ただ気に食わぬ運命を
ベッドの上。目の前に映るのは、大宇宙――が描かれた、大きなポスター。見慣れた天井はすっかりどこかへ消えてしまった。
カーペットの上には、練炭。机の上には、遺書。隙間という隙間に、入念にガムテープを貼った。
これで、完璧。
これで、万全。
後は、その時を待つだけ。待ちに待ったその時。終わりの時。解放の時。
今世の業など関係ない。“今”から逃げられれば、それでよかった。来世の俺、頑張れ。すまない。でも、辛かったんだ。
こんな選択肢しかないのは、非常に気に食わないが、それでも、仕方なかった。でも、気に食わない。
そんな事を思っているうちに、段々と、眠くなってきた。
ゆっくり、ゆっくり、瞼を閉じていく。その先に見えるのは、永遠の、闇。光じゃないのは気に食わないが、人間の構造上仕方のないことだ。でも、気に食わない。
ああ、眠い、眠い、眠い――――
若干の吐き気と頭痛を感じながら、どんどん、落ちていく、落ちていく。
あ、そういえば。
一つだけ忘れてた。
これは、夢だ。
***
乱暴に鳴らされたインターホンの音が、俺を叩き起こした。
気に食わない。こっちは寝ているのだから、もっと静かに押すべきだ。というか、もっとエレガントな音が鳴るべきだ。
……おっと、いけない。
頭を振って、寝起きのイライラを吹き飛ばす。そこにもう一度、急かすようなインターホンの音。
「はいはーい、今開けまーす」
ベッドから降り、寝ぼけ眼を擦りながら、俺は玄関へと向かっていく。
なにか夢を見ていたが、インターホンの音でどこかへと吹き飛んでしまったようで、何も覚えていない。なんだか、非常に気に食わない夢だった気がする。
だが、そんな気に食わない思いをするのも、今日で最後。そう思うと、少しだけ気分が良い。
「〇○急便です、お荷物お届けに参りました」
ドアを開けると、爽やかな笑顔をした青年が現れ、俺の名前を確認する。それに俺は「はい、合ってます」と答えてから、判子を押す。そして、先日通販で購入した物を、受け取った。
「ありがとうございましたー」
大きなお辞儀をしてから、青年は小走りで去っていった。
さて、これで全て揃った。
今受け取った荷物――練炭と、そして、大宇宙が描かれた大きなポスター。
机の上には既に遺書を置いたし、身辺整理も充分に済ませた。隙間を埋めるガムテープも準備してある。
そう。俺は今日、この部屋で死ぬ。
死因は、一酸化炭素中毒。
俗に言う、練炭自殺というやつをしようと思う。
死という手段しか残されていないのは非常に気に食わないことだが、仕方がない。仕方がないからこそ、余計に気に食わない。
イライラを我慢しながら、俺はまずポスターを開封し、ベッドの上に乗る。この見慣れきったつまらない柄の天井に貼るためだ。
死というものは一生に一度きりなのだから、この見慣れた天井を最後に見た光景にするのは、かなり気に食わない。だから俺は、この美しい、壮大な、素晴らしい大宇宙を見ながら死にたいと思う。
ゆっくりと、丁寧に。綺麗に、美しく。
数分の作業ののち、俺は天井に大宇宙を築き終えた。多大な満足感。嗚呼、死を迎えるのに相応しい部屋だ。うん、本当に素晴らしい。良い気分だ。
次に俺は、部屋中の隙間をガムテープで埋めた。簡単な作業。これも数分で終わった。
そして、最後に練炭。
これで、やっと終わる。幕が閉じる。例え再び幕が開いたところで、もうそこは“今”じゃない。ようやく、俺は逃げ切れる。
嬉々として俺は練炭を燃やし、仰向けになってベッドに寝る。目の前に広がる大宇宙。美しく、壮大で、素晴らしい。
……あれ?
ふと、俺は思い出す。
同じ光景を、今日、夢で見た。
そう気付くと、なんだか無性に気に食わなくなってきた。
確かに、この自殺についての計画は前からしていたことだ。だから夢として見ても不自然ではない。けれども、俺が夢で見たのは、全く同じ光景。
それじゃあまるで俺の自殺が最初から決まっていたこと――運命みたいじゃないか。
それは、気に食わない。
そんな運命なんて、俺は認めない。
「ああ、やめだやめ」
俺はそう言ってから勢い良く立ち上がり、ガムテープを剥がしてから、部屋のドアを思い切り開いた。
そのまま玄関へと突き進み、部屋と同じ要領でドアを激しく開いた。
外はとても明るかった。
それもなんだか気に食わなかった。
***
俺は早足で街中を歩き回っている。
練炭自殺はやめた。既定の運命は回避した。じゃあ俺は、どのように死ねばいい? 自分に問う。答えは、俺の足が決めてくれる。多分。
まず初めにやって来たのは、デパートだった。
練炭自殺ではなく、なおかつ準備もいらず手軽に出来る自殺――飛び降り自殺をするためだ。
確かこのデパートの屋上は子ども用の遊技場になっていたはずで、俺はそこから飛び降りようと思う。
エレベーターに素早く乗り込み、『R』と書かれたボタンを力を込めて押す。「了解しました」と言っているかのように『R』の文字が橙色に光った。
それから数人が乗り込んできて、扉が閉まった。上階へ、上階へ。俺の身体はどんどん屋上へと近付く。出来ればそのまま天国まで連れて行って欲しかったが、デパートにそこまでのサービスは高望みしすぎであり、案の定というか、常識通り、屋上までしか俺を運んでくれなかった。
「ようやく、終幕だ」
気に食わないアクシデントによって少しだけ寿命が延びてしまったが、今度こそここで終わりだ。
一歩一歩を踏みしめるように進んで、俺は端へと到達した。高い柵はあったが、乗り越えられない訳ではない。
……さあ、乗り越えてやろう。この柵を。俺を阻む、この気に食わない壁を。
俺は息を飲んでから、一歩、足を掛けた。高いところから落ちるのは、どのような感じだろうか。俺の持つ、乏しい経験から予測するに、それはまるで――
「げっ」
俺は気付いてしまった。
落ちる感覚。
つまりそれは、ジェットコースターとかそういう類のもので急降下するのと同じような感覚ではないか?
足が震え出す。ジェットコースターは嫌いだ。死ぬ前に、そんな嫌な思いなどするものか。
――こんな物に乗るなら、死んだ方がマシだっての。
過去に遊園地にてそんな発言をしたことを思い出して、俺は苦笑した。こんな未来があると予測して言ったのなら、ユーモアに富んだ言葉だな。……いや、予測してないけど。
とにかく、この場から離れよう。そう決心して俺は、依然として震えたままの足を頑張って動かす。
「……あれ、やめちゃうんですか?」
振り返るとそこには、綺麗な女性がいた。ぱっちりした目と、肩まで伸びた綺麗な茶髪が印象的だった。肩から掛けたカバンは、多分ブランド物だろう。服もお洒落にきまっていた。
「あ、すいません、特に悪気があったわけじゃなくて、ただ、純粋に気になって」
「だって、落ちるの怖いでしょう」
「おー、なるほど」
「もっと楽に死ぬ方法を探しますよ」
「それはそれは、頑張ってくださいね」
「最初から頑張るつもりだったけど……ちなみに、あなたはどうしてここに?」
「特に深い意味は無いですねー。今日はデートで、デパートが待ち合わせ場所だったんですけど」
彼女はここで一旦、「デートとデパートって似てますね」とか言って一人でウケていた。その感性は俺には理解し難かったが、その光景は微笑ましいと言えないこともなかった。
「それで、わざわざ屋上で待ち合わせしたんですか?」
「いえ、時間よりかなり早く来ちゃって、たまたま。それで、暇つぶしに屋上まで来てみたら、なんか、子どもの頃を思い出して、懐かしくなっちゃって。……さっきまで、あれに乗ってました」
はにかみながら彼女が指差したのは、百円玉を入れると数分間歩きまわるパンダの遊具。……大の大人が、あれに乗って楽しんでたのか。うーむ、なんだか面白い人だ。
「そっか。んじゃ、デート、楽しんでくださいな」
半ば吹き出しつつ、俺はそう言ってその場を離れる。
「言われなくても楽しみますよ。そっちこそ、頑張ってくださいね」
背中越しにそんな言葉を聞きつつ、俺はどうやって死のうかと思惟しながら、エレベーターへと向かっていった。
***
病院の前を通りがかる。そこでふと、急に心臓の調子が悪くなって死なないかなー、とか思う。即座に不謹慎だと反省。
ホントに、スイマセン。
心の中で唱えながら、お辞儀をする。その角度は多分、今朝うちにやって来た宅配便の青年と同じくらい、……だと思う。
それからまた歩き出す。
残念ながら俺の身体は至って健康である。ちなみに、ドナー登録もバッチリしてある。ただ死んで終わり、というのも気に食わなかったからだ。
「しかし、どうしようか」
いい方法が全く思い浮かばない。
一瞬、首吊りという手も考えたが、脳内会議の結果、却下された。得票数第一位の理由として、苦しそう。第二位に、準備が面倒。「お前は本気で死ぬ気があるのか」と他の自殺志願者から怒られそうなランキングだ。
だがしかし、俺は本気だ。誰も俺を止められはしない。
俺はしっかりと前を向いて、何かを成し遂げようと燃える若者のような眼差しで、ずんずんと進んでいく。
燃える若者で思いついた。焼死というのもいいかもしれない。いや、駄目だ。暑いのは嫌いだ。ゆえに当然、熱いのもだ。
ならば逆でいってみよう。凍死はどうだろうか。……駄目だ。寒いのも嫌いだ。そもそも、凍死する状況を作るのは面倒だ。
ああもう、どうすりゃいいんだ。
拳銃があれば引き金引くだけで終わりだけど、手に入らないし。
「うーん」
腕を組んで、俺は悩む。困ったものだ。まさかこんなに死ぬのが難しいなんて。いや、妥協すればいいんだろうけど、それは気に食わない。
しばらく立ち止まっていると、視界の端に見覚えのある顔を見つけた。今朝の宅配便の爽やか笑顔の青年だ。必死に走っている。何か急いでいるのだろうか。
「あ、奇遇ですね」
俺は空気を読まずに声を掛けてみた。折角だから悩みを聞いてもらおう。
「えっ? …………あ。今朝僕が荷物を届けた」
「その折はどうも」
「いえ、それが僕の仕事ですので」
「何を急いでるんですか?」
「分かってるなら引き止めて欲しくなかったですね」
「じゃあ、走りながら話しますか」
そう言って、彼が向かっていた方向へと俺は走り出す。すると彼も「そうしますか」と言って並走してくれた。おお、好青年だ。爽やか笑顔は伊達ではなかった。
「それで、何の用事ですか?」
「実は俺、死のうと思ってるんですよ」
「そうなんですか? 大変ですね」
「それで今朝、君に練炭を届けてもらったわけだけど」
「えっ、あれ練炭だったんですか? 伝票には詳しく書いてなかったんで、知りませんでした」
「色々あって、練炭はやめたんだ。それで、他の案を考えてるんだけど、思いつかない」
「それで僕に案を出して欲しい、ってことですか?」
「ご名答」
「うーん……、車に轢かれるとか?」
「あまり他人に迷惑はかけたくない」
「じゃあ、人助けで死ぬとか」
「例えば?」
「よくあるじゃないですか。車に轢かれそうになった子どもを助けて、代わりに自分が轢かれちゃうパターン」
「結局車ですか。それじゃあ運転手に迷惑がかかる」
「うーん、じゃあもう案はないですね」
「そうか、ありがとう」
なるほど、人助けで死ぬ、か。いいかもしれない。俺は新たな選択肢に少し心を躍らせながら、この青年と別れようと思った。が、一つだけ興味が湧いた。
「ところで、最初にも聞きましたけど、もう一回。何を急いでるんですか?」
「デートに急いでるんです」
「デートかぁ。いいですね、若いですね」
言いながら、デパートの屋上で会った少々変わり者の女性を思い出す。彼女もデートと言っていた気がする。世間ではデートが流行ってるのだろうか。
「あなた、僕と同い年くらいじゃないですか。……と、それは置いといてですね。実は今日、もっと早く仕事が終わる予定だったんですよ」
「なるほど、仕事終わりが遅くなって、それで急いでる、と」
「しかも今日は絶対に遅刻できないんです」
「プロポーズでもするんですか?」
「いえ、逆ですね。最後のデートなんです」
「最後?」
「先日、僕の方から別れ話を切り出したんです。……そしたら、最後の思い出にって、彼女が」
「そうなんですか」
なんともリアクションのし辛い話だったので、俺は「じゃあ、頑張ってください」と告げてから、青年の元からそそくさと離れた。
軽く気分が沈んだ。気に食わなくはない。ただ、少しだけ寂しかった。でも、死ぬ前にこんなブルーな気持ちになるなんて、なんだか気に食わない。
そういえば、腹が減った。……しかし、金は無い。どうしたものか。
定期的に腹の音を鳴らしながら、俺はさ迷う。食べ物か、死ぬ方法か、どちらが先に見つかるか。……うーむ、この状況、気に食わない。
***
とっくに日は暮れた。最後の夕暮れはもっときちんと見ておくべきだったか。と、俺は夜の街をウロウロしながらふと思った。くそ、気に食わない。
いい加減、腹が空いて死にそうだった。空腹で死ぬとはなんとも格好悪い。それだけは勘弁願いたかった。
相変わらず、死ぬ方法は思いつかない。いや、正確には“楽に死ぬ方法”が思いつかない。そもそも、楽に死のうという考えが甘いのか。
「そろそろ、妥協した方がいいのか」
気に食わないが、これでは何時まで経っても終われない。ただし、練炭は絶対に嫌だ。運命に従うのは、気に食わない。食い物もない。……面白くないな。
――じゃあ、人助けで死ぬとか。
俺は青年の言葉を思い出す。実はさっきから何度も思い出しているのだが、助けが必要な人など見つからない。今回も然り。気に食わな……くないな。助けが必要な人がいないに越したことはない。
そしてまた俺は、空腹に耐えながら、月明かりに照らされた夜の街をフラフラと歩く。
……ああ、お腹すいた。
そう思った時。電車が通る際に遮断機が発するあの喧しい音が、耳に届いた。
「そうだ、電車だ」
俺はそれで、一つの案を思い浮かべた。電車に轢かれるというのはどうか。
電車が止まるというのは、乗客にとっては迷惑極まりないだろうが、大きな迷惑は掛けないはずだ。轢かれる瞬間は物凄く痛いだろうが、それもすぐに感じなくなる気がする。
「よっし」
人生最後のガッツポーズをきめる。
決断したらすぐ実行。俺は早速、全力疾走で踏切へと向かう。
このまま走っていけば多分、遅すぎず、早すぎず。素晴らしいタイミングで電車からアタックされるはずだ。早すぎれば運転手に気付かれて電車を止められてしまう。それは非常に困る。遅すぎれば、なんだか突っ込みづらい。
踏切まで残り七歩、六歩、五歩――
ようやく俺の人生が終了する。胸に期待を込め、一歩、また一歩。着実に、死に向かっていく。待ちに待った終幕。
ここで、思わぬ事が起こった。
人生最後の、番狂わせ。
俺より先に線路内へと入っていく奴がいたのだ。
これは非常に気に食わない。あり得ないほど気に食わない。最大級に気に食わない。
「ふっざけんなあああああああああっ!」
気に食わなさが限界値に達した。続けて線路内に入りながら、俺は叫んだ。
俺の死に場所を、横取りするんじゃねえ!
そんな意を込めて、俺は猛烈に叫んだ。こんなに叫んだのは、人生で初めてかもしれない。
俺の声に驚き振り返ったその顔は、見覚えのある顔だった。思わず「奇遇ですね」と言いたかったが、そんな気分じゃないし余裕もない。あと、時間もない。
先に線路内に入りやがったソイツを俺は突き飛ばす。そして代わりにそのポジションを俺が頂く。
電車の走行音が耳を劈く。うるさい。今までで一番うるさい。気に食わない。こんなにうるさいなら、電車で死ぬのはやめれば良かった。……今更後悔しても、仕方ないか。
最後に見えた光景は、ぱっちりした目を更に大きく瞠った、女性の顔だった。
ちなみに、走馬灯が駆け巡りそうになったが、丁重にお断りした。「一生に一度のイベントなのに……」としつこく食い下がってきたが、それでも断った。
見てしまったら、気に食わない事実に、気付いてしまう気がしたから。
人生の最後の最後に、気に食わない思いは、しなくなかったから。
人生最後の日は、なんだかんだで、良い日だった。
と、思う。