プロローグ:桃色の空とジャガイモの夢
春の空が、桃色だった。
いや、厳密には空そのものではなくて、それを映した水面が桃色だった。
ゆったりとした風が吹き抜けて、湖面に波紋が広がり、そこに映る空も、山も、雲も、見たことがないくらいのんびりとしていた。
そのあまりの美しさに、私はつい——
「……でかっ!!」
と、叫んでしまった。
だって、しょうがないじゃないか。
目の前に広がってるの、山よりでかいクレーターなんですよ?
底の見えない大穴が、空に向かってぱっかーんと口を開けてる。まるで世界の裏側を見せてやると言わんばかりに。
それを囲うようにして草原が広がっていて、どこまでも緑で、風の音すらゆるやかで。
これは、夢だ。
絶対に夢だ。
だってこんな場所、京都の実家よりも田舎すぎるし、
そもそも私、水庭翠は――
「……あれ? 私、さっきまでどこにいたっけ」
思い出せない。なんにも思い出せない。
大阪の街の喧騒も、商店街の焼き芋屋の匂いも、放課後の畑仕事の汗も、全部、夢の奥に沈んでいくみたいだった。
だけど、今の私が“ジャガイモを植えるのに最適な土地”を本能で見抜けるのは間違いないし、
この右手に持ってる杖みたいなやつから、なぜか巨大な魔力がモワモワ漏れ出してるのも間違いないし、
湖面に映る自分の顔が、明らかにどこかの王女みたいな超絶美人なのも——
「……うそでしょ」
思わずつぶやいた声が、風にさらわれていった。
頬に触れる髪が、ほんのり桜色。ピンク、だ。
肌は透けるように白く、目元はすっと涼しげで、まるでアニメのヒロインでも出てきそうな造形をしている。
眉毛が凛としてて、睫毛はふわり。おまけに腰まで伸びた髪がさらさら揺れてるって、これは完全にチートヒロインのソレだ。
「って、え、えええええ!? え、ちょっと、これ、なにこれ!!??」
慌てて地面に手をつき、息を整える。いや整わない。パニックだ。思考が木の枝みたいにぐしゃぐしゃに絡まってる。
どうして、私がこんな美少女に?
どうして、こんな大自然の中に?
どうして、こんな杖持ってる?
っていうか、どうして、どうして、魔力のせいで大地がビリビリしてんの!???
「……わかった。深呼吸しよう、翠ちゃん。大丈夫。ジャガイモのことを考えるんだ」
深呼吸、深呼吸。
ジャガイモ。そう、ジャガイモ。芽が出たやつをちゃんと処理して、切り口は乾かしてから植える。
水は控えめ、土はほろほろ。育てやすい野菜ランキング、不動の一位。
そして、一人暮らしにぴったりな栄養バランスとコスパを誇るスーパー主食。最高だ。
「ジャガイモ……育てたい……」
目の前の風景が、静かに揺れる。
クレーターの中には透き通る青。たぶん、湖か海か、何かの水。
あの底に土があるなら、あそこで農業できるんじゃない? ちょっとクレーター深すぎだけど。
でも、現実って厳しい。
たとえば——
その瞬間、突風が吹いた。
ひと吹きで、空気が悲鳴をあげた。
木々がわっさわっさと倒れ、小鳥が悲鳴を上げながら吹き飛び、空を漂っていた雲がバラバラに霧散した。
クレーターの水面が巻き上がり、波が岸をなめるどころか山の上まで届きそうな勢いで逆巻いている。
あまりに突然だったから、最初は自然現象かと思った。
でも違った。
「……へっくしゅ!!」
次の瞬間——
空が割れたような轟音がして、地面が風圧で削れた。
「……え、うそ、私の、くしゃみ?」
髪が逆巻き、スカートが翻り、杖の先端が風でぴぃぃんと震えている。
足元の小石が、まるで重力を忘れたようにふわっと浮かび、風圧だけで岩が転がっていくのが見えた。
そして目の前の崖に立っていた、あの立派な杉の木が——
根こそぎ引っこ抜かれ、風に乗って彼方へ飛んでいった。
「………………あ」
まるで、ドローンのように回転しながら、杉の木は空を舞った。
そして向こうの山の尾根にスポーン!と突き刺さって、遠くで微かに「ボフッ」という音がした。
えっ、なにこれ、新種の天災?
「……ちょ、ちょっと待って、私、これ、絶対ヤバいやつやん」
これ、もし町中だったら、建物全部なくなってたやつじゃない?
「くしゃみ一つで街壊滅」はトンデモ世界設定のコメディ要素だと思ってたのに、今、リアルにやったよね私。
「え……農業できるかな、こんな魔力で……」
絶望的な事実が、静かに脳内で再生される。
ああ、これ、アレだ。オーバースペックってやつだ。
農業するには強すぎる。
もはやジャガイモを植えたら天候が変わるレベルのパワー。
これは、つまり——
「……ギルドからのスカウト、めっちゃ来そう」
私の静かなスローライフ計画は、
どうやら、世界規模で狂っているらしい。
それでも私は、畑を耕したい。
のんびり、昼寝して、たまに料理して。
そういう“生きてる感じ”を味わいたいんだ。
でも、空は今日も桃色で。
風は、なんだか楽しそうに、私の髪を揺らしていくのだった。
——それが、異世界転生して最初の朝。
超魔術師・水庭翠の、平和で壮大なスローライフ(仮)が幕を開けた瞬間だった。