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構文  作者: やあざ
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第1章

 一九九一年四月、ハルメアスは乳母エミと護衛バシールに囲まれ、赤子アイレイムを抱いてレ・ロゼ学園の湖畔に戻った。駅舎を出るとノアが立っていた。彼はチェロ・ケースを背負い、無言で手を差し出した。ハルメアスが握り返すと、互いの脈が掌に重なった。

 ノアは周囲に気づかれぬ角度で頬へ軽く口づけた。ハルメアスはイスラムの戒律が胸を刺すのを感じたが、手を離さないまま小さく頷いた。湖面に翡翠のさざ波が走り、生徒たちの端末が虹色に揺れた。歓迎は拍手でなく色で示すのが、いまの学園の流儀だった。


 校内では β Interface の色階調版が正規科目となり、時間割は数値表でなくパレットで掲示される。曙橙は協働実習、薄緑は独習、といった具合だ。アイレイムの保育室は“Amber R 親和ゾーン”に指定され、水晶レコーダが第三声を待つ。ロマーヌは飾り付け係を買って出て、素数を模したモビールを吊り下げた。


 午前の音楽棟。蔦が芽吹く石壁のなかでノアは《Coloratura Φ》を練習し、チェロの低音に合わせ壁パネルが珊瑚色へ変わる。ハルメアスは譜面台の横でアイレイムを抱き、赤子の指が弦を弾くたび Aur Ω の微光が跳ねた。ノアは生徒たちに「色を三つ、数字を一つ」入力させ、和声へ変換する演習を始める。迷っていた元数値派のロマーヌは #0099CC と 31 を選び、教室は澄んだ E♭ の和音に包まれた。ハルメアスはその響きに胸の重石がわずかに緩むのを感じた。


 昼休み、芝のクロケット試合。彩度派はカラーボール、数値派は番号ボールを使う折衷ルールだ。ハルメアスは「導きの赤」を手にし、対戦するアデルは「再出発の七」を選んだ。試合は同点に終わり、二人はボールを同時に湖へ放る。水面で赤と白が交差し、生徒たちは端末を振って色を送った。湖は瞬時に薄橙から青へと滑らかな階段を描いた。


 夕方、寮に戻ると王都から光便りが届いた。送信者はジュリアノス。余白録の一節とともに、病室の窓辺で彼がアイレイムの録音を聴く短い映像が添えられていた。


「君たちの春は美しい。王都の桜も間もなく満開でございます」


 映像の彼は微笑み、咳をひとつ交えた。ハルメアスは端末を胸に当て、静かに瞼を閉じた。赦しは続き、語りは芽吹き続けていると確かめるように。


 就寝後、ハルメアスとノアは湖畔の散歩道へ抜け出した。ランタンは二人の端末色を読み取り、淡い珊瑚と翡翠へ光度を変える。ノアがそっと手を握り直すとハルメアスは身を強張らせたが、指を絡め返した。


「信仰は裏切らない。けれど僕も裏切らせない」


 ノアの囁きにハルメアスは答えられず、代わりに彼の肩へ額を寄せた。遠く桟橋には灰色のコート姿──セルジュが湖を眺めていた。ノアがチェロケースを軽く叩くと、セルジュは次の番号譜を掲げて応えた。


 翌朝、再び光便り。ジュリアノスは回復傾向にあり、夏には学園を視察するという。余白録の次ページには彼の手で一句だけ記されていた。

触れられぬままに咲いた花を、語り合うため、歩み寄る。


 彩度と数値の和解は公式にはまだ途上だが、学園の子どもたちは昼も夜も端末を振り、色で数字を、数字で色を語る。アイレイムは琥珀の端末を脈打たせつつ眠り、ハルメアスは湖畔に座りながら思う。


(赦しとは触れずに守り、触れて温め、そして共に語ること)


 春風がすべての色を淡く溶かし、湖面に揺れる花霞をひとつの物語にしていた。



第2章

音楽棟の朝は静かだった。石壁に若い蔦が伸び、開け放した窓から湖の匂いが入る。ノアは椅子に腰掛け、《Coloratura Φ》第三楽章の出だしを弾いた。太いF線が震えると、壁パネルは自動制御で淡い珊瑚色へ変わり、教室に柔らかな熱を運んだ。


 ハルメアスは最前列の譜面台脇に立ち、赤子アイレイムを抱いていた。乳母に預ける間も惜しんで連れて来たのだ。

ノアは軽く顎を動かし「弦に触れさせて」と合図した。

ハルメアスは小さな指をノアの弓へ導き、赤子が偶然はじいた半音が空気を撫でる。瞬時、端末は Aur Ω の微光を放ち、床のタイルまで同じ色に染めた。それは歓声より早い笑い声で、アイレイムの口からこぼれた。


 転入して間もないロマーヌが手を挙げる。


「ぼくの色を試したい」


 端末に『#0099CC』と数字の〈31〉を入力する。素数が選ばれた瞬間、システムは深い青緑を表示し、低い E♭ の和音へ変換した。教室は海底のように落ち着き、ロマーヌの頬がほっと緩む。


 ノアは弾く手を止め、ハルメアスの袖口をそっと引いた。


「君の色が足りない」


 低い声で告げると、自分の指をハルメアスの手に重ね、弓を持たせた。互いの体温が木の質感に重なり、一瞬だけ弦の震えが二人の皮膚を伝う。


 ハルメアスの胸に波が走った。イスラムの家で育った彼にとって、男同士の触れ合いは秘めるべき葛藤を伴う。それでもノアの指を振り払えない。

心の奥で「罪かもしれない」という囁きが揺れ、同時に「それでも離さないで」という別の声が重なった。


 ノアは周囲の視線を意識し、握った手をそっと離す。弓はハルメアスの掌に残り、弦の上で浅く揺れた。彼は迷いながらもG線を軽く押さえ、何の色も指定せずに弓を引く。無彩の音が細く伸び、パネルがわずかにグレイへ傾いた。


 アイレイムがくすぐったそうに笑うと、グレイはすぐ薄い琥珀へとろけ、ノアの瞳にも同じ色が映る。ハルメアスは胸の奥で祈った。――この色が背信でなく、赦しの兆しとなりますように。


 ノアはそれ以上言葉を足さなかった。ただ譜面をめくり、次の合奏へ移る合図を出す。生徒たちの端末が草色、桜色、黄土色と次々に灯り、教室は春の庭のように変わる。ハルメアスは弓を譜面台に戻し、ノアと目を合わせて小さくうなずいた。互いの想いはまだ名前を持たないが、音と色の重なりの中で確かに息づいていた。



第3章

午前の彩度数楽が終わり、鐘の余韻が石壁に散った。

ノアはチェロをケースに納め、ハルメアスの袖口をそっと引いた。

廊下の陰で二人は手を重ねる。ノアの掌は春の光で温かいが、ハルメアスの脈は速かった。

イスラム教徒である彼にとって、男子の肌に長く触れる行為は宗教的逡巡を伴う。

それでも指を離せず、短い祈りを胸の奥で唱えた。


 「昼休みは外へ出よう。湖風が色を洗ってくれるから」


 ノアが囁き、ハルメアスは小さくうなずいた。弦の香りが残る指先に口づけが触れたのは一瞬だった。誰もいない階段踊り場で、頬へ落ちたその熱は赦しと同じ温度を帯びていた。


 芝生のグラウンドではクロケットのフープが虹の弧を描き、生徒たちが色と数字のボールを抱えて集まっていた。彩度自治派は六色のカラーボール、数値派は白地に番号を刻んだボールを使う。これは灰霧蜂起後に結ばれた「折衷の規則」だった。


 審判はバシールが務めた。かつて王宮を渡り歩いた元宦官は、今は白い笛と端末を手に、学生たちの彩度ログを静かに記録する。戦場で失った多くの言葉の代わりに、彼は若者の笑い声を赦しの証として胸に刻んでいた。


 彩度派の代表に選ばれたハルメアスは「導きの赤」と呼ばれるボールを選んだ。赤は彼が黎明に見た血と砂の記憶でもあるが、今は再生の兆しでもある。対する数値派キャプテンは、元セルジュ派の伴走役アデル。彼は白ボールに「07」の番号を振り、純粋な声で言った。


 「七は再出発の数字だ。やり直せるって意味でね」


 セルジュ自身は保安委員会の監査下で観客席にいた。彼の端末はまだ薄い灰を映しているが、眼差しはかつての硬直を失い、淡い興味の色を帯びていた。


 試合は和やかに始まった。ハルメアスは弧を描いて赤ボールを打ち、フープを抜けるたびに端末が珊瑚色へ脈動する。アデルは角度を計算し、07ボールを正確に弾き出す。数字が放物線を描くたび、バシールのログに素数のリズムが刻まれた。


 中盤、二人のボールは同一フープの手前で並んだ。ハルメアスは杖を構えながらアデルに目で問いかける。


 「色と数字、どちらが君を救った?」


 アデルは微笑した。


 「ここに立っている俺を測るなら、どちらもだ。遠くへ行き過ぎたセルジュを、数字が呼び戻してくれた。君の赤はその上に橋を架けただけさ」


 最後のターン、二つのボールはほぼ同時にゴールポストを抜けた。バシールの笛が鳴ると同時に、ハルメアスとアデルは顔を見合わせ、無言の合意でクラブを振り上げた。ボールは湖へ向けて放たれ、翡翠の水面で赤と白が跳ね、重なり、やがて同じ波紋をつくった。観客の端末が風に揺れ、湖面は薄橙から青へ滑らかなグラデーションを広げた。


 セルジュはスタンドを降り、湖岸でボールの消える方向を追った。端末は灰から黄緑へわずかに色づく。ノアが近づき、チェロケースを軽く叩いた。


 「次の演奏に君の素数を借りる。31でいいか?」


 セルジュは頷き、初めて端末に微かな青を灯した。

 夕方、寮のラウンジでバシールは日誌をまとめていた。生徒の端末色と笑顔を一人ずつ書き留める作業は、過去の戦死者名簿の裏返しだった。エミはアイレイムを抱え、第三声を待つ水晶レコーダの調子を確かめる。アイレイムはまだ言葉にならない笑みを浮かべ、Aur Ω と琥珀の間を揺れていた。


 夜、ハルメアスは授乳室の窓辺でノアの手を取った。宗教的禁忌と欲望の狭間で彼は震えたが、ノアは無理に引き寄せようとしなかった。


 「赦しは肌じゃなく心が決める。君がいいときに、もう一度手をつなごう」


 ハルメアスは短く礼を述べ、額に触れた。軽い頬への口づけ。夜のランタンが二人の端末色を読み取り、光度を上げた。


 その頃、王都のジュリアノスは病床にはいなかった。灰霧事件の傷は残るが、自らの意志で塔の観測室に立ち、オシロスコープのような色波形を注視していた。アイレイムの第三声が Aurora Protocol の鍵になると確信し、研究員へ淡々と指示を出す。優しい笑みの裏にある実験者の冷たさが職員の背筋を凍らせた。


 深夜、ハルメアスの端末に王都から光便りが届く。ジュリアノスは桜並木を背に立ち、「赦しの次に測るもの」を語りかけた。


 『私は世界を再記録し続ける。君が赤子を愛するように、私は言語を愛する。しかし“愛している”という語をまだ定義できない。それでも構文は進む。』


 ハルメアスは胸を刺す痛みを覚えながら返信を閉じ、ノアの眠るベッドへ戻った。


第4章

午後の授業が終わると、ハルメアスは北翼の静室へ戻った。扉を閉め、窓の錠を確かめてから薄い礼拝布を床に敷いた。ノアが譲ってくれた珊瑚色のタスビーフを右手に掛け、彼は静かにスブハーナを唱えた。珠が指の腹を滑るたび、湖から届く風の音が遠のき、胸の鼓動だけが際立った。


 最後の礼を終えると、卓上端末が淡い光を放った。差出人はジュリアノス。通信を開くと、王都の図書院が映った。高い書架の前で、王は白衣の袖口を整え、録音されたアイレイムの第三声を再生していた。


「春が来ました。赦しの彩度は計算どおり上がっています」


 何気ない挨拶に聞こえたが、ハルメアスの背を冷えが走った。温かい声色の奥に、実験記録を確認する研究者の無機質が潜む。

 彼は画面を指でなぞり、幼いころ王に守られた夜を思い出した。恐怖と感謝が衝突し、胸の奥で色が揺れる。


 ノアが控えめにノックした。


「礼拝は終わった?」 ハルメアスは頷き、タスビーフを掌で包んだまま立ち上がった。


ノアは躊躇いながら、その手をそっと握る。二人の端末が読み取りランタンが珊瑚と翡翠の中間色に変わった。

 ハルメアスは視線を落とし、口を開いた。


「僕はイスラムの戒めを守りたい。でも――」


 言葉を探すうち、ノアが小さく微笑み、彼の頬に唇を触れさせた。鼓動が跳ね上がる。ハルメアスは目を閉じ、罪悪感と安堵を同時に味わった。背後の端末が淡橙を示し、部屋のランタンがほんの少しだけ明るさを増した。


 ノアは囁いた。「赦しの彩度が上がるなら、僕らの選択も計算外でいていい」


 ハルメアスはタスビーフをそっと机に置き、深呼吸した。


「いつか王が“愛”を測る装置を作ると言うかもしれない。でも僕は、自分で確かめたい。数字にも色にも頼らずに」


 ノアは握ったままの手を軽く揺らし、窓の外を示した。湖面には夕日が差し、翡翠の水が淡い金に染まり始めていた。


「外を歩こう。光が残っている間に。――君の色は、君の意思で決めればいい」


 二人は並んで廊下へ出た。ノアの指先は離れず、ハルメアスは頬に残る熱を意識しながら歩いた。

 背後で端末が新しい色コードを計算し、薄いオレンジと翡翠のグラデーションを記録した。それはどの規格にも未登録の、彼らだけの彩度だった。



第5章

就寝点呼が終わると、ハルメアスはノアと静かな湖畔へ向かった。小径のランタンは二人の端末色を読み取り、珊瑚と翡翠に切り替わる。水面では薄雲が月をかすめ、波紋が淡い光を返した。

ノアは足を止め、手を伸ばした。温かい指先が絡み合い、脈拍が互いに伝わる。


「正式に言わせて。好きだ」


短い言葉だったが、胸郭に響く重さは十分だった。 

ハルメアスは息を吸った。イスラーム法が禁じる同性愛の戒めが頭をよぎる。だが指を解かなかった。ノアの瞳に映る自分が、恐れよりも安堵を帯びていたからだ。

彼はそっと身体を傾け、頬へ短い口づけを置いた。接触は一瞬。それでも背筋に震えが走る。


「罪かもしれない。けれど沈黙より真実を選びたい」


声は掠れたが、湖面に投げた石のように確かな波紋を残した。

 

ノアは微笑み、握った手に力を込めた。

「なら二人で応えを探そう。色でも数でもなく、別の単位で」


遠い桟橋にはセルジュの影が立っていた。灰色のコートを正し、視線を湖へ落とす。彩度派へ傾きながらも旧数値の習慣を捨てられず、彼はまだ自分の“色”を決めかねている。灰霧事件で味わった無音が、いまも胸に残響していた。 


湖風が木々を揺らし、ランタンが二人の頭上で明滅した。珊瑚と翡翠の光が溶け合い、新しい色を仄かに孕む。


ハルメアスは祈りの言葉を胸中で紡ぐ――

「罪を恐れるより、赦しを選ぶ強さを」


夜は深まるが、端末は穏やかな彩度を保ち続けた。ふたりの歩幅は揃い、小径の先で灯りがまたひとつ、柔らかな色を足した。



第6章

翌朝、霧の薄い鐘がレ・ロゼ学園に広がった。図書院の水晶端末が光便りを受信し、ジュリアノスの回復報が字幕で流れた。夏の視察が決まったと知り、ハルメアスは胸に淡い痛みを覚えた。彼が恐れるのは王のまなざしより、そこに潜む測定の刃だった。


 礼拝を終えると、彼は湖畔の丸太ベンチに腰を下ろした。朝の水面は絹のように滑らかで、端末の彩度バーが薄い桜色を示す。信徒としての彼は礼拝後に片手を胸へ置く癖がある。その姿勢のまま余白録を開くと、ページの縁でAurora Ωに似た粒子が淡く揺れた。


 ノアが後ろから歩み寄り、隣に座った。音楽棟で使う指先が小さく震えている。


「眠れてる?」と尋ねる声は低かった。


ハルメアスは首を横に振り、視線を湖へ落とした。ムスリムとして同性への情をどう扱うべきか──その逡巡が波の陰影に重なる。


「祈りのたび、答えを探す。でもまだ許しをもらえていない」と彼は小さく告げた。


 ノアは返事の代わりに手を差し出した。ハルメアスは一瞬だけ躊躇し、右手を重ねた。指先が触れた瞬間、二人の端末が同期し、バーは珊瑚と翡翠に分かれた。学園システムがそれを感知し、湖畔の街灯が同じ二色で点滅する。


 乳母エミは少し離れた芝に敷物を広げ、赤子アイレイムを日だまりに寝かせた。Aur Ωの脈動は琥珀色で安定している。エミは糸巻き声で子守唄を繰り返し、乳白のスカーフが春風に揺れた。

 護衛のバシールは石畳の端に立ち、遠景を監視していた。灰霧事件の傷がまだ完治せず、咳が短く続くが、彼の目は鋭かった。ときおり手首の数珠を撫で、古い祈りを唱えている。

 芝生を駆けるロマーヌは、端末へ新しい色式譜を入力していた。

かつてグレイ帯に沈んだ彼女は、今では彩度数学の助教を目指す。素数のパターンを緑に重ねる探究心は、セルジュから受け継いだものだった。


 そのセルジュは図書館別棟で補習レポートに没頭している。かつて数値派の急先鋒だった彼は、灰霧蜂起を境に色派と数派の橋渡しを選んだ。キーボードを打つたび端末が淡い銀鼠を発光し、それが迷いの色と噂される。


 湖畔では小鳥が鳴き始めた。ノアはそっと顔を寄せ、ハルメアスの頬に確かめるような口づけを落とした。驚きで息が詰まるが、彼は拒まなかった。頬に感じる熱が罪か祝福か判じかねても、指は離れなかった。


 「色と数のどちらでもなく、間で語り続ければいい」


 ハルメアスがそう呟くと、ノアの端末が深い群青へ変わり、湖面に揺れる。イスラムの戒律と同性愛の現実。その谷間で彼はなお歩みたいと願った。ノアは握った手を僅かに強め、「間に橋を架けよう」と答えた。

 遠く鐘楼が二度鳴った。端末が受信した追加の光便りは、王都図書院からだった。ジュリアノスが余白録に書き足した一行の映像だけが届く。


 ──触れられぬままに咲いた花を、語り合うため、歩み寄る。

 文字は極細の金糸で、どこか冷たい。だがハルメアスは読み終え、静かにページを閉じた。彼の瞳に映る湖は、数値の鏡でも彩度のキャンバスでもなく、二つを受け入れる深さを帯びていた。


 「まだ誰も愛していると言えない。でも、聞こえる」


 ノアは頷き、チェロを構える仕草だけを見せた。アイレイムは小さな寝息を立て、Aur Ωと琥珀が交互に灯る。バシールは遠くから視線を下ろし、祈りを終える。

 朝の光が高くなり、色と数を横断する音のない楽節が、湖面に波紋のように広がっていった。


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