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1. 豈図らんや、陽炎



 無人のグラウンドを吹き抜けざま、春の陽気が旋風の種を蒔く。


 南西に霞む太陽と、天高く旋回するトンビの影。

 窓ガラス一つ隔てた世界の向こうは薄曇り。花粉か、黄砂か、はたまた進級間もない青少年の心象に過ぎぬのか。



 四月。陽炎燃ゆる季節。

 揺らぐ心境は屈折率に同じ。

 花は笑うが、戯れなど洒落にもならない。昨日の延長にある今日とて、彼等にとっては命の全てだ。




 これは、名前のない春の話。

 都心から小一時間ほど離れた、関東大都市圏の片隅。ここに長閑(のどか)な田園都市が広がっている。


 最寄り駅から中途半端な距離に建てられた、しがない公立高校。その外壁に据えられた時計の針が、午後2時と15分を数秒過ぎた頃、チャイムが鳴り響いた。



 ホームルームが終わったクラスから順に、教室の扉が開く。帰り支度を終えた生徒たちが廊下に溢れ出してきた。


 喧騒が一挙に押し寄せて、昼中の静寂を破く。えんじ色の上履きが埃を立てて行き交う。


 ここから目指すは家路か部室かバイト先。あるいは、いつもの面子(メンツ)とバーガーショップで駄弁に勤しむのか、恋人とカラオケボックスで手でも繋ぐのか。


 思い思いの青春を過ごすべく、誰しもが昇降口めがけて階段を駆け降りていく。



「こらこら廊下は走るなー」

「先生ばいばーい」



 ごった返す一階の廊下、その中に、人混みを逆走して、校舎の端へと向かう一人の生徒がいた。


 襟元のネクタイは緩みきっている。ブレザーから覗く白いフードと一緒に、茶色に近いくせ毛が揺れる。愛らしい童顔にくりっとした瞳は、それだけで喜怒哀楽が読み取れるくらいに表情豊かだ。


 制服を着崩し慣れたその風体は、この一年、生徒指導の目を器用にすり抜けてきた実績があった。



 彼の名前は宮坂凛太郎。ついさきほど、ニ年ニ組の保健委員に就任した。



 羽がついているかのように軽い足取りで、凛太郎は鼻歌まじりに廊下を進む。

 進むにつれて人影は減っていき、やがて周囲に誰もいなくなった頃、右手の扉を開いた。



 ほのかにエタノール臭の漂う、ここは凛太郎の箱庭。

 訪れた怪我人がまずはじめに座るソファ、その向こうに、養護教諭の机が据えられている。ブラインドの隙間から、埃っぽい光が線状に差し込んでいる。



 すっかり見慣れた保健室の風景に溶け込んで、中央にぽつり、小柄な天使が座っていた。いつものように、回転椅子の上で三角座りをしている。


 整った顔がこちらを振り返った。凛太郎と目が合うなり、天使はにっこり微笑んだ。



「おつかれ」

「みーくぅん」



 凛太郎は稔に抱きついた。襟足の細い毛先が鼻筋をくすぐる。



「ここにいるってことは、稔も? 保健委員?」



 稔は両手でピースサインを作った。凛太郎は拳を天井に突き上げて、再び背中から抱きすくめた。



「いやったー! 天才! さすが俺の天使!」



 稔の頭をくしゃくしゃに撫で回した。天使の黒髪は艶々で柔らかい。どれだけ掻き回しても、癖ひとつつかずにサラリと元に戻ってしまう。



「でしょ」



 稔は両足を降ろした。凛太郎は力加減が馬鹿なので、そのままだと椅子ごとひっくり返ってしまいそうだった。



「今年も一緒に課題できるな」

「よろしくね」


 二人は強い抱擁を交わした。




 去年も保健委員だった二人は、委員会活動のため……という名目で放課後ここへ入り浸り、課題をこなしていた。


 ーーという建前で実際、のんべんだらりの数時間を謳歌し、貴重な青春を余すことなく無駄遣いする日々であった。



 現に今日も、特に集合もかかってないくせ、こうして律儀に保健室へ足を運んでいるのだ。ある意味勤勉だ。



 二年連続でクラスは分かれてしまったが、これで放課後は、今まで通り一緒にいられる。凛太郎の機嫌は、二次関数並みのうなぎ上りになった。


「芳恵ちゃんは?」

「職員会議だって。お留守番頼まれた」

「わーい占拠占拠」



 凛太郎はいそいそと、稔の隣の椅子を引いて座った。それからあたりを見回した。


「遠山は?」


 普段、金魚のフンのように、稔にひっついて回っている幼馴染だ。



「体育委員の集まり。ジャンケン負けちゃったらしい」

「かわいそうに。ここぞって時に弱いんだ、あいつ……そんなことよりみーくん」

「んー?」



 金魚のフンのことは光の速さで忘れ去り、早速本題を切り出した。上機嫌で鞄のファスナーを開ける。



「今日は大ニュース持ってきたべ」



 文庫本の合間に挟まったそれを引き抜いて、意気揚々と掲げてみせた。



「じゃーん」



 その手にあったのは、一通の手紙だった。

 稔は目を丸くした。



「ラブレター?」

「ざっつらい。靴箱に入ってた」

「へぇ」



 凛太郎から受け取った手紙を、稔はしげしげしげと眺めた。

 薄いアイボリーの封筒は、黄色い花のシールが貼られていた。ミモザだ。


 シールと一緒に、表面がほんの少し剥がれている。開封に失敗した様子が伺えた。



「とうとう俺にも春がきたぜ」

 


 鼻の下を擦る凛太郎に、稔はぱちぱちと拍手を送った。



「おめでとー」

「しかし遅かったよなぁ。もう一年早くても良かったのに」



 と、凛太郎は両腕を頭の後ろで組み、もたれかかった。

 

 『自他共に認めるムードメーカー』を自負している凛太郎である。性別問わず誰とも仲良くできるし、自分で言うのもなんだが友達は多い方だ。 


 だというのに、これまで誰かと付き合ったこともなければ、こんな風にダイレクトなアタックを受けた経験だって無かった。


 誰にでも優しい人だと思われがちなのが一因であろう……と推察される。



「なんて書いてたの?」

「放課後、体育館裏で待ってます。って」



 凛太郎は封を開けながら頬を緩めた。



「この令和の時代にさぁ、めちゃくちゃレトロと思わん? 好きだなあこういう感性。しかも見て」



 自慢げに便箋を広げてみせる。



「この達筆」

「ほゎー」



 手紙を覗き込んだ稔の両目は、再びまん丸に見開かれた。




  宮坂先輩へ


  今日の放課後、体育館裏に来てください。

  お待ちしています。




 流れるように美しい筆跡。

 見るからに書道経験者の字である。差出人の名前はなかった。



「内面もとんでもなく美しい人なんだろうな」

「ね。性格は文字に出るって言うもんね」

「好きだなあ、この字」



 凛太郎は繰り返した。



「きっと綺麗な人なんだ……」



 うっとりと目を閉じる。美しい書体から浮かび上がる、書き手の美しい容姿を脳裏に浮かべながら……。



 ガラガラっと扉が開いた。



「宮坂先輩」



 第三者の声がして、凛太郎の妄想はぱちんと弾け消えた。

 目を開けた凛太郎の視界に、



「ごめんなさい、迎えに来ちゃった」



 戸口に立つ男子生徒が映った。

 誰だろう、凛太郎は目をぱちくりさせる。

 彼は真っ直ぐにこちらを見つめて、問いかけた。



「今大丈夫ですか?」



 真っ直ぐに、見ている。()()()()()()()()()()



 数秒の沈黙ののち、凛太郎は稔と顔を見合わせた。

 再び彼に目を戻した。やっぱり、自分を見つめている。



「あー、や、ごめん」



 凛太郎は目を逸らしつつ、頭を掻いた。こう見えて生粋の人見知りなのである。

 ちらりと手元に視線をやった。



「ちょっと用事があって」

「どこに?」



 束の間、口籠った。



「……体育館裏」



 すると、その男子生徒はふわっと笑った。



「俺も一緒です」

「え」



 すたすたと歩み寄ってくる。凛太郎の手首を掴むと、


「行きましょう」



 0.1ミクロンの躊躇いもなく、戸口へ歩き出した。



「え、え?」

 


 困惑する凛太郎に構わず、彼は真っ直ぐに出口へと向かう。



「いってらっしゃーい」



 稔の呑気な声に送り出され、二人は保健室を後にした。




 何が何だかわからない。凛太郎は戸惑うばかりだ。

 そんな自分の手を引いたまま、相手は颯爽とした歩みを止めない。早足でついていきながら、凛太郎はちらりと彼を見上げた。


 前を歩く後ろ姿は、自分より少しだけ背が高かった。ツーブロックに刈り上げた黒髪。陽に焼けたうなじ。パリッと糊の効いた襟。


 それから視線を落とした。左手には、例の手紙を握ったままだった

 心の中で忙しなく思考を巡らせる。



(え、ブッキング?)



 同時に告白の場所に指定されたのか?

 再び相手を見上げた。頭のてっぺんから足先に視線をなぞらせる。

 上履きが紺色だ。ということはこの子、



(一年生だよな)



 ははあん、と、凛太郎は会心の笑みを浮かべた。足を早めて彼の隣に並ぶと、陽気に問いかけた。



「なに、君も手紙受け取ったん?」



 一年生が振り返る。凛太郎はその肩に手を置くと、体重を預けて、



「登校二日目で春が来るなんて、ちぇっ、モテるやつだぜ」



 ニヤニヤと脇腹をつついた。

 すると相手は照れ笑いを浮かべた。



「やー、俺は出した方です」

「????」



 凛太郎は体を離した。



 一年生は俯いた。口元にまだ笑みを残したまま言う。



「別にここまで出てきてもらうこともなかったんですけど。でも保健室だとね、先客もいたし。風情にも欠けるし」



 凛太郎の足が止まった。

 綺麗な筆跡が頭を過ぎる。

 その向こう側に想像した、さらりと伸びた黒髪、花の蜜の甘い香り……。


 


 不意に強い風が吹いた。三歩先で彼が振り返った。


 そこは渡り廊下だった。本校舎から体育館へ続く一本道。

 目的地の体育館裏は、あと数メートル先だった。春の匂いに包まれた昼下がり、二人の他には誰もいない。



 消し飛ばされた幻想の向こうに立っていたのは、さっぱりと刈り上げられた黒髪の、真新しい制服姿で。



「久しぶりです、先輩」


 春風をまとった妖精が、言葉を失った凛太郎に爽やかに笑いかける。制汗剤の残り香が、シャボンみたいに弾ける。



「好きです」



 小首を傾げた彼は、一つ風が(そよ)ぐように、こう続けたのだ。



「願わくば、僕の恋人になってくれませんか」




 カチリ。

 秒針が止まった。



 そんな錯覚がした。




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