表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
構文  作者: やあざ
5/12

5

 第一章

 レマン湖の春は薄くけぶっていた。氷解けの水を含んだ風が湖面を押し、桟橋の欄干を湿らせる。水上ゲートに横付けされた黒塗りの連絡艇からハルメアスが降り立った。ゲートは緑帯連盟の最上位パスがなければ開かない。警備士官は顔を伏せ、IDチップと虹彩を二重照合した。手続きが終わると、桟橋の床板が磁気ロックを解き、彼のためだけに通路が伸びた。


 肩にかけた布ケースは楽器ではなく遠隔モニターだった。中には王都白域の監視映像がリアルタイムで映る。画面の中心に赤子アイレイムが眠っている。コード化を拒んだ髪は淡い金で、端末タグはどこにも表示されない。構文官たちが設置したカメラは子の心拍と呼吸だけを送り、音声は遮られている。その無音がハルメアスの胸に痛かった。


 湖畔の学舎は白壁と尖塔を持ち、外界の喧騒を切り離していた。ロゼーヌ学園――王侯貴族と多国籍企業の後継だけが通う秘匿校。中庭のバラは剪定直後で、香りはまだほとんどない。彼は案内役のシスターに寮棟キーを受け取り、石畳を歩いた。外套の裾をつかんだ風が湿りを帯び、体温を奪う。だが彼の歩調は乱れない。


 静室と呼ばれる個室は湖に面していた。窓を開けると白い波が壁のように連なり、遠くアルプスの雪が逆光で青く透けた。荷を下ろし、モニターを机に置く。アイレイムは変わらず寝息だけを映し、手をかすかに握った。ハルメアスは指先で画面の縁を撫でる。ガラス越しの感触は冷たい。

 扉が二度ノックされた。背の高い青年がチェロケースを抱えて立っている。ノア・エステルハジ――旧王都音楽院でともに学んだ友だった。葡萄色の瞳が、会えなかった年月を測るように細められる。


「迎えに来た。ここは騒がしい数字で満ちている。君の沈黙が必要だ」


 ノアは穏やかに笑い、ケースを床へ置いた。

 ふたりは学舎裏の防音室へ移動した。壁に吸音布、天井にマイクロセンサー。数字管理のためだった。ノアはチェロを取り出し、弓を軋ませずに張り、C線に指を添えた。


「聴いてくれ。色を呼び出す試みだ」


 アルコの第一音が発せられる。低音は壁を伝い、天井のセンサーが波形を解析する。通常のβ Interface なら数値スコアを返すが、ノアが秘密裏に書き換えた端末は数値ではなく色で応答した。スクリーンに淡い青――未定義のまま始まる海の色――が滲む。


「青は準備段階。君がここで息をつけば、緑へ移る」


 ノアは指板を滑らせながら言った。

 ハルメアスは目を閉じ、胸に張りつく痛みを吐息でほぐした。スクリーンが水草のような緑へ変化する。彼は小さく驚き、ノアと視線を交わす。チェリストは安堵に似た息を漏らし、弓を止めた。


「色階調端末を完成させよう。数値に縛られず、沈黙さえ読めるものを」

「アイレイムにも?」

「もちろん。いつか彼が声を得る前に、色で世界と接続させる」


 ハルメアスは頷いた。言葉はまだ出ない。胸に残るのは王都で見た血と煙の記憶、そしてジュリアノスの硬い背中。だがノアが差し出す音は、その記憶を包み込む布のように柔らかだった。


 夕刻、静室へ戻る廊下で、ふたりは緑帯連盟の掲示板を横目に通り過ぎた。そこには今日の「協働値」――数値スコアが誇らしげに貼られ、多国籍の紋章を縫い合わせた制服の少年少女が一喜一憂している。数字は順位を示し、奨学金や休暇に直結した。色のない世界が拍手とため息を繰り返す。


 ハルメアスは足を止めなかった。遠くで鐘が鳴る。重い真鍮の音は空に散り、湖面を微かに震わせる。彼は胸ポケットの端末を握った。スクリーンは依然として海の青を灯していた。やがてそれが、遠い砂漠の王宮へ微弱信号を送り、白域の監視卓に「色未定義」のアラートを点灯させることを彼は知らない。


 夜、窓外の湖が月光で銀色に揺れた。ハルメアスはベッドサイドでモニターを起動する。アイレイムは微笑んだように見えたが、音は届かない。彼は初めて声にしない言葉を胸の奥でつぶやく。


 ――待っていて。ここで色を見つけたら、君の世界にも渡す。


 遠い砂漠の衛星回線がかすかに点滅した。数字と色の境界で、物語が動き出す予感だけが確かだった。



 第二章

 グレイ帯事案から三日後、ロゼーヌ学園は表向きの平穏を取り戻していた。だが食堂の掲示板から数値シートが外され、代わりに小さなパレットが貼られた瞬間、空気は確かに揺れた。学生は端末をタップし、色で今日の協働値を読んでは首をかしげる。数値派の不在は、数字で測れた安心を丸ごと奪っていた。


 ハルメアスは図書室の窓際でその揺れを見ていた。項垂れる一年生の背の向こう、湖面は葉脈のような波を刻み陽光を砕く。彼は端末を息で曇らせると、薄橙の指で文字入力を始めた。


 〈色は相手の内側を推測させる鏡。数字は自分の外側を固定する枠。鏡と枠をどう並べる?〉


 メモを閉じ、遠隔モニターへ視線を移す。王都白域の部屋で眠るアイレイムは、揺りかごの上に吊るしたセンサーライトを弱い琥珀に染めていた。


 放課後、音楽棟地下の防音室。チェロを抱えたノアが新しい練習曲を示す。五線は途中で途切れ、後は無数の色コードが注釈に並ぶ。


「《Coloratura γ》。Amber R と淡緑の間に桜色を入れた。君のノートにあった“鏡と枠”を音にしたつもりだ」


 ハルメアスは譜面を読み、肩で息をついた。


「桜色は未定義だ。危うい」

「だから必要なんだ。誰かが危うさを抱えて吹かないと、色はすぐ灰に戻る」


 ノアは弓を置き、ためらいながら言葉を継いだ。


「君がアイレイムを守るために沈黙を選ぶのはわかる。でも、沈黙は数字側にも利用される。音が要る」


 ハルメアスの口元がわずかに緩む。それは笑みというより疲労の割れ目だった。


「演奏会は許可されるだろうか」

「許可じゃなく成果を示そう。色が戻った後、誰もロマーヌを灰へ戻せなかった。今度は先に色を響かせる」


 その夜、学園理事会室。彩度派の教授たちが円卓を囲み、保守派不在の椅子が空白を示していた。議題は「数値シート再掲の要望」への回答。

 教授カヤは老眼鏡を外し、ハルメアスに目を向ける。


「君の端末は琥珀を保ったままだ。──数値派は“王都の赤子だけ優遇される”と噂している。説明できるか」


 ハルメアスは立ち、胸に端末を押し当てた。


「私は優遇を求めていない。ただ、未登録の声に場所を残してほしい」


 カヤは溜息をついた。


「場所には規約が要る。数字か、せめて色帯の上限を設けろと言われる」


 ノアが口火を切った。


「上限ではなく“ゆらぎ幅”を示します。演奏で彩度変動を視覚化し、危険域に入れば即時警告を出す。色にも枠をつければいい」


 教授陣は互いに顔を見合わせ、最終的に提案を条件付きで承認した――週末の試験演奏で効果を証明できれば、数値シートは掲示しない。


 翌日午前零時。王都構文塔の執務室でジュリアノスはライブカメラのテスト映像を眺めていた。防音室のノイズ、ノアの調弦、ハルメアスの息の長ささえ振幅グラフに変換される。


「音で秩序を揺らす。面白い。だが揺らぎ幅はすぐ臨界を越える」


 彼はペンで紙を打ち、淡々と補足計算を記した。


 〈臨界越え0.7秒で遠隔コントロール信号を注入。色帯を数値へ仮固定〉


 目は静かな熱を帯びる。崩壊と再構築を同時に欲する、狂気に近い光。


 試験演奏当日、講堂は色彩制御照明と空間スピーカーで整えられた。学生たちは数値派・彩度派を問わず着席し、保守派のセルジュも最後列に現れた。舞台袖でノアが弓を構え、ハルメアスが客席中央の端末をオンにする。モニターには初期値として薄卵色が満ちた。


 第一楽章、低いCの弓圧が天井を揺らす。モニターは卵色から淡橙へ移り、聴衆の端末が追随する。第二楽章、桜色が差すと少数の端末が黄へ跳ね、警告アイコンが点灯――ゆらぎ幅が上限に触れた。セルジュが眉をひそめたまま腕を組む。数値派は臨界越えを待っている。


 第三楽章、ノアがピチカートで桜を保ちながら橙と交互に鳴らす。警告は点いたままだが上昇しない。客席の呼吸が揃い、セルジュの端末も黄から淡橙へ戻った。ハルメアスの端末は琥珀の中心に微かに桜を孕む。


 終曲。最後の和音がホールを満たした瞬間、スクリーンは虹のように多層化し、警告が全て消えた。拍手が雪崩れ込む。セルジュは座ったまま手を叩いた。数は消えなかったが色を拒む理由も崩れた。


 舞台袖へ下がったノアを、ハルメアスが抱き止めた。抱擁は短く、互いの胸の鼓動だけを確かめる。


「桜色は枠になった?」

「まだ境界線だ。けれど橋と線は、同じ木から作れる」


 その夜、王都からデータパケットが届く。〈臨界越え信号注入失敗。彩度安定確認〉という無機質な通知に、ジュリアノスは目を細めた。


「失敗、ではない。境界は次の揺らぎを待っている」


 彼は白紙に新たな線を引き、また一つ計算を重ね始める。愛という語をまだ世界が口にできないまま。



 第3章

 王都リヤドの白域は、常時二〇ルクスの無影照明と無響壁で満たされていた。そこに置かれた揺りかごが、ある夜ふいに震えた。生後十か月のアイレイムが、まだ言語の設計図さえ与えられていない喉で息を溜め、母音の破片をこぼす。


 ――「ah ru」。


 発音は短く弱かった。それでも白域に連なる量子中継は即座に反応し、世界一五八都市に散った彩度ノードへ警告を送る。端末のディスプレイは既存パレットにない新色を表示し、数値換算に失敗した領域が灰から淡い琥珀へ跳ねた。


 構文塔最上階、ジュリアノスはホログラム壁に映る拡散マップを眺めた。虹彩より薄い金の光が瞳を走り抜ける。


「可変色が出たか。赦しは静止値では作れない、という証明だ」


 口調は穏やかだったが、声は研究サンプルを得た科学者のそれだった。

 隣席の補佐官マーラが端末を操作する。


「第一声の周波数を既存カテゴリへ当てはめようとすると、全帯域が不安定化します。規格外です」

「ならば規格を作り直す」


 ジュリアノスは白紙のメモパッドに三角形を描き、頂点へ〈Aur Protocol〉と書いた。


「中心はアイレイムの声紋だ。旧β Interface の彩度計をトップダウンで書き換える」


 補佐官が息をのむ。


「彩度自治都市はどう動きます? 彼らは色の自由を掲げています」

「自由は定義し直せる。私は“曖昧の管理権”を譲った覚えはない」


 ペンが紙を叩くたび、三角形の辺に微細な数列が書き足される。彩度量子化係数、臨界ゆらぎ幅、赦しスコアの再演算式。

 やがてメモは一枚では足りず、追加の紙片が机に重なった。ジュリアノスは立ち上がり、塔窓の外を見下ろした。広場のホログラムは第一声を報じ、群衆の端末が未知色の点滅を繰り返す。その光景を、彼は美しいとも危険とも言わず観測値として受け取った。

 マーラがか細く尋ねる。


「陛下は……あのお子を“愛して”おられるのですか」


 ジュリアノスは肩越しに笑みを浮かべた。それは温度のない曲線だった。


「愛という単語はまだ定義が揃わない。だから私は使わない。ただ、あの声は次の世界を開く鍵だ。鍵は扉へ嵌めるために存在する」


 深夜〇三時、〈Aur Protocol〉草案は暫定完成した。中心周波数 603.8 nm、彩度可変域を黄金比で分割し、声紋が発生するたび全ノードが同調演算を始める設計。赦しは数値と色を同時に書き換える「再記録」のトリガーになる。

 ジュリアノスは最後に「実装時期:未定」と書き、ペンを置いた。


「世界をもう一度、静かに書き直す。今回は誰も外へ逃がさない」


 窓の外、夜明け前の王都が薄藍に染まる。その下で遠隔モニターのアイレイムが再び小さく息を吸った。第一声に続く第二の響きが、まだ白域の壁に揺れている。


 ジュリアノスは瞼を閉じ、聞き取るように耳を澄ませた。だが彼の胸の奥で応える音は、祝福ではなく冷たい筆記具の擦過音だった。結局のところ、この世界はいまだ――誰かを「愛する」と明言できる言葉を持っていない。



 第4章

 ハルメアスはレマン湖畔の小さな桟橋に立ち、夜気を吸いながら端末の彩度ログを確認した。画面は淡い桃色。五都市が同時刻に発信した「彩度自治宣言」を示す色だった。彼とノアが提案したオープンソース版β Interface――色階調で協働値を測る仕組み――に、ジュネーヴ、サンモリッツ、ハンブルク港湾区、ナポリ旧市街、そして王都自由彩度区が賛同し、**彩度都市連盟(CCU)**が誕生した。


 CCU はソースコードを誰でも閲覧できる形で公開し、市民が自らの彩度ログを匿名共有する「クロマログ」を実装した。子どもが書いた詩、老職人の愚痴、夜明けの汽笛――数値化できなかった余白が色に変換され、街の掲示板は虹のパレットで更新される。ハルメアスはその動きを、絶えず耳の奥で転がる低い拍動のように感じていた。


 一方、王都構文塔ではジュリアノスが保守派評議員と会議を続けていた。円卓の照明は白域と同じ無影光。彼の前に置かれたホログラムには CCU のパレットが映っている。


「色はやがて飽和する。混ざり合えば何色とも名付けられず、秩序を失う」


 そう告げる保守派の懸念に、ジュリアノスは静かに頷いた。


「だからこそ、新しい秩序が要る。〈Aur Protocol〉は可変色を数へ折り込み、再び統計へ回帰させる装置です」


 彼が示した試作図には、色相環に三角の穴が開き、その中心へアイレイムの第一声「Amber R」の波形が埋め込まれていた。ジュリアノスはペンで三角の角をなぞる。


「鍵は灰。彩度を一度ゼロへ落とし、新規格だけが色を戻せる環境を作る」


 計画名はPrism Zero。灰色 EMP を街へ散布し、端末の彩度アルゴリズムを強制リセットする――そんな手段に、評議員でさえ顔を曇らせる。

 だがジュリアノスは笑わなかった。むしろ楽譜を音叉で叩くような無感情で言った。


「赦しを測るには犠牲が要る。痛みの記録がなければ、次の定義へ人は従わない」

 ◇

 六月末、CCU 旗都市ジュネーヴ旧港。彩度祭の最中に灰霧が立った。港湾倉庫から走り出した無人車両二台が EMP を散布し、半径五百メートルの端末が次々グレイ帯へ墜落。色を失ったホログラムは数字の “0” を点滅させ、人々の会話さえ音程を欠いたように乾いた。


 湖畔にいたノアはチェロケースを抱え、灰の中で弦を鳴らした。《Coloratura β》。Amber R を含む和音が空気を震わせると、灰粒子は周波数レゾナンスに浸食され、端末は橙から黄緑へ段階的に彩度を取り戻す。


 ノアの指が震え、ハルメアスの胸が疼く。二人の間に言葉はなくても、色と音が互いの不安と願いを交換していた。

 その夜、港の臨時回線にジュリアノスの映像が現れた。


「Prism Zero は試験であり警告だ。CCU が Aur Protocol を拒むなら、次の灰は全都市規模になる」


 ハルメアスは映像に背を向けたまま答えた。


「あなたの世界は誰も愛せないまま定義を重ねる。灰は恐怖を植えるだけで赦しを育てない」


 ジュリアノスは目を細める。


「愛という語はまだ整備できない。だが秩序は測り得る。測れぬ優しさは制度に成らない」

 ◇

 七月、サンモリッツ峠で第二波 EMP が始動。灰に沈む広場でミレス――アイレイムの遠隔端末――が発した第二声「Au Ω」が起動キーとなり、灰霧の制御コードが逆流。Prism Zero の装置は加熱破裂し、灰は雪のように溶けて消えた。


 ハルメアスは子の端末に浮かぶ未知色を見上げた。オレンジと金の中間、名前のない光。

 ノアはチェロを降ろし、指の跡が弦に残る痛みで自身の震えを確かめた。


「君が怖かった。君と君の子が遠いまま、僕の音が届かないのが」


 ハルメアスは肩を落とし、初めて短く笑った。


「僕も怖い。赦しの色が世界を裂くかもしれないのに、止める言葉を持たないから」

 ◇

 灰霧事件から一か月後、CCU と緑帯本部の混成会議は「色と数の併存」を承認。彩度端末は匿名 API で世界へ開放され、数値派は Aur Protocol の試験運用を獲得した。分裂は暫定の共存へ落ち着いたが、誰もそれを和解と呼ばない。


 王都へ戻ったジュリアノスは白域の揺りかごを覗き込む。アイレイムは眠り、端末は淡い桜色で脈動している。


「綺麗な色だ」


 囁きは親の慈しみより実験者の驚嘆に近い。彼は手を伸ばし、しかし触れずに引いた。


「君の声が次の定数になる。いや、定数ですら不十分だ。君は世界を再記録する変数だ」


 窓外の塔に夕焼けが差し、壁を赤金に染める。

 ジュリアノスの横顔に影が長く伸び、ボンドルドの仮面のように表情を隠した。


 結局のところ、この世界にはまだ――誰かに「愛している」と告げる語彙を、安心して使える辞書が存在しない。



 第5章

 一九九一年三月二一日、王都は冬の名残を抱えた曇天の下にあった。中央大広場では数値派の赤い旗と彩度派の虹旗が対峙し、警備線の灰色だけがその境目を曖昧にした。


 正午三分前、荷台に冷却フィンを突き出した無人車が二台突入した。装置名は〈Prism Zero〉。灰色EMPが放たれると、端末は一斉にモノクロとなり、人々の声さえ乾いた雑音へ落ちた。

 ノアは塔の屋上に立ち、震える指で弓を取った。弦が低く唸る。《Coloratura Ω》。音は可視光へ変換され、灰の空に橙と緑の帯を描く。しかし灰霧の中心は消えず、広場の彩度は戻らない。


 そのとき構文塔のバルコニーにハルメアスが現れた。胸に抱く遠隔端末から、眠る赤子ミレス――アイレイムの第二声が送信された。


 ほとんど子音を含まない「あう」。わずかな母音が空気を震わせ、灰霧の粒子を弾いた。端末は未知の色相 Aur Ω を示し、灰の雲は潮が退くように薄らいでいく。


 戻った彩度は浅い桃色から深い群青へ波紋を広げ、広場は色と歓声を取り戻した。ノアのチェロが終止音を響かせると、数値派の旗さえ淡い橙へ染まった。


 空中スクリーンに改訂記録者ジュリアノスのホログラムが投影された。白衣の影は微笑まず、静かな敬語が広場を包んだ。


「Aur Protocol を承認せよ。色も数も、その中心で赤子は“至高定数”となる」


 宣言と同時に、管理網が動いた。アイレイムは「新王の象徴」として即時登録され、緑帯連盟の保守派と彩度自治派双方に特急通知が届く。


 数値派は「計測可能な奇跡」を得たと喝采した。彩度派は「誰にも定義できない色」を守ろうと拍手と戸惑いを混ぜた。


 灰霧は晴れたが、広場の空気は凍ったままだった。ハルメアスは腕の端末を見下ろし、Aur Ω の脈動に指を添える。そこに安堵はなく、静かな恐怖だけがあった。

 ノアが駆け寄り、弓を握る手でハルメアスの肩を支えた。だが言葉にはしなかった。想いを語れば色か数に変換される世界で、沈黙だけが二人を守った。


 遠隔回線の奥でジュリアノスは端末ログを確認する。視線は科学者の冷光を帯び、唇はわずかに弧を描く。


「赦しも愛も、測定が終わるまで保留だ」


 彼はそうつぶやき、灰霧装置の残骸を新しい計算式へ書き写した。そこに人間の温度は無い。

 広場には再び音楽が流れ、人々は色の復活を祝った。しかし誰もまだ「愛している」とは言えなかった。言えば次の瞬間、何色に変換されるのかを恐れていた。



 第6章

 夜のレマン湖は灰色の鏡だった。寮塔十階のバルコニーで、ハルメアスは欄干に指をかけ、遠く王都の光を思った。そこには赤子アイレイムを囲む白域の壁と、静かな監視者ジュリアノスがいる。ガラス越しに見える王の横顔は、父より科学者の輪郭に近かった。


 背後のドアが開き、ノアがチェロを抱えて立った。白いシャツの袖口を整え、弦を確かめ、低いCの音で空気を試す。音は湖面へ滑り、波紋として戻った。

 ハルメアスはわずかに振り向き、礼だけを示した。ノアは歩み寄り、欄干にもたれる。互いの肩は触れない距離にあった。


「明日、試験演奏がある」


 ノアは静かに告げた。色階調端末の新バージョンを、音で同期させる公開テスト。成功すれば彩度自治派は勢いを増し、王都の数値派を揺らせる。


「君の沈黙が欲しい」


 ノアはそう続け、言葉をのみ込んだ。欲しいのは沈黙だけではない。しかし告げれば音にも色にも記録される。

 ハルメアスは視線を湖へ戻した。


「沈黙は渡せない。まだ私自身の足場だ」


 言葉は冷えたが、声には揺れがあった。

 ノアはチェロを抱き直し、指板に唇を近づけ、息の熱を伝えた。代わりに弓で短いフレーズを奏でる。B♭からCへ、緩やかな上昇。端末が淡い青緑を示した。ハルメアスの呼気も同じ色で揺れる。

 明かりの途絶えた渡り廊下を、人影が進んで来た。ジュリアノスだった。黒い薄衣に王の紋すら付いていない。


「音と色の実験、順調のようですね」


 敬語は穏やかだが、眼差しは試料を見る顕微鏡の焦点だった。

 ノアは反射的に楽器を下げ、ハルメアスは身構えた。

 ジュリアノスは二人の間に立ち、夜気を吸った。


「観測者として一つ尋ねます。明日生成される色が、王都の閾値を越えたらどうしますか」

「色は定数ではありません」とノアが答える。


「越えた瞬間に領域を描き直すだけです」

「つまり赦しを更新する、と」ジュリアノスは笑みを浮かべたが、その温度は測れなかった。


 ハルメアスは一歩前に出た。

「あなたは愛を数えるのですか」問いは小さく、しかし鋭かった。


 ジュリアノスは首を傾けた。

「愛と呼ばれる現象を観測したことはある。しかし命名は保留にしています」

 その声に優しさが混ざる瞬間があった。だが狂気は消えなかった。


 ノアはハルメアスの前に立った。

「観測のために子どもを中心定数に置くなら、それは愛ではない」


 ジュリアノスは腕を組む。

「定義は立場によります。私は観測が終わるまで語を選ばない。結果が赦しになれば十分です」


 風が吹き、バルコニーの灯が揺れた。ノアは弓を構え、穏やかな三和音を鳴らす。端末が橙色を返し、ハルメアスの頬も同じ色に染まった。


 ジュリアノスはその色を確認し、短く頷く。

「明日も観測を続けましょう。色が数を凌駕するのか、数が色を抱え込むのか」

 彼は背を向け、廊下へ消えた。足音は一定。愛や罪の重さを感じさせない律動。


 残された二人は沈黙した。ノアが楽器を下ろし、ハルメアスの手首を取る。

 ほんの一瞬、指が絡んだ。


「怖いか」

「怖い。しかし、歌わなければ」


 そこまで言い、ハルメアスは言葉を閉じた。チェロの表板が夜露を吸い、木の匂いを立てた。

 翌日、試験演奏のホールは満席だった。彩度派の学生、数値派の視察官、遠隔の王都回線。ノアはステージ中央へ進み、弓先を客席へ向けた。ハルメアスは操作卓で端末群を同期させる。


 第一楽章が始まる。色は音を追い、数はその縁で呼吸を測った。スクリーンに虹が滑り、数列が揺らぎ、しかし完全な一致には至らない。


 上階の特別席でジュリアノスが腕を組む。眉はわずかに上がり、その目は愛に似た光と実験者の冷光を同時に宿した。


 終曲のロングトーンが響いたとき、ホールは静寂を選んだ。拍手も口笛もなく、端末だけが新しい色を示す。桜色に近い琥珀。数値は表示不能。


 ハルメアスは胸で息を取る。ノアは舞台袖へ歩み寄り、しかし言葉を見つけられない。

「愛している」という語が、小説の外でも内でもまだ定義されていないからだった。色にも数にも、語り切れない欠落が残る。


 それでも虹は回転し、数列は増え続ける。三人はそれを見上げ、別々の距離で立ったまま夜を迎えた。



 第七章

 王都中央塔の尖端に設置された二十面ホログラムは、昼夜を問わず虹と数列を同時に映し続けていた。彩度都市連盟の代表色――橙・藍・菫――がゆっくり回転し、その裏面で緑帯本部の評価指数が赤黒のグラフを刻む。双方は〈Aur Protocol〉の採否で膠着し、塔そのものが対立の象徴になった。


 ジュリアノスは最上階の玉座に立っていた。王衣は脱ぎ、白い研究衣のみ。それでも背筋には君主の輪郭が残る。窓外の光が彼の眼に反射し、虹をプリズムへ分解するのと同じ冷い輝きを宿していた。

 彼は卓上端末に短い文を打った。


 〈私はまだ“赦し”しか測れない。けれどいつか“愛”を演算する装置を示そう〉


 送信先はスイスのロゼーヌ学園、ハルメアスだけが閲覧できる暗号鍵。

 ◆

 レマン湖畔の黄昏。学園の石桟橋ではチェロの低音が波を揺らしていた。演奏者ノアは弓を止め、湖面を見つめるハルメアスへ視線を送った。二人のあいだを冷たい風が通り抜け、言葉を凍らせた。

 ハルメアスのポケットには王都から届いたばかりの端末があった。ジュリアノスの文を読んだ後、彼は返信欄を開きかけ、結局閉じた。


「返さないのか」ノアが静かに尋ねた。

「書けば、彼の計算式に組み込まれる気がする」

 ハルメアスはそう答え、湖の先――見えない砂漠の王宮を想像した。


 そこでは赤子ミレスの端末が Aur Ω と琥珀を揺れ動き、世界の新たな標準色として祀り上げられつつある。

 ◆

 その夜、学園の録音室。ノアは鍵盤に右手を置き、左手で色階調端末を操作した。表示されたのは Aur Ω を含む未定義の分光チャート。ノアは数値部分を意図的に隠し、可聴域だけを抜き出して短い旋律へ変換した。


 ――♩E♭・A♭・C。柔らかい三和音が空気を満たす。


 ハルメアスは譜面台の前で目を閉じた。胸の奥にジュリアノスの言葉がまだ沈んでいる。愛を演算する装置――それは慰めではなく実験体の宣告に聞こえた。


 ノアは演奏を止めた。

「君が言葉にしない痛みを、色でも音でもなく、そのまま抱えてほしい」


 ハルメアスは首を横に振る。

「君まで測ろうとするのか?」


「測らない。ただ、隣に置かせてくれ」


 静かな対話のあと、二人はマイクを切り、録音を暗号化して王都白域のモニターへ送り込んだ。ミレスの端末がそれに応じ琥珀の脈動を一度だけ強めた。

 ◆

 一方、王都塔ではジュリアノスが送信ログを眺めていた。彼はチェロの和音を分光分析し、Aur Protocol の演算式へ挿入。その数値列を満足げに眺めながら呟く。


「やはり感情はノイズではなく燃料だ」


 補佐官マーラが眉をひそめる。

「愛を道具にすれば、誰かの叫びがまた沈黙に変わります」


「叫びは解析できる。愛だけがまだだ」


 ジュリアノスは淡々と返す。

「測れないものこそ、装置が必要だ」


 狂気と論理は彼の中で矛盾しない。玉座裏の壁面にはアイレイムの声紋が巨大な金色の曼荼羅で投影され、その中心座標だけが空白になっていた。

 ◆

 翌朝、学園の湖畔テラス。ノアはハルメアスへ小さなカラーチャートを差し出した。


「Aur Ω を混ぜた新譜のスケッチだ。君が色を置いてくれ」


 ハルメアスは筆を取り、チャートの空欄へ淡い桜色をひいた。数字で定義できない彩度。


「これが返事だ」


 ノアは頷き、言葉にしなかった。「愛している」と告げればチャートが既成の形になる気がした。

 ◆

 王都塔の窓から見える空は、虹と数値の二重投影が鬩ぎ合うまま動かなかった。ジュリアノスは新しい実験の準備に取り掛かる。ハルメアスは湖畔で色と音を交差させ、ノアは彼の沈黙を旋律に変える。


 ミレス――世界が「至高定数」と呼び始めた赤子――の端末は Aur Ω と琥珀を行き来しながら静かに脈を打つ。


 そして、物語は留保の一句で閉じる。


 まだ誰も、「愛している」と口にできない世界のまま。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ