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11. ベッドサイドのエトランゼ



 夜勤明けの頭はいつも、眠気と低血糖でぼんやりしている。

 重たい足取りで階段を上って、稔は部屋の扉を開けた。



 電気をつけると、ベッドでは妹が眠っていた。スイッチに手をかけたまま、稔はしばらく立ち尽くした。



 再び灯りを消した。

 部屋の奥の勉強机に、音を立てないようにレジ袋を降ろす。


 そして小さなため息をついた。




 シャワーの音で、瑠璃花は目を覚ました。


 ぼんやりと霞む視界に、机に置かれたレジ袋が映った。いちごミルクの角が覗いている。


 微睡みの波に襲われて、再び瞼を閉じた。




 浅い夢を見た。

 随分昔の記憶だった。




 泣いて許しを乞うのは幼い兄。怒鳴り散らかす大人の男の声。大きな影が繰り返し、繰り返し、痩せ細った体を踏みつける。


 瑠璃花は怯えていた。泣きながら母にしがみついた。



 煙草を吐き出しながら、母は言い聞かせる。

「にいちゃんはね、言うこと聞かないから怒られるの。お前もいい子にしてないと、怖い目に遭うよ」



 いい子に。

 いい子にしていないと。


 兄ちゃんみたいに殴られる。



 男の舌打ちは恐ろしかった。動かなくなった兄を蹴飛ばして、母に向かって怒鳴った。



「血も繋がってねぇのに。さっさと施設入れろよ」



「手当て減るもん」

スマートフォンをいじりながら、母は気怠げにそう返した。



 ある冬の夜、兄は裸のままベランダに立たされていた。

 骨の浮き出た両肩が震え続けていた。


 瑠璃花は窓に張り付いて、その背中を見つめていた。 転々と、無数の赤黒い跡が広がる。煙草の火と、薄れる前に重ねられる打撲痕だった。



 いつだって、何が理由かは思い出せない。

 「悪い事」をした兄。悪い事って何?

 いい子ってどんな子?



 ーーにいちゃんーー



 網戸の向こうに短い腕を伸ばした。

 


「瑠璃。そっち行くな」

 煙が充満した薄暗いリビングから、母の鋭い声が飛んだ……。




 ……震える瞼を開いた。薄明かりの中、見慣れた光景が目に映った。


 椅子の上で、稔が体を丸めていた。

 三角座りで歯ブラシをくわえて、スマホをいじっている。湯上がりの頬はほのかに赤かった。



 黒髪から雫が滴り落ちる。肩に羽織ったタオルに丸い染みが広がる。



「髪」



 稔がこちらを向いた。

「あ、起きた」



「濡れてる」

 瑠璃花は布団の中で体を起こした。



 稔は再び画面に視線を落とした。

「ほっとけば乾く」



「乾かしたげる」

 もぞもぞと這い出そうとすると、



「いい」

 稔はそっけなく返して瑠璃花を睨んだ。



「勝手に人の部屋入るなって言ってるだろ。自分のベッド行け」

 瑠璃花はむっとして、再び頭から布団を被った。



「聞いてる? 瑠璃」

 兄が語気を強める。



「ばーか」

 瑠璃花は暗がりで吐き捨てた。布団越しに不機嫌なため息が届いた。



 立ち上がる気配、そのまま部屋を出ていく足音。わざとに強くドアを閉める。


 部屋は寂しい静けさに包まれた。


 視界が滲んでいく。瑠璃花はぎゅっと布団を抱き寄せた。いつもこうだ、喧嘩したいわけじゃないのに。



「ばーか……」

 柔らかな膨らみに、幼いつぶやきを染み込ませた。







 翌日の昼休みのこと。

 時を同じくして、同じ校内では、伊織と修平がそれぞれ別の廊下を歩いていた。


 相関図の上では近い距離にあるこの二人、実はまだ接点を持たずにいた。 


 そんな彼らが晴れて顔見知りとなった経緯は、こんな筋書きに始まる。



 まずは遡ること数十分前、四限目の生物講義室から始めよう。

 前から二列目の席で、稔の頭が派手に揺れ動いていた。


 頬杖をついていた片腕が、がくんっと倒れる。教科書がずり落ちる。



「竹下ー、寝るな」

 前から先生の叱責が飛んだ。



 後方の席から、凛太郎は視線を送った。

 稔は辛そうに頭を支えている。先週の月曜もこんな様子だった。また夜勤を増やしたのだろうか。



 長い五十分がようやく終わり、昼休憩に入った。

 着席の号令が鳴るなり、稔は再び机に突っ伏した。


 

「みーくーん」



 脇にしゃがみ込んだ凛太郎は、その腕をツンツンとつついた。

「寝不足かい?」



「……ん」

 稔がやつれた顔をあげた。



「顔色悪いわ。寝てきたら?」

「んー」


 

 再び伏せられた頭を撫でながら、凛太郎は冗談半分で言った。

「添い寝したげる」



 稔はふふっと笑った。

「してー」  



 その頃伊織は、授業を終えた足で、生物講義室へと向かっていた。

 腕に抱えた教科書の上に、バランス良くスマートフォンを載せていた。歩きながらメッセージを打ち込む。


 前方からの話し声に顔をあげた。二人連れの女子生徒とすれ違い、人がいなくなると再び画面に目を落とした。

 まだ既読はつかない。 


 発信ボタンに指を伸ばしたその時、数メートル先で、講義室の扉が開いた。


 伊織は足を止めた。


 中から出てきたのは、メッセージの送信先だった。凛太郎に肩を抱かれている。

 二人は伊織と反対方向へ歩き出した。


 手元の画面はやがて真っ黒になった。寄り添い合う後ろ姿が角の先に消えるまで、伊織はその場に立ち尽くしていた。



 

 一方、修平はというと、



「凛くんってば。全然LINE返してくんないんだから」

 弁当を片手に、ぷんすかしながら階段を降りているところであった。



 三点歩行で目指すのは一階。だいぶ慣れたとはいえ、やはり通常の倍は時間がかかる。


 十数分かかってようやく箱庭の入り口に辿りついた。

 松葉杖を脇で器用に挟み、保健室のドアをガラリと開ける。



「どうせここでしょ……凛くぅん」



 見回すかぎり無人。窓際のベッドのカーテンだけが閉まっている。

 白いプリーツが揺れた。



(また昼寝かな)

 修平はゆっくり歩み寄った。カーテンの隙間から、ちらりと中を覗き見た。



 ベッドに眠っていたのは凛太郎ではなく、

「竹下先輩……」



 そしてその隣に、

「……あ、すいません」



 椅子に座ってベッドに突っ伏していたその人は、鋭い横目で修平を睨んだ。

「何?」



「や……人違いでした」

 すいませんっ、と慌ててカーテンを閉めて、修平は廊下へ逃げ出した。



 後ろ手で扉を閉め、もたれかかった。

「こわかったぁ」



 天井を見上げてふうっと息を吐いた。それからぼんやりと、先ほどの光景を振り返った。

「誰だろあの人」



 ベッドサイドにいた見知らぬ人。

 切れ長の瞳にギロリと睨まれた。目力のおっかない、冷たい雰囲気の人だった。



「なんで竹下先輩と一緒にいるんだろ」




 こんな風にして、二人はめでたく出会いを果たしたのだった。

 ……が、互いの第一印象は、お世辞にもあまり好ましいものとは言えなさそうだ。




 再び静まり返った保健室で、目力のおっかない異邦人(エトランゼ)ーー伊織は、傍らの寝顔を見下ろした。


 上下する掛け布団、秒針が刻む音。そんなデジャヴが、三年前のあの日を呼び起こした。




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