4
第一章
五月半ば、レマン湖の雪解け水がまだ冷たく揺れていた。灰色の双胴舟がゆっくりと専用桟橋へ寄せられ、着岸と同時に沿岸センサーが青い輪光を上げた。湖面側から通れるのはレ・ロゼ学園が認めた密使だけだった。
船のタラップに、ハルメアスはバシールの肩を借りて立った。湖風は薄いが鋭い。彼は外套の合わせを握り、胸の鼓動を抑えようとした。鼓動の先に思い浮かぶのは遠いリヤドで眠る赤子――アイレイムだけだ。
桟橋中央には半透明の検問ゲートが浮かび、虹彩と声紋の二重照合を要求した。バシールが先に通り、係員へ緑帯連盟発行の端末を掲げる。画面の紹介状には「観察留学生:ハルメアス・アザール」とあり、末尾の付記が赤く光った。
〈保護対象:アイレイム在留(リヤド王宮)〉――たった一行が、彼の懐に赤子がいない事実を刻んでいた。検閲官は目を上げるが、質問はしなかった。学園は富裕層の機密を詮索しない。
認証が下りると水上ゲートが左右に割れ、白い石段が寮棟へ続いた。階段の中ほどに音響幕が仕込まれ、外部の会話は湖へ漏れない。ハルメアスは足音を一段ごとに数え、アイレイムの名を心で唱えた。
王族専用寮は尖塔の根元にあり、木扉には精密錠が二つ。扉が開くと暖炉の炎が低く揺れ、羊毛の絨毯が足を包んだ。湖畔の冷気はそこで断たれ、ほのかなアルコールランプの匂いが漂う。
案内役の事務官は手早く規則を読み上げた。第一条、外部発信は暗号化回線に限る。第二条、寄宿生同士の映像共有は許可制。第三条、沈黙契約を破れば退学――その語尾は淡々としていた。
広めの静室に入ると湖が大きな窓に映った。卓上端末には既に個人鍵が登録され、壁面の大型モニターは黒いまま待機している。ハルメアスはコートを脱ぎ、深く息を吐いた。
画面が自動点灯し、白域の保育室が映し出された。乳母が揺りかごを整える後ろでアイレイムが眠る。音声は無い。彼は指先でガラスをなぞり、距離の重さを肌で噛み締めた。
バシールが静かに鞄を置く。「殿下、回線は五分ごとに切り替わります。録画は出来ません」 承知、とハルメアスは頷いた。自分のためでも学園のためでもなく、赤子を網から遠ざけるための制限だった。
時計は十七時を指す。廊下の向こうで弦楽器が音階を刻み始めた。松脂のかすれが壁を震わせる。胸が反応した。ノアがいる、と直感が告げる。
ハルメアスは扉を押し、長い回廊を歩いた。壁には寄付者名が刻まれ、王侯の紋章が金色に浮く。床のカーペットは足音を吸い、背後を歩くバシールの靴音すら残さなかった.
音楽棟に入るとチェロの低いロングトーンが聞こえた。第3練習室のドアを開くと、背を向けた青年が弓を下ろす。鏡越しに視線が合い、彫りの深い瞳が揺れた。ノア・エステルハジだった。
ノアはチェロを支えたまま微笑した。「遠い場所から来る音は、湖より深いね」
ハルメアスは軽く礼を返し、両手を胸元で組む仕草で赤子が不在であることを示した。
沈黙が数秒だけ流れた。ノアは弓を置き、背筋を正した。
「君が抱えていたものはリヤドに残った。それでも君自身は声を運ぶ。だから学園は君を迎えた」
ハルメアスは静かな声で応じた。
「私は聴きに来た。語る前に、聴き取り方を学ぶために」
ノアの表情がやわらぎ、チェロの胴を指で叩いて和音を作った。
「なら最初の授業を始めよう。君の沈黙をこの楽器で記録する」
窓から夕陽が差し、床に長方形の光が伸びた。二人の影が交差し、弓が弦に触れた瞬間、湖面のさざ波が室内の空気へ重なった。アイレイムは遠い王宮で眠り、ここでは新しい音が生まれようとしていた。
練習室を出ると廊下にHAZARDサインが点滅していた。“第三カテゴリ資料室使用中”。学園が持つ古文書や金融秘録は上流階級の秘密そのものだ。ハルメアスは足を止め、ここが徹底した密室社会であることを改めて悟った。
夜半、寮へ戻ると壁面モニターが再び灯った。乳母は去り、カメラだけがゆりかごを映している。窓外の湖は群青に沈み、星が疎らに浮いていた。彼は机に向かい、白紙のノートを開く。
“言葉は距離を埋める糸である。しかし糸は絡み、切れ、結び直されるものだ”――一行目を書いてペンを置く。遠隔の赤子がいつか読むかもしれない手紙だった。
深夜チャイムが一度鳴り、寮の回線が自動遮断された。アイレイムの映像も消える。部屋は無音に包まれ、ハルメアスは長い呼吸で眠りへ向かった。閉ざされた学園で、彼の一日はこうして始まり、こうして終わる。
第2章
北翼の静室は湖に突き出した張り出しに在った。三方を分厚い複層ガラスが囲み、波の反射が天井に薄い揺らぎを落とす。初日、ハルメアスはバシールを伴い扉を開けた。内部には家具一式と壁面スクリーンが一枚――それだけだった。
設置担当の技師が無言で端末を起動し、通信権利書を提示した。レ・ロゼでは生徒一人につき一系統の暗号回線が与えられるが、映像の再送は契約で禁じられる。いわゆる“沈黙契約”だ。富裕層の子弟は秘密の価値を知る。彼らの物言わぬ了承こそが学園を外界から切り離していた。
スクリーンが白く瞬き、リヤド王宮地下の保育室が映った。カメラは固定、音声はカット。アイレイムは小さな揺りかごで眠り、灰色の毛布が胸の上下をかすかに動かすだけだ。画面左上には《PRIVATE FEED – 再送禁止》と赤い刻印が常時点滅していた。
技師はセキュリティ鍵を入力して去った。残された二人に湖面の反射光だけが揺れる。バシールが低く言った。
「記録媒体を挿すスロットは封印済みです。複製は不可能。ご安心を」
ハルメアスはうなずき、スクリーンへ近寄った。指を伸ばしても触れられない距離。呼吸が静室の冷気で白く曇った。
通信は五分で遮断される。カウントダウンが始まり、四分、三分――彼はアイレイムの頬の色、指の長さ、枕の影を目に刻んだ。二分で胸が締めつけられ、残り三十秒で初めて手を握り締めた。だが声は出ない。沈黙契約は言語の漏出さえ罰するからだ。
ゼロになり映像が消えると、壁はただの鏡面に戻った。ハルメアスは外套を脱ぎ、机に小型暗号端末を置く。キーボードを叩いてもネットへは繋がらない。端末はスタンドアロン、書くだけの箱だ。
《第一日 14:05 映像確認 呼吸安定 沈黙は鏡ではなく距離。距離は赦しも罰もしない。ただ測る。》
短い記録を保存すると端末は自動で暗号化し、ファイル名すら乱数に変わる。鍵は彼自身の虹彩と声紋に紐づくが、声を出す場面は来ないだろうと彼は悟っていた。
夕刻、窓辺で読書灯を点けた。外ではセスナ機が湖面を低く掠め、寄宿生の荷を吊ったホバードローンが塔の向こうへ消えた。騒音は防音ガラスで丸く削られ、部屋は自分の心音だけになる。孤独でも静寂でもない。これは管理された“沈黙”だと彼は思う。
夜、館内チャイムが二十三時を告げた。回線は二度目の接続を許可し、保育室が再び映る。アイレイムは覚醒しており、乳母の腕で揺れていた。口元が震え、かすかな啼き声が画面内で途切れる。音が聞こえなくても泣いていることは分かった。胸が痛む。
だがバシールが肩に触れ、「殿下、音声は禁じられています」と囁いた。
制限時間が過ぎ、映像が黒に溶ける。ハルメアスは椅子に崩れ落ち、額を掌で覆った。声にならない息だけが漏れ、絨毯に染みこんだ。
静室は夜中ずっと無灯のまま。湖水が月光をかすかに返し、壁に銀の揺れをつくった。ハルメアスは窓際で目を閉じ、内側で言葉を組み立てた。契約が口を塞いでも、思考までは閉じ込められない。
――アイレイム、君が眠る部屋とこの湖畔のあいだに何層の沈黙があるのだろう。だが沈黙は終点ではない。分厚い距離の向こうで、君が初めて声を持つ瞬間、私はここから応答する。
彼は拳をほどき、呼吸を整えた。遠い王宮の揺りかごを思い、月明かりの波形を見つめながら朝を待った。
第3章
午後の光が音楽棟の廊下を薄く照らし、ガラス窓に湖が揺れていた。ハルメアスは足音を殺して第三練習室の扉を押した。
中ではノア・エステルハジがチェロを構えていた。弓が最後の和音を引き切り、低い残響が床を這う。ノアは肩で息を整え、背後の気配に気づくとゆっくり振り向いた。
「来ると思っていた」
ノアの声は汗が冷えたばかりの弦のようにかすかに震えていた。ハルメアスは一礼し、視線を楽器に落とした。
ノアは譜面台の横にチェロを横たえ、距離を詰める。
「赤子を連れていないのは、どういう事情だ」
問いは率直だった。ハルメアスの指がわずかに揺れる。
「リヤド王宮内の密室にいる。登録外、映像のみ許可。私にも声は届かない」
短い説明のあいだ、ノアの瞳は暗い松脂色で揺れた。
「閉じ込められているのか」
「保護という名目だ」
沈黙が二人の間に落ちた。ノアは弦を張り替えたばかりの楽器を見つめ、突然ひとつ息を吸い込んだ。
「なら、音のほうから向かおう。ここで僕が弾き、サウジの密室へ送る。緑帯の暗号網でも音声パケットなら開ける方法がある」
ハルメアスは驚いたように眉を上げた。
「曲で語る、ということか」
「言葉が塞がれているなら、振動で橋を架ける。赤子は母音より先にゆりかごの揺れを覚えるものだろう」
ハルメアスの胸に、スクリーン越しの小さな寝息がよみがえった。
「君の音で届くかもしれない。それでも王宮の監視は厳重だ」
ノアは唇を引き結んだ。
「やってみる価値はある。僕は数字で測られる緑帯より、まだ聞こえない耳を信じたい」
窓の外で雲が切れ、湖光が床に射しこんだ。ノアはチェロを抱え直し、試し弓で短いフレーズを弾いた。柔らかいト長調が部屋を満たす。ハルメアスはそのまま立ち尽くし、音の輪郭を胸骨で受け止めた。
曲が終わるとノアは視線で問うた。
「この響きに君の沈黙を重ねてくれ。そうすれば二つでひとつの語りになる」
ハルメアスは小さくうなずいた。足元からゆっくりと息を吸い込み、肺の奥で言葉にならない声を形成する。それは音にはならないが、胸郭の微かな振動としてチェロの余韻に滲み込んだ。
ノアはその動きを合図に弓を振り上げ、今度は長い旋律を弾き出した。低いC弦が揺れ、やがて高いA弦が重なり、音が水面を渡る風のように滑らかに伸びた。ハルメアスはまぶたを閉じ、遠い王宮の密室へ意識を投げた。
彼は心の中で呼びかける──アイレイム、これは君への最初の手紙だ。言葉ではなく波だ。君がいつか声を出すとき、この周波数を思い出してほしい。
曲が静かに終わる。ノアが弓を下ろすと、窓辺の時計がちょうど十五分を指していた。ハルメアスはゆっくり目を開ける。
「録音しよう。圧縮して三重に暗号化し、君の回線経由で王宮の映像サーバに送る」
ノアの提案に、ハルメアスは初めて微笑を返した。
「ありがとう。沈黙では届かない部分を、君が補ってくれる」
ノアは楽器をケースに納め、PC端末を立ち上げた。
「始めよう。遠隔レッスンだ。生徒はまだ名すら登録されていないけれど」
ハルメアスは床に膝をつき、楽器ケースの上で手を組んだ。部屋の空気が温かく変わる。外では鐘楼が軽く鳴り、湖の波が静かに打ち寄せた。
遠い砂漠の夜も、同じ時刻に揺れているはずだ。ハルメアスはそう確信しながら、自分の胸に残る振動を丁寧に記憶へ落とし込んだ。
第4章
六月の朝、レ・ロゼ学園の中庭ラビリンスは生け垣が滴り、風が迷路をすり抜けていた。掲示板には前夜の〈協働スコア〉が貼り出され、赤と緑の数字が並ぶ。数値を一瞥した生徒たちは表情を変えずに通り過ぎた。守秘契約のため、外部SNSへ成績を漏らせば即日退学になると知っている。
ハルメアスは制服の上に淡い灰のストールを乗せ、迷路の入口で立ち止まった。背後からノアが追いつき、肩を並べる。
「今日のトップは七二点だって」
ノアは苦笑した。声に誇らしさはない。スコアが友情の計量器になっている現実を、彼は喜べなかった。
ふたりは無言で生け垣の回廊へ入った。曲がるたび数字の張り紙が減り、空気が静まる。葉陰から湖光が差し込み、緑が蜘蛛の糸のように揺れた。
やがて行き止まりの広場に出る。中央の石卓に試作端末が乗せてあった。黒い板状の小型デバイス。ディスプレイは数値を示さず、代わりに淡い青のグラデーションを揺らしている。
ノアはスイッチを押した。
「数値を色へ置き換える変換器だ。言語解析を切ってあるから沈黙でも測れる」
ハルメアスは画面を覗き込み、指でそっと触れた。温度センサーが反応し、青が一段濃い藍へ変わる。呼吸の深さに同期して色が振幅した。
「数字より穏やかだ」
彼は小さくつぶやいた。沈黙を尊重するように、声量を抑えた。
ノアは胸ポケットから別の端末を取り出す。
「これは遠隔送信用。君の呼吸が色になり、僕の画面にも出る。いずれリヤドの密室へも流せるはずだ」
ハルメアスの瞳がわずかに揺れる。アイレイムの映像は毎夜壁面スクリーンに映るが、音の往復は遮断されている。色なら検閲をすり抜ける可能性がある。
「赤子が初めて泣いたら、端末は緑に変わる設計にした」
ノアは照れ隠しのように言った。
ハルメアスは端末を両手で包み込んだ。湖から吹く風が、葉を鳴らし、迷路の奥で鳥が一声鳴いた。
「測られたくはない。でも測られる前提なら、自分で単位を決める」
彼はゆっくり言った。
ノアは肯いた。
「数字の檻を色の庭へ塗り替えよう。君が色を送り、僕が音で返す。往復書簡だ」
遠くの鐘が十時を告げる。ふたりは端末を布に包み、石卓の下に隠した。授業の時間が近い。
出口へ戻る途中、競技服の上級生セルジュが現れた。腕章には緑帯連盟のロゴ。
「君たち、始業だ。寄り道は減点だぞ」
彼は無表情で言い、掲示板の方向を顎で示した。
ノアは端末を隠し持った背中に汗を感じた。ハルメアスはストールを整え、静かに一礼した。迷路の外では再び数字の世界が待っている。
教室へ向かう坂を上りながら、ハルメアスは胸に言葉を刻んだ。
(アイレイム。数字にはない色で、君の最初の涙を測る。誰にも奪わせない)
思いが脈になり、端末の中で藍がほのかに揺れた。
第5章
七月の深夜、レ・ロゼ学園の天文塔は雲の切れ間に月を載せていた。
ハルメアスは最上階の電波観測室で、窓を半分だけ開け外気を吸った。湖の面は黒く凪ぎ、学園の灯りが一点ずつ映っている。
卓上端末が小さく震えた。画面には数値ではなく薄灰の波形と英数字。発信元――《リヤド白域/Secure Ω 01》。メッセージは二行で終わる。
〈第一声検知。即時収束プロトコルを起動せよ〉
送信鍵はジュリアノスの個人証明だった。
震動に気づいたノアが階段を駆け上がる。汗のにおいが夜気に混ざる。
「また白域から?」
ハルメアスは無言でうなずき、端末をノアに渡した。だが暗号化レベルは学園防諜回線の最高域で、閲覧権は教務局の暗号官に限られる。画面は“未承認閲覧”と表示されたままロックがかかった。
ノアは両手で髪をかき上げる。
「収束って、泣き声を封じるってことだよな」
声の温度は低かった。
ハルメアスは月明かりの下で目を閉じ、遠い鼓動を探す。耳の奥で微かな揺らぎが重なり合い、一点の高まりを示した。リヤドの白域――防音壁に囲まれた密室。その中央で、アイレイムが泣いている。肌の震え、声門の張り、呼気の乱れ、それらが距離を越えて像を結ぶ。
「彼は泣いた。言葉のない声で、あそこを割った」
ハルメアスの呟きに、ノアは拳を握りしめた。
「じゃあ俺たちが封じるなんて出来ない。色で返せるか?」
ハルメアスは試作端末――数値を色へ変換する小さな板――を取り出した。アイレイムの呼気を受けたとき、表示は緑へ変わるはずだった。しかし白域からのPingは波形しか含まない。政府回線が声紋を遮断している。
「声は届かなくても、こちらの色は送れる」
ハルメアスは端末を塔の送信アンテナへ接続した。マストに沿って紫電が走り、湖上へ静かな脈が放たれる。色信号のパケットには名もスコアもない。
その間にも中央回線は動く。塔の対岸、管理棟の最奥で暗号官カレルがスクリーンを睨んでいた。彼の端末にジュリアノス直署の別電が届く。〈観測生 H01 の判断を優先せよ〉。カレルは肩を落とし、封鎖信号を停止した。
ハルメアスの端末が薄緑へ切り替わった。遠くで誰かの鎖が外れるような感覚が胸に届く。アイレイムが泣き止んだ証だった。
ノアは息を吐いた。
「色は届いたんだ」
「いや、彼が選んだ。泣くのを止めるかどうか」
ハルメアスは言い、アンテナを外す。
端末は再び小刻みに震え、こんどは白域から新しいPing。〈第一声ログ完了。観測継続〉の文字だけが現れて消えた。
ノアは壁に寄りかかり、夜空を見上げた。
「数千キロ先の赤子を、色一つで守ったつもりかもしれない。でも本当は彼自身が沈黙を選んだんだな」
「沈黙は檻じゃない。扉だ」
ハルメアスはそう返し、階段へ向かった。
塔を下りる途中、非常灯が一度だけちらついた。緑帯ネットがリブートした合図だ。教務局の放送が流れる。〈通信障害は復旧した。生徒は自室で待機〉。声は無機質だったが、ハルメアスはわずかな緊張の揺らぎを拾った。暗号官たちも初めて“計測外の変数”に触れたのだ。
寮棟に戻ると、静室の壁面スクリーンが淡い琥珀色に波打っていた。サウジ側の監視カメラは機密の範囲を超えて色情報だけを抽出し、応答として送ってきたのだろう。
ハルメアスは机に向かい、学園指定の記録帳を開く。万年筆で一行だけ書いた。
〈第一声:収束せず。色信号・琥珀〉
その下に余白が続く。明日の測定項目を記す欄だが、彼はペンを止めた。余白こそが観察の始まりだと知っている。
背後で端末が静まり返った。湖の風が窓をかすめ、塔の時計が零時を過ぎたことを告げる。ハルメアスはノアから預かった色変換器を胸に当て、深く息を吸った。盤面はまだ淡い緑を保っている。
「声は守った。しかし声を持った者を、どう守る?」
思考は夜の水面へ広がる波のように静かに揺れ、やがて一つの結論にたどり着く。
〈緑帯の外に、第二単位を設ける〉
彼は帳の余白へ再びペンを走らせた。
〈色階調 β2 琥珀=第一声保持〉
〈藍=沈黙保持〉
〈灰=検閲〉
定義が終わると、遠くで雷が鳴った。雲の向こうで夏が崩れ、雨の前兆を告げている。ハルメアスは窓を閉めた。沈黙の塔も、やがて雨に洗われる。
第6章
校内警報が二度短く鳴り、レ・ロゼ学園の生徒と職員は地下シェルターへ移動した。湖面の霧の上では緑帯連盟のドローンが旋回灯を点滅させ、射角を学園正門へ合わせている。彼らは在外王族の私的データに触れれば国際条約違反になると承知していたが、未登録児の「第一声」を放置するわけにもいかなかった。
シェルター講堂の扉が閉まる。内部通信は切られ、外のネットは遮断される。空調は静かだが、百三十名の呼吸が熱を帯びていた。上級生セルジュに非常灯の下で拳を振り上げる。
「未登録児を匿えば学園自体が赤帯扱いになる! 保守寄宿館は退学を覚悟しているぞ」
ざわめきが広がる。数値スコア掲示が止まった今、彼らの不安は数字ではなく体温で示された。
ノアは壇上に立ち、胸から色階調端末を掲げた。液晶には薄い琥珀が揺れている。
「数値で裁かれる前に、色で守れる。これは声の周波と強度だけを抽出し、個人識別を外す。誰の声か分からなければ連盟も介入の根拠を失う」
セルジュが鼻で笑う。
「匿名化? 子どもの声と分かれば十分だろう」
そこでハルメアスが一歩出る。第三者が見ても分かるほど指先が震えていたが、声は安定していた。
「この端末は声を『発信源不明の色』に変える。第一声は琥珀、次の声は緑、その次は藍。外部に送るのは色コードだけだ。ドローンは数値 ID を読み取れない」
二人は卓上プロジェクタへ端末を接続した。天井に大きなパレットが浮かび、琥珀から薄緑へと滑らかに変化する。数字はどこにもない。
教務主任が眼鏡を外し、ホログラムを見上げた。
「連盟規約では『個別音声ログの提出』が義務だが、色は音声ではなく視覚データだ。条文の穴を通せるかもしれん」
セルジュの肩が下がった。抵抗の手段が理論で示されると、彼の怒りは行き場を失う。
「……外部審査が来るまでの一時しのぎにしかならない」
ノアは首を横に振る。
「その間に色の評価基準を自治で作ればいい。学園内スコアを色階調に置き換えれば、外の数値より早く振る舞いを調整できる」
議長席のライトが点灯し、教授陣が互いに頷いた。暗号学のカレル教授が口火を切る。
「提案を採択する。シェルター自治の範囲で色階調ログを運用し、外部への提出は保留とする」
拍手は起きなかったが、重い息が一斉に漏れた。端末は再び琥珀へ戻り、講堂の天井が柔らかな光で染まった。
ノアはハルメアスの隣に立ち、声を落とす。
「君が遠くの子を守りたいなら、ここを色で満たすんだ。数字より速く、人より静かに」
ハルメアスはわずかに微笑むだけで返した。琥珀は揺れ、緑の芯を孕んでいる。
湖上のドローンは包囲を続けるが、学園からはデータが上がらない。指令センターのオペレータは苦い顔で通信ログを更新し、「未確認色信号」を不具合レポートに分類した。
地下では端末の配線が壁を這い、各教室へ色信号のみを配る簡易ネットが形を取り始める。生徒の手には数値の代わりに薄いペインティングパレットが渡され、呼吸や声が色へ翻訳されてゆく。
セルジュは壁際で腕を組み、__認めるしかないのか__と呟いた。端末は彼の呼気を拾い、灰色から橙へと変わった。「協働意欲」の色だった。
夜明け前、シェルターの換気孔からひんやりした空気が流れ込む。ハルメアスは端末を胸に当て、遠くリヤドの空を想像した。アイレイムの部屋にも、いつか同じ色が灯るだろうか。
「声なき声は、色で聞く。それが今の僕たちにできるすべてだ」
彼の呟きにノアが頷き、色のパレットが静かに緑へ変わった。
第7章
夜明け前、湖上の霧を割って緑帯連盟の旗艦艇が静かに錨を下ろした。甲板に設けられた臨時会議室――天窓の代わりに厚い防弾ガラスが貼られ、対面テーブルには三つのホログラム端末が並ぶ。中央にジュリアノス、左に緑帯連盟外政長官アミーナ、右にレ・ロゼ学園理事長フィッシャー。
ジュリアノスは敬語で開会を宣言した。
「本協議は〈在外王族保護と教育インフラ試験〉を目的といたします」
最初の議題はアイレイムの扱いだった。アミーナはサウジ王宮への即時移送を主張したが、ジュリアノスは静かに首を振る。
「在リヤド管理を継続いただく。医療・警備・通信費用は私の個人口座で負担する」
フィッシャーが財務シートを確認し、連盟側も異論を引っ込めた。次に学園の通信権が俎上に載る。連盟は外部暗号ノードを常時監視したいと迫ったが、理事長は珍しく語気を強めた。
「本校は一九世紀の創設以来、寄宿生の私信を外部機関へ開示した前例がありません」
ジュリアノスは両者へ視線を配りながら、調停案を提示した。
1.学園内回線は連盟の検閲対象外とし、違法流出が確認された場合のみログを遡及提出。
2.端末識別子は数値ではなく色階調コードを使用。個人特定を回避しつつ統計解析を可能にする。
アミーナは腕を組み、ホログラム上で条項をスクロールしたのち、頷いた。
「色階調ログは“個別音声”に該当しない。条約違反には当たらないわね」
最後に色階調端末の正式試験。学園側は校内限定を条件に即時導入を求め、連盟はデータ共有を条件に合意した。
決議文が読み上げられ、三者の電子署名が欄に灯った。
――臨時自治協定(A-ROSE 1990)
①アイレイムの在リヤド管理を継続
②レ・ロゼ学園の独立通信特権を維持
③色階調端末を学内限定で試験運用
付帯:緑帯連盟は学園地域を教育特区として治外法権扱いとし、域内の司法・警察権を理事会に一任する。
署名が完了した瞬間、外甲板の投光器が消え、湖面の霧に薄い朝焼けが差し込んだ。フィッシャーは胸を撫で、
「これで生徒たちは数字の恐怖から一歩離れられる」
と呟いた。
ジュリアノスは会議ログを閉じ、最後にこう付け加えた。
「文字は枷にも橋にもなります。色はその隙間を埋める絵の具です。橋を塗るか、枷を彩るか――選ぶのは学園と連盟です」
そのころ学園シェルターでは、ノアがハルメアスへ協定成立を知らせていた。端末は琥珀から柔らかな緑へ変わり、学生ホールのホログラムも同じ色相を映す。生徒たちの安堵が波のように広がり、セルジュでさえ肩の力を抜いた。
湖の対岸で連盟監視ドローンは旋回灯を消し、空高く揚力翼を折り畳む。新しい治外法権は、世界地図には載らない小さな独立国のように、校舎を光のドームで包み始めた。
ハルメアスは北翼静室の窓辺に立ち、アイレイムの遠隔映像にそっと指を伸ばした。色はまだ琥珀のまま。
「距離は塀になる。でも色が繋ぐ。君が泣くたび、ここでも空が染まる」
彼の背後でノアがチェロを構えた。第一弦が低く鳴り、湖面に新しい協奏の波紋が広がった。
第8章
九月、レ・ロゼ学園の掲示板から数字のランキングが消え、代わりに三十六色のパレットが貼り出された。橙は協働、藍は自習、菫は休息不足――学生は登校前に自分のカードを読み取り、講堂中央のホログラムへ色を送信する。午前八時、巨大パネルは万華鏡のように変化し、学園全体の「今日の気配」を映した。
理事会は新制度と同時に厳格な NDA を布告した。授業内容と色ログは外部 SNS への共有を禁じ、違反した場合は寄宿資格の停止。生徒ひとりに一つずつ割り当てられたプライベート・ヴォールトは、掌紋でのみ開く小型金庫だ。色ログのバックアップ、端末の試験データ、個人の作曲ファイルは、すべてこの箱に保管する決まりである。
ハルメアスは北翼静室を出ると、毎朝まず湖へ視線を投げた。パネルが柔らかな琥珀を示せば、サウジの白域でアイレイムの夜泣きが収まった証拠。深い群青に沈んでいれば、遠く離れた赤子がまだ眠れていないと理解できる。
色と音を結ぶ試みはノア・エステルハジが主導した。彼は第二音楽棟の防音ホールに鉛直スクリーンを設置し、端末のリアルタイム色データを MIDI へマッピング。赤ならトランペット、黄ならヴィオラ、青はチェロ。「感情の和声」を可視化する実験曲《Coloratura α》が完成すると、学園は夜の特別演奏会を許可した。
午後九時。ホールは照明が落とされ、舞台奥のスクリーンに淡い光彩が揺れる。ノアが弓を構え、最初の和音を鳴らした瞬間、スクリーンは緑へ発光。その色が校内サーバを経由し、暗号化された衛星回線でサウジの白域監視室へ転送される。映像は音声と同期し、アイレイムの保育ポッドに設置された小型プロジェクタへ投影された。
リヤドでは夜明け前の静寂に、無声音の光がゆっくりと天井を染めていく。保育士は意味を理解しないまま、画面に映る楽器の影と赤子の視線を交互に見比べた。
学園ホールでは、学生たちが色パネルを掲げて演奏に呼応する。誰かが淡い桃を送ればフルートが加わり、深紫が増えると低いティンパニが重なる。音と色の相互作用が二十分続き、最後にハルメアスが胸元の端末へ静かに手を当てた。液晶は穏やかな琥珀を示し、チェロのロングトーンがホールを包む。
演奏後、ノアは汗をぬぐってホール裏の控室へ引き上げた。ハルメアスが後を追うと、彼は空になった水筒を指で弾き、微笑した。
「白域まで届いた。色ログは正弦波に近い変動で安定している。君の弟は音を“見る”ことで落ち着くらしい」
ハルメアスは短く礼を述べたあと、
「見えるだけでなく、記憶するといい」
と言った。
ノアは意味を測るように眉を寄せ、
「光を保存する方法を探すよ。録画より深い層でね」
と応えた。
翌日、色パレットは過去最高の協働指数を示した。橙と藍が絶妙に混ざり合い、キャンパスの一角には即興壁画が生まれる。だが同時に、保守派のセルジュが運営するサブネットには「曖昧な色は倫理を腐らせる」という匿名の投稿が増えていた。
理事会は警備部に内部監査を命じたが、学園の治外法権は裏を返せば「外部強制調査が入らない」ことも意味する。生徒たちは自由と圧力の境で揺れ、色ログは時に濁った鼠色を示した。鼠は「疑心」を表す新設コードだ。
十月初旬、ノアはホールに新しい譜面を持ち込んだ。《Coloratura β》――光の三原色を逆相で合成し、白に収束させる試作曲。白は「未定義」を指す。
「君の弟が最初の言葉を発するとき、色を白から始めたい」
ノアはそう提案した。ハルメアスは静かに頷いた。そのやり取りを、監視カメラは音声なしで記録し、サウジへ転送した。映像を見守るジュリアノスの目元に、わずかな皺が刻まれる。
月末、学園内で色階調端末の第一回評価会議が開かれた。理事長フィッシャーは統計を示し、
「数値時代より暴力事件が二〇%減り、深夜医務室の利用は一一%減った。色は衝動を柔らげる」
と報告した。
対してセルジュは資料を投げ出し、
「だが曖昧さは隠蔽を呼ぶ。昨夜の鼠色ピークは何だ?」
と糾弾した。
ノアは落ち着いて説明する。
「疑心が色で露呈したからこそ調整できる。数字なら“0”か“1”で誤魔化されていた」
議論は深夜に及び、最終的に「色ログの校外公開は行わない」という妥協が成立した。
治外法権は守られ、キャンパスは再び静寂を取り戻す。
深夜、ハルメアスは静室で壁面スクリーンを注視した。アイレイムの保育室に白い光が揺れている。演奏ログがバッファから再生されているのだ。赤子はまばたきを繰り返し、やがて小さな指で空をつかもうとした。
ハルメアスは端末に触れ、白を示すコードを直接送信した。スクリーンの光は雪のように淡く広がり、保育室の天井に虹の輪が浮かんだ。ジュリアノスはモニタ越しに息を止めた。
「白は無でも有でもない。書かれる前の余白だ」
ハルメアスの独白はログに残らない。だが遠く離れた白域で、赤子の心拍モニタが僅かに整い、看護記録に“安静”の一行が追加された。
色は新しい文法になりつつあった。数字で統治する世界の下で、誰にも翻訳できない言語が、湖と砂漠をまたいで芽吹き始めている。
第9章
九月末の夜、更衣塔の屋上でセルジュ・アルブレヒトは携帯端末を壁際の送信アンテナに直結した。液晶には緑帯連盟広報局の匿名ノードが揺れ、彼が用意した一分間の動画がアップロードを待っている。タイトルは〈色は曖昧、そして堕落〉。数値スコア時代の秩序を賛美し、色階調制度が「感情のごまかし」を助長するという内容だった。
動画が完了すると同時に、学園中枢サーバが揺らいだ。翌朝の講堂ホログラムは通常の色パレットではなく、中央に重い灰色のリングを表示した。「グレイ帯」――システム設計に存在しないはずのエラーコードだった。
ホームルームが始まる前、警備部のドローンが寮棟へ飛び込み、セルジュの端末を強制凍結した。端末ログには深夜一時二十二分、屋上から広報局へ直結した証拠のタイムスタンプが残っている。セルジュは灰色リングの正体を知らぬまま、保安委員会室へ連行された。
午前十時、臨時審問が開かれた。理事長フィッシャー、保安委員長コレット、学生代表ノアが席に並ぶ。セルジュは椅子に縛られ、胸の端末が淡い鼠色を点灯している。
「私は学園の将来を案じただけだ。曖昧な色は規律を失わせる!」
彼の抗弁を受け、ホログラムはさらに暗く濁り、グレイ帯の輪郭がセルジュ自身の行動ログと重なった。
ノアは冷静に端末を操作し、灰色リングの解析結果を拡大投影した。
〈起点:セルジュ端末/送信先:連盟広報局/内容:数値スコア復活宣言〉
「あなたが曖昧と呼んだ色が、あなたの企図を可視化したんだ」
ノアの声は静かだが、講堂後方の生徒たちがざわつき始める。
保安委員長は判定を宣告した。
「セルジュ・アルブレヒト、三十日間の公共色ログ閲覧停止と寮外奉仕。再発時は寄宿資格を剥奪する」
制裁は軽いが、ログ閲覧停止は学園生活でほぼ盲目になることを意味した。
審問後、ハルメアスは廊下でセルジュを待ち受けた。
「色は君を攻撃しない。君自身を映しただけだ」
セルジュは唇を震わせたが、言葉は出なかった。端末が発する鼠色が淡く薄れ、やがて柔らかな灰白へ変わる。感情が収束する兆しだった。
その夜、講堂パネルから灰色リングが消え、再び色のパレットが回転を始めた。ノアはピアノで短い即興曲を奏で、琥珀と藍がホールを満たす。ハルメアスは離れた席で静かに見守りながら思う。
湖面に月が乗り、学園は再び治外法権の静けさに包まれた。しかし屋上アンテナの灯だけがわずかに瞬き、次の波紋を予告していた
第10章
レ・ロゼ学園の深夜は、湖面を渡る微かな波音だけが動いていた。北翼静室のモニターにアイレイムのベビーベッドが映る。リヤド王宮・白域に設けられた隔離室。湿度と温度は常に一定、看護師の動きは輪郭線のように滑らかだ。だが生後八か月の乳児はまだ数値タグを与えられていない。枠外の存在であることを示す灰色の欄が、画面右下で瞬いていた。
ハルメアスは膝に毛布を置き、肘掛けに背を預けた。十六歳の肩幅に、親としての実感はまだ重い。だがアイレイムが眠りから覚める一瞬前、胸の奥でかすかな圧が跳ねる。
ノアが部屋のドアをそっと閉じた。ライトブルーのパジャマ姿。鼻梁にかけた丸眼鏡をはずすと、寝不足の赤みが残る。
「またずっと起きていたんだね」
低い囁きに、ハルメアスは目だけでうなずいた。ノアは黙ってティーカップを二つ置き、モニター前に腰掛ける。
映像の中で乳児が薄く身じろぎをした。モニターのセンシングが波形を拾い、ハルメアスの細い端末へ伝わる。ディスプレイは数値を示さず、淡い光円を膨張させた。ノアがプログラムした「色階調インジケータ」だ。緑から琥珀へ滑り、最後に静かな青へ戻る。
「君の色は母音を持たない。でも脈は楽譜になる」
ノアは湯気が立つカップを両手で包み、ゆっくり息を吹きかけた。
「数値化より前に、色と音で物語の枠を作ろう。第一語が世界を揺らす前に、揺れ幅を優しく測る枠が要る」
ハルメアスの喉が一度上下する。
「……ノア」
名前を呼ぶのは久しぶりだ。窓の外で雲が流れ、月が顔を出す。ハルメアスは指先でカップの縁をなぞった。
「君に、自分に子どもがいると知られるのが怖かった」
言葉は震えたが、途切れはしない。
「怖いのは罪悪感? それとも期待?」
「両方。君の視線が測定器になりそうで」
ノアはわずかに笑い、肩を寄せた。
「測るなら色で測る。ジャッジじゃなくハーモニーの座標だ」
ハルメアスはほっと息を洩らし、背を離した。
「第一語は、いつ来ると思う?」
「近い。泣き声は呼吸器と感情の同期だから」
ノアは膝上のハンドヘルドシンセを起動した。端末から取得した色コードが MIDI に変換され、静かな和音が部屋に滲む。藍から黄緑へ転調し、最後に真珠色の余韻が残る。
「この子がもし、不協和音を鳴らしたら?」
「不協和は次の調性を決める鍵だ。君はいつも沈黙を溜めて転調を導く」
ハルメアスは苦笑した。
「僕自身が不協和だったのかもしれない」
ティーカップが空になり、窓の暗がりが淡く明るむ。ノアが立ち上がり、短く背伸びをした。
「明日、音楽棟を借りた。色階調と和音をリアルタイムで同期させる実験をやろう」
「学則違反にならない?」
「富裕層学園の一番いいところは、金で買えない好奇心を教授がむしろ歓迎するところだ」
モニターのアイレイムが小さな呻きを上げ、再び眠りに落ちた。インジケータは乳白色。ハルメアスは画面を指先でそっと叩く。
「いずれこの子の第一語が世界を揺らす。それを恐れている人たちがいる」
「だったら揺れを歌に変えよう。揺れても崩れないリズムを先に聴かせるんだ」
ハルメアスはノアの手を取った。冷たい。二人の影が壁に重なり、湖から微かな風が侵入した。
「ジュリアノスは収束を命じた。でも君と僕は、色と音で開く」
「開いた先で僕らが何色に染まるかは、まだ未定義」
夜明け前、二人は灯りを落とし、静室を出た。廊下の自動消灯が彼らの背に闇を落とす。ドアが閉まる直前、モニターのセンサーが薄緑を滲ませた。遠いサウジの揺りかごで、赤子が微かな喃語を試みたのかもしれない。