しい日本語使いやがってよ。そんなもん飲めって言ってねえよ。米食えねえなら食えないなりに対策をしてんのか。トライアンドエラーの姿勢でいろんなことやってるのかってこと」

「日本語わかんない」

「そういうごまかしの決まり文句。ここで言うか。普通」

 ブルトチノは本当に漣の言っている意味がわからなかった。

「お前殺すから来いよ」

 漣がキレた。ブルトチノにヘッドロックをかけて稽古場から出す。玄関通路、学と嵐山が腰割りをする。

「おう、若者腰わってんな。こいつみたいにけつは割るなよ」

 漣はその状態のまま、赤瀬部屋を出た。

 漣が運転する黒のワンボックスカー。助手席にブルトチノ。

「グルメなブルちゃんに。フルコース食わせてやるよ」

 体の震えが止まらない。ブルトチノが体を震わせているはフルコースの意味を知っているからだ。漣を怒らせてしまったとき恐怖の儀式が始まる。愛の裏は怒りだ。それは突然コインのように裏返る。愛してるから怒る。以前、駒場が久山にしたしごきと、これから始まるそれは違う。愛情のあるしごき、だからこそ恐い。

「部屋まで待てねえな」

 五味部屋、はじまりの場所。あの公園の砂場。ブルトチノは漣の胸にぶつかった。

「狼さん。地獄の一丁目へようこそ」

 右のまわしを取った漣はブルトチノを投げ飛ばした。受け身をとるブルトチノは立ち上がって漣にぶつかった。ブルトチノは漣をおした。

 そこを通る人たちは砂場に目を向けた。

「ほら、押せ。俺を出したら終わりだぞ」

 漣の足が囲いに掛かった。押すブルトチノ。

「腹を出すな」

 漣は右からの突き落とし。ブルトチノはぱったりと前に倒れる。囲いが局部に直撃した。うずくまるブルトチノ。

「はやく立てよ。あそこは立たねえってか」

「痛いっす」

「学は痛かろうが、血が出ようが何にも言わなかったけど。お前無いんじゃないハングリーのこころ。それとも草原に忘れてきたのか?」

「いいえ、あります。学らか借りました。返すつもりありません。そのまま借りパクします」

「ほう、言うね。見せろよ、ここで」

「はい」

 ブルトチノは叫んだ。周りがマンション、声が反響した。ゆっくりと立ち上がるブルトチノは数回ジャンプした。

「そんなにジャンプしたいなら転がれ」

 ブルトチノは漣の胸に頭を当ててから受け身をとる。そして、再び押す。押す。摺り足のかっこうで押すのは難しい。開いて足がまっすぐになり、かかとが浮き始める。そうなると、なんでも決まってしまう。漣はブルトチノを引き落とす。ブルトチノは砂場にパタンと倒れた。マタドールが牛をかわすように鮮やかな身のこなし。引き技はタイミングがものを言う。必要なのは相撲勘。

「摺り足だ」

 ブルトチノの頭をつかんで体を引っ張りあげる、腰を割らせた漣。ブルトチノはかかとを前に出して進む。漣のそれに対応するため、漣はブルトチノの頭を下に押し付ける。グっ、グっと押し付けられる度に足は悲鳴をあげる。太ももの内側、ふくらはぎがパンパン。乳酸地獄、押してる方が幾らか楽。息がだんだん荒くなる。五分ほど前で空調に冷された体はもうあせまみれ。筋と骨に徹底的に負担をかける。実のある稽古が強い体、押せる脚を作る。足で押す感覚を体に刻み込む。

 通行人は足を止めた。緩んでいた彼らの表情は真顔に変わる。砂遊びではないと気付いた。

 江戸、民衆に根付いた相撲文化。文明が開花すると、根付いた文化は切り捨てられる。時代遅れ、政府はそう判断した。力士よ。髷を切れ。そう命令した。しかし、岩倉具視が反対した。国技の館を作った。流行りは廃れる。文化は根付く。徳俵に追い詰められた相撲は残った。時代がかわっても変わらなかった相撲。民衆は相撲に熱狂した。双葉山、栃若。時代を作った。だが、時は残酷、見世物は相撲と歌舞伎、そんな時代はとっくに終わっていた。ベースボールが野球文化としてしっかりと根付き、相撲に捨てられた力道山がプロレスを興す。

 どんどんうまれる新しい文化と多様な考え。相撲は肩に寄せられた。その度にピンチは大横綱が救った。柏と鵬、ヒールの役を受け入れた北の湖に千代の富士、貴乃花。

 そして、廃れた。

 スポーツと言ったらサッカーでしょ。バスケもいいよね。若者たちはそう言った。学校、公園、神社、据え付けられる土俵はシートの下で眠る。そして、撤去。街から相撲がなくなった。

 相撲が袋叩きから開放された今。街頭インタビュー、マイクを向けられた民衆は相撲を語る。

「強い日本人がいない」と知ったかぶり。

「最近日本人が頑張ってる」とわけのわからない感想。一年、三六五日、七〇〇の日本人と海外出身の力士は頑張っている。全くもってわけがわからない。

「モンゴルばっか」とヘイトの言葉。大関の名前すら知らない、相撲をろくすっぽ見ない連中はディレクターが意図する言葉を吐く。撮れ高に貢献した。

 公園。OLたちがパチパチとスマホから閃光を出す。自撮り棒を駆使して、猛稽古とOLが同じ画におさまった。

「わたしさ、五月に相撲にいったんだ」

「どうだった?」

「面白かったよ。ちゃんこ三〇〇円で食べれたし。私の好きな千代丸を出待ちするんだ。マジできゅんきゅんするよ」

「どすこい熱いね。どすこいどすこい」

 OLたちは突っ張り合いのようなポーズをしてはしゃぐ

 砂場の正面、ブランコの囲い。その鉄パイプに腰掛ける老人。

「どすこいなんて、相撲取りさんは言わねえ。いかりや長介だろ。頭がパーだな。お前ら、お前らは何にも感じねえのかよ。こんなに充実してる土俵に対して」

 老人は怒鳴った。

 固まるOLたちは。

「土俵じゃねえし。砂場だし」

「ほんとほんと」

 そんな言葉しか返せない。

 依然として、ぶつかり稽古は続く。

「そうだ。そうだ。脇はもっと締めろ」

 漣は穏やかな表情だった。ブルトチノはハイになっていた。脳が命令して、足を前にすすめている訳ではない。筋肉が足を勝手に動かす。こういう状態を専門家はゾーンと名付けた。

 押せば押せ、引かば押せ、押せ、近場押せ、押して勝つのが相撲なりけり。

 押しは相撲の核だ。押すから投げが決まる。いなせる、はたける。押せないものはどんなに体でかく、強靭な筋を纏っていても。土俵を割る。土俵に転がる。

「ほら、押せ」

 漣の足が囲いに掛かった。公園外には律子と夢花。砂場、愛する男をじっと見つめた。夢花は頬を手のひらで擦る。体の火照りが止まらない。

「手、伸ばせ」

 ハイになった。ブルトチノ。

 歌を口ずさんでいた。

 学の影響。竹原ピストル。

 どうせ領収書の束しか入ってないしサイフくらいならくれてやるよ

どうせ迷惑メールしかこないしケータイくらいならくれてやるよ

 無くなって困るっつったらこのスニーカーくらいのもんさ

 踏み込むとき 踏み切るとき

 駆け上がるとき 転げ落ちるとき

 是が非でも避けるべきは戻ろうと思えばいつでも戻れるような場所に留まることさ

 断頭台の薄情さ ちょいでもケツがムズ痒くなるや否やで どこ そこ 誰 彼 構わずに引き千切ってきたんだ

 四方八方 隙間なく角を立て 誰ぞの人差し指とは真逆の方向に疾走する一枚の自走式歯車

噛み合ってたまるか 噛みつき合うんだ

絡めとられてたまるか 一方的に掻き回すんだ

 ぼんやりとタバコの煙を見つめながら 天下獲るまではここに帰って来るなってポツンと呟いた あのフォーク小屋のオヤジのどこか寂しげな横顔を


  そんなに気をつかって注文しなくていいからゆっくり考え事していってねって 俺の手元のノートを   ひょっこり覗きこんでは微笑んでくれたあの喫茶店のマスターのささやかな激励を

 一等星に生まれてくることができなかった以上は一等星より眩い大金星を狙ってやるさ

ダイヤモンドに生まれてくることができなかった以上は

ダイヤモンドより硬い意思を貫いてやるさ

こいつはここだけの話

 “本物 ぶっ倒す 極上のバッタモン”

 なんか文句あっか?世の中 勝った者勝ちだったろ?

 こいつはここだけの話。


 ブルトチノの足、砂場にめり込む。砂をしっかりとつかむ。それは杭が打たれたように頑丈。右から左からいなして残す漣のアクションは意味がない。ブルトチノは漣を押し出した。尻をついた漣は立ち上がる。ブルトチノは深く腰を割って待つ。飼い主を待ち焦がれる忠犬。そんなコピーがピッタリだ。おもむろに近付いた漣、太い腕、ごつごつとした手でブルトチノの首を下へ押す。

「ごっちゃんし」

 ブルトチノは叫んだ。

 ブランコ前の老人は力強く拍手した。それを合図にあのOLたち、足を止める皆皆が賛辞の意思を拍手に込めた。

 相撲から目をすらし続ける日本国民。そこにいたものは相撲を知った。相撲を見た。日曜に相撲場にいきたい。そんな感情に駆られる。最低でも、日曜の三時五分にはテレビをつけてリモコンの三を押す。

 夢花と律子は手で涙を拭った。


 形振り構わない戦略は的中、若者向け・女子向けイベントに民衆が食いついた。大相撲は大盛況で中日に入った。

 出世披露を終えた学と嵐山。

 東の支度部屋、久山・東朝陽の明け荷の前。

 座敷でくつろぐ久山。ブルトチノは座敷下に立つ。

 支度部屋の扉が開く。横綱が入る。混雑していた通路、道ができた。

「お疲れさんでございます」

 力士らの声。まっすぐ前を見て歩く横綱、表情は険しい。ブルトチノは足がよろけて通路中央に。横綱と肩が当たった。

「邪魔だ。どけ」

 睨む横綱。ブルトチノは頭を下げて後退した。横綱が奥へと進む。

 横綱の後ろに付き人。

「砂場部屋かよ。稽古は砂場遊びだもんな。たまにはガキんちょらに譲ってやれよな」

 付き人は鼻で笑った。感動を伝えたかったあのときの観客。そして、拡散。協会中の噂。あの場にいないとつたわらない感動、大問題と幹部達は口を揃え。漣は弟子のために頭を下げた。

 

 五連勝同士。ブルトチノはバータルと当たった。

 土俵下。睨むバータル。目を閉じるブルトチノ。

 決戦、リベンジのときは来た。

 仕切る二人。

 二人は立った。

 胸からバータル。頭でブルトチノ。

 ブルトチノは筈に手を入れた。嫌がったバータル引き落とし。バータルはブルトチノを呼び込んだ。無理な首投げブルトチノはふらつかない。すっぽ抜けたバータルの手。ブルトチノは背中を向けたバータルを土俵外に押し出した。ブルトチノの圧力勝ち。六連勝。

「童話では勇者が狼を投げ飛ばすはずだが」

 花道奥ですれ違った。久山とバータル。

 バータル、日本語訳で勇者。勇者はうつむいたまま、支度部屋に向かった。

 西幕下一五枚目、優勝すれば関取。 

 運命の一番は赤瀬部屋の石田。  

 仕切る二人。

 立会い、つっかけた石田。

 ブルトチノはイラついた。

 二人は立った。

 あたまでゴツン。鈍い音。

 前に出るブルトチノ。前には相手がいない。 

 左に動いた石田は突き落とし。ブルトチノの頭を押さえて。

 ブルトチノはてをついた。

 勝負はあっけない。

 ブルトチノは天を仰いだ。吊り屋根の房がみえた。四色の神様は狼に牙を向いた。

 花道奥、下がるブルトチノ。

「ピスタ」

  と呟いた。

  狼が歩く道は険しくて長い。  

 




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