10. 青葉の候
チッチッチッチッ。
アナログ時計の秒針が時を刻む。心地よい静けさの積もる放課後だ。
今日も二人は、エアコンの効いた保健室で隣り合っていた。
修平は眉間に皺を寄せていた。
「『しるしおこす』って、何て訳したらいいんだろ」
凛太郎はちらりと修平のプリントに目をやった。
「今昔物語か。普通に『返事する』とかでいいんじゃね」
妙な気配を感じて顔を上げれば、修平は奇怪なものでも見るかのような目をこちらを向けている。
「……なんで分かるんすか」
凛太郎は閉口した。
「……一応高二なんで。去年習ったんで」
「じゃなくて、なんで今昔物語って分かるんすか、いち単語だけで」
今度は凛太郎が、修平に変な目を向ける番だった。
プリントの右端をトントンとつつく。
「……あっ」
修平が咄嗟に両手で隠したのは、太文字ではっきりと記された単元名。『今昔物語集』の五文字だった。
赤くなる修平を、凛太郎はニヤニヤと見つめた。
「灯台元暗し」
放課後、並んで課題をするようになって、徐々に明らかになってきた事実があった。修平は凛太郎の倍ほど、勉強が不得意だった。それも文理問わず、一律に。
苦心しながらも、なんだかんだプリントと向き合う横顔を、頬杖をついた凛太郎は感慨深い心持ちで眺めていた。
感慨深さに襲われた原因は、戻ってきた体操服に包まれていた一通の手紙にある。
その存在には帰宅後に気づいた。
荷物を机におろして、体操服を取り出そうとした時。
「……あ」
白い丸襟の向こうに、封筒の角が覗いたのだ。
抜き取ってみると、それは薄桃色の縁取りが施された封筒だった。
裏返した。名前のわからない紫色の花のシールで封をされている。
凛太郎は腰掛けた。紫の花を慎重に剥がして、折り重ねられた便箋を広げてみた。
和紙独特の匂いが広がった。
拝啓 宮坂凛太郎様
青葉の候、
少し前までは、鮮やかなふりかけ色を呈していた桜も、
今では余すことなく緑に濡れて、寝不足の目には毎朝眩しいこの頃です。
凛太郎の目は点になった
「なんだこれ」
このごろ、僕は夜更かしが続いております。
毎夜毎夜、貴方のことを考えているせいで、平均八時間しか眠れません。
恋とは恐ろしいものですね。
気がつけば、頭の中には貴方がいます。
家にいても、課題をしていても、授業中も、
ふと、頭が空っぽになった、そのほんの一瞬に、
気を抜けばその隙間に、貴方が入り込んでいるのです。
前頭葉のセンターポジションに貴方が立っているのです。
僕は本当は朝が苦手です。
小学生の頃から、定期的にずる休みをして参りました。
けれどもこの春からは毎朝、目が覚めることが楽しいのです。
どうしてだと思いますか?
ずばり、好きな人の声を聞けるからです。
貴方の声を聞けると思うと、めざましよりも早く目がさめます。
そして二度寝をします。
幸せとはこのことを言うのでしょう。
貴方に会えるから、毎日学校も楽しいです。
凛太郎くん
凛くん、凛ちゃん、凛さん
どの呼び方がいいですか?
では凛くんにします。
貴方が毎日の心の支えです。
決して大げさではなくて、変わり映えのしない日常に、ふりかけよりも鮮やかな彩りを与えてくれ、潤いを注いでくれる存在です。
愛しています。来週デート行きましょう。
凛太郎は腑抜けた笑い声を上げた。
「……ちょけてんなぁ」
質の高そうな和紙に、格式ばった縦書きで綴られた手紙。お手本のように流暢なペン字。
そんな体裁には不釣り合いな文面。
その後も凛太郎は何度か読み返して、そのたびに湧き上がるような苦笑いをこぼしたのだった。
修平の手の動きに合わせて、シャーペンの頭が揺れている。
その横顔を眺めていると、ついあの時の感情が蘇る。いやでも緩んでしまう口元を、凛太郎は頬杖をついたほうの手のひらで上手に隠した。
二人が通うのは、県内ではそこそこの進学校だ。
もともと勉強が苦手だったのなら、入試は相当苦労したんじゃなかろうか。
ーー先輩に会いたくて、勉強頑張ったんですーー
四月の言葉を思い出した。
あのふざけた手紙も、或いは。
「……どうしました?」
修平が怪訝な顔を向けた。見つめられていたことに気づいたようだ。
「青葉の候とか、よく知ってたな」
すると修平の顔はパッと明るくなった。
「手紙読んでくれたんですかっ?」
凛太郎は顔を背けた。口角が緩むのをこらえる。
「もう書くなよ」
「グーグル先生に聞い……えっ、なんで?」
聞き逃しかけた凛太郎の言葉に、修平はきょとんとした。
「中々よくできてたでしょ? 微妙でした?」
「いや、おかげで笑わせてもらった」
「良かった」
にこっと笑う。
「じゃあお返事期待してますね」
「えー……」
「あとデートどこ行きます?」
気乗りしない凛太郎には構わず、修平はうきうきと身を乗り出した。
「東京タワーか花火……」
「そんな足で何言ってるんだよ」
「じゃあお家デートにしましょう!」
尻尾ふりふり、両耳ふりふり。実に機嫌の分かり易いワンコだ。
凛太郎は呆れて笑った。
この心の浮遊感は、初めての感覚だった。名前をつけるには、まだまだ時間がかかることだろう。
*
昼休み明けの美術室には、二年二組の生徒たちが散らばっていた。
彼等は掃除当番に当たった五人だ。それぞれ箒やら塵取りやらを手にして、やる気のない様子で机の隙間を動いている。
監視の目も無いから余計だ。先生は今、準備室に籠もって作業中だった。
ようやく終了のチャイムが鳴った。
凛太郎はチャイムと同時にロッカーを開けた。ちょうど近くにいた祐奈に声をかける。
「ちょうだい。一緒に片しとくよ」
「ありがとう」
祐奈から受け取った箒をロッカーに仕舞っていると、背後からぽんっと肩を叩かれた。
振り返ればザッキーだ。残りの二人も揃ってニヤニヤ笑いを浮かべている。
「うちら先戻ってんな」
「気利かせたげる」
下手くそなウインクとともに、凛太郎に掃除用具を押し付けてきた。
「おいサボんな!」
凛太郎の咎めも聞かず、三人はさっさと教室を後にしてしまった。
凛太郎は不機嫌なため息をついた。雑な手つきで箒をロッカーに投げ入れる。
彼等はみな西中出身である。その大抵は、凛太郎と祐奈の関係を知っていた。こういう冷やかしを受けることも度々で、凛太郎としてはやりづらい。
窓の施錠を確認して掃除は終了だ。
グラウンド側の施錠を終えた祐奈が振り返ると、教室には凛太郎の姿しか見えなかった。
「あれ、みんなもう帰ったの?」
「うん。チクってやらないと」
凛太郎は口を尖らせて、祐奈は苦笑した。
並んで廊下を戻る。
「吹部ってもうすぐコンクール?」
「うん。今月末」
「最近、毎日昼練やってるよね」
朝方と放課後には、部員たちの演奏が校舎中に響く。季節問わず、それがこの高校の日常だった。
加えて昼休みも演奏を耳にするようになれば、それはコンクールが近づいてきた合図である。
祐奈は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「うるさいよねー、ごめんね」
「いや、いいBGMだよ」
凛太郎は明るく笑った。
「頑張ってね」
「ありがとう」
曲がり角で祐奈と別れた。
「凛くん」
歩き出してしばらくすると、背後から呼び止められた。凛太郎は足を止めた。
「おっす」
松葉杖をつきながら、修平が大股で歩み寄ってくる。その動きもずいぶんスムーズになっていた。
「掃除ですか?」
「うん。お前も?」
「遅れた課題出しに行ってました」
そう答えた修平の様子が、なんだかいつもと違う。俯きがちに、何やらもじもじしている。
やがて顔を上げた。
「さっきの人、西中ですよね」
「……うん」
見られていたのか。凛太郎はなぜだかドキリとした。
「文化委員長やってましたよね」
「よく覚えてるな」
「前一緒に帰ってましたよね」
またもやドキリ。凛太郎が黙って目を逸らすと、修平は低い声で呟いた。
「仲良いんですね」
凛太郎は思わず噴き出した。からかい口調で言ってやる。
「拗ねんなよ」
「べっつにー。拗ねてませんけど!」
修平は強がった。
「先輩もあんな顔するんだなって思っただけっす」
「……あんな顔って?」
「女の子には優しくするんですね。俺にはあんな風に笑ったことないのに。ふうん」
視線をやれば、修平は不貞腐れた表情だ。明らかにいじけている。
凛太郎の頬は緩んでしまった。
「だから拗ねんなって」
「拗ねてません!」
笑いながら、その頭をぽんぽんと叩いた。
思いもよらなかった、このワンコにほのかな愛おしさを感じてしまうなんて。