2.一人目のクライアント 2-1 初めての電話
繰り返しになるけど、これは、僕が学生だった頃、時代は昭和、スマホもケータイもなく、やっと固定電話に留守番機能がついたころのお話です。
それでも、大事な連絡があると思えば家を空けられず、待ち合わせするには時間と場所をしっかり決めておかなければどうしようもなかった、そんな時代にも思いを馳せてみてください。
例の、松井と言う男のところへ行ってから一週間くらいが経っていた。しかし、彼からは何の連絡もなかった。
やはりいんちきか、いくらこんな世の中とはいっても、人の話を聞くだけのバイトなんてあるわけはないのだ。いや、そうでないにしても、そんなに次々と仕事が入ってくるわけはないのだろう。バイト料として二時間で三千円をもらえるからには、彼のとり分や運営コストも考えれば、クライアントは少なく見ても五千円は払う仕組みなのだろう。いくら物好きでも、そんな金を払って赤の他人に話をしてみたいと思う人など、そうはいるわけがない。
まあ、登録料などを払ったわけではないから損はないが、あの暑い部屋で延々とアンケートに答えさせられたのは腹立たしい思いがした。実はうさぎ倶楽部などという仕事は大嘘で、ああしてうちの大学の学生の情報を仕入れるほうが本業なのではないか。
彼はあんな手口で学生の詳細な情報を仕入れて、どこかに売り飛ばしているのではないか。だとしたらあのデータは一体何に使われるのだろうか、僕の情報は一体誰の手に握られたのだろうか、と心配になった。
そう言えば、昨日、恵美から絵葉書が届いていた。
元気です、とか、南の島は最高です、とか脳天気なことが書いてあって、それでなくても高い僕の不快指数が限界に達したような気がした。
僕は、ほかのバイトを探す気もなく、それ以外にやってみたいことも思い付かずに、情けないくらい怠惰な生活を送っていた。別に怠惰であること事態は構わないのだが、こんなふうに何も実のあることをしないで貴重な、そう、二度と戻ってくるはずのないこの日々を過ごしていていいのか、というようなことがちょっと気になった。そんなに立派なことなど出来るわけもないしするつもりもないが、せめて恵美に、何をしてたの? と聞かれて返答に困るようでは情けないな、と思っていた。
だが、それはあくまでも頭の中だけの話で、体のほうはどこにも出掛ける気力もなく、本を読む気さえ起こらず、そのくせ空腹感と排泄の催しだけは律義なくらいに決まったリズムで起こってきて、それがまた僕をいらだたせた。何にもしていなくても僕が生きているということだけで、何かしらの生き物を殺し地球を汚しているのだと思うとやり切れない思いがした。
僕は、ただすべてを暑さのせいにして無為な日々を送っていた。
そんなある日、そう、「うさぎ倶楽部」に登録をしてから十日くらいたった日だろうか、夕方部屋に戻ってみたら、留守番電話にメッセージが吹き込まれていた。
「えーと、うさぎ倶楽部の松井です。仕事の連絡をします。明日の夜六時、新宿です。OKだったら今日の夕方五時までに返事を下さい。連絡がなければほかへ回します」
ずいぶんと事務的な声だった。仕事の連絡だから当たり前ではあるけれど、この前のような丁寧な感じはない。どうして留守番電話というのはこんなにも人の口調を変えさせるのか、と思ったが、それよりも重要なのは、返事をどうするかだった。いくら自分から出向いて行って登録をしたと言っても、ほんとに仕事がくるのかどうかは半信半疑だったし、いざ連絡がきてみると、初対面の人とどのようにしたらいいのかといった不安もあって、僕はためらった。
しかし、この前の説明のときも言われたことだが、ここで断ったりすっぽかしたりしたらもっと仕事は入ってこなくなるだろう。僕は、今のこの空虚な毎日を立て直すには、もうこのバイトに乗っかるしかないような気がした。
時計を見たら、もう四時半を回っていた。僕は慌ててこの前渡された彼の名刺を探して、電話機のボタンを押した。