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第1話:“SHARK”ワッペンのサメ娘

 2028年――

 世界は……サメに支配された!!


 全人類! みんなサメ!?

 歩く犬も! 空飛ぶ鳥も! み~んな……サメ!?!?

 そして、そんなサメたちに襲い来るのは……ヒト!?

 はたしてサメたちは襲い来る人間から生き延びることはできるのか……

 映画<シャークトピア> 全国上映……見逃すな!!


 ――などと、コマーシャルでは大見得を切っていたのだが。


 実際に観てみれば、ただのテンプレサメ映画だった。

 まるでコラ画像みたいな画質のサメが画面の大半を占め、まともな画質の人間は終始、血眼になってサメを食い殺している。

 そして極めつけは、サメとサメによるベッドシーン。まさしく――


「神映画だ!!!!!!!!!!」


 エンドロールが流れる、暗く狭い劇場。

 たった一人の観客である高校生の青年が、席を立ち上がり、手を激しく打ち鳴らしていた。乾いた拍手が虚しく、しかし熱量だけはむき出しで劇場に跳ね返る。


「言ってしまえばテンプレ! 時代に取り残されたB級映画!! ――だが、それがいい!!!」


 この瞬間だけ切り取れば、完全に頭のおかしい客だ。普通の映画館なら迷惑以外の何物でもない。

 だが心配はいらない。なぜなら、この劇場には彼しかいない――はずだったからだ。


 SNSで散々叩かれ、批評家からも痛烈に斬られたこの映画を、わざわざ観に来る物好きなどいない。

 結果、今夜のシアターは実質、彼の貸し切りになっていた。


「テンプレだからこそ伝わる小ネタがある! 普通は作品に集中して、そんな細部まで気にしてる暇なんてない……でもこの作品は違う! 内容は他のサメ映画とだいたい同じで、脳が勝手に補完してくれる! だからこそ、別の“作者のメッセージ”に集中できる! これこそが――サメ映画!!!!」


 パッ、と照明が点いた。エンドロールはすでに流れ切り、上映終了の合図が劇場内を明るくする。


 それでも、ここにいるのは彼一人――


「いいよねぇ……この映画……」


 背後から声がした。


 青年は反射で振り返った。

 後ろの席に、ひどく顔色の青ざめたスーツ姿の男が座っていた。やせ細った長い体。鋭い目つきの下に濃いクマ。視線が合うと、男はにこりと笑った。


 青年は、慌てて頭を下げた。


「す、すみません! まさか人がいるとは思わなくて……うるさくしすぎました」


 青年が焦るのも無理はなかった。

 彼は入場前、ぎりぎりまで周囲を見て、誰も入ってこないことを確認していた。上映中も気を使って、小さく息を飲む程度に抑えていた。少なくとも、エンドロールが流れるまでは誰もいなかった――はずだ。


 まずい、と青年は冷や汗をかいた。

 常連のこの映画館を出禁にされたら痛い。高校生の小遣い事情はシビアなのだ。彼は腰をさらに折った。


「いやいや、いいんだよ。むしろ僕からしたら同志に会えて嬉しいくらいさ。良かったよね、この映画。特に途中の……サメ同士の熱い……濡れ場シーン、とか?」


 刹那、青年の背筋が震えた。まさしく同じ場面を、彼も“神”だと思っていた。


「そうなんですよ! あそこのシーンから、子どもが生まれる流れで、サメたちの生活が垣間見えるっていうか……ようやくサメサイドにも感情移入できるようになるんです。きっと、監督の『サメもヒトも変わらない』って思想が……見た目だけが違うんだっていう、そういうのが伝わってきて!」


 そこから一時間。

 気づけば二人のサメトークは咲き乱れ、時間だけが一瞬で溶けていた。楽しげな声が映画館に響く。管理人に怒鳴り込まれないのは、青年が常連であることと――この映画館自体、ほとんど客が来ないせいだ。


「そうだ。同志の君に、一つ質問があるんだが……いいかね?」


 突然、男の表情が変わった。

 さっきまでの緩い笑みは消え、硬く、真面目な話でも切り出すような顔になる。


 青年の胸がわずかに縮む。何か気に障ることでも言ったのか――そんな不安がよぎる。


 だが男の口から出たのは、意外な言葉だった。


「もしも……もしもだよ。自分がサメ映画の主人公になれるとしたら。君は、なってみたいと思うかい?」


 男は、こちらの出方をうかがうような目で青年を見つめた。

 その瞳は怯え切った生き物のようでもあり、同時に、何かに縋りたい人間のようでもあった。


 青年は一瞬、拍子抜けする。

 くだらない――いや、オタクにとって“くだらない”問いほど真剣に答えたくなるものはない。


 サメ映画の世界観はだいたい狂っている。住みたいかと言われれば全力で嫌だ。

 主人公なら生き残るかもしれないが、物語が終わったあとに安全が保証されるわけでもない。

 それでも――もし、今の退屈な日常を変えられるなら。


 少しの沈黙ののち、青年は肩をすくめるように言った。


「……なってみたいっすね。だって主人公っすよ。世界の中心人物。俺みたいな、ただのさえない高校生が――そんなの、憧れないわけないじゃないですか。女の子にもモテモテ――で……って、大丈夫ですか!?」


 男が、急におかしくなった。

 両手を震わせ、額に汗を浮かべながら、じりじりと青年ににじり寄ってくる。切迫した空気。距離が詰まる。


 青年は一歩引こうとするが、背中はすぐ座席の背もたれに当たった。

 逃げ場がないと理解した瞬間、身体が勝手に崩れ、倒れ込むように前の座席へ転がった。


 ガン、と頭を打って床に落ちる。


 その選択が、最悪だった。


「な、なって……なってくれるんだよなぁ!! 主人公にぃ!!!!!」


 男は座席をひとつ飛ばし、青年の上に覆いかぶさってきた。

 やせ細った体のはずなのに、異様に重い。青年は振りほどこうとするが、びくともしない。


「お、おいなんなんだよ、あんた……! だ、誰か――!」


 嫌な予感が全身を貫き、冷汗が噴き出す。

 この時間帯、管理人の祖母はよく昼寝をする。シアターの扉は閉まっている。どれだけ叫んでも、声は外へ漏れない。


 男は青年の両手首を掴み、床へ押さえつけた。


「だ、大丈夫。痛いのは……一瞬だけだから」


 そして、ガブリ、と男は青年の首に噛みついた。


「アガアアアアア!!!!!」


 絶叫がシアター内に叩きつけられる。だが、外へは届かない。助けは来ない。


「やめろ……放せええ!!」


 青年がもがけばもがくほど、噛む力は増していく。

 犬歯が薄い皮をぷちりと破り、鮮血が溢れ続けた。視界が揺れる。音が遠のく。思考が黒に染まっていく。


 血を失う恐怖。死が迫る実感。

 そして、目の前のそれが“人であるはずなのに人ではない”何かだという確信が、脳を埋め尽くす。


 ――なぜ。

 ――ただ普通に暮らしていただけなのに。

 ――こんな死に方、あんまりだ。


 青年の意識は、ぷつりと途切れた。まるで生命の糸が切れるみたいに。


 *


 それからどれだけ時間が経ったのか。

 青年の体が、誰かに揺さぶられる。遠くで声がしている。微かな感覚だけが、意識の底を叩いた。


 死んだのか、とぼんやり思う。

 首を噛まれた。最悪だ。――などとくだらないことを考えた、その瞬間。


 脇腹に、凄まじい痛みが走った。


 声も出ず、青年の体が跳ね起きる。


「っ……!? いってぇ……ん?」


 鈍痛に顔をしかめ、脇腹を押さえる。何かで殴られたらしい。

 顔を上げると、そこにいたのは映画館の管理人の祖母だった。片手にはいつもの杖。


「もう閉館の時間だよ。まったく、床で大の字になって寝るなんて……最近の若いもんは――」


 言葉は途中で止まった。青年があまりに必死な顔で、口を挟んだからだ。


「ちょ、ちょっと待って! さっき、顔色の悪いスーツのおっさんが……このシアターにいたはずで! 俺、そいつに噛まれて、首から血が――……え?」


 今さら気づく。

 首元から血は流れていない。噛まれた跡もない。皮膚は綺麗なままだ。


 祖母は少し考え、ゆっくり首を傾げた。


「知らないねえ。というか、このシアターに入ったのはあんただけだよ。今日、映画館を使ったのもあんただけ。悪い夢でも見たんじゃないのかい? 学校の勉強で疲れてるんだろう。早く帰って休みな」


 そう言って祖母は背を向け、シアターを出ていった。


 青年はゆっくりと劇場内を見回す。

 確かに、誰もいない。灰色の床に血痕もない。


「……夢、だったのか? ……でも」


 青年は自分の体に視線を落とした。

 傷はない。だが、男に掴まれたはずの襟元――ボタンが外れている。


 嫌な寒気が背骨を這った。


「……帰ろう。今日は、もう帰る。こんなところに残ってても、ろくなことにならない……寒いし」


 外はきっと真っ暗だ。

 そう思って青年は立ち上がり、映画館を後にした。


「……っ」


 一瞬、背後に気配を感じて振り返る。

 だが、そこにあるのは静かな映画館だけ。さっきの男が隠れられる場所もない。


 気のせいだ――そう言い聞かせ、青年は歩き出した。


 *


 帰り道。予想通り、外は真っ暗だった。

 気を失っている間に夜になったのだろう。住宅街はどこか薄暗く、ホラー映画の背景みたいに静かだった。


 青年の革靴が鳴らす乾いた音だけが、やけに響く。

 ホラー映画は見慣れている。なのに、さっきの出来事のせいで胸が落ち着かない。怖さのドキドキだ。


(何を怖がってるんだ。いつもの帰り道だ。あの十字路を曲がって、少し歩けば――)


 曲がり角を曲がった、その瞬間だった。


「ってえ!?」


 いつもなら家が見える場所に、巨大な“壁”があった。

 青年は避けきれず、コンクリートみたいに硬いそれへ激突する。


 ざらりとした感触。硬い。――のに、どこか弾力がある。

 不思議に思い、青年は手のひらで押してみた。


 壁は、少しだけ沈んだ。

 まるで、生き物の皮膚みたいに。


 嫌な汗が全身から噴き出す。喉がからからなのに、体は勝手に水分を絞り出してくる。

 恐怖に出くわした生物は、そういうふうにできている。


 そして、青年は“壁”の正体に気づいた。


 ざらりとした表面の向こうに、ぎょろりと光る二つの黄色い瞳。

 それが、青年の目と合ったからだ。


「……ん、な……っ!?」


 腰が抜ける。

 そこにいたのは巨大なサメだった。陸上で、ふわりと浮かぶ大きなサメ。太く長い尾を振って方向転換し、青年へと体の向きを変える。


 そして――突っ込んで来る。


「やめろおおおおおおおおおおお!!!!」


 青年は腹の底から叫んだ。人生の最後を刻むみたいに。


 そのとき。


 ぼわん! と白い煙が、サメの体を包んだ。


 青年は煙を凝視する。

 いつサメが飛び出してくるか分からない恐怖で、心臓が壊れそうなほど跳ねる。


 だが、その緊張をぶち壊すような、高い声が煙の中から弾けた。


「やっと見つけました!! 鮫島様!!」


 煙がゆっくり晴れていく。

 硬い地面を素足が叩く、ストン、ストンという音が近づいてくる。


 現れたのは――

 足元まで届く銀髪を風になびかせた少女だった。金色の瞳。

 白いフライトジャケットの袖には“SHARK”のワッペン。胸元のハーネスがきゅっと身体を締め、短いスカートの下は黒のタイツ。

 首には水色のスカーフが巻かれていて、呼吸のたびに小さく揺れた。


 そして。

 スカートの下から、太く長いサメの尻尾が伸びていた。

 革みたいにざらついた灰色の肌が街灯を鈍く反射し、先端の尾びれは空気を切るたび、ぴくりと小さく震える。


 そして何より――笑った口元から覗く歯が、ぎざぎざだった。

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