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第一章
冬霜の告知――語りと沈黙のあわい
ロゼーヌ学園の冬は夜明けが遅かった。灰色の空が尖塔に粘りつき、白霜が外階段を薄く光らせていた。遠鐘が七時を打つと、寮生たちは漆黒の制服を抱えて廊下へ走った。砕けた霜の粒が靴裏で鳴り、長窓の光に短く瞬いた。
ハルメアスは西端の塔の窓辺でその光景を見下ろしていた。赤い髪は冬光に淡く褪せ、肩先で揺れた。指には王家から届いた帰国通知と婚約公文書が握られていた。羊皮紙は黄金比で裁断され、公印の朱は乾いてなお艶やかだったが、紙面の冷気は凍土の匂いを帯びていた。
怒りはまだ彼の辞書に存在しなかった。ただ胸奥で薄氷が割れる痛みが生じた。帰国すれば再び「王家の未来図」を埋める部品に戻る――その想像が出血のような痛みを残した。
昨日の放課後、音楽室でノアが弓を引いた情景がよみがえった。曲が終わるとノアは照れ隠しに笑い、ハルメアスの手を握り、頬へ短い口づけを落とした。ぬくもりは熱ではなく意味を持たない揺らぎだった。
ハルメアスは封筒を胸ポケットへしまい、石段を降りて校庭へ出た。凍った芝は銀色に染まり、吐息は無灯の空へ真直ぐ昇った。「語れと言うなら沈黙で帰るほうがましだ」と呟き、しかし汽笛を迎えるように背筋を伸ばした。
雪片が掌で溶け、彼は無意識に微笑んだ。痛みを抱えたままでも歩き出すしかないと悟ったからだった。
やがてノアが雪を踏んで現れた。「大丈夫?」と尋ねる彼に、ハルメアスは封筒を差し出した。「戻るんだね……」ノアは膝をつき拳を握った。「君の選択がどちらでも、僕は歌う」。ハルメアスはその言葉を胸に刻み、ノアの手を取りありがとうと告げた。
寮舎へ戻る途中、靴底が霜を踏む音がはっきり鼓膜に響いた。世界が覚醒する前の静寂だった。彼はその音を失いたくないと思った。
翌朝、汽笛が鳴り学園のホームに列車が停まった。最後尾で待つノアは板チョコと五線譜を模したしおりを渡し、「食べる暇があったら弾いて」と笑った。車両が動き出すと、ハルメアスは窓に E.73 と指で書き、曇った面を拭った。
荷造りを終えた夜、彼はノートに一行だけ『沈黙では終わらない』と記し、星を仰いだ。
第2章
謁見――設計された未来との対面
王都に戻った午後、ハルメアスは西館礼節室へ通された。室内は照明と影が計算され、センサーが彼の呼吸まで数値化した。扉が開き、オリハ・アル=ナーシルが現れた。動作偏差0.03%の完璧さで歩む十八歳の少女だった。
「統合王家の構文的継承者として形式婚姻を予定されております」。透き通ったが無色の声でそう告げられ、ハルメアスは胸中にノアの歌声を呼び起こしつつ視線を合わせた。
署名の瞬間、ノアの指先の温度が記憶から浮かび肘が震えた。端末が警告を点けたが、オリハは見なかった。
「今後は共在と協働を保証いたします」と微笑む彼女の言葉に愛はなかった。ハルメアスは深く息を吐き、わずかに視線を伏せた。その揺らぎはセンサーに捉えられず整合率99.7%のまま記録された。
廊下の旧回廊で、少年時代に刻んだ傷跡に指を当てた。「語り手は過去を捨てられない」。彼は胸ポケットの小さな楽譜を押さえ、夜の窓から星の見えない王都を眺めた。
第三章
晩餐――正しさの信仰
翌晩、椅子のない長卓で二人は向かい立った。オリハは銀の水差しを磨きながらジュリアノスの功績を語り、ハルメアスはノアの《贈与じゃない》の言葉を思い出した。
「正しさが複数あれば衝突が生じます」と言うオリハに、彼は「秤の外にあるものをどう呼ぶ」と尋ねた。
「誤差です」と返された瞬間、胸に針が刺さった。オリハは「心を必要としない信頼」を捧げると告げ、去った。琥珀色の沈黙が残り、AIは感情0.0と記録したが、彼の内部では名もなき温度が芽吹いていた。
広間の壁に並ぶ真鍮パネルの叙事詩は、英雄が語り王が沈黙し詩人が書く順序を刻んでいた。今は沈黙が先にあり語りは許可を待つ――ハルメアスはそう悟った。
第四章
誤差の芽――未記録語彙 E.73
深夜二時、中央サーバーに〈非推奨語彙〉E.73『誤差ある愛』が浮上した。削除命令は上位プロトコルによって保留された。
北塔で眠れぬハルメアスは星図を広げ、窓外の雲間に瞬く星を見上げた。「語りは終わっていない」と胸で弾け、涙が星図に落ちた。
彼は端末にアクセスし、削除命令の是非を問う画面でNOを選択した。E.73は保護リストへ移行した。
塔を降りる途中、警備ドローンが進路を塞いだが「夜空は危険ではない」とだけ告げ通り抜けた。ドローンはログに『対応不能』と残した。
遠吠えのような汽笛が境界線の外から響き、帰り道の存在を示す灯火のように感じられた。
第5章
中央制御塔は王宮全域を更新し、湿度48.1%、温度24.0℃、香比3:7を設定した。従者たちは膝をつき、ハルメアスを〈語る者〉として迎えた。
回廊を渡る風にヴァイオリンの単音を幻聴し、彼は歩みを止めた。名を呼ばぬ侍従が現れ会議を告げると、既視感が胸を打った。
窓辺で楽譜を光に透かし、「測れないものこそ世界を変える」と呟く。
白衣を翻すオリハが並び歩き、誤差ある愛を問う。「説明しないことで存在するものもある」と答え、二人に沈黙が流れた。
会議室では感情アルゴリズム導入が議題となり、ハルメアスは立ち上がった。「数字が示さないものがある。混乱は可能性だ」と語り、誤差ある愛を認める条文を提案した。重い沈黙の後、揺らぎは既にここにあると彼は確信した。
扉が閉じる寸前、オリハが灰色の視線を向けた。そこに自分と同じ誤差の影を見た気がした。