202:切れない繋がり
――――――どこだここは?
日色は夢を見ていた。初めて見る夢。だがどことなく強烈な既視感を覚えさせる夢。
そこは日本でないどこか。何故か自分が本物の刀を持って、まるでコスプレのような紅いローブを着込んで奇妙な生物と戦っている。まるでどこぞのゲームに迷い込んで、モンスターと戦っているかのよう。
――――――一体何だこれは?
最近子供たちに勧められてやったRPGが頭の中に印象深く残っていて、それでこんな変な夢でも見ているのだろうか。
だがそれにしてはこの感覚は何だろうか。前にも同じような生物を倒したことがあるような違和感。それに刀も赤いローブも、初めて見た感じではない。それどころか、ずっと身に付けていたような感覚さえ覚える。
プツンッと視界が暗転したと思ったら次は変な青髪のオッサンと銀髪の少女が目の前にいた。何故か三人で食事している風景。それも何となく懐かしい気分を味わう。
――――――何でこんなに懐かしいんだ?
その答えが分からないまま、見覚えのある映像がドンドン流れていく。名前は思い出せない人物たち。だが確かに知っていると身体が、心が言っている。
――――――ここは……この世界は……知ってる。
そしてその中では、日色は英雄として称えられ、今まさに悪の権化とも呼ばれる人物と戦っていた最中、またも視界がプツンと闇に覆われた。
もう何も映像が流れてこなくなってしばらく、誰かの声が微かに聞こえてくる。
――――――誰だ?
問いかけても返事がない。ただ耳を澄ませば誰かが自分の名を必死で呼んでいることだけは分かった。
声が徐々に大きくなっていく。
――――――この声……どこかで聞いたことがある。
でも思い出せない。ズキッと痛む頭。そこで日色は目を覚ましてしまう。
見上げている天井はいつもの自室のもの。何ら変わり映えのしない天井。気がつけば日色はビッショリと汗をかいていた。だがふと上半身を起こし、部屋が少し明るいことに気がつく。
窓から月の光でも射しているのかと思うがそうではない。その光源は机の上からである。
「……ミサンガ?」
不思議なことに買った覚えのない《ミサンガ》が淡く光っていた。普通ならいきなり光る物体など気味悪がってすぐにでも捨て去るところだが、何故だろうか、その光を見ていると心が落ち着いてくる。
日色は立ち上がりゆっくりとした足取りで机に向かい《ミサンガ》に人差し指で触れる。すると突然頭の中に声が響く。
『――――――さんっ!』
日色は思わず《ミサンガ》から手を放す。確かに声が聞こえた。しかも先程夢の中で聞いた声と同じだ。
ゴクリと唾を嚥下して再び触れてみる。
『――――――ヒイロさんっ!』
確実に自分の名を呼んでいる。
「だ、誰だ……?」
『――――――ヒイロ……さん? ヒイロさんっ!? 聞こえますか!?』
向こう側の声がとても嬉しそうに跳ね上がる。
「い、一体何だ? お前は誰だ?」
『ヒイロさんだ……良かったよぉ』
『ヒイロさま、ご無事なのですね!』
二人の声。まだ成熟し切っていない少女の声。日色の脳にキリッとした痛みが走るが、日色は顔をしかめながらも尋ねる。
「お、お前らは何だ? この《ミサンガ》は何だ?」
『……もしかして覚えてないんですか?』
『そんな……ヒイロさま! その《ボンドリング》はヒイロさまが、ミミルとミュアちゃんに下さった絆なのですよ!』
「き、絆?」
『そうですよヒイロさん……それが今、わたしたちとヒイロさんを繋ぐ架け橋です!』
一体この声の主たちは何を言っているのだろうか。新手の詐欺? いや、詐欺にしちゃ手が込み過ぎているし、金を持っていない自分をハメる理由も思いつかない。
『どうやらそちらの世界では記憶が失われるのかもしれませんね……ヒイロさま、本当に覚えてらっしゃいませんか? このミミルの声を取り戻してくれたことも!』
悲しげに声が震えている。その声は演技などではなく心から発しているのだと何となく伝わってくる。
「声を取り戻した? オレがか? どこで?」
『ヒイロさまにとっては異世界になる場所――――――ここ【イデア】でです!』
「異世界……オレが異世界にいたって言うのか?」
『そうですよヒイロさん、そこでわたしとおじさんは初めてヒイロさんの仲間になったんです。そしていろんな冒険をしました。辛いことも苦しいこともありましたけど、とっても楽しいものでした!』
「冒険……? も、もしかしてその時のオレの格好って赤ローブを身に纏ってたか?」
『思い出したんですかっ!』
嬉しそうな声が耳をつく。その言葉で日色はさらに混乱が増す。
「じゃ、じゃあさっきの夢は……!」
日色はここも夢の中だと思い、左手で頬を強く抓る。痛みがある。つまりこれは現実。
『あ、あのヒイロさん? どうしたんですか?』
「い、いや……一つ聞くが、お前は……銀髪幼女か?」
『よ、幼女……うぅ……』
『ヒイロさま酷いです! こう見えてもミミルたちだってそのうち成長するんですよ!』
「あ、いや……悪かった……って違う! そもそもお前らの言うことが本当なら、何故オレは帰ってきてるんだ? どこぞのRPGみたいに魔王っぽい奴を倒して平和を勝ち取ったのか? いや、オレが他人のためにそこまで骨を折るとは思えん……」
日色は自分の性格上、何の得にもならないことをしないことを自覚している。それはたとえ異世界に行っても変わることはないと断定しているのだ。
『実は……』
銀髪幼女らしき人物から日色はここに戻ってきてしまった経緯を教えてもらった。
「なるほどな。ホントに夢で見たようなことが起きてたんだな……」
最後に見たのは金髪碧眼の男がこれみよがしにざまあみろと言った感じで笑みを浮かべている顔だった。アレが魔王……いや、元魔王だったか。
彼女たちの話を聞いて自分が異世界に行っていたということの信憑性は高まる。しかしまだ完全に信用などは無論できない。
『ヒイロさん、みんな待ってます……あなたの帰りを』
『ミミルもお待ちしております。きっとヒイロさまはお帰りになることを』
「ずいぶん頼りにされてるようだが、何故そこまでオレを信頼できる? ハッキリ言って、オレだったら、オレみたいな奴絶対信じないぞ」
というよりも友達にすらなりたくない。それだけコミュ力もそうだが、扱い辛いことこの上ない性格をしていることは自分でよく分かっている。それなのに彼女たちが全幅の信頼を寄せていることが信じられない。
『ふふふ、信じるに決まってますよ』
『はい! もちろんです!』
「……何故だ?」
『『それは……』』
スーッと息を吸い込む音が聞こえた。
『『ヒイロさん(さま)が大好きですから!』』
いきなり幼女二人に告白されて思わず唖然となる日色。こんな自分を好きになるような人物がいるとは今までの経験上思いつかなかった。
「お、お前ら……正気か?」
『『はい!』』
どうやら本気らしい。
「…………物好きな奴らだなお前ら」
だが何故だろうか……何となく心地好い温かさがポワッと胸の奥に宿る。その時ふと、机の上に飾ってある両親の写真が目に入る。
今まで好きと言ってくれた人なんて両親くらいだった。いや、そういえばここにいる子供たちは何かと言ってくることを思い出す。
日色はスッと瞼を閉じる。
「…………異世界か……おいチビども、そっちの世界は美味いものや珍しい本がたくさんあるんだろうな?」
『『はい!』』
「……そうか。なら行かない手はないな」
『ヒイロさん! あ、でもどうやって……?』
「一つ心当たりがある。まあ、何となく……だがな」
『そうなんですか?』
「ああ、とりあえず明日になるだろうが、その手掛かりに向かう」
『……じゃあ帰ってきてくれるんですね?』
『ミミルたちは待ってていいんですよね?』
「さあな。こればかりは運だ。お前らは祈ってろ。オレだってこんな退屈なところから出られるなら願ったりだしな」
その言葉で二つの嬉しそうな喜び声が走っている。その時、突然、まるで遠方にいる相手からの電話の調子が悪くなったかのように、彼女たちの声が途切れ途切れに聞こえてくる。
「どうやらタイムリミットってやつか」
『ヒイ……ん……待って……から!』
『ミミ……待って……す!』
最後に二人の精一杯の声が聞こえてプツンと声が消えた。同時に光っていた《ミサンガ》も普通のそれに戻った。
日色はギュッと《ミサンガ》を握り締めると、窓の近くへ行き、空からこちらを覗いている金色の月を見つめる。
「柄にもなく、ワクワクしてきたな」
これが決して夢だけで終わらないでくれと心底思う。いや、分かっている。これは現実だ。そして異世界はある。記憶がなくても身体が、心が憶えている。
彼女たちの声を聞いて益々強くなっていく感覚。
「待ってろよ、異世界!」
※
日色との対話を終えて、ミュアは心底安堵を覚えていた。もしかしたら、もう彼とは話ができない可能性だってあったのだ。
ミミルの《ボンドリング》を利用して会話できていたのはあくまでもこの世界での話。日色がいる世界はミュアにとっての異世界。そこまで《ボンドリング》の効果が届くとは確信がなかった。
「良かった……ほんとに良かったよぉ」
「ミュアちゃん……はい」
二人は抱きしめ合ってウンウンと小首を動かしている。
「ヒイロさまとミミルたちの絆は世界を越えたのですよ」
「うん、この絆、絶対誰にも奪わせないよ」
そうだ。たとえ相手がどれだけ絆を断ち切ろうと、絶対に切れないと信じている。たとえ一時的に切られたとしても、手繰り寄せてまた結び直すだけだ。
「ミミルちゃん、わたし戦場へ戻るね」
「……行くのですね?」
「うん、ヒイロさんもきっとそこへ戻ってくると思うから」
「……ミミルも本当なら行きたいのですが、ミミルにはここにいる方たちの不安を取り除くという使命があります」
今まさに地下シェルターには、ミュアたちの周囲には【獣王国・パシオン】の民たちが生活しているのだ。彼らはミュアたちを興味深そうに先程から見つめている。
「そうだね。ミミルちゃんは歌でみんなを安心させることができる」
「はい。だから歌います。戦場にも届くように、ミミルの歌を」
「うん! わたしも全力で戦うよ!」
ミュアは力強い真っ直ぐな瞳でミミルを見る。そして彼女もまた同じように見つめ返してくる。互いに頷き合うと、ミュアは少し名残惜しそうになりながらもその場から離れた。
まずミュアはララシークがいるはずの研究室へと足を運び、《転移石》をもらおうとした。
問題なく彼女に会ったが、やはり何故この場にミュアがいる理由を聞いてきた。時間もないのでざっくりと説明すると異世界に異常な興味を示していたが、彼女も事態の緊急度を把握しているようですぐに《転移石》を渡してくれた。
その《転移石》を使って戦場へと戻る。だがそこには驚くべき光景が広がっていた。
魔神と一体化したアヴォロスが、金色の毛色で覆われている巨大な狐と戦っていたのだ。
「おじさんっ!」
少し離れた場所で傷ついた兵士を介抱していたアノールドを発見。近づくとアノールドも「無事だったか、ミュア!」と抱きついてきた。
「うぷ! お、おじさん、あ、あの狐さんは何?」
アノールドはミュアから身体を放すと険しい顔を作り答える。
「ああ、ありゃ……」
「ととさん……だよ」
いつの間にか近くにやってきていたウィンカァ・ジオ。彼女のととさんということは、クゼルさんだということである。
「で、でも一体何であんなことに……?」
※
ミュアが戦場から《転移石》で消失した後、日色をこの場から消したアヴォロスに対して怒りに震えて行動を起こした人物がいた。それがウィンカァ・ジオだった。
「ヒイロを……返せ」
手に持った長槍――――――《万勝骨姫》をギリギリと握り締め、射殺さんばかりの視線をアヴォロスへにぶつけている。
「ふむ、クゼル・ジオの娘……貴様はヒイロの下僕と申しておったな」
「ヒイロはウイの王。ヒイロ、どこやった?」
「もうそんな奴はおらぬ。諦めろ。ここで貴様らの命も潰える」
ボボボウッと突如としてウィンカァの身体から凄まじい勢いで《赤気》が迸る。ズズズズとウィンカァの頭に獣耳、臀部からフサフサの尻尾が三本生える。
「《太赤纏》か……それに『金狐』のハーフ」
「よくもヒイロを……お前、許さない!」
怒りに身を任せているせいか、徐々に目が黒くなり、尻尾がドンドン増えていく。その姿を見たアノールドが、ハッとなり空を見上げる。そこには先程は雲に隠れていた月がその姿を現していた。日は沈み満月が大地を照らしている。
「ダ、ダメだウイッ!」
アノールドの脳裏に過ぎったのは過去の経験だろう。過去にもこんな満月の夜にウィンカァが暴走したことがある。
その時、アノールドは彼女に瀕死の状態にまであっさりと持っていかれたことを思い出し青ざめる。ああなったらウィンカァは敵味方関係なく襲い掛かってくるのだ。
しかしアノールドの声は届かず、ウィンカァの意識は怒りと憎しみで埋まっていく。
だがそこへ――――――ポン。
「……!?」
ウィンカァの頭の上にそっと温かい手が置かれる。
「お前はそこまで堕ちなくていいんですよ」
「とと……さん……?」
そこにいたのは優しげな笑みを浮かべたクゼル・ジオだった。
「お前の怒りは分かります。だがまだお前にはその力は早い」
「……で、でも」
「大丈夫。力の使い方を教えてあげます。お父さんを見ていなさい」
シュゥゥゥゥ……っとウィンカァを包んでいた《赤気》が鎮まっていき、元に戻っていくウィンカァ。だが獣耳と尻尾は生えたままだ。月のせいで獣人化してしまっている。
ウィンカァの一歩前に立ちアヴォロスを見つめるクゼル。そのままウィンカァに対して口を開く。
「いいですかウィンカァ、『金狐族』の戦い方、その眼で見ておくんですよ」
「ととさん……」
カツ、カツ、とゆっくりとアヴォロスへと近づいていくクゼル。誰もがその行動に意識を奪われている。
「ほう、クゼル・ジオ、今度は貴様か」
「ええ、若い子たちばかりに頑張らせるわけにはいかないみたいですから。それにあの子の……うちの娘の大切な人を奪った責任はとってもらいますよ?」
ギロリと鋭い目つきをアヴォロスへと向けた瞬間、ボボボンッと煙が彼の身体から迸り、その煙がドンドン広がっていく。
その煙の中から突然現れた巨大な尻尾に魔神と一体化したアヴォロスは吹き飛ばされてしまった。
「とと……さん……!」
ウィンカァだけでなく、その場にいた誰もが呆気にとられたようにいきなり出現した巨大な生物を見つめている。
金色の毛色に覆われていて、九本の巨大な尻尾を持つ狐。
「伝説の種族『金狐』。その中でも最高峰と言われた『九尾』――――――それが奴のことだ」
そう説明するのはリリィン・リ・レイシス・レッドローズである。
「ま、まさか生きておったとはな、あの《三大獣人種》が……しかも『九尾』」
同じ獣人であるレオウードも信じられないという面持ちで目を見開いている。
狐化したクゼルの姿は神々しい外見をしている。最も美しい毛色を持つ種族とされている『金狐』。その本来の姿を見た者は感動さえ覚えている。
クゼルは九本の尻尾をフリフリと動かすと、ボボボボウッと各々の尻尾の先から紅蓮の炎を生み出す。
「……《大狐火》」
尻尾から放たれた炎は物凄い熱量をもっており、地上にいる者たちも顔をしかめるほどの熱さを感じている。
アヴォロスの周囲を覆った九本の炎が瞬時にして彼の周囲を彼ごと燃やし尽くそうとする。だが魔神が大きな口を開けた瞬間、炎はその口へと吸い込まれて消失していく。
「……やはりそう簡単にはいきませんか」
「ククク、さすがは『九尾』。なかなかに熱かったぞ」
今度は魔神の三つの尻尾がクゼルに向かって放たれるが、クゼルも九本の尻尾を器用に動かして対応していく。尻尾同士が衝突する度に、ドゴッ、ドゴッ、ドゴッと激しい音が空気を震わせる。その衝撃波が大地を割り、地上にいる者たちを唖然とさせていく。
あまりにも規格外の戦いに下手に手が出せずに全員が見守ることしかできないのだ。
※
「そう……だったんだ」
ミュアは自分がいなくなった後のことをアノールドから聞き、あの巨大狐がクゼル、つまりはウィンカァの父親だということを理解した。
「で、でもすごいですねウイさん! お父さん強そうですよ! それにとってもカッコ良いです!」
「ん……ありがとミュア。だけどまたこうやって守られてる……悔しい」
あ、そうかとミュアは気軽に言葉を放ってしまったことを後悔する。ウィンカァの旅は父親であるクゼルを探すためのもの。そして長年鍛え上げたその実力は、クゼルを守るためのものだということを聞かされていた。
だが今、ウィンカァだけでなく全員がクゼルに守られているという形になっている。ウィンカァにしてみれば、悔しいことこの上ないはず。
「ごめんなさい……ウイさん」
「? ……何で謝るの?」
「だって……」
自分が力になりたいと思った人の力になれない無力感は、誰よりも分かっているミュア。だからこそ軽はずみの言動に自分を恨めしく思ったのだ。
するとポスッとウィンカァの手がミュアの頭の上に置かれる。
「え……ウイさん?」
「ミュアは、良い子良い子」
その手を動かしてナデナデ状態だ。
「えと……は、恥ずかしいですよウイさん」
「ウイはもっともっと強くなる」
「……?」
「ととさんが自分の戦いを見とけって言った。それはきっとウイがいつかこんな戦いができるから。だから今、ウイができるのはととさんの言う通り戦いを見ること」
彼女の心根の強さにミュアは感嘆する。どこまでも純粋で真っ直ぐで、羨ましいくらいに眩しく輝いているウィンカァに嫉妬してしまう。
「……ウイさんはほんとにすごいです」
「ううん、ミュアだってすごい。さっき、ヒイロを助けようとして一人で向かった。みんなができることじゃない」
さっきというのは《ボンドリング》を使って日色の傍まで転移した時のことだろう。
「でもすぐにやられちゃいました」
「……でもすごい。ミュア、強くなった」
「…………いっぱい修業しましたから。でもまだ届きません」
「ん……それはお互い一緒。だから頑張ろ。ヒイロの仇を討つ」
「あ、それですけど、ヒイロさんならきっと戻ってきます」
「お、おいどういうことだそれは!?」
ミュアの言葉を聞いて一早く言葉を発したのはリリィンだった。どうやら会話に耳を澄ませていたようだ。
「お嬢様、落ち着いて下さい」
「ええい! どういうことだ娘! 説明しろ!」
「えとえと……あぅ」
リリィンの剣幕に押され思わず言葉が出なくなってしまうミュア。リリィンが日色のことを大切に思っている仲間だということは先刻承知。故に彼女は怒っているわけではなく、ミュアの言葉に希望を感じて焦っているだけなのだ。
「あ、あのよおチビちゃん、今からミュアが説明すっから少し待って……」
「誰がおチビちゃんだ! 永遠に覚めない悪夢を見続けさせてやろうか?」
「す、すいませんでしたぁ……」
アノールドがミュアを擁護しようとしたが、リリィンの射抜くような眼力に気圧されてしまい身を引く。リリィンの背後にいるシウバは「申し訳ございません」と必死に頭を下げている。
そこへ説明を求めてカミュ、ヒメ、意識を失っているニッキを背負いつつ二人が近づいてきた。
ミュアは先程ミミルとともに日色と会話をしたことを教えると、リリィンは突然高笑いを始める。
「クハハハハハハハ! なるほど、さすがはワタシのしもべだ! 記憶を失ってもなおこの世界を求めるか! 面白い! 実に面白い奴だ!」
「ノフォフォ、よろしかったでございますねお嬢様」
「ククク、奴が本気になるのなら心配ないだろう。必ず奴は戻ってくる」
「ですがそのような方法はあるのでしょうか?」
「知るか。だが奴が戻ると意識しているのなら必ず戻ってくる。どんな方法? どうせいつものように予想外の方法で戻ってくるはずだ。ククク、これはいい。気分がノってきたぞ」
先程まで日色が消失して憂鬱な様子だったリリィンは愉快気な笑みを浮かべ楽しそうだ。
「おいシウバ、さっさと鬱陶しい黒衣どもを蹴散らすぞ」
「は? 何やらやる気でございますね?」
「当然だ。奴が帰ってくる時のお膳立てでもしてやろうではないか」
「ノフォフォフォフォ! さすがはお嬢様。それほどまでにヒイロ様に懸想なさっておられるとは、これは近々お嬢様の子供をこの腕で抱けることができそうでございますね」
「こ、こここここここ子供っ!? にゃ、にゃにを言ってるのだ貴様はっ!? ワ、ワタシがヒイロと……し、しもべとそそそそそのようなことをするわけがなかろうっ!」
「はて? そのようなこととは?」
何を想像したのかボフッと茹ダコのように真っ赤になるリリィン。そしてギロリとシウバを睨みつけると、彼の股間目掛けて細い足で力一杯蹴り上げた。
「はむぅぅぅうっ!?」
シウバはもちろんのこと、それを見ていたアノールドも股間を反射的に押さえてしまっている。カミュは平然としていたが……。
静かに大地に倒れて痙攣するシウバを放置し、リリィンはその場から去っていった。
(うん、今のはどう考えてもシウバさんが悪いと思うな……)
ミュアはよくこんな戦場でこんな和やかなムードを作れるなと思い、逆にシウバを感心すらする。
「でもあの鈍感眼鏡、さっさと戻ってくればいいものを。どこまで皆に心配かけるつもりなのよ」
ヒメが不機嫌面をしているが、そこへニッキが目を覚ます。ニッキにもヒメが日色のことを説明すると、アヴォロスに怒りを込めた視線をぶつける。
「ゆ、許さないですぞぉ……ボクの師匠をよくも……」
まだ本調子ではないのに、震える身体で向かおうとする。ヒメがコツンと彼女の頭を小突く。
「ふみゅ!? い、痛いですぞヒメ殿!?」
「痛くしてるのだから当然でしょ? あのねニッキ、あの鈍感眼鏡は帰ってくるのよ」
「……え? そうなのですかな?」
「はぁ、ちゃんと話を聞いてなかったのね……」
「う……すまないですぞ」
こんな時でもやはりニッキはニッキだった。
「ニッキちゃん、ヒイロさんは必ず戻ってくるよ! だからわたしたちは信じて待とうよ!」
「ミュア殿…………はいですぞ! 師匠の一番弟子として信じますぞ!」
「うん、みんなで待とう!」
「その話、ホントなんだな?」
「あ、テンさん!? 大丈夫なんですか?」
フラフラと猿の姿でやってきたテン。どうやら今まで気絶していて、ようやく目を覚ましたようだ。その手には日色の刀である《絶刀・ザンゲキ》が引きずられていた。
「そんなことよりミュア、アイツは戻ってくるって言ったんだな?」
「あ、はい。約束しました」
「……ウキキ、そうこなくっちゃよ。なら俺はそれまで身体を回復させるだけさ。悪いけどミュア、この刀を持っててくれっか?」
「え? いいんですか?」
「おうよ、俺も刀に入り込んで少し休む。あとは頼んだぜ」
そう言うと、テンが光の粒子に変化し刀に吸い込まれていった。
「あのお喋りザルが私に一言もなく休息に入るなんて、余程力を使ったみたいね。ニッキ、私も少し休息するから貴方もそうしなさい。カミュ、頼んだわね」
「うん、任せて」
ヒメもテン同様にニッキの持つリボンへと吸い込まれた。これで希望は繋がる。あとは自分たちのヒーローが戻ってくるのを待つだけだ。
(でもリリィンさんじゃないけど、ヒイロさんが戻ってくるまでできることはいっぱいある! 待ってますからね、ヒイロさん!)
ミュアはアノールドたちとともに、アヴォロスが生み出した黒衣を倒すべく向かって行った。
※
日色は翌日、向かうべき場所があった。それはあの奇妙な占い師のところだ。まだ記憶が戻ったというわけではないが、確実にあの占い師は何かを知っていると直感している。
名乗ってもいないのに日色の名前を知っていたこともそうだが、あの声――――――聞き覚えがある。きっとあの占い師に会えば道が開ける。そんな予感がするのだ。
朝起きた日色は施設で朝食を食べた後、自室へと戻った。本来なら今日は学校がある日。一応学生服を着込み外に出ようとして足を止める。
「おっと、忘れ物だな」
机の上に昨日から置いてある《ミサンガ》。どことなく淡い光を放っているような気がする。それを手に取り、右手にゆっくりと嵌めていく。すると頭の中がスパークしたような感覚が走り、一気に何かの記憶が流れてくる。
その情報量の多さに目眩と酷い頭痛が起きる。
「あ……がぁ……っ!?」
突然の現象に戸惑いを覚えながら、足元がふらつき部屋の壁にぶつかる。その間も、頭の中には……そう、自分が経験したはずの記憶が流れ込んでくる。
思わず頭を押さえて蹲るが―――――しばらくして徐々に頭痛が治まってくる。「はあはあはあ……」と乱れる息を整えながら、ゴクリと唾を嚥下して静かに立ち上がる。
「……ふぅ……そうか。……そうだったな」
先程の日色の瞳とはまた違った強い光を放っている。そう、全てを思い出した。
「オレは丘村日色でもあり、ヒイロ・オカムラでもあったな」
異世界である【イデア】に勇者四人に巻き込まれた存在として、ずっと旅をし続けていた。いろいろな出会いとともに好きなことをして生きてきた。
そしてそれはこれからも続くものだと安易に考えていたが、ひょんなことから英雄に祀り上げられ戦争にまで参加することになった。だが後悔はしない。それもすべては自分が選択した道だ。
誰に命令されたわけでもない。自分で考え、自分で選んだ結果。鍛えた強さも生き続けるために精進した結果だ。
これだけ異世界を生き抜くために頑張ったというのに、あっさりと奪われた。その奪った存在に対して怒りを覚える。
「あのテンプレ野郎……」
いや、ここで怒りをぶちまけても仕方がない。アヴォロスは日色に絶望を与えると言った。確かにこのまま異世界に帰れなかったら絶望を感じること間違いなしだ。
また退屈で刺激のない毎日を送るのかと思うとゾッとする。ここはここで、平和で良い世界だ。だがやはり一度【イデア】を体験してしまったらもう駄目だ。異世界の魅力には勝てない。
「オレは必ず戻ってやる。待ってろよテンプレ野郎、そのにやけた面をぶっ潰してやるからな!」
日色は再び踵を返して部屋から出ようとして、ふとまた立ち止まりまた机がある方向に若干身体ごと向ける。視線の先には両親の写真が置かれてある。
「…………楽しんでるよ。だから……心配するな。オレは……大丈夫だから」
微かに笑みを浮かべてそのまま部屋から出ていった。
「あらヒイロくん、今から学校行くの?」
施設長が声をかけてきた。その周りには子供たちが纏わりついている。日色はジッと彼女たちを見つめて、そして会釈程度に頭を下げる。
「世話になった。感謝してる」
「……え?」
「……元気でな」
「え、あ、はい。気をつけて行ってらっ……しゃい?」
施設長も子供たちも普段見せない日色の態度に戸惑いながらも送り出してくれた。
この施設には感謝している。両親が死んでからずっと世話になっていた場所。最初は確かに鬱陶しくて、人のプライバシーにズカズカと入り込んでくる奴らに厚かましさを感じていたが、それも今覚えばずいぶんと良い思い出になっている。
日色は施設から出ると、再度振り返りその眼に焼き付けるように施設を見回す。
「……じゃあな」
もう二度と帰ってくることはないだろうと感じて、日色は想いを込めて一言言葉に出した。
施設から出て歩き出した時、目の前に誰かが立ち塞がった。
「……お前」
「丘村……そう、やっぱりアンタも思い出したのね」
それは鈴宮千佳だった。彼女のその言葉で、彼女もまた異世界に行っていたことを思い出したようだ。
「さっきのじゃあなって、そういう意味でしょ?」
「……何のことだ?」
日色は無視して歩き出す。だがやはり彼女に前を塞がれる。
「おい、何の真似だ?」
不愉快気に彼女を睨みつけると、何故か頭を下げてきた。
「お願い! アンタ、アッチに戻るんでしょ! アタシも連れてって!」
「……!?」
まさかいつも日色にきつく当たっていた千佳が頭を下げるとは、日色にとっても意外なものだった。
「…………どうでもいいが、そっちの奴は何で頬が腫れてるんだ?」
千佳の傍に突っ立ている人物。それは間違いなく青山大志だ。だが何故か右頬が信じられないくらい腫れている。
「ああ、バカ大志のこと? コイツってばアッチに帰りたくないとか言うからぶん殴ったのよ」
「だ、だってしょうがないだろ! つうか何で千佳はあんな野蛮な世界に帰りたいんだよ! ちっとも良いことなんてなかったじゃないか!」
大志にとっては【イデア】はもう恐怖の対象でしかないのだろう。彼の歩んできた異世界人生を鑑みるとそう思っても仕方のないことかもしれないが。まあ、全てが自業自得でもある。
千佳は彼の胸倉を掴んで睨みつける。
「アンタまだそんなこと言ってんの! アッチには朱里やしのぶがいるんだよ!」
「い、いや、だから彼女たちはアッチの世界でも楽しく――――――」
バチィィィンッと乾いた音が大志の頬から鳴り響く。
「いい加減にしな大志! アタシやアンタが助かったのは誰のお蔭? 朱里たちが必死にアタシたちを助けてくれたお蔭じゃない!」
「そ、それは……」
「アンタがあの子たちを傷つけても、あの子たちはアンタが死にそうになっている時どうだった? 脇目も振らずに助けてくれたのよ!」
「う……」
「今度はアタシたちがあの子たちを助ける番でしょうがっ!」
大志は千佳の剣幕に押されて顔を俯かせて叱られた子供のように押し黙っている。何とも情けない姿だ。
「何でよ……何でそんなこと言うのよ……アタシたちは友達じゃない……何でなのよぉ……大志ぃ」
「ち、千佳……!」
千佳が涙を流して泣き始めたことで、大志はどうしていいか分からずに動揺しまくっている。
その時、日色は誰にも聞こえるような溜め息を一つ。
「おいダメ人間、お前にオレはもう何も言いたくない。だが女を泣かせてまだ答えを出さないっていうんなら、お前は最低のクズだ」
「丘……村……くっ」
「……オレはこれからアッチの世界に戻る。まあ、戻れる可能性があるかもってところだが、それでもオレはその可能性に賭ける。恐らくチャンスはこの一度きり。どうするかは勝手に決めろ」
日色はいつまでもグズグズとしている大志に不満を覚えながらも一瞥した後、その場から離れて行く。
「あ、待ちなさいよ丘村!」
千佳はやはりついてくるようで、日色の後を追おうとするが、不意に立ち止まって、涙顔のまま千佳は言葉を大志へとかける。
「大志……逃げてばっかりじゃダメなのよ。とんでもないことをしてしまったんなら、アタシなら償うために頑張る。絶対に逃げない。だから…………ううん、大志…………バイバイ」
悲しげに瞳を揺らして千佳は想いのすべてを断ち切るかのように視線を切った。離れて行く日色たちの後ろ姿を見ながら大志は拳を震わせて絞り出すように呟く。
「俺は……怖いんだよ……」
切ない彼の響きが風に乗っていた。
日色は後ろからついていくる千佳を無視して昨日買い物に出かけた商店街まで向かった。
「ねえ丘村! ホントに帰る目途があるの?」
千佳は信じられないといった感じで声をかけてくるが無視する。
「こらぁっ! 無視すんなっ!」
それでも日色が何も答えないので段々表情に焦りと怒りを見せてくる千佳。ザザッと日色の前に立つと、
「聞いてるでしょ! 答えなさいよ!」
「……はぁ、勝手についてきたのはお前だろ? それに答える義務なんてない」
「ああもう! 何でアンタはいっつもそうなのよ! あの時だってそう! 召喚された時、アンタだけ一人どっかへ行って、しかも気づけば『魔人族』の英雄とか言われて、何なのよアンタは!」
「何なのと言われてもな。オレは自分の好きなように生きてただけだ」
キッと千佳は日色を睨みつけるが、すぐに大きく溜め息を吐く。
「あ~あ、大志はあんなんになっちゃうし、朱里たちとは別れちゃうし、コイツは協力的じゃないし……もう何とかしてよ神様っ!」
天を仰ぎながら怒鳴る千佳だが、ここが商店街だということを忘れていないだろうか。通行人が「え? 痴話喧嘩?」や「朝から元気だね~」など口々に感想を述べる。
「どうでもいいが、そこをどけ」
「何よ! どこに行くかぐらい教えてくれてもいいじゃない!」
日色は黙って指を差す。それは千佳の後方、彼女も眉間にしわを寄せながら振り向く。そこには一人の占い師がいた。
「……アンタ、まさか占い師に異世界に戻る場所を聞くとか言わないわよね?」
「まったくもってその通りだが?」
「はぁぁぁぁぁ~……アンタ、占いで異世界の行き方を占えると思ってんの? ホント信じらんないわよそれ!」
「いいから黙ってろ」
「え、ちょ、待ちなさいよ!」
日色がズカズカと千佳の横を通り過ぎ占い師の方へと向かうと、千佳も仕方なくついてくる。
「……ふぇっへっへ、その顔、どうやら記憶が戻ったようじゃのう」
「その気味の悪いバアサン言葉を止めろ占い師」
「え? ちょ、どういうこと? 記憶って? この人誰なの?」
「ふ~ん、あなたも帰るつもり? あの戦場へ?」
「こ、声が変わった!?」
突然占い師の声が若い女性の声に変化したので千佳はあんぐりと口を開けている。すると占い師はバサッと着用している黒いローブを脱ぎ取った。
そこから現れたのは、ダークブルーの流れるような髪を腰まで伸ばした老若男女問わず見惚れるであろう美貌を備えている女性――――――マルキス・ブルーノートだった。
「占い師、幾つか聞きたいことがある」
「そう言うと思ったわ。でもまずは私についてきて。ここで話すのは目立つからね」
日色もまたその意見には賛同する。だから黙って彼女に従う。千佳だけは頭の上にハテナマークを幾つも浮かばせているが。
マルキスが背後にある狭い路地を入ろうとした時、ふと何かに気づいたように目を細める。
「……あの子はいいのかしら?」
目で促した場所を日色と千佳も見つめる。そこには電柱の陰からこちらをチラチラと覗く一人の人物がいた。その様子はまるで仲間外れにされたのを我慢できずに、ついてきてみたものの、勇気を出すことができずに遠くから見つめることしかできない子供そのものだ。
「た、大志……!?」
日色たちの視線に気がついたようで、慌ててその場から逃げようと試みる大志。その後を追う千佳。
「……今の内に帰るって手立てもあるが?」
「あら、日色は案外冷たいのね。もう少しだけ待ってあげましょうよ。人生は一度きりなんだから。後悔しない方が良いわ」
日色にとっては面倒な輩と一緒に行動したくないという思いがあるので、できれば千佳たちは放置しておきたいのだが、何分先手を取れない立場でもあるので渋々そこで待つことにする。
大志を捕まえた千佳は震える彼の腕をギュッと力強く握る。
「大志……アンタ、もう未練はないんじゃないの?」
「そ、それは……」
「……怖いんでしょ? 向こうに帰るの?」
「…………」
「自分がやってしまったことと向き合うのが怖い。そんなもんはね、アタシだって同じよ。状況に流されて【魔国・ハーオス】に攻め入ったことだってあったわ。アタシがアヴォロスに捕まったせいで、変なクローンとかも作られたし。それもこれもアッチのことを詳しく知ろうとしなかったアタシの罪よ」
ギリギリッと悔しげに歯を食い縛りながらも千佳は言う。
「でもね、アタシは救われた。朱里やしのぶたちに。それにアンタだってアタシのためを想ってくれたから、アヴォロスの下にいたんでしょ?」
「あ、ああ」
「アンタのやったことは、向こうの人たちからすればきっと赦されないことだと思う」
「はは、だろうな……」
力なく笑みを浮かべる大志。彼もまた自分のやったことがどれだけ大事なのか、冷静になってようやく気付いたようだ。
「でもね、どんな罪も償おうと思えばそれが第一歩になると思うの」
「ち、千佳……?」
千佳は大志の腕を強く引っ張り、彼を自分と正面に向き合わせる。
「アタシは償いたいと思ってる。確かに勝手な理由で向こうに召喚されたわよ。けど戦うって決めたのはアタシだもん。そんで間違ったのもアタシ。それなのに逃げ続けるなんておかしい。そんなのアタシじゃない!」
「強いよ……強過ぎるよ千佳は……」
「アタシがこう思えるのは朱里たちのお蔭よ。アンタ、知らないでしょうけど、あの子たちウ~ンと強くなってるわよ。前も言ったけど、アンタを救ったのもほとんどあの子たちよ。アタシは何とか手助けできただけ。いい大志? あの子たちがあんなに強くなったのはアタシたちを救うため。裏切ったはずのアンタを救うためなのよ!」
「っ!?」
「それなのにアンタはこのまま何もせずに生活できる? あの子たちのことを忘れて、あの世界で自分がしてしまったことを蔑ろにして生きていけるの?」
「だ、だけど俺は本当にとんでもないことを……」
「バカッ!」
またもバチンッと乾いた音が大志の頬から鳴り響く。
「とんでもないことしたって思うんなら償いなさい! それが人間でしょっ!」
「……赦してくれるのかな……」
「知らないわ。アッチの人たちのことだってアタシ、ほとんど知らないもん。だから失敗したの。だからこそ、今度こそ知る必要があるの! そしてそこで初めて償うことが始められるのよ!」
「千佳……」
「それに、朱里たちならきっと笑って赦してくれるわよ。まあ、ビンタ十発くらいは覚悟しなきゃいけないだろうけどさ」
「じゅ……ははは、そりゃ痛そうだ」
「そうよ! でも友達よ!」
「友達…………そうだよな。それなのに俺は裏切ってしまった」
「でも赦し合える。アタシたちの絆はそんだけ強いの。まだ分かってなかったの?」
確かにもし、日色が裏切られた立場にいるとしたら決して赦しはしないし、心も開かないだろう。しかし朱里たちはそれでも彼を助けるために動いた。命を懸けた。そこには打算など何もない。ただ友達だから、大切だからという理由だけがあった。
それが本当の絆。アッチの世界で暮らしたお蔭で、日色も絆の強さというものを少しだけ理解している。本物の絆は何があっても切れない。
その絆のお蔭で、日色はまだこうしてここに立てているのだ。日色は視線を右腕に嵌めている《ボンドリング》へと落とす。これが絆の証。
「もし本当に、あの子たちがアンタを見限ってたなら絶対に助けたりなんかしないわ。裏切ったアンタを、それでもあの子たちは赦したいと思ってくれているのよ!」
「こんな俺を……? 何でそこまで……俺が何をしたのか知ってるはずなのに!」
ここが公共の場だということも関係なく大志は涙を流しながら声を張る。そんな彼の腕をそっと放した千佳。
「……これが最後のチャンスよ。もうアタシも止めない。ここでアンタがここに残るってんなら、そこでアンタとの絆を断ち切らせてもらうわ。もしここに戻ってこれても、アタシはアンタに近づくことはないわ」
「千佳……何でお前は怖くないんだ……?」
「今のアンタの気持ち、ホントのところ全部分かってなんかいないわ。だってアンタは一人で戦おうとしてたんだし、それを支えることもできなかったアタシだもん」
「…………」
「でもね、選ぶしかないのよ。甘えないで大志。アタシももうアンタに甘えない。甘やかさない。ここで決めなさい! 行くのか……退くのかを」
真っ直ぐに大志の顔を見つめる千佳だが、大志は顔を俯かせたままだ。昨日から寝ていないのだろうか、目の下には隈が見える。もしかしたら彼は千佳よりも記憶が早く戻っていたのかもしれない。ずっと夜中の間、悩み続けていたのかのかもしれない。
大志はギュッと両拳を握りしめて、強く瞼を閉じて身体を小刻みに振るわせる。それは恐怖で震えているのか、それとも悔恨で震えているのかは分からない。ただ激しく何かと戦っている様子は理解できる。
その時、二人を見守っていたマルキスが日色に対して、
「ねえヒイロ、あの子はどんな選択をすると思う?」
「まったくもって興味がない」
「あら、同郷のよしみとかはないのかしら?」
「あるか。アイツらとは会話したことも数回ほどだ。思い入れもなにもない。それに、どんな選択をしようがアイツらの勝手だ」
「案外冷たいのね。ううん、ドライとでも言うべきなのでしょうね」
「そんなことより、お前はどうやってここへ来た?」
「ああ、私はランコニスに力を貸してもらって、アヴォロスに見つからないように魔方陣に近づいて、発動の瞬間に飛び込んだのよ」
「なるほどな。アイツの魔法ならではの方法というわけか。それにしても、何故昨日もっと話しかけなかった? そうすれば記憶だって早くに戻った可能性が高い」
「……もし、ヒイロが思い出さないままなら、このまま放置しようと思ってたわ」
「何?」
聞き捨てならない言葉が耳に入り眉間にしわを寄せる。
「この世界にいれば、少なくともヒイロが殺されることはないわ。あなたにとっては安全だもの」
「まあ、平和だしなここは」
「そう、だから思い出さないままなら、あなたには静かにここで暮らした方が幸せだと思ったのよ」
「…………」
「でもね、もしあなたが記憶を戻し、そしてその上であの世界を目指すのなら、私も覚悟を決めようと思ったの」
「覚悟……?」
何の覚悟なのか気になり問い質そうとしたが、大志たちに動きがあったようで、マルキスがそちらに注目し始めたので、日色もそれに倣って彼らを見つめることにした。
「俺も……償えると思うか?」
「やってやれないことはないと思うわ。そうでしょ丘村!」
何故か日色に同意を求めてくる千佳。マルキスが「答えてあげたら?」というような顔をしてくるので、面倒だと思いつつも溜め息交じりに答える。
「知るか。そもそも赦してもらおうと思っていることがすでにダメだろう」
「な、何でよ!」
「償いってのは見返りを求めるってことか?」
「……!?」
「違うだろ? 自分の背負った罪の重さを認識し、人に、国に、世界に少しずつ贖っていく。それが償いってことだろ? そこに見返りなど求めるもんじゃない。たとえ誰にも赦されなくとも、真っ直ぐ償うという思いを貫く。それがホントの意味での償うってことだ」
日色の言葉に衝撃を受けたかのように二人は顔を伏せる。その中で千佳が肩を竦めながら「あ~あ」と口火を切る。
「まったく、ホント反論のしようがないわよ。相変わらず口だけは達者よねアンタは」
「お、おい千佳、それは言い過ぎじゃ」
「何よ大志、文句あんの?」
「う……いいえ」
物凄く立場の弱い大志はすぐさま目線を逸らした。
「でも……ありがと丘村」
「はあ? 何で感謝なんかする?」
「べ、別にいいでしょ! な、何かしたくなったのよ!」
「…………病院はこの商店街を抜けて右だぞ」
「知ってるわよそんなこと! ってああ違う!? し、しかもあそこは精神科の病院じゃないのよっ! アタシは正気なんだからねっ!」
「黙れ。さっきから怒鳴り過ぎだ。ここは往来だぞ」
「アンタがさせてんでしょうがっ!」
「ま、まあ落ち着けよ千佳」
「アンタは黙ってる!」
「は、はいィィッ!」
綺麗に気をつけの姿勢を保つ大志。上司と部下の構図が明確にできている。
「ハハハハハハハ、まったく面白いわねあなたたちは!」
突如笑い出したマルキスに全員が注視する。ひとしきり笑った後、穏やかな笑みを浮かべたままマルキスは三人の顔を見回す。
「……覚悟はいいのね? 向こうに戻ると後悔するかもしれないわよ?」
「アタシはすでに戻ってきて後悔してるわ!」
そして大志は……。
「……俺も、少しだけ勇気を出すことにする」
そんな彼の決断にマルキスが綺麗な笑みを浮かべる。
「そ、……ヒイロは?」
「愚問だな。あのテンプレ魔王に好き勝手させるつもりはない」
「……ふふ、分かったわ。ではついてきて。私が示してあげるわ。異世界への道を」