2-3 クライアントを待つ
翌日、僕は約束の時間よりもだいぶ早く新宿に着いた。
よく来る街なのだけれど、今日はバイトとはいえ仕事できているのだと思うと、見慣れた駅前風景やその先の高層ビルなんかもいつもとはどこか違うように見えた。僕の足取り、細かくいうと歩幅とか足が地面にくっついている時間とかも微妙に違うようで、僕は何やら新鮮な気持ちで歩いていた。本屋に寄って立ち読みをしていても、仕事の前の時間調整なのだと思うと、買う気がなくても許されるような気がした。
僕は、約束の時間より十五分くらい前に指定された喫茶店に入った。どうせクライアントは定刻より遅れてくるのだからそんなに慌てることはないのだが、これも初仕事の緊張感のなせる業で、こんなにも従順に一つのことをやろうとしている自分を久し振りに発見して奇妙な感じを抱いた。べつにお金に不自由していたわけでもなかったのだから、いってみれば責任感、プロ意識というものかなどと思い、そんなものが自分の中にひとかけらでもあったことを気付かせてくれたうさぎ倶楽部というものに、とりあえずは感謝しなきゃいけないなと思った。
が、まだ仕事はこれからだ。僕はコーヒーをたのむと、昨日の電話で松井という男に言われたこと、そして、十日ほど前に彼のアパートを訪ねて聞いた話をゆっくり思い出しては反芻してみた。とにかく黙って人の話を聞いていればいいとは言っても、そんなに赤の他人に向かって人は話をし続けられるものなのだろうか。金を払ってまでそうしたいという人間に対してどういう聞き方をすれば満足してもらえるのだろう。いや、満足するしないは当人の勝手なのだから気にすることはないのかもしれないが、とりあえずバイトの身としては最低限二時間を持たせなければいけない。もしクライアントが黙り込んでしまったり不機嫌になってしまったらどうしたらいいのだろう。
考えれば考えるほどそれは不思議な仕事だった。
仕事? そう、別に人の話を聞くこと事態は日常的なことだが、それが金をもらってする仕事となった瞬間に一体どういうことになるのか。語り手と聞き手は対等であることを止め、人間的な共感や理解が介在する余地のない場で交わされる会話、いや、一方的な語りとはどんなものなのだろう。
ま、そんなに難しく考えることもあるまい。要は暇つぶしの相手なのだくらいに考えておこう、そう思いながら時計を見るとちょうど六時になるところだった。僕は例の渡されたうさぎ倶楽部のステッカーを、持って来た文庫本の上に載せて、得体の知れないクライアントが現れるのを待った。