①
条太郎が話を始めたのは牧村昌雄がやっと業務を終えて帰る準備を始めたときであった。
大会社のしかし小さな部所なのでこんな時間にもう人影も疎らである、そんな中。
終業時間が近づくといつもこうだ。今だって見せびらかすように鍵束を人差し指にかけてチャラチャラと回しながら、
「牧村さん、こんなことってあるんですかね…」
「ないッ」
奴はよくいる嫌な男でどうせ親が小金持ちなんだろうが高い外車を乗り回し、頭の悪そうな女を取っ替え引っ替えひっかけてはそれを昌雄たちに自慢げに話す。遊んで捨てたとか、その内容も大抵は最低だ。
須藤条太郎と言うこの男はそう、よく言って俗物、普通でカス、悪く言えば腐りきった糞ったれのウジ虫野郎だというのが昌雄のみならず周囲の同僚たち全員の意見であった。そういう奴に限ってありがちな事に、目上の人間にだけはヘイコラ低姿勢でゴマを摺ったりして気に入られていたりもするので手に負えない。
上司の受けこそ悪くないものの当然仲のよい同僚など一人もおらず、デスクが隣なだけの昌雄に馴れ馴れしく話し掛けてくる。昌雄の方が年上で、承太郎は後輩の筈なのだが同じヒラの社員だと平気で見下している感じでとても気分が悪い。
いつもなら無視して帰るところだったが、その時の昌雄はちょっと機嫌が悪かった。今日こそ言って正してやろうと、彼は椅子を回して隣席の条太郎に向き直った。
「お前な、うるさい。誰も、お前の話なんか聞きたくねえんだよ、いい加減気付け。みんな思ってんだよ、いい加減やめろよな」
しかし条太郎は心外だなあといった表情をするだけで、全くこたえた様子がないのだった。
「今日のはちょっと違うんだけどなぁ。ボクのランボルギーニがね、爆発しちゃったんですよ」
「は? 何それ」
「まあいいや。お帰りですよね、お疲れ様デース」
とデスクの事務書類を束にしてファイルに綴じながら、もう昌雄の方を見向きもしない。
こうなると逆に、どうでもいいと捨ておけないのが人情というもので、条太郎などの言葉に興味を惹かれたなどといえば癪にさわるが全く気にならないと言ったら嘘になる。
昌雄は少し迷った。好奇心は猫をも殺すという言葉があり、それは西洋の民間伝承で猫というのは九つもの命を持って生きる、分かりやすくゲームで例えれば残機8もあるタフな生き物で、そんなたとえ八度死んでもまだ大丈夫な猫でさえ、ともすればとうとう最後の一回まで使い尽くして殺してしまうのが好奇心という名の魔物であるという、本来はいらない事に首を突っ込むような愚をいましめる意味で言われるものの例えである。
しかしそんな言葉があるというのは、それだけ人は謎や秘密を知りたがり、命の危険すら顧みずにやたらと詮索したがる生き物なのだという事の背理でもあった。
実際、やはり彼も結局はその誘惑には勝てなかったのだ。
「爆発って?」
承太郎はファイルを机の引き出しに片付けて帰り支度をはじめながら面倒臭そうに振り返る。
「まぁ、いいじゃないですか。あまり人に言いたい話でもないし。牧村さんも気をつけてくださいね」
「何をだよ。爆発ってそれ落石注意以上に気をつけ方がわかんねーよ、ハハッ」
ムッとして承太郎は昌雄を睨む。
「あっ、笑ってる。落ち込んでる人を見て喜ぶ奴なんて、碌でもないっすよ。あときっと知らないんでしょうけど、あれは落ちてくる最中の石を避けろって意味じゃないんですからね」
「あ? だからお前なぁ。それお前にだけは言われたくねえよ、あとその鬱陶しい豆知識も」
と諌めるが承太郎は意にも介さない。
「人の不幸を笑う奴なんて、死ねばいいんだ」
椅子をくるりと回転させて昌雄にそう告げる彼の顔はただ真剣そのもので、「じゃあまずお前が死ななきゃいけないよな」などと茶化すことすら憚られるほどの剣幕だ。いい気味だがこれはどうやら本気で落ち込んでいるようだ。
「ランボルギーニってお前がいつも見せびらかしてるあれか、あのチャラチャラしてケバい奴」
「決まってるじゃないですか。ランボルギーニ・カウンタック、昌雄さんみたいな人が逆立ちしたって買えない金額のあれですよ」
イラっときた昌雄だが、それが壊れたのだと考えればいいニュースなので我慢して聞いた。
条太郎は人差し指にキーリングを引っ掛けてクルクルと回しながらまくし立てる。
「その辺の人が軽トラぶつけるのとは違うんです。あのカウンタックはね、フルカスタムのV十六エンジンで四百六十馬力で、超高回転極太トルクで、アクセル踏んだら鬼のように加速するし、エキゾーストの音も甲高い重低音で、もう本当にフェラーリなんか目じゃないってくらいで、生産台数もプレミアで世界でもたった何十台しかないやつ、……だったんですよ。それがねぇ」
途中で何度もどっちだよと口を挟んだ昌雄の声をまるで聞こえないかのように無視して延々と自慢話を喋り続けるくらい得意気だった条太郎の顔が、みるみる悲しそうな顔に変わってゆく。
「まぁ、全損っていっても足りないくらい、木っ端微塵に粉砕しちゃったんですけどね」
条太郎のその落ち込み度合いを見て、昌雄はニヤニヤ笑いを抑える事が出来ない。
「へェー。何で?」
「交通事故じゃないしもう跡形もないんで、保険だっておりないとか言われて今交渉してるんですけどね。本当ふざけんな、って」
「ちょっと待てよ」
しかしその辺迄聞いてようやく昌雄の脳裏にかつがれているのではないかという疑いが過ぎった。
第一、
「じゃあお前その鍵は何なんだよ」
今から乗って帰る為に出しているのではないのか。睨んで、もういい加減下らない無駄話に付き合ってやるつもりはないと立ち上がって帰ろうとするその背中に。
「やっぱり気付きますよね、違うでしょ」
「?」
昌雄は振り返る。
「ボクの車の鍵じゃないでしょ」
こんな奴には全く興味がないから気にもとめなかったが、言われてみればいつものやたらに目立つ品のないごつくて黒いレザーのキーケースが付いていない。かわりに黄色いビニール製の手垢じみほつれてヘタったキーホルダー。鍵自体も安物の、ホームセンターやそこらで作った合鍵のようだった。
そして昌雄の見たてでは、条太郎は嘘を交えて面白い話を作り、人を楽しませるような事が出来る人間ではなく、そんな風に頭の回る奴でも決してない。
「この鍵さえ無ければ…」
俯きながらそう言った条太郎の表情は複雑で、その鍵に対する思いが憎しみだけではない執着、憐憫、憧憬、などがないまぜに合わされた非常に稀有なものだと感じさせられた。
普段は食欲か性欲、ともすれば怠ける事しか考えていない条太郎のような男にそんな微妙で繊細な表情をさせるその存在は、なんと謎めいていることだろう。それは昌雄にしてみればもうSFの領域に達していた。
「こいつのせいでとんでもない目にあったんです」
「何で? どうして、そんなことになったんだ?」
この後始まる彼の話が想像を絶するほどリリカルで目頭が熱くなるくらいハートウォーミングなものだとはどうして今の昌雄に分かっただろう。いや昌雄はおろか世界中の一体誰に想像出来ただろう。
「あまり他の人には言わないで下さいよ」
再三の昌雄の要求に、条太郎はとうとう重い口を開く。
「ルソーって画家を知っていますか? ライオンに食べられない女の絵を書いた人なんですけどね………」