1.「うさぎ倶楽部」入会 1-1 夏休みのキャンパス
これは、僕が学生だった頃、時代は昭和、スマホもケータイもなく、そう、「神田川」という歌が流行っていたころのお話です。
風呂なしトイレ共同の下宿で電話は呼び出し、そんな学生生活が当たり前だった時代に、僕がたまたま関わることになったアルバイトの話なのだけど、そこで出会った人たちのことは今も鮮明に覚えているし、それが今の出来事だったとしても全く違和感がないような気がしています。
夏休みに入ったキャンパスは閑散としていた。
普段は学生でごった返しているメインロードのあたりも人影が少なく、立てカンやポスターなんかも疎らで、同じキャンパスがいつもよりずっと広くてきれいに見えた。
サークルの会合かなんかで出てきている学生が行き交う中に、就職活動をしている四年生が目だっている。この暑い陽射しとむっとするような空気の中で紺色の上着なんかを着てネクタイを絞めているのはさぞかし苦痛だろうけれど、来年は僕もあんな格好をして走り回っているのだろうか。それも、今までなにかにつけて諸悪の根源のように非難することの多かった大企業に、そんなことを悟られないような作り笑いを浮かべながら媚びを売りにいくのだろうか、と思うと憂欝になった。
しかし、今の問題はそのことではなかった。いつのまにか突入してしまった夏休みをどうして過ごそうか、それも、ひょっとしたら最後の自由な夏休みになるかも知れない貴重な時間をどうしようか、というのが、今僕の前に突き出された大きな課題った。
友人の大部分は、夏休みの後半に北海道や沖縄にいくためのバイトに精を出していたはずだし、そうでない何人かはさっさと暑い東京を抜け出して田舎に帰省してしまっただろう。呼び出して遊べるような奴はいそうもなかった。
もちろん、僕にも予定が全くなかったわけではない。
僕は、まあ恋人と言い切るには躊躇があるものの普通の友達以上ではあると思っていた恵美とできるだけ多くの時間を取って、その間にできれば信州あたりに短い旅行にでも行ければ、などと思っていた。どうせ、北海道だとか言ってみても、東京の親元から通っている恵美をそんなに長い旅行に連れ出すのは不可能なことに思えたし、そもそも先立つものもそんなにはなかった。僕はどちらかというと、一生懸命にバイトをしてためたお金で贅沢をするよりも、餓死しない程度の食事をしながらアパートで本でも読んでいるほういいような気がしていたし、事実そういう生活をしていた。
恵美も、そういう女だった。派手な服を着るわけでもなく凝った化粧をするわけでもなく、いつも洗い晒しのジーンズ地のスカートとばさっとした感じのシャツを着ていて、まわりの女の子たちが「もう少しお洒落になりなさいよ」などと言うのをにっこり微笑みながら聞き流しているようなタイプだった。
そんな感じだったから、僕たちはまわりのカップルとは違って、流行りのスポットやら話題のプレイゾーンなどというものには無縁で、大体は公園のベンチや大学の近くの喫茶店や僕のアパートや、要するに余りお金の掛からない場所に長い時間落ち着いて、あれこれととりとめのない話をしていることが多かった。僕たちの交わす会話というのは、本当に他愛のないことからやや面倒な議論に至るまで不思議なくらいにいつも話が弾み、そのように過ぎていく時間を共有しているだけで僕は十分満足だった。そして、恵美もそうなのだと、ついさっきまでは信じ込んでいた。