④
そう、その時も条太郎は突然思い切り殴り付けられたのだった。
衝撃で意識が朦朧としたが失神はしなかった。コンクリートのブロックに血が付いているのが見えた。
壊れて燃やされた軽自動車は水銀灯から離れたところにあり光も充分届かない。手持ちの携帯電話付属ライトなんかじゃすぐ手前しか照らせない。
車の中に気を取られていたのが悪かった。
女は崖の草影からそっと出て来た。コンクリートブロックを振り上げて。
微かな音に振り返った条太郎は見た。髪を振り乱してときの声を上げる女を。
寸前、避けはしたのだがまるで間に合いやしない。
「!!」
声をあげる暇すら。
携帯電話が吹っ飛んで唯一の明かりも消えた。
二つに割れたブロックに黒い液体が流れ、条太郎はそれが自分の頭から流れ出た血液だとすぐには気付かなかった。
そのまま倒れる条太郎を暗がりの中で女は何度も蹴転がし、あまつさえ膝落としを食らわせ、なおもブロックを振り上げた。
格闘とはとても言えない、一方的な暴虐だった。
あまりの手応えのなさに余裕を感じたのかそれを振り下ろす前に女は一声、
「悪く思わないでね」
「みーちゃんには!」
咄嗟に条太郎は叫んでいた。しかし力のある声ではなくそれはむしろ悲鳴に近かった。
「みーちゃんにだけは手を出さないでくれ」
生来、責任感のある性格ではなかった筈だが、死を目前にした時。この時彼の口から飛び出したのはそんな言葉だった。
こんな非常時に他人の心配をするなんて、俺はなんて男らしいいいやつなのだと条太郎は自惚れを増長させたがそれは後で思えばの話。火事の時に夢中でたとえば座布団などのようなつまらないものを持って逃げ出す人と何も変わる所はない。
しかしそれは結果的にいい方向に働いた。
彼のその言葉を聞いて、女の手が止まった。
「みーちゃん? …美里がいるって言うの?」
女は条太郎に詰め寄る。「美里を出しなさい!」
「誰がお前なんかに」
なかば意地になっていた。不意打ちとはいえ手荒な事に馴れていない優男、条太郎は痛め付けられて抵抗も出来ない自分の不甲斐なさを呪った。
彼に出来るのは暗くて見えない女の顔のあたりを精一杯睨みつける事のみであった。
暗がりの中で、はっきりと分からないが、意外と綺麗だ。
こんな美人に殺されるならまあ仕方ないか、女絡みでなら今までにたくさん恨みを買った自覚はある。知らないおっさんに刺されたりするよりはマシだ。それどころか寿命で死ぬのの次の次くらいにいい死に方かも知れない、しかも子供を庇って。などと現実逃避だろうか状況とかけはなれた事をぼんやりと考えていた。(ちなみに彼の2番目は車で何百キロもスピードを出した末の事故ではなばなしく散る事だ)
緊迫したなか、ランボルギーニのガルウィングが重たそうに開けられる音がした。見ると何と言う事か、外へ美里が駆け出してきたのだ。
「来ちゃダメだっ! 俺は、俺は大丈夫だから……」
君だけでも逃げるんだ。咄嗟にそう条太郎は叫ぼうとした。しかし美里は女に走り寄り、条太郎が予想だにしていなかった言葉を。
「お母さあぁぁん!!」
嗚呼、中にあったのが黒焦げ焼死体であったら、何故条太郎がこんなにボコボコにされるなどということがあっただろうから。
血を吐いて……膝落としの所為だ。うずくまる条太郎の後ろでひしと抱き合う母子の姿があった。
本当に、一体何と言うことだ。
すれ違いが生んだ悲劇だった。
「おじちゃん何でねてるの?」
ややあって条太郎に気付いた美里が不思議そうに尋ねるまで、条太郎は道路の真ん中で転がっていた。
「お兄ちゃんと言え、って何回も言っただろ?」
そこで力尽きて承太郎はしばらく起き上がれなかった。
※ ※
女は綺麗なハンカチを取り出して、路側帯にうずくまる承太郎の額を流れる血を拭ってくれた。
ハザードを焚いたランボルギーニの影だ。
「礼なんか言わないぞ」
ふて腐れた言い方で条太郎はそっぽを向く。
血が出る程殴られた割にダメージが少ないと思われる方もいるかも知れない。よく喧嘩をなさる御仁はもちろんご存知だろうが、頭なんていうのは殴られるとすぐに血が出る、しかしその割に以外と平気なものなのだ。
逆に血が出ない方が、危ない事もある。鬱血した圧力が脳の方にかかってダメージとなるからだ。
ブロックが風化で崩れやすくなってたという事も幸いした。割れたおかげで衝撃が分散したのだ。
女は条太郎に命令口調で尋問した。
「あなたは何者なの? NASAの回し者ではないようね」
「いきなりこんなにしといて、ご挨拶だな。あんたなんかに名乗る筋合いなんてねーよ、そっちこそ何なんだ」
女は少々考えを改めたようで条太郎に手を伸ばして「ごめんなさい」と謝った。
「私は良子。この子の母です」
若かった。
差し延べられた手を取って、やっと起き上がる。
条太郎はそのてのひらの意外な柔らかさに動揺した。
夜目遠目に傘の内、という言葉があり、要は女性が美人に見える条件だという。はっきりと見えない事で逆に想像力で補われて実際よりもよく見えるという人間心理の妙を表した言葉なわけであるが、まさに今回は一つ目の夜目に当たる状況というのが関係していたのかもしれない。
吊り橋効果と言って不安な状況やドキドキする場所で出会った相手を、その状況や場所に起因する感情の筈のものを勘違いして、恋だと思う事があるという、それも大いに考えらる話だ。
そう、承太郎はこのはじめて出会って殴り倒された彼女にあろうことかトキメキを感じてしまったのだ。それも自分を殺しかけたかも知れない女だというのに。
はじめは、娘が高速道路で危うく轢かれかねないところを救ってやった見返りがこの仕打ちなのかと、厭味の一つでも言ってやるつもりであった。
本来であればそんな正常な判断だって出来たかも知れない。しかし、条太郎は頭を打っていた。
条太郎は握られた手を引き付け、良子に密着とは言えないがぎりぎりアウトの至近距離に体を寄せて囁いた。
「ただ、きみのような人にだったらもう一度殴られてみたいね」
と、ニヤリ。
おや普段と変わらない、などと言うのはどなただろうか。
良子は起き上がってなおいまだ持って放さない条太郎の手をしごく邪険に振り払った。
残念そうに、自分の手に付いた彼女の残り香を嗅ぐ条太郎を見て良子は、
「なら一度とは言わず、何度でもお相手いたしますわ」
と、ブロックを拾いなおす。
「さあ、遠慮なんていりませんから頭をお出しになって」
戦慄の承太郎。
ちなみに香ったのはただのガソリン臭だけだ。
「お母さん、このおじ、…お兄ちゃんが私をたすけてくれたのよ」
みーちゃんが助け船を出してくれた。
「あうぴにすとって、ほんとはぜんぜん頼りにならなかったけど……」
と思えば致命傷だった。
「あ、それを言うならアルピニストな。ただそれ他で言っちゃダメだぞ」
服で手の汚れを払って、条太郎は怒る良子から彼を庇おうと頑張る幼い美里の頭を撫でた。
「お兄ちゃんは今から、みーちゃんのお母さんと大事な、大人の話をしなきゃならないんだ」
と車の方を向かせて、背中を押す。
「すぐ終わるから、車で待っててな」
良子がブロックを堅く握り締めるのが見えた。
美里は素直にランボルギーニに向かい、苦労して手を延ばしてガルウィングを降ろした。
それを確認すると条太郎は良子に向き直って、
「大人の話と言ってもね、別に好きな体位とか感じる部位を聞きたいわけじゃあないんで……その、石」
ブロックを指して止めるように頼むが聞き入れられはしなかった。
静かに首を降って、良子はブロックを放さない。
やれやれだぜ、と困ったように首を振ってようやか名乗る事にした。
「俺は条太郎。普通のサラリーマンだ。
通りがかりでみーちゃんを保護した善良な一般市民だ。
誰だって高速道路を裸足で歩いてる子供がいたらそうするだろう。
警察にはまだ連絡していない。今は圏外だからだ。
出来れば次のパーキングで電話しようとしてたところだが」
「そう、まだなの。よかった」
何か不穏な事を良子が言った。それを聞き流すような承太郎ではない。
「どういう事だ? 何か警察に言われるとまずい事でもあるのか?」
もちろん彼の事だ、単なる正義感からそこに食らいついた訳ではない。ややもすれば良子を脅していいように好き勝手に出来ないかとの下世話な皮算用からそれを問いただしたのだ。
「何もないわ。ただどう説明したらいいのこんなの」
確かに荒唐無稽ではある。何が起こったのか当事者の承太郎ですらまるで検討がつかない。
「車もだけどその頭の傷だとか美里の事だとか」
「警察が嫌いなのか」
「面倒ごとが嫌いなのよ。何時間も事情聴取を受けたり、現場検証とかで何度もこんな所まで来たり」
心底嫌そうな顔で良子。
「そんなのに付き合ってる暇も時間もないの」
「変な事があって疲れてるのは分かるが、それは仕方ないんじゃないのか。
車だってこんなだし、素人に何とかなるような話じゃない。子供じゃないんだからここで逃げたって、どうにもならないだろ」
「でもあなただって痛くもない腹を探られるような思いはしたくないでしょう」
挑発的に言い放つ。
「俺は何もやましい事なんてしていない、善意の第三者だ」
とまともな事を言いつつも、置き去りにしたマリンちゃんの事が一瞬頭をよぎる。
「この傷だって、俺がうまいこと言っておくからさ」
君の出方次第でね、と心の中でそっと付け足す。
「あなたを誘拐犯だって言ったり、襲われたから抵抗したって言う事だって出来るのよ」
決して声に出してはいない筈だったのに見透かされているのか、返答は痛烈だった。女の勘だろうか、末恐ろしい。
「な、何を言ってるんだ、事故のショックで混乱でもしてるのか?」
としどろもどろなりに平然を装おうとする。
「出来れば何も見なかった事にして、ここから立ち去りたい。あなたもそう思わない?」
疲れたように良子が言った。
「そんな訳にはいかないだろ。そもそも、一体何があったんだ。
何でガソリンまみれのぬいぐるみを抱えて子供が道路を歩いてたのか。
それからこの黒焦げの車。
そもそも何で俺が殴られなきゃいけなかったのか。
よく分からないけど、もし良子さんきみが仮に誰かに狙われているんだったら行って保護して貰った方が安全だって」
と、なおも食いさがる承太郎にしびれを切らした良子はとうとう声を荒げた。
「分からない人ね、あなたは何も見なかった。私たちはここでサヨウナラ。
あなたは何も知らないから、ならそのままでいた方がいい。
それが一番平和で誰も傷つかなくて済む解決策だって言うのに、何で分かってくれないの」
「ダメだ。ここまで巻き込まれたからには俺にだって何が起きたのか説明してもらう権利がある。違うか?」
条太郎は真面目な顔で丁寧に尋ねた。
しかし良子は頑なだった。
「そんなもの糞食らえ、だわ」
すげなく拒否する良子を見て、条太郎は不敵に笑ったのだった。
残念なことに条太郎には場慣れした手管があった。素直になれない女をどう扱うのかなんて幼稚園の頃に極めたと豪語してはばからないほどに。
「ちょっと、何するの。
どこ触ってんの、やめて、あっ……」
その時良子にはブロックを振り上げる隙も与えられなかった。
条太郎がどこをどうしたかはここでは触れられない。ただ言えるのは…、数あるバリエーションの中で、彼は二番目に強引な方法を取る事にしたのだ。男の場合弱点というか重要な部分を押さえられて身動きが取れない、言いなりになるしか無い状態を俗に、キンタマを握るなどという。下品な表現になってしまうがここはどうか、おめこぼし戴きたい。
女性の場合、それが何処にあたるかを明記することもここではしかねるので、おめこぼしを戴きたい。
とにかく、良子は素直に話し始めた。