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凪の国  作者: 木場 新
1/2

01

 晴天の今日は、いつもと変わらず、風が起こらない。

 そう、風。

 ここには、何かを遠くから運んでくる気配すらなくて、匂いもなくて、遠くへ届ける術もない。

 多くのものが失われた、深い哀しみを堪たえている。

 あれから。

 長い年月が経って、僕はここを出ていく決心が、ようやくついた。

 しばらくぶりに、キエルとともに浜に出た。

 僕より、まだ5つ若い男の子。ゆるく長い飴色の髪の毛は、柔らかく長く伸びている。その髪の毛が、いっこうに、風になびいた様を見たことがない。人見知りで、いまでもときどき遠い眼をしている。その瞳は、暗く青く沈む、まるで淵の底みたいだ。

 あの日以来、僕とキエルとは、互いに身寄りがない者同士、兄弟のように過ごしてきた。

この浜にも、何度二人で足を運んだだろうか。

 探しても探しても見つからなくて、途方に暮れて。背中を向けて、涙を押し殺して、何度も僕らは家族のことを思って、泣いた。

 重ねた年齢の多寡に関わらず、心の重責は成長とは比例しないものだ。個々に抱える事情。想い。いっしょくたにできないものを、近似者ですり合わせて歩み寄っていく。それは哀しみという大きな共通項を抱えたままに、そこから這い上がるか、留まるかの選択を後に迫る。

「キエル、僕はラル・カサンドラに行って、船を造る。大きな造船所で、働けることになったんだ。来月には、ここを出て行くよ」

「そう……」

 キエルはしゃがんだまま、水平線を眺めているのだろうか。だいぶ伸ばしたままの髪が、眼前を覆っていて、このところ表情が読みにくい。声も、幾分上の空だ。

「カサンドラの街は、すごくにぎやかになっていたよ。大人がいっぱい集まっていた。昔は、鉄鋼の港として栄えていたんだけど、そうだな、あの頃、うろ覚えだけどフラウ・トロールが盛んだったんだよ。大男たちが、ボートに乗って旗のついた浮を奪い合う勇壮さ。キエルは、きっと見たことがないだろうけれど。それが、あの港町の男たちの誇りだったこと、覚えている」

「へぇ……そんなことがあったんだね」

 ちゃぷ。ちゃぷ。

 さざ波が、風がなくとも、寄せては返す、海岸線。

 かつて、この場所は、僕が通った小学校だった。

 2年3年と経過していくうちに、自然と砂が寄せられて、小さな狭い浜辺になった。地盤沈下の浜辺。

 遠浅の先には、馴染みのある遺構が沈んでいる。

 遺産海岸。

「ルゥにいちゃん、もう、戻ってこないの? カサンドラの人になっちゃうのかよ」

キエルは、まっすぐ水平線の向こうを見据えたまま、責めるような口調で問いかけた。

「どうだろう。僕は……」

 言いかけたそのとき、間近で、大きな飛沫が上がった。豪快な音が響いて、僕は言葉を失い、キエルとともに天高く吹きあがる水柱の先を見つめた。

 シュルシュルシュルと、伸びやかな音に変わると、水柱は高さを縮めていき、やがて海面がわずかに盛り上がってくる。水飛沫は、浜に居る僕らにも細かく降り注ぐほどで、うっすら虹を拵えて見せていた。そこへ。

「見て、キエル。海竜だ」

 かつては船乗りの間で噂されているだけだった、幻の白く美しい海獣。その巨体はゆうに大型船をも凌駕するのだという。海面から突き出された長い首は、まるで海上に出現した灯台のようだ。

「すごいな。こんな間近にまで来るなんて。いつもは、あの水平線のあたりに見かける程度だったのにね。すごいね、にいちゃん」

 キエルが珍しく、恐れるでもなく、はしゃいでいる。そうか、いつも水平線にいる彼らの姿を探していたのか。

 海竜は、あのとき以来、頻繁に見かけられるようになり、もはや僕らにとっては伝説の生き物ではなくなっていた。しかし、ここまで接近して遭遇すると、唖然とする。

「大きい……。僕らの方を見ているのかな。でも、おとなしいんだな、キミは」

 僕は、かなりの興奮とわずかな恐怖で、体が震えていたかもしれない。しかしながら、目の前の巨体の神々しさに目を奪われる。白く長い首。鯨のような体の表面から、滴がしたたる。触角なのか、水の中にまでつながって伸びている髭状のものが、鰐の口先みたいなその脇から二本。決して凶暴そうに見えない大きな口に、恐らく歯は生えていないのか。そして、黒く透明な玉のような目。それらが、浜辺の僕らと対峙している。

「やあ、なんだい。ようこそ、僕らの浜へ」

 キエルは新しい友達を迎えるかのように、いつになく弾んだ声を上げた。

 いつだったか、海竜の鳴き声を聞いたことがあった。はるか遠くから、こちらを呼ぶような「おうい」という人の声に似ていた。浜に立って、はじめてその声を聞いた時、はるか沖あいに船が来たものだとばかり思っていた。いや、人の声にしては、重く響くようで、男のものとも女のものとも区別がつかない。いったいなんだろうと沖に目を凝らしてみると、白く長い海竜の首が数本認められた。彼らは呼びかけ逢っては、戯れているように見えた。

 何年もの間、凪いだままの海域に響き渡る音。風を生みそうな気配。波音とともになって、こだまする。僕には、特別なものに感じられた。静謐を侵さない、神々しい所作のよう。

 目の前の海竜は、キエルの呼びかけに応えるのだろうか。口を少し開けてはいるが。

呼吸音が、いまは響いている。

「きみらは、海の国から来たんだろ? 向こうの様子を教えてよ」

 キエルはよく、「海の国」という言い方をする。そうだな、誰ももはや潜ってまで探そうとしない、あそこは静謐なる棺なのだと、今では僕もそのように感じていた。でも、キエルはずっと、海の国があって、いなくなったみんなはそっち側で暮らしていると考えているんだ。海竜だけが、僕らとその海の国をつないでくれる役目を担っている。そんなところなのか。

 海竜は小さくいなないたのだろうか、それからうなずいたようにも見えたその頭を軽く左右に振って滴を払う。海竜は、当然なにも語らない。

「キミは、ひとりだけかい? こんなに近くに来てくれるなんて」

「そうだ、今日からともだちだ、ぼくら。ぼくは、キエル」

「僕は、ルゥファース。よろしくね」

 こうやって、海との架け橋ができると、いいかもしれない。なによりも、あの海竜が導いてくれるとなると、心が躍る。仲間にも伝えたら、驚くに違いない。

「おい、大丈夫か。早く、離れろ」

 僕らの背後から、大人が数人駆け寄ってきた。ミツハ先生たちだ。

「海竜じゃないか! こっちにあがってくる気か」

「でかいな。おい、おまえたち、早く逃げなさい」

 大人の判断。目の前の異形は、害をもたらすもの。子どもを前にして、守る姿勢をとる。

海竜はその様子を一瞥すると、恐れたわけでもなく、その首を悠々と水の中へ沈めていきながら後退していった。あっという間に、沖へと姿を消した。

 キエルは振り返ると、ミツハ先生たちに向かって怒りを露わにした。

「海竜は凶暴な生き物じゃない!」

 こどもの癇癪と思ったのか、大人たちはそれほどむきになったキエルにとりあわず、ただ口々に海竜がすごく大きいだの、はじめて近くで見ただの、さっきまで僕が思っていた感想そのままを言い合っている。

「キエル、みんな心配してるんだよ。みんなも初めて海竜を間近で見たから。それよりも、きみらがもっと海竜の近くにいたから、あわてたんだ」

 僕らの学校のミツハ先生が、大人を代表して釈明している。キエルも先生に諭されては、むくれながらも黙るほかない。せっかくの海竜と触れ合う時間が、あっという間に終了させられた。大人とこどもでは立場が違うし、加えて感性も個々で異なる。キエルの直感では、あの海竜は人懐っこいものだと感じていたのだろう。未知なるものとの交流には、こどもの方が寛容で恐れが無いこともある。

「わたしたちは、まだ海竜についてよく知らないんだ。かれらが大人しい生き物なのか、利口な生き物なのか。なんとなくこれまで聞いてきたことでは、あまり恐ろしい生き物ではないらしいけれど。ごめんな。先生も勉強してなかったからな」

 ミツハ先生はいつも最後にはやさしく笑ってくれる。学校のみんなが、たぶん校長先生よりも好きで、大人の中では一番有名なんだと思う。

「ルゥファース、きみがいっしょに付いていてくれたのか」

「はい。僕も、あまり恐ろしさを感じなかったもので、ついキエルといっしょに逃げることを忘れてしまって」

「そうか。……海竜はそんなに大人しいものなのか。また、見かけたら、教えてくれ。先生も近くで見て、勉強しないといけない」

 あれ以降、頻繁に見られる海竜については、彼らが地殻変動を引き起こした原因ではないかとの噂が流れたこともあった。大人の中には、だから海竜に良いイメージをもつ者は少ない。その割には、誰一人、海洋に調査に出ることはなく、未知の生き物であるということばかりが不安な要素を事あるごとに生みだしてしまっている。

 海竜の出現。これは何を意味しているのだろうか。

「ひょっとして、キエルの歌を聴きたくなったんじゃないか」

「うそ。そんなわけないよ。からかわないでよ」

「名前を聞かなかったね。勝手に名付けて、呼んじゃおうか」

「……ソウラス」

「ソウラス?」

「いいよ、にいちゃんが決めても」

「いや、ソウラスにしよう」

「また、来てくれるかな」

 案外、人の歌声に反応するのかもしれない。

 海竜の歌。海竜は水底では歌を歌っていると、これも昔、船乗りの連中が言っていた。

キエルが誰かを呼ぶように、海に向かって小さく歌っていた頃。悲しみが滞留して、みんなの足を浜につなぎとめていた頃。水際では、望みをそこから掴もうか、落とし入れようか、ひどく錯乱した思いの人であふれていた。

 そんな様子を、海竜の群れは洋上から見ていたのかもしれない。




 <つづく>

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