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12. 箱庭の午後




 カーテンをめくる。



「やっぱりいた」

 と呟いて、伊織は隣に腰掛けた。



 昼休みに覗いた教室に稔はいなかった。座席の荷物はそのままだった。

 そんな時の居場所は、大抵ここだった。



 閉じた瞼を見つめる。

 すっと通った鼻筋に、数本の前髪が垂れ下がっている。指を伸ばして、そっと掬い上げた。

 すると、



「昼練は?」

 目を瞑ったまま、稔が尋ねた。



「起きてたの」

 ぱちっと瞼が開く。眠たげに潤んだ瞳が伊織を見上げた。



 伊織は手を離して椅子にもたれた。

「サボった」



「団体メンバーなのに」

「いいの。昼は自主参加だから」



 体を起こした稔は、伊織の左肩をじっと見つめた。

「まだ肩痛い?」



「変わんない」

 そう答えた伊織は、稔の表情に苦笑した。

 なんで。



「なんで稔が哀しむの」

 くしゃくしゃっと頭を撫でる。



「髪伸びたな」

「ん。そろそろ鬱陶しい」



 跳ねた襟足をなぞった。毛先の細い猫っ毛だ。稔が身じろぎして、指先はうなじを掠めた。



「切ったげよか」



 稔はヘアサロンが苦手だった。伊織は指でハサミを作って、柔らかい髪束をとらえてみせた。

 すると稔ははにかみながら顔を背ける。



 ただ隣にいるだけの、こんな時間が幸せだったのに。



 ガラリと扉の開く音がして、束の間の静寂は破られた。



「遠ちゃんやばいよ」

 カーテンを開けて入ってきたのは、同じ弓道部員の叶谷(かなや)だった。



「桑原たちすぐそこにいるよ」

 伊織は顔を顰めた。



「なんで保健室ここってバレたんだろ」

「校舎中探し歩いてるから」



 腰に手を当てて、叶谷は鼻から威勢よく息を漏らした。

「主将の気負いなめちゃいかんよ。絶対全国行くって、それしか頭にないんだから」



 今年の弓道部男子は、例年になく好成績を上げていた。全国大会まであと一歩、その切符がかかった団体戦まで、残り二週間を切っている。


 一次予選を首位で通過してからというもの、主将であり選抜のリーダーでもある桑原は、尋常ではない熱意を見せていた。


 放課後の本練習に留まらず、本来は自主練に当てられている朝も昼も、全員参加で試合形式の立ち練習を強要してくるほどだ。


 自分が左肩を壊したのも、この鬼のような追い込みが原因の一つだ。

 伊織は困り果てて天井を仰いだ。



 すると稔が言った。

「ここ隠れたら?」



 布団をめくってぽんぽんとシーツを叩く。



 叶谷がぱちんと指を鳴らした。

「ナイスアイデア。さすがにベッドまでは覗くまい」



 伊織は押し込まれるようにベッドに上がった。



「じゃあ一緒に寝よ」

 入れ替わりで立ち上がった稔の腕を掴む。



「ばぁか」

 稔は目も合わさずに笑い飛ばした。叶谷が勢いよく布団を被せてくる。



「しばらく気配消せ」

 視界は暗闇に覆われた。

 シーツにはほんのりと温もりが残っていた。伊織は目を閉じて、残り香に身を委ねるように横たわった。



 やがて騒がしい声が近づいてきて、ガラリと扉が開く。



「あ、竹下。また仮病? 遠山見てない?」

 桑原の粗暴な声だ。



「さっきまでいた」

「どっち行った? ……おけ、さんきゅ」



 稔がでたらめな方向を示したのだろう。

「あのサボり、ぜってーボコボコにしてやる……」

 そんな捨て台詞が、荒々しい足音とともに遠ざかっていった。


 

 静寂の再来。やがてカーテンが開いて、伊織はそっと布団から這い出した。

「……行った?」



 頷く稔の後ろから、叶谷は両手のピースを向けた。



「怪我のこと黙っとくの?」

「言ったら色々ややこしいから」



 伊織は胡座をかいた。

「もうメンバー登録済みだし。今更代わってもらうのとか無理だし」



 左肩を回して見せる。

「気合いで治す」



 それでも稔は浮かない表情だ。叶谷が付け加えた。

「引きすぎると悪化するからね。昼はサボるくらいが丁度いいのさ」



「そうそう」

「とはいえ、主将がそれを理解してくれるかというと、だいぶ厳しい。だろ?」



 伊織は大きく頷いた。

「だからせめて昼ぐらいは」



 一緒に居たかったのだ。

 それが逃げるための口実だと分かっていても。





 予鈴が鳴り響いて、伊織は我に返った。

 稔は隣で深く眠り続ける。その綺麗な横顔に、性懲りもなく見惚れていた。



 あれから三年。いまだに友達止まりだ。

 大きなため息をついて、再びベッドに突っ伏した。







「ごめんなみーくん、添い寝できなくて。化学の再テ忘れてた」



 放課後の保健室。

 並んで座った凛太郎が、いつものように稔にもたれかかる。



「待ってたのにー」

 稔は慣れた調子でふざけ返した。



「合格した?」

「手応えは無し」



 凛太郎は元気よく答えて、そして項垂れた。

「どうしよ。今月たぬきの散歩増やすって約束したのに。補習残らないかんかも」



「たぬちゃん泣いちゃうね」

「間違いない。みーくん助けてぇ」


 

 と稔の肩に額を擦り付ける。

「僕も今月バイト増やしちゃった」



 その言葉に口を尖らせた。

「働きすぎよ。もっと俺に構えよ」



「よしよし」

 稔が頭を撫で回す。



「もっと」

「よおしよおし。いい子だ」



 凛太郎は犬の息遣いを真似て、稔は耳の後ろを掻く素振りをする。二人の間で恒例のワンコごっこが繰り広げられた。

 しかし今日は、



「はよ終わらせろ。数IIの課題も残ってんだろ」

 不機嫌な声が割って入った。



 稔の正面に座った伊織だ。水を差された二人は動きを止めた。



 体を起こした凛太郎は、すました顔で手を突き出した。

「じゃノート貸して」



「ふざけんな」

「つめたっ」

 伊織の態度はいつも以上に邪険だ。



 稔はしばらく、ごそごそとリュックを漁っていたが、やがて声を上げた。

「やっぱりノート置いてきたっぽい」



「ロッカー? 教室?」

「たぶんロッカー」

「じゃ、ついでにナタデココおねがい」



「自分で行け」

 伊織が横槍を入れた。



 稔が保健室を出たその隙に、凛太郎は伊織を睨んだ。

「お前なんでみーくんの横で寝てたんだよ」



「悪い?」

 伊織は顔を上げようともしない。



「あっこは俺の指定席なんで。無断で横取りされちゃ困ります」

「彼氏ヅラやめろ。気持ち悪い」



「はぁー? お前にだけは言われたくないんですけど」

 凛太郎は顰めっ面を向けた。



「親友ポストは俺がいるんで。定員オーバーなんで。お前みたいな下心隠したつもりのゲス野郎はお役御免ですぅ」



 すると伊織はシャーペンをカチカチ鳴らして、鋭い芯先を光らせながら尋ねた。



「今なら刺し殺しても無罪だよな」

「終身刑だよ」

 






「あ、竹下くん」

 自販機の前で、稔は振り返った。



 歩み寄ってきた祐奈は、稔の手に握られた缶ジュースを見ておかしそうに笑った。



「それ買ってる人初めて見たかも」



「おつかい。凛ちゃんの」

 稔はナタデココ缶を掲げてみせた。



「今日も一緒に勉強?」

「うん」



「仲良いね」

 祐奈の微笑みに、わずかに翳りが差したような気がした。



「松永さんは部活?」

「うん……今ちょっと抜け出してきちゃった」



「たまには休憩しないとね」

「えへへ。ほんとは追い込みの時期なんだけどね。月末コンクールだし」



「忙しいな」

「竹下くんほどじゃないよ」



 祐奈は後ろ手を組んで稔を見上げた。

「……また背伸びた?」



「そうかな」

「なんか、前より遠くなった気がする」



「そこまで変わらないよ、多分」

 向こうの角から誰かの話し声が聞こえてきた。



「じゃあね」



 稔が背を向ける瞬間、映った祐奈の表情は、まだどこか物足りなさそうな雰囲気だった。


 いつもよりも頬が赤くて、視線は低い所で彷徨って、口許は微笑みを保とうとしているようで、でも口角を上げきれないまま、やがてきゅっと固く結ばれる。

 

 別れ際の彼女はいつもこんな表情をする。

 その理由を稔は知っていた。


 だからいつも、「じゃあね」を言うのは自分からだった。




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