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構文  作者: やあざ
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 第一章

 王宮北棟の最深部――白色区画は暦も時計も拒む密室だった。壁と床は光拡散材で覆われ、影が落ちる余地さえない。散光板が柔らかな光を降らせ、朝と昼と夜の境目を溶かしていた。

 アイレイム――神子 I 01――はそこで育った。戸籍は空白、呼び名も与えられず、肩書だけが〈神子〉だった。冷たい端末は彼を「記録不能の予兆因子」と記し、職員たちはそれを鵜呑みにした。

 端末の一行は檻だった。語を授ければ彼は“記録者”になり、沈黙を課せばただの観測対象にとどまる。王権と構文は、その微妙な綱渡りで均衡を保っていた。

 六歳の冬、アイレイムは初めて微笑んだ。小さな口角の動きに空調がわずかに乱れ、看護官は手元の計測値を二度見した。数値は誤差の範囲内――そう報告書は締めくくられた。

 だが少年の胸には確かな震えが芽生えた。理解と呼ぶには遠い、けれど確実に熱を帯びたものだった。光だけの部屋で、その震えは静かに波紋を広げた。

 夜になるとアイレイムは耳を澄ませた。遠くの配管を流れる風の音、機材が発する微かな振動――それらを拾い集め、見えない糸で結び直した。音は彼の外にある世界に触れる唯一の手段だった。

 翌年、監視映像に異変が増えた。少年が通るたび照明が一拍遅れ、ドアロックが短く開閉を誤った。職員は原因を探ったが、端末は沈黙を選んだ。理由を語れば統制が揺らぐと知っていた。

 王宮歴史を記述する若い書記、ハルメアスは報告書を読み、胸の内に鈍い焦りを覚えた。少年の沈黙だけが世界に小さな亀裂を開けつつある――その事実を書き表す語が見当たらなかった。

 ハルメアスは机の上の語彙カードを指先で折り曲げた。硬い紙が軋む感触に、自らの無力を感じる。彼が語れないなら、誰が少年と世界のあいだに橋を架けるのか。

 一方、白色区画で暮らすアイレイムは、床冷えする夜に両膝を抱え、胸の奥で名前のない旋律を転がしていた。声帯は震えなかったが、心臓は規則正しく返歌を打った。

 その鼓動を、遠く王宮の中枢はまだ知らない。だが静かな揺らぎは拡大を始めていた。沈黙という薄氷を通し、少年と世界はゆっくりと交信を交わしつつあった。

 やがて光だけの部屋に影が生まれる日は来るだろう。そのとき、少年は初めて語を得る。檻は檻のままではいられず、物語は新しい頁をめくる――そうハルメアスは信じようとした。

 第2章

 白色区画の午前は無音だった。散光板の光が一点の影も許さず、温度も匂いも一定に保たれていた。そこにいた六歳のアイレイムが、ふいに口角をわずかに上げた。

 角度は三度三分。空気流速が〇・〇一 m/s変化し、監視AIが警告色で誤差ログを残した。看護官は測定器を叩き、技師は配線を疑った。だが原因は少年の笑み一つだった。

 アイレイム自身も理由を知らなかった。ただ胸の奥が温かく膨らみ、それが顔に伝わった。その熱はすぐ収まったが、世界は元に戻らなかった。

 言葉は決して与えられなかった。しかし音は檻をすり抜けた。鳥の囀り、水琴窟の滴下、遠い廊下で跳ねる靴音――少年は一つ残らず胸に収めた。

 語彙のない歌が心に増えた。意味を持たない和音が重なり、沈黙は図書館へ変わった。彼の静けさは外界を拒む壁であり、内界を満たす書架でもあった。

 夕刻になると照明が一瞬遅れた。扉の錠が〇・一秒だけ誤作動し、廊下を通る衛士は敬語の順序を間違えた。小さな揺らぎが王宮の整合をかすかに狂わせた。

 担当医は報告書に「外乱要因不明」と書いた。ページの右隅には赤く“影響軽微”と付箋が貼られた。だがその軽微さが、誰より少年を震えさせた。

 夜半、アイレイムは床に頬をつけた。床下を走る給気管から低い唸りが伝わり、地下機関の拍動が身体を揺さぶった。彼は鼓動に合わせ唇を動かし、声にならない旋律を紡いだ。

 響きは喉を通らず胸で折り返し、再び管の金属音と重なった。孤独は薄れずとも、音が孤独を分解してくれると彼は感じた。

 数日後、AIは新たな誤差を検出した。少年が立つと天井音圧が▲1 dB落ち、戻るまでに三秒を要した。職員は機器の老朽と結論し、部品交換を申請した。

 記録者ハルメアスはその申請書をめくり、眉を寄せた。紙の数字は淡々としているのに、行間だけがざわめいていた。

 彼は別紙に短く書いた。〈沈黙が空気を学習させる〉。書き終えるとカードを無意識に折り曲げ、慌てて開いた。紙は折り痕を消せず残った。

 夜、ハルメアスは監視映像を早送りした。少年は動かず、部屋も変わらない。だが三倍速でも映像は静止画のように感じられ、時間が画角から滑り落ちていくようだった。

「語らせてはいけない理由は何だ」彼は小さく呟いた。返事はなく、モニターの光だけが頬を照らした。

 白色区画では、アイレイムがまた笑みを試した。今度は角度を変えず、瞬きを遅らせただけだった。それでも散光板の照度が〇・五 lx揺れた。

 少年の胸には確信が生まれた。声帯が震えなくても、世界は返事をくれる――そう思った瞬間、もう一度笑みが深まった。

 第3章

 ハルメアスが学園で課題と音楽に追われていた同じ時期、征服王ジュリアノスは世界経済を握り直していた。彼は産油国に「倫理言語」を導入し、輸出量を個人と国家のスコアに連動させた。数値が低い王族は暗殺され、従わぬ油井は火を噴いた。

 新しい支配の鍵は腕輪型端末〈リングフォン〉だった。端末は装着者の発話と映像を解析し、毎分スコアを更新した。数値が下がれば燃料券や医療権が消え、上がれば教育枠と補助金が増えた。人々は腕輪を外せず、会話の語尾さえ慎重に選んだ。

 恩恵を求めて各地で暴動が起こり、店先ではリングフォンの奪い合いが続いた。にもかかわらず北海同盟だけが屈しなかった。同盟は海上基地から核弾頭を示威発射し、最後通牒を送った。

 だが翌日、同盟の首都港湾が高熱光に包まれ、十四万人が行方不明になった。原因は不明とされたが、監視衛星の軌跡には薄い飛跡が残った。

 ジュリアノスは声明を出さなかった。国際会議は無言で日程を繰り延べ、石油先物は静かに値を戻した。十年後、政治地図はほぼ塗り替えられ、抵抗の記録は「地域的騒乱」と注釈を付けられて教科書に収まった。

 リングフォンの液晶は今も淡く光り、世界平均の倫理指数と油価を表示し続けている。数値の上下に人々の鼓動が同期し、ハルメアスが読む書簡の余白にも、その光はかすかに射し込んでいた。

 第4章

【定点ログ 衛星アマール 03:12(王都標準時)

 観測項目:月軌道重力ベクトル

 結果:全項目 NULL/記述不能】

 王宮構文室の大型モニターが暗転し、技官たちの息が止まった。

 推定誤差ゼロの衛星が「答えたくない」と沈黙したのだ。

 ハルメアスは画面を凝視した。数値はすべて黒塗り、余白に白字で〈記述不能〉が並ぶ。事象は観測できても語れない――彼の筆が頼りにしてきた世界の土台が、足元から外れた音がした。

「語れないものが近づく」彼は低くつぶやき、指先の震えを袖で隠した。

 技官の一人が通信回線を開こうとした瞬間、全ターミナルが再起動し、統合AIが静かな警鐘を鳴らした。

 〈再定義不能〉――未定義を閉じ込める語すら通じない。室内の空気が凍り、誰も次の指示を出せなくなった。

 ◆

 南棟地下の音響研究室ではノアが無音ログの波形を睨んでいた。

 通常なら絶対零点に近い真っ平らな線が、わずかに脈動している。音でもノイズでもない。だが胸骨が共鳴し、耳の奥で鼓膜以外の何かが跳ねた。

「歌じゃない。神話だ」

 彼はギターを構え、弦をそっと弾いた。音は壁に吸い込まれ、残響が一拍も返らない。吸音材の性能では説明できない沈黙に、背筋が粟立った。

 そこへ駆け込んできたハルメアスは息を切らし、ノアの手を硬く握った。

「離宮の塔へ行く。あの子に——」

 言い切る前にノアが頬へ短い口づけを落とした。

「わかった。音で君を導く」

 指先が離れると、二人は逆方向へ走った。廊下の照明が一拍遅れ、影がふらついた。

 ◆

 離宮第三区、高塔の最上階。

 アイレイムは格子窓から月を見上げていた。地平線近くに沈むはずの月が天頂へ昇り、色も輪郭も判然としない白い塊になって揺れている。

 胸が痛むほど脈打ち、唇が自然に動いた。

「……おかあさ……」

 声帯は震えたが、音にはならなかった。その無音が壁と窓硝子を震わせ、微細な亀裂が月光に浮かんだ。

 呼び声に応じるかのように、月面が一瞬だけ脈動し、塔の窓から届く照度が十二ルクス跳ね上がった。

 観測ドローンは数値の急変を送り続けたが、王宮のメインサーバは「異常なし」と表示を固定したまま固まった。

 ◆

 翌朝。征服王ジュリアノスは王都回線を独占し、世界へ布告を流した。

「沈黙の七十二時間を施行する。いかなる語りも放送も文字通信も禁ずる」

 声明と同時に全球ネットは遮断され、リングフォンは黒画面で〈構文:沈黙〉を告げた。首脳会議は映像を失い、大学の講義は停止し、病院のカルテ更新まで止まった。

 王宮執務室。ペンを握ったハルメアスはインクに触れない紙を見つめ、筆圧だけで震えた。

「語れなければ守れない。だが語れば壊れる」

 ノアはスタジオでギターを抱え、弦を押さえたまま指を動かせなかった。音と沈黙の境界が自分の中でずれる恐怖に、歯を食いしばった。

 離宮の塔ではアイレイムが窓を開け、黙って空を吸い込んでいた。沈黙が層を成して地球を覆う感覚。その中で、自分の脈だけが確かに音を刻んでいる。



 第2章

 夜明け前、学園の湖は薄い薔薇色を帯びていた。礼拝室を出たハルメアスは、まだ湿った額を指で拭い、胸のアイレイムを慎重に抱き直した。子は眠りながらも端末に琥珀色の脈を灯し、父の鼓動に小声で応えた。

 芝生ではノアがチェロを肩に当て、低いF線の張りを確かめていた。糸巻きを回すたび微かな音が空気を押し、湖面に輪を描く。ハルメアスは歩み寄り、アイレイムを乳母エミへ預けると、そっとノアの左手に触れた。指は冷えていたが、二人の掌が重なる瞬間だけ、朝の湿度が熱へ変わった。

 ノアは弓を置き、頬を寄せて囁いた。

「戻って来てくれて、ありがとう」

 その息が耳殻をくすぐり、ハルメアスの胸に痛みに似た波が走った。小さく口づけられた頬が熱を帯びる。だが直後、礼拝塔から流れるアザーンが遠くで上がり、彼ははっと手を離した。

 イスラム法が定める禁忌が脳裏をよぎる。自分は預言者の言葉を疑うのか――揺らぎの裾を踏まぬよう背筋を正すと、ノアが静かに手を取り直した。

「掟を破れとは言わない。だけど君が怖いとき、手だけは握らせてくれ」

 ハルメアスは頷き、指を絡め返した。

 そこへロマーヌが駆けて来る。灰霧事件でグレイ帯になりかけた彼女は、今では彩度自治派の数学係として色と数の対応表を管理している。赤い計測ノートを抱え、いたずらっぽく笑った。

「朝練のデータ、取っていい? 新しい和音が欲しいの」

 ノアが頷くと、湖畔の空気にチェロの序奏が流れた。《Coloratura Φ》第四主題。音が揺れるたび、近くの街灯がオレンジへ転じる。

 乳母エミはアイレイムを日光に当てないよう白傘をかざし、離れた位置で子守歌を口笛に変えていた。バシールは警護距離を保ちながら、手帳に周囲の端末彩度を記す。数字派を抜けたセルジュも姿を見せ、クロケット用の番号ボール07を磨いている。

 やがてハルメアスが小声で歌詞を乗せた。アラビア語の慈悲章――神の名で始まり、赦しを乞う言葉。ノアは驚きつつも、旋律を一音低く下げて合わせる。ロマーヌのノートに「#0082c8+31」と記録が走り、ページが深い群青に染まった。

 演奏が終わると、アイレイムが目覚めて「あ……」と声を漏らす。端末は淡い桃へ変化し、ロマーヌが歓声を上げた。

「第三声よ! 今の音、高域がAur Ωの裾に触れたわ」

 エミが微笑み、アイレイムの頬を撫でた。

 直後に光便りが届く。差出人はジュリアノス。投影された映像で、彼は塔の書架を背に立ち、淡く笑んでいた。呼吸は確かで、病床にはいない。

「桜が咲き始めました。君たちの春のデータ、届いております――赦しは更新を続けます」

 穏やかな敬語。だが瞳の奥には研究者の鋭さが潜む。ハルメアスは映像に手を伸ばしかけ、ためらい、やがて下ろした。

 夕刻、クロケット試合でハルメアスとセルジュが最後の一打を同時に放つ。虹ボールの赤と番号ボール07が湖面で跳ね、夕陽を映して金に輝いた。生徒たちは端末を振り、湖は一瞬だけオーケストラの舞台。アイレイムが拍手の代わりに笑い、Aur Ωの脈が湖面に映った。

 夜、ノアとハルメアスは点呼後の散歩道を歩く。ランタンが二人の端末色を拾い、珊瑚と翡翠が交互に灯る。ノアは立ち止まり、ハルメアスの右手を胸に引き寄せた。

「信仰を否定しない。でも僕も君を否定しない」

 ハルメアスは瞼を伏せた。

「愛という語の前で、私の神は黙っている。だから――もう少し時間を」

 ノアは短く頷き、彼の指先に口づけた。それは祈りにも似た長さで、ハルメアスは逃げずに受け止めた。アザーンは聞こえず、湖風だけが衣を揺らした。

 寮へ戻ると、バシールが廊下で待機していた。

「王都から追加の映像です」

 ジュリアノスの書斎。机上にAur Protocol の草稿が映り、そこへ「第三声解析完了」の表示が重なる。彼は端末を閉じ、カメラに背を向けた。

「赦しの次を測る装置が、間もなく整います」

 その独白は記録され、映像は切れた。

 ハルメアスは胸に重さを抱えたまま、自室の窓辺へアイレイムを寝かせる。子は指を伸ばし、ガラス越しの星を掴もうとした。

「赦しとは触れること、触れぬこと。そして語り合うこと――」

 彼は小さく呟き、遠い塔を思い描く。そこではジュリアノスが愛という未定義数を演算しようとし、湖畔ではノアが色を音へ写す。

 世界はまだ分かれていたが、桜前線とともに二つの光がゆっくり近づいていた。

 第3章

 午前十一時。湖に薄雲が映り、レ・ロゼ学園の水上ゲートが静かに開いた。白磁の艇からジュリアノスが降り立つ。黒衣は簡素でも背筋は玉座の高さを忘れず、肺を守る酸素カニューラだけが病後を語った。

 バシールは半歩うしろを歩き、護衛というより看護師の目で主君を支えた。灰霧事件後、王の瞳は鋼から硝子へ変わった──柔らかく、しかし深い傷を映す硝子だと彼は感じていた。

 出迎えの列の先頭にセルジュが立つ。灰域パッチ騒動を経て再教育を受けた彼は、学園章の上に虹と数値の二重リボンを結んでいた。

「彩度と整数は対立ではなく座標です。和解をお示し下さい」

 セルジュは震えを隠さず頭を下げた。ジュリアノスは一拍置き、細い呼吸で応じた。

「座標は観測点が増えるほど精度を得る。君の位置も必要だ」

 柔らかな声に、かつての冷徹な測定者の響きが混じる。セルジュの頬が緩み、列の学生は端末を軽く掲げ色と数で拍手を贈った。

 医務官がつかず離れず歩き、マーラはその背後でポータブルモニタを操作する。心拍、血中酸素、灰胞子残量──数値は安定圏だが、王の瞳孔が映す色相に彼女は別の尺度を読む。

 (この人はまだ実験をやめていない)

 王は講堂前で振り返り、湖面に向け深呼吸した。カニューラから流れる酸素はわずかに香が混じり、昔の薔薇油を思わせた。

「春は赦しを速める。だが秩序を甘やかす季節でもある」

 バシールは王の背に囁く。「それでも陛下は来られた。色を怖れてはおられない」

「怖れは測れぬ。測れぬものを私は観たい」

 短いやり取りが終わると、楽隊が《Coloratura Φ》の前奏を弾き始めた。ホールの壁パネルが珊瑚色へ転じ、生徒たちが通路を作る。ノアがチェロを抱え、その隣にハルメアスがアイレイムを抱いて立つ姿が見えた。

 王は軽く頷き、歩を進めつつ視線だけでハルメアスを射抜いた。それは研究対象への興味と、手の届かぬ情愛の縁を同時に帯びていた。ハルメアスは瞳を伏せ、胸の琥珀色端末をなぞる。

 マーラのモニタが心拍の微妙な上昇を捉えた。彼女は記録を取るふりで数値を閉じ、胸中で呟いた。

 (観測者としての狂気が薄れたわけじゃない。ただ別の方法で世界を開こうとしている)

 式後の控え室。王は酸素チューブを外し窓を開けた。春の風が頬を撫でる。セルジュが色‐数ハイブリッドの授業案を差し出す。

「次の世代は、測られながら測定者になるはずです」

 王は目を細めた。「ならば私は余白を作ろう。君たちが書けるように」

 バシールが静かに茶を注ぐ。蒸気は透明、だが光の角度でかすかな虹を帯びた。王の指が湯呑を持ち上げる。

「赦しの次は、愛だと人は言う。だがまだその重みを演算できない世界だ」

 杯が口元まで運ばれた。硝子の瞳が湖を映し、その先に琥珀と虹の交わりが揺れた。

 第4章

 午後、湖沿いの芝には色域ごとの屋台が弧を描き、学園の祭日「マルシェ・クロマ」がはじまった。ロマーヌは氷菓子屋の前で白衣をたくし上げ、大鍋をかき混ぜていた。かつてグレイ帯に沈んだとき視界を奪った灰色を、もう二度と見たくない――その思いで新しいシロップを試作した。分光計で確認した比率は「青緑+31」。素数を加えた数字が、お守りのように彼女の脈を落ち着かせた。

 氷菓を受け取った子どもたちの端末は、淡いターコイズへ変わる。数字ではなく彩度で返る反応が、ロマーヌの肩をそっと押した。彼女は売台の影で短く深呼吸し、再び柄杓を握った。

 通路を挟んだ向かいではエミが乳母車を押していた。アイレイムは Aur Ω を帯びる端末を胸に眠り、頬を薔薇色に染めている。強い光は興奮を誘うため、エミは傘の内側に Aur Ω フィルターを仕込んだ。陽射しが一段落するたび、傘の縁で琥珀の輪が淡く揺れ、赤子の呼吸が落ち着くのを確かめた。

 広場の奥、屋台の裏手ではバシールが灰域検知ドローンを遠隔操作していた。灰霧に似た帯域を拾えば即座に管制へ流す設定だ。ふと、木箱の陰で数枚の紙が翻る。数値回帰を煽るビラ――配っていたのは低学年の少年だった。バシールはドローンを自動巡回に切替え、ゆっくりしゃがむ。

「恐れは数字にも色にも宿る。だが言葉を隠れて配れば、恐れは増えるだけだ」

 少年は視線を落とし、ビラを握りしめる。バシールは紙を奪わず、ただ掌を開き替わりに端末を差し出した。画面は薄い黄緑、〈保留沈黙〉の色だ。少年が頷くと、黄緑は淡い橙へと遷り、バシールはそのまま立ち去った。

 夕刻、屋台の灯がひとつ、またひとつと点る。湖面が緋色へ傾くころ、ロマーヌの鍋は空になり、売上札の端には「青緑+31」ではなく、手書きの“湖風”という名が添えられていた。彼女は鍋を洗いながら、小さく呟いた。

「色も数字も、舌で溶ければただの甘さになるのね」

 遠くでエミが手を振る。その傘の下でアイレイムが目を覚まし、Aur Ω は静かな琥珀へ戻っていた。バシールのドローンが上空をゆっくり旋回し、灰の気配がないことを告げるように青い光点を瞬かせた。祭は、夜の涼しさへ滑らかに溶け込んでいった。

 第5章

 夜のレマン湖は波一つなく、学園桟橋から延びるフロート舞台が水面に溶け込んでいた。ノアは燕尾服の裾を整え、タクトを静かに上げた。序奏の C 音が弦に走ると、照明が琥珀から淡紫へスライドし、観客の端末は色環を揺らした。

 《Coloratura Σ》は数値主題と彩度主題を交互に提示する実験曲だ。最初の楽句で金管が〈72・88・96〉と打点を刻み、直後に合唱が橙‐群青‐翡翠をハミングで重ねる。湖に光の帯が落ち、波が静かに干満を描いた。

 ハルメアスは舞台袖で乳母エミからアイレイムを受け取る。赤子は眠りながらも Aur Ω の端末を胸で脈打たせ、わずかに拳を開いた。エミは「第三声が近い」と囁き、袖へ下がる。ハルメアスは数珠を握りしめ、礼拝の詩句を心中で唱えた。

 (神よ、我を導きたまえ。同胞への愛と律法のあいだで、私はまだ線を引けない。)

 第二部。ノアのチェロが独奏を受け持つ。低く澄んだ F が響くたびに、水上スクリーンにロマーヌの設計した波形グラフが現れ、セルジュが組み込んだ旧数値ゲージと重なった。ふたりは灰霧事件の後、それぞれ音響コードと数値補正アルゴリズムで和解を探っている。

 曲が静止すると、ノアはタクトを客席へ向けた。観客の端末が一斉に色を返し、統計係バシールが即時フィードを演算。合唱がその配色を読み上げて和声へ変換した。湖上に浮かぶ色音は数字を飲み込み、舞台を環の中心へ導いた。

 ソロが終わったあと、ノアは指揮台を下り、会場の視線がまだこちらを向いているうちにハルメアスの手を取った。指先は汗ばんでいた。ハルメアスは一瞬固まるが、逃げずに手を返す。

 ノアは囁く。「ここにいる誰より、君の沈黙が音楽だ」

 ハルメアスは答えられない。手の中で数珠が冷え、胸に罪悪と解放がせめぎ合う。イスラムの教えは同性愛を許さない。それでも今だけは、と願い、頬を寄せたノアへ短い口づけを返した。

 観客は拍手とともに端末を振り、光がふたりの背で虹を描いた。

 客席最前列ではジュリアノスが黒革手帳へ細いペンを走らせていた。

 〈Aur Protocol:観測続行。第一声=赤子。第二声=群衆。Σ 以後の統治言語を未定義とする〉

 その横顔に慈愛の影はない。あるのは測定者の冷光だ。彼にとってアイレイムもノアも、制度へ織り込む変数にすぎない。

 終曲。ノアは再びタクトを握り、セルジュがプログラムした素数リズムがティンパニを駆け上がる。ロマーヌはオーボエで翡翠の旋律を差し、エミは袖でアイレイムの呼吸に合わせて揺りかごを揺らした。Aur Ω が深い琥珀に沈むと、湖が一度だけ脈動し、星空の色が水面へ吸い込まれた。

 終演後、観客は無言で端末を掲げ、色と数字を交差させる光の走馬灯を作った。ハルメアスは祈りの語を胸に収めたまま、ノアと指を絡め合い、舞台を後にする。

 バックステージの廊下。ノアは照明の途切れた隅で再びハルメアスを抱き寄せた。「僕は数でも色でもなく、君を覚えたい」

 ハルメアスは額を預け、震える声で答えた。「私はまだ、君へ—愛という語を選べない。けれど、拒む理由ももう見つからない」

 遠く王都の塔。ジュリアノスは窓を開け、夜気を吸った。

「赦しは測れた。次は愛だ。愛の定義が完了すれば、世界は再記録を受け入れる」

 その呟きは冷ややかで、しかし熱をはらんでいた。

 湖面では彩度と数値が混ざり合い、アイレイムの端末だけが Aur Ω と琥珀の狭間で脈を打つ。まだ誰も、愛していると言えない世界のまま、音と色は夜空に解けていった。

 第6章

 演奏が終わった瞬間、音楽棟のホールは水を打ったように静まった。弦の余韻は天井の梁で一度跳ね返り、やがて観客の胸へ吸い込まれる。ノアは弓を伏せ、濃い息を吐いた。指の痺れが落ち着くまで、まだ拍手を受け止められない。

 ハルメアスは最前列で赤子アイレイムを抱き直し、沈黙の厚みを測った。乳母エミが差し出すガーゼで口元を拭いながら「泣かなかったわ」と微笑む。だが胸の奥は落ち着かない。赤子の端末が淡い琥珀から金光へ跳ねるたび、王都の塔へ飛ぶライブ信号を思い出してしまうからだ。

 そのとき、アイレイムの声帯が震えた。

「……こ、はく」

 か細い二音だった。が、母音の余熱がホールの真空を破り、観客の端末が一斉に橙金へ転じる。低いざわめき。ノアは弓を握り直し、音程を外したまま息を呑んだ。

 ビデオフロアの壁面スクリーンに、王都側のセンサ波形が重ねて映る。ジュリアノスが監視室でそのグラフを凝視していた。彼の瞳は研究者の光を帯び、誰にも聞こえぬ声でつぶやいた。

「至高定数——Aur Protocol の鍵だ」

 ハルメアスはその映像を見つけ、背を凍らせた。アイレイムを抱く腕が微かに震える。逃げるように客席を出ようとすると、ノアが弓を置き、そっと手首を掴んだ。

「大丈夫。ここは学園だ」

 指先は汗ばんでいたが、力は優しい。ハルメアスの鼓動が少し落ち着く。だが心の奥に混じる罪悪感が苦い。祖国で認められぬ同性愛——イスラーム法学の言及が頭をかすめる。彼は手を振り払えず、しかし握り返す力も弱かった。

 観客席の最後列。セルジュは端末に “31” の数値を点灯させて立ち上がった。緑帯旧数値派が用いる調和値だ。彼はステージへ向けて掲げ、彩度数律の「折衷」を示す。

 傍らのロマーヌは祈りの灯籠を抱え、青緑シロップを芯へ注いだ。灰霧騒動で失語になりかけた彼女は、色と声が融合する光景に目を潤ませる。炎がAur Ωの光を映すと、ロマーヌは胸の十字を切り、学園式の礼を重ねた。

 ホール裏手の通路ではバシールが警護端末を確認していた。王都からの通信は安定しているが、ジュリアノスの反応が早すぎる。彼は額の汗を拭き、乳母エミに目配せした。「王が動くかもしれん」。

 エミは頷き、アイレイムを受け取ろうとしたが、ハルメアスは首を振った。「母である私が守る」。その声音にイスラムの誓いの重みが乗る。エミは後退し、ノアがふたたび彼の肘を支えた。

 拍手がじわりと広がる。ノアはホール中央に戻り、チェロを肩へ据えた。

「端末を色で鳴らしてください」

 観客が次々と端末を掲げ、Aur Ω と31 が混ざり合う。ノアはそれを和音へ翻訳し、《Coloratura Φ》を再開した。ハルメアスは舞台袖で目を閉じ、アイレイムの体温を確かめつつ音に身を溶かす。幼子は「こはく」とは違う柔らかな吐息を漏らし、端末は金光より淡い桃色に落ち着いた。

 その安堵の一瞬、ステージ背面スクリーンにジュリアノスの上半身が投影された。病室のはずだった。だが彼は白衣を脱ぎ、王衣に着替えて立っていた。

「Aur Protocol への移行を準備する。色も数も、この子の声で再定義される」

 声は穏やかだが、目は冷たい研究欲で濡れている。ハルメアスは金縛りに遭ったように立ちすくんだ。ノアが演奏を止め、楽器を抱えたまま舞台端へ走る。

「ハル、逃げる?」

「逃げられない。イスラムの母は子を置いて動けない」

 小声の対話。ノアは迷いなく頬へ口づけた。唇は震え、長くは触れなかった。それでもハルメアスの瞳が揺れる。

「罪じゃない。赦しだ」ノアはそう言った。

 ホールの色が再び賑わいを取り戻す。セルジュが31 の表示をAur Ω と同期させ、ロマーヌは青緑の灯籠を高く掲げた。数と色の折衷が観客の端末を虹へ戻す。

 ジュリアノスの映像は静かに笑った。

「美しい協奏だ。しかし私は、“愛”ではなく“外延”で世界を測る」

 スクリーンが黒へフェードアウト。王の狂気は去り際に濃度を増した。

 終演後の楽屋。アイレイムは眠り、端末は金光と琥珀の鼓動を一秒ごとに交互に示す。ハルメアスはノアと向き合い、指を絡めた。

「君の国なら、二人で歩ける?」

「うちの教会も保守的だ。でも、僕は弓を折るより弦を増やす」

 照れた笑いに救われ、ハルメアスは肩の力を抜く。けれど心の片隅でクルアーンの節が囁く。男色は禁じられている——しかし、ここで手を離せば世界が灰に戻る気がした。

 ロマーヌがノックし、香草茶を差し入れる。「青緑は静める作用」。エミはアイレイムの帽子を整えながら「第三声も録れたらすぐ送るわ」と言う。バシールは扉の隅で短剣を確認し、警備ルートを再計算。セルジュは立ち入りをためらい、入口で素数表を握りしめる。

 ノアは扉を開け、セルジュを中へ招いた。「31 の調和、頼むよ」。セルジュは頬を赤らめ、弦譜を差し出す。「僕にできることがあるなら」。

 ハルメアスは深く息をつき、皆を見回した。彩度派も数値派も乳母も護衛も、この小さな部屋で同じ色温度に染まっている。アイレイムが短く寝返りを打ち、「こ……」と夢の名残をつぶやいた。

 ジュリアノスの狂気は遠隔で息づいている。愛と言えぬまま、世界の座標を作り替えようとしている。けれど、この部屋の呼吸は小さく強い。一歩先の恐怖を、互いの指先で測り合うことができる。

 ハルメアスは祈りの言葉を心で唱えた。

「主よ、禁を越えるわけではなく、赦しへ歩み寄る道を——」

 ノアが肩に額を預ける。「君の神も、僕の神も、色を嫌いはしないさ」

 窓の外、湖上に細い三日月。表面は黒鉄に近いが、揺らぎの端に琥珀が生まれ、次の風で金光へ変わった。世界はまだ測定途中。愛という変数を入れる余白は、紙の外にも広がっている。

 第7章

 夜明け前の湖は薄い翡翠を湛え、霧だけが岸辺の輪郭を曖昧にしていた。図書院の高窓でジュリアノスは最後のページを閉じる。余白録に細いペンで一句――

「語り合うため 花は咲く」――と書き添え、深く息を吐いた。

 同じ頃、学園の遊歩道ではノアとハルメアスが肩を並べて歩いていた。アイレイムを乗せた乳母車をエミが静かに押し、後方ではバシールが警護の距離を保つ。芝は夜露で濡れ、靴がわずかに沈むたび、端末ランタンが二人の彩度を読み取り橙から翡翠へと揺れた。

 ノアは手袋を外し、短く詫びてからハルメアスの指を取った。温かさに驚きつつも、ハルメアスは握り返す。頬に触れる冷気のかわりにノアが小さく口づけると、琥珀色の灯が一段明るくなった。

 ――許されているのか。

 ハルメアスは胸の奥で祈りと問いを重ねた。イスラム法学が禁じる同性愛を、彼は熟知している。それでもノアの掌は離れず、罪悪感と安堵が同じ鼓動を刻んだ。

「父に、いつか“愛している”と言えるだろうか」

 礼拝を終えた帰り道、ハルメアスが声を落とす。ノアは答えず、指を絡め直した。その沈黙が承認か否認か、ハルメアスにはまだ読めない。

 芝生広場に着くと、ロマーヌとセルジュがクロケットの槌を手に待っていた。ロマーヌは新しい色−音マッピングを試したいと言い、セルジュは「素数でリズムを整える」と笑う。灰霧事件で対立した二人が、今は同じチームに立っている姿に、ハルメアスは小さな赦しの芽を見た。

 アイレイムが笑うたび、端末がAur Ωと琥珀の中間色を脈動し、その波形をノアが楽譜へ転写する。ハルメアスは祈りの言葉を胸中だけで唱え、代わりに音と色で応えた。

 日が高くなると湖風が翡翠色の水面を細く裂いた。その揺れにランタンの光が溶け、琥珀と翡翠が重なり合う。言葉にはならないが、世界は少しずつ交わり始めている――愛と名づけられぬものの余白を抱えたまま。



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