第1話
目が覚めた瞬間、視界いっぱいに広がっていたのは、
ありえないほど緑が濃い大地だった。
朝露が草の上に丸く揺れていて、風はレモンとミントを足したような匂いがする。
遠くでは鳥の声、もっと遠くでは滝の音。頭上には大きすぎる虹。
そして正面には、朝日を抱いた神々しい山——そのふもとに広がる、輪のようにくり抜かれた草原と湖。
「……へ?」
声が漏れた。
言葉より先に、足が動いていた。
ゆっくり、ゆっくりと草をかき分けながら、小さな丘の上へと登る。
息が切れるのも忘れるほど、視界に飛び込んでくる景色はどこまでも圧巻で。
そこには——
山をぐるりと取り囲むように広がる、巨大なクレーターがあった。
中心には美しい湖が湛えられ、その周りは、まるで庭園のように整った草地と木々が並んでいた。
「まって。まってまってまって。え、私、どこ……?」
喉がからからだ。でも心はざわざわしてる。
さっきまで夢を見てた? いやこれが夢? 違う、こんな夢、見たことない。
ていうか、地面ふかふかすぎじゃない? 山、近すぎない? 太陽、神々しすぎない?
「そ、そもそも私……いつ寝たっけ……」
記憶がうすぼんやりしている。
たしか、昨日は畑の区画整理して、晩ごはんは肉じゃがで、夜は実家の犬にLINEで写真送って……
いや待て、犬にLINEは送れない。
その時点でおかしい。
頭が痛い。いっそ気絶してもう一度目覚めたい。
でも、ここで思考を止めたら負ける。
こんなときは、まず環境確認。これ、ゲームでもお約束。
「ふぅ……ジャガイモのこと考えよう」
そう。こういうときはジャガイモ。
皮むきが楽で、焼いても煮ても美味しくて、育てるのも簡単で、土の状態も見極めやすくて、
何より、農業初心者に優しい最高のパートナー。
ジャガイモを愛せば、世界もまた優しくなる——
「にゃぁ」
唐突に聞こえた声に振り返ると、そこには猫……のようで猫じゃない生き物がいた。
まるっとした丸顔に、桃色のぶっといしっぽ。
耳の先がふたつに分かれていて、どこか和菓子みたいなフォルムだ。
そして驚くほど人懐っこい目で、まっすぐこちらを見ている。
「……あの、ごきげんよう?」
そっと挨拶してみたら、動物(?)は首を傾げたのち、
ぽてぽてと足元まで近づいてきて、ちょこんとお座り。
「にゃん」
まるで、「初対面ですがお世話になります」とでも言いたげだった。
「……こ、これが異世界のペットかぁぁぁぁぁあ……」
涙腺が緩んだ。
もうこれ、認めざるをえない。私、異世界に来ちゃったんだ。
家もコンビニもWi-Fiもない。スマホは見当たらないし、通信も圏外どころか世界外。
だけど、この空気、この大地、このにゃんこ(仮称)——
なんか、ちょっと……いいかも。
目を上げると、少し離れたところに小さな家屋がぽつんと建っていた。
木組みと白壁の可愛らしい作りで、まるで絵本の中のコテージみたい。
煙突からは細く煙が立っていて、どうやら人が住んでいるらしい。
「よ、よし。あそこまで行って、情報収集だ……!」
覚悟を決めて歩き出す。
草の感触が足裏に心地いい。にゃんこ(仮)が後ろをついてくる。
道はなだらかで、ところどころに野花が咲いている。
パンジー? いや、これ見たことない花だ。葉っぱがしゃべりそうな勢いで光ってる。
まるで、自然が息をしているみたいだ。
それにしても——
丘の上から見た、あのクレーター。
あれって、なんなの?
山のふもとに綺麗な輪っか状の地形って、どう考えても自然現象じゃない。
誰かが、意図的に作ったものなのか、それとも……何かが、落ちてきたのか。
そのとき、ふと風が吹いて、視界がひらけた。
遠く。クレーターのさらに向こう。
小さな、ほんとうに小さな村が見えた。
もやのように霞んでいるけど、確かにあそこに、人の暮らしがある。
「村、ある……!」
胸が高鳴る。
たぶんそこに行けば、この世界のことがもっとわかる。
ジャガイモも、鍬も、土も、肥料も……全部、見つかるかもしれない。
「……って、違う。私なんで鍬の心配してるの!?」
思わず頭を抱える。
でもそれもまた、現実逃避しながらも前に進んでる証拠かもしれない。
とにもかくにも、今の私にできることはただひとつ——
「まずは、じゃがいもからだ」
そうつぶやいて、私はにゃんこ(仮)を抱きかかえ、
山を目指して歩き出した。
世界の謎とか、転生の理由とか、そんなことよりもまず。
あの緑に囲まれた土地に、じゃがいもを植える場所があるのかどうか。
それが、いちばん大事なのだった。