02
最後に、恐ろしい大風が逆巻いたのを記憶している。
あの日、絶望に等しい、果てしない悲しみが、直後に世界を覆った。
大地がねじれて、滑り落ちて、愛する人たちを、深い水底に連れて行ってしまった。
それは、僕とキエルだけに降りかかった災厄ではなくて、まさに今あるわずかな人々を残して、それ以外には等しく、夥しい数に覆い被さった。
大地の変動に伴い、国がもとの美しい地形を留めていない。
あの日から、世界が変わった。
あの日までの日常、当たり前が当り前ではなくなり、そばにいる人々が変わり、生活が変わった。
環境が変わったことを、現実として受け入れられたのは、果てしない悲しみの隙間に顔を上げる余裕が生じた頃だった。
キャンプでこの高原に滞在していた僕らの学年は、幸いにも低地の崩壊に巻き込まれることから逃れることができた。後に人伝に聞いた話は、にわかに信じ難かった。確かめに麓に降りようにも、国道の途中までが、すでに水没していた。
それから、弱冠水が引いて、街があった際まで降りられるようになったものの、はるか遠くにあったはずの海原がなぜか一帯を治めていた。避暑で賑わうタルク高原が広がる僕の生まれた町は、海からはほど遠い山間にあった。陸地の多くが、海に還っていったかのようだ。
一望できるそこは、かつての見晴らしの丘。しかし今は、人々が想いをはせる祈りの浜辺。僕も友人も、訪れる多くの人が、そこに立ち家族の安否を願い、ひたすら祈りながら連絡を待った。しかし、連れて行かれた人たちに、逢うことは二度となかった。
水の世界と、陸の世界。世界は二つに分けられ、互いに行き来できないように隔てられてしまった。父も母も弟も、それからもっと多くの人々も、きっとその水の世界にいるんだと、思いがよぎった。
そんな頃に、キエルと出会った。
いつも一人で浜辺にうずくまって、「夜明け鳥」を囁く声で歌っていた。深い悲しみを落とした瞳。僕は、弟の姿と重ねてしまったせいか、思わず声をかけずにはいられなかった。
「その歌、僕も知っているよ」
すると、キエルは恥ずかしがってうつむいて、歌うのを止めてしまった。
「夜が明けたことを、一番に伝えてまわる鳥。みんな、起きてよって。本当は、暗闇が怖い、さみしがり屋の鳥の歌、だよね」
泣いてしまったのか。
「みんな、いなくなった……」
「うん。離れているけど、向こう側にいるんだ」
「海の中の国に、行っちゃったんだね……」
まだ6歳だったキエルには、当然受け入れられない現実だった。キエルに限らず、あの当時の世界を覆った不安と閉塞感は果てしなく広がるようで、どこに行っても逃れられなかった。
そんな時、互いに身を寄せ合ってようやく心細くなくなるくらいしか術はなくて、僕はキエルとなるべくいっしょに居るようにした。あの日まで、長く入院していた、弟を思い出しながら。
悲しみが、連鎖する。
皆、横並びに水際に立っては、幾日も途方に暮れていた。
そこから大事な人を引き上げようもないことを皆わかっていても、水が透き通ってきた頃になっても、かつての姿を想い、遠く呼び掛けた。叫んだ。泣いた。祈った。
僕とキエルも、その場に臨んだとき、同じようにしていた。だが、やがてある時から、そうする人々の背中を黙って眺めているようになった。
「風が、声を運んでくれなくなったね……」
ぽつりと、キエルがそうつぶやいた。
気が付いたら、この地に、あれ以来、風が起きることがなくなっていた。
「キエルは、もう、ここで歌わないのかい」
「うん。いいんだ。あの頃は、誰かにさみしいことを気付いてもらいたかっただけだから。ただ、今は、鳥みたいに、あの向こうまで飛んで行ってみたい」
声を枯らして歌ったとしても、沖の向こうまで届ける術はない。ましてや、水底にも、水平線の彼方にも。風が途絶えてしまっては、乗せてやる歌も無く、届くはずの音も感じ取れない。
あとは、こちらから近寄るほかはない。その身を移して、直に届けるほかない。
うつむいてばかりだったキエルが、変わってきたことをときどき感じていた。
時は確かに流れていて、きっと皆の心に何かしら作用している。この土地に遺された、多くの人が抱える喪失感は、時間をかけて、さらに加えて、誰かの、何かからの力によって、心の中から軽くなっていく。少しでも、心からそんな枷が外されていくことで、ゆっくりと前に向かって進む気力を生んでいる。
忘れることはない。しかし、背負っていくにもほんとうに重すぎて。
前に歩を進めるために、ささやかでも、希望となる導がほしい。僕はそんなことも感じ始めていた。
「まったくかなわねぇな。この時期になっても暑い。年々涼しくなる時期は短くなってる気がするな」
「ああ。このところバテ気味だ。作物はいろいろとよく育つようになってきてるが、肝心の働き手が足りねぇ」
「昔は高原で避暑地だったからねぇ。あの金持ちの連中は、いまだにこういう作業しないよなぁ」
「あいつらな。くそ。学があることいいことに、こどもたち囲いやがって。気にいらねぇな」
「じきに、ニセルファに移る気でいるんだろ。あそこだって、今じゃボロボロだろうに。昔の生活が忘れられないんだな。ちっ、気楽なもんだ」
気候が経年で少しずつ変化していく。まだ、ズレへの修正が効いていないのかもしれない。
かつて高原だった冷涼な気候は、僕らがキャンプで訪れた時期のものとは異なり、最近では一年を通じて暑い日々が続く。寒い時期となったあたりでも、もはや、さらに標高の高い山脈の頂くらいにしか、雪を望むことが出来ない。
しかし、作物などは一年を通じて二度収穫の時期を迎える品種もあり、栽培できる種類も圧倒的に増えた。植生が変わってきている地域もある。さらにいえば、海からの恵みも近くなった。食料については、原始的ながら不自由はしない状況だった。
知恵ある者に従い、大人もこどもも共に働くことを要に、昔ながらの結束が暗黙のルールとして敷かれていた。
やがて、新たなコミュニティを構築し始める。生きていくための、自然の流れだった。そして、それらを結ぶネットワークも復旧していき、より遠方の生存者と連絡が取れるようになり、決して取り残されたわけではないことがわかった時、心底絶望から立ち帰ることができた。
そう、世界は、終わっていなかった。
ラル・カサンドラの活況や、中枢都市だったニセルファの機能、この国にいくつか点在する生存の証は、それぞれで力強く発信し始め、つながりを回復してきていた。今となっては簡単に行き来を出来ないが、人と人との絆が再び通い始めていた。
そんな中。不協和音は、こんな状況下でも生じていた。土地にもともとあった者たちと、やむなく取り残された者たち。はじめこそ、身を寄せ合って、ひもじさに耐えて、共に乗り越えるという意志が通っていた。日が経つにつれ、もともと孕んでいた、出身の違いや生活の度合いに介在する温度差が目立つようになり、小さく軋み始めてきたのは実にこの頃のことだった。
このタルク高原付近にもともとから住まいしていた者たちは、避暑に訪れていた金持ちたちを今では「別荘族」とあだ名し、また、その「別荘族」である金持ちたちは地元の者たちを「タルクの人」と、なんとなく区分けして呼ぶようになっていた。互いに、表立っては波風立てぬよう、大人しく振る舞ってはいるが、腰を据えて付き合う気風はなくなっていた。
僕たちこどもにとって、それは居心地が悪いことでもあり、なぜ起こりうるのかが理解できず、見て見ぬふりをする事態ではあった。
趨勢は、もとから高原に居た者たちが占めるわけで、数からいけばそちらの理屈に従わなくてはならない気もする。だけど、僕たちは、金持ちたちがそれでもいろんな話を聞かせてくれることや、この辺では見かけない機器を所有していることに興味があった。学校、畑仕事、そしてそればかりではない情報、すべてはつながったひとつの僕らの生活だから。
生活が変わった中でも、こどもである僕たちがいち早く順応していったと思う。
それというのも、その裏で大人たちがいろいろ骨を折って、また鬩ぎ合って必死だったからだろう。ほんの少し成長して振り返ると、そう思えるくらいにはなっていた。
学校では、夏期の休みを終えて、それぞれが持ち場の仕事や手伝いから戻ってきている。もちろん、僕とキエルも休みの間会えなかった仲間との、久しぶりの笑顔に喜んだ。
「エイミル。ひさしぶりだね」
僕は、テラスで見かけた女の子の後姿に声をかけた。
艶黒の長い髪。夏のひと時を経ても、決して焼けない白い肌とのコントラスト。
「あら、ルゥファース。キエルも。おひさしぶりね」
別荘族である彼女は、品の良いそのままの出で立ちでいるものの、珍しく僕らタルクによく溶け込んでくる。
「どうだった、ニセルファに行ってきたんだろう? むこうの話を聞かせてよ」
「いいわ。ね。次が始まるまで、あそこに掛けて涼みましょうよ」
大きな木陰をつくる、この学校の中庭にある大樹。その下のベンチに三人腰かける。
エイミルを真ん中に、僕とキエル。エイミルは僕と同年だけど、だいぶ大人びている。そして、キエルも姉のように慕うほどで、お互い心の繊細さは似通っているんだろう。
「驚いたわ。ほとんどの地区が大地の隆起によって、昔より高い場所に点在するみたいになっていたの。でも、復旧が早かったのね。もう、中心部ではかつてのような活気が取り戻されていたわ。地形に合わせて、新しい都市計画が進められて、見たことも無い建物がいくつか出来上がっていた」
「この高原より高い場所に、ということ?」
「そうね。おそらく。お父さんが言うには、そのことで幸いにもニセルファは海にならなかった。そして、ルゥファース、あなたも高原の外を見てきたわよね。カサンドラも同じ感じなんですって?」
「そうだった。ただ、カサンドラは、やはりすぐそばまで海が迫ってる。港町のままというのは変わってなかった気がしたよ」
「そう。ニセルファは、すごく坂の多い街並みに変わってしまったの。どこいくのにも山登りしているみたいね。そうして、一番標高が高い地区に行くと、広大な海が見渡せるみたいなの」
「そうすると、ニセルファのまわりには、大きな水道が出来たのかい?」
「以前より複雑な地形になったみたいだと、お父さんが言ってたわ。本当に、海があちこちに手を伸ばしたような」
まだ、完全に国土の変化を記録できないでいた。細部まで把握するには相当年数がかかるほど、激しく変形しているんだろう。いや、そうするための機能が、働いていないのかもしれない。いまだに国をまとめる機関は、かつてのように統べることが不可能のようだった。噂に聞けば、ニセルファといえども、統制の利かない危険な地区が一部みられるようだとも。そういった不安が、大人たちを疑心暗鬼にさせてもいた。
「そういえば、あなたたち、海竜が目の前に現れたって。みんなが見たいって話してるわね。どうだったの?」
「そうそう。あれは、見事な成竜だったよ。ねぇ、キエル」
「うん。白く輝いていて。しばらくぼくとにいちゃんの前でおとなしくしていたんだ。灯台みたいに大きいのに、優しい目をしていて。ぼく、やっぱり海竜が歌を唄うというのは本当だと思う。ソウラスを見て、確信したんだ。優しい生き物だよ」
「ソウラス?」
「うん。その海竜に、勝手に名前をつけちゃったんだよ。ふふ」
「いいわね。わたしも、見てみたい。会ってみたいな」
「ぼく、また、祈りの浜辺でソウラスを呼んでみるよ。おねえちゃんに紹介する」
キエルの根拠の無い自信に少し戸惑う僕だけど、エイミルが素直に喜んでいるのを見て、ほほえましくも思えた。
「あとで渡そうと思うんだけど、二人にお土産を買ってきたの。楽しみにしていてね」
「おねえちゃん、ありがとう」
キエルの顔がほころんだ。
一部の大人の事情はあるのだろうけれど、僕らはこどもだからと、変な垣根を拵えることや詮索はしないつもりだ。少なくとも、僕とキエルと、エイミルの間には。
<つづく>