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構文  作者: やあざ
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 第一章

 配本作戦の夜、湾岸の荷揚げ場には戦時灯が滲んでいた。リスファーンは片腕で木箱を転がし、隙間から刷り立ての冊子を確かめた。活字の匂いは錆びた潮と混ざり、彼の胸を落ち着かせた。

 マーラは船名簿の列を指で追いながら、刻々と変わる警備交替の時刻を暗記した。失敗すれば船も活字も海へ沈む。その想像だけで胃が重くなる。


 バシールは港湾税関の通路に立ち、老骨に合わぬ静かな足取りで役人に礼を重ねた。宦官として鍛えた声帯が、深夜の帳簿確認を乾いた儀礼に変える。

 作戦は三手に分かれた。まずリスファーンが乗り込み証を偽造した小舟で貨物船へ接近。船員に渡すのは高濃度アルコールの樽と薄い金貨だ。対価は積み荷表への一行──「予備伝票在中」。

 その伝票こそ冊子の隠れ蓑だった。船倉の麻袋に差し込まれた小包は、港ごとの代理店へ流れ、さらに陸路の新聞社倉庫へ忍び込む。


 マーラは陸路を受け持った。彼女が使うのは娼館時代の伝手だ。新聞検版室の給仕女が夜食を運ぶ隙に、冊子を束ねて輪転機奥へ差し替える。紙面校了時、誰も気づかぬまま社内郵便袋へ紛れ込む。

 バシールは最難関の忠誠評議会を担当した。彼は旧王室の勅封香水を手土産に委員長秘書を訪ね、故国の礼式を語りながら書棚の背固めを手伝う。埃を払う動作で背表紙を一冊抜き、そこへ薄い冊子を滑り込ませた。


 役人の視線が外れた一瞬、ページの金糸しおりだけが新しい条文のように光った。

 夜明け前、三人は倉庫で落ち合った。汗にまみれた袖が触れ合い、誰も声を出さなかった。ジュリアノスがいなくても作戦は動いた。それが誇らしくもあり、怖くもあった。


 翌週、港町ルサムで最初の反応が起こる。荷受人が伝票内容に不審を抱き、冊子を開いた。難解な数式と「記号で赦す神なき王」という箴言が並ぶ。それを見た帳簿係は恐怖と好奇心に駆られ、新聞社へ投書した。


 三か月後、湾岸通信社の社会欄に匿名投書が掲載される。見出しは『記号で赦す王は誰か』。記事は小さく、それでも港町から内陸都市まで複写され、壁新聞となった。

 リスファーンは切り抜きを手に戻り、冊子の印影と比べて安堵の息を吐いた。自分の不器用な片腕が、それでもページを運んだ結果が活字になったのだ。


 マーラは記事を読み終えると拳を握った。文字は毒でもあり、救いでもある。その両義性を彼女は骨で知っていた。

 バシールは塔の窓から港を眺め、潮風を吸い込んだ。王室の影に生きた老宦官が、今は匿名の思想を広げている。運命の皮肉が胸を締めつけた。


 だが祝杯は挙げられなかった。記事の末尾には王都治安局の調査開始を示す短い追記があった。冊子の出どころを探り、背後組織を洗い出す計画が動き出す。

 夜、倉庫の灯が揺れた。ジュリアノスが静かに冊子を手に取り、活字を指で追った。


「広がる速度が早すぎる。次の版には誤植が必要だ」


 彼の呟きにマーラが眉をひそめた。


「わざと傷を入れるの?」

「完璧な記録は追跡されやすい。不完全さは影だ。影は歩く人を守る」


 リスファーンが片腕で輪転機を叩く。


「次もやるさ。活字を動かすのは腕じゃなく胆だ」


 バシールは手を合わせた。


「影の量は負債にもなります。赦しは測れると公言した以上、誤植は罪です」


 ジュリアノスは冊子を閉じた。


「赦しが測れなければ、構文は独裁になる。だが測り方が一つなら、それも独裁だ。誤植は第二の物差しになる」


 雨がトタンを叩き、活字が深い影を落とした。

 翌月、第二刷が動く。活字の一行が入れ替わり、数式の符号がわずかに欠けた。読んだ者は解読に手間取り、独自の補注を書き加える。その注釈が地方紙へ転載され、思想は枝分かれしながら根を伸ばした。

 港の酒場、若い荷役が叫ぶ。「神なき王? なら俺たちも名前を捨てるさ!」 壁に貼られた切り抜きに符号名を書き込む者が現れ、帳簿係がそれを写し取る。


 王都治安局は諜報を拡充したが、冊子は既に写本となり、手書きの誤植がさらに増えていた。原典を特定できない迷路が完成しつつあった。

 倉庫ではマーラが歯車を磨き、リスファーンが紙束を裁ち、バシールが通路で足音を聞き分けた。ジュリアノスは机上に世界地図を広げ、赤い糸で港から港へ線を結ぶ。


 糸はやがて大陸を跨ぎ、交差点に小さな紙片が貼られた。そこにはただ一行。


 《語られぬものにも、赦しの座標を》


 灯が落ちても、インクの匂いは残った。彼らの息と混ざり、夜明けまで倉庫を満たした。


 第2章

 南紅海岸オルタスは、潮と砂が交ざる小国だった。油価の暴落で港湾税は半減し、道路補修も給水管の交換も止まった。市長アディールは赤字表の前で頭を抱え、最後に一つの案へ判を押した。――構文スコア導入受諾。言葉を数値に換え、税率と配給を動かす未知の制度である。


 六月初旬、円形劇場でβ Interface 発布式が開かれた。ステージ中央に幅六メートルのホログラムが浮かび、円形ゲージがゆっくり回転していた。緑は支援、黄は警告、赤は制限を示す。市庁が準備した説明は簡潔だった。


「発話ログと行動記録をリアルタイムで解析し、個人スコアを算出します。閾値を越えれば税が軽減され、医薬品が無償になります」


 市民は戸惑った。だが配給は減り続け、病院には薬がない。選択肢は乏しかった。

 ジュリアノスは視察団の長として舞台に立った。白衣が朝の潮風を受け、彼の姿は遠目に医師にも見えた。


「皆さま、本装置は幸福を計測するための秤です。恐れず言葉を投げかけてください」


 柔らかな敬語だったが、内心は張りつめていた。――初の実機テストが失敗すれば計画は頓挫する。

 端末が稼働し、人々の話し声がデータに変わった。港の魚商タリクは「協力」「感謝」を繰り返し、ゲージが緑へ伸びる。隣の荷役アシーフは疲労から愚痴を漏らし、黄色に傾いた。


 最初の一日で緑帯は三割、黄帯は五割、赤帯は残りだった。赤へ落ちた者は追加の質問票を渡され、戸惑いを露わにした。

 夜、ジュリアノスは市庁舎の臨時執務室でログを検証した。黄帯が高い理由は不安語の頻度だと判明したが、閾値を緩めれば効果がぼやける。彼は悩んだ。


(飢えを緩和するための制度が、飢えを加速させるかもしれない)


 二日目、事件が起きた。港湾労働者の少年カイがステージ前で叫んだ。


「母さんが赤帯に落ちた! 飯も薬も切られた!」


 ホログラムは彼の怒声を拾い、バーを赤に変えた。観客のざわめきが波のように劇場を満たす。

 ジュリアノスはマイクを握り締めた。


「赤帯は終わりではありません。再審査の窓が開いています」


 だが少年は引かなかった。


「測るのはあんたの装置だろ! 赦すか見捨てるかも数字しだいか!」


 彼の言葉に、ジュリアノスの胸が痛んだ。システムは“赦し”を均衡へ導くはずだった。しかし現実の痛みは数値より速い。

 彼は観衆を見渡し、声量を上げた。


「私はあなた方の言葉を聞きます。赤帯の再起基準は、今晩、市民代表と共に見直します」


 拍手は起こらなかったが、怒号も鎮まった。少年は涙を拭い、母の薬を求めて列へ戻った。

 夜半、臨時会議が開かれた。代表に選ばれた七人の市民が木箱を椅子代わりに座る。漁師、教師、雑貨商、看護師、港の警備員、学生、そしてカイの母サミーラ。


 ジュリアノスはホログラムを停止し、手帳を開いた。


「赤帯者の再起条件を定性的指標と合わせます。共助時間、育児負担、病歴――数字に置き換えにくい要素を補正項にします」


 サミーラが顔を上げた。


「私は礼を言わない。けれど仕事があるなら手伝う」


 彼女の声は掠れていたが、ジュリアノスは深く頷いた。


 三日目、β Interface は更新された。市庁前のゲージが再計算で揺れ、赤帯が二割、黄帯が四割、緑帯が残りへ変動した。追加の“共助ポイント”が反映されたのだ。

 労働組合は声明を出した。「装置は独裁ではなく交渉の相手だ」と。新聞は「言葉が税を動かす都市」と見出しを打った。


 それでも不信は残った。港裏手で匿名のビラがばら撒かれる。〈記号は檻〉の赤文字。マーラはそれを拾い、リスファーンに見せた。

 リスファーンは片腕で抱えた木箱を下ろし、短く吐き捨てる。


「檻かどうか決めるのは使い手だろ」


 だが彼も心中では揺れていた。

 翌週、港湾関税の速報が届く。β Interface の導入後、税収が前年同月比で一五%増加。緑帯の商人が優遇税率を得て輸入を拡大し、港の雇用が回復し始めたのだ。


 市長アディールは臨時予算で給水管の補修を決定し、海岸通りの街灯が再点灯した。光を見上げた子どもたちは拍手し、ホログラムのゲージが揺らめいた。

 しかしジュリアノスは喜び切れなかった。緑帯が増えた分、黄帯が監視を恐れて沈黙を選び始めていた。


(沈黙の質が変わる。声を失うか、声を隠すか)


 彼は倉庫へ戻り、〈構文原論〉の余白へメモを書いた。

 〈沈黙は測定不能なまま残る。Ω沈黙は赦しの外にある。補正項を設けるか、制度を緩めるか――〉

 マーラが後ろから木箱を渡した。


「緑帯が増えたわ。あなたの勝ちよ」

「勝ち負けではない」

「じゃあ何? 赦した数?」


 ジュリアノスは首を振った。


「赦しは結果ではない。測り方の再定義を続ける過程だ」


 言い終えたとき、ホログラムが黄色を点灯した。彼の躊躇を読み取ったのだ。


「おかしな話ね。あなた自身が救えと叫んでいる」


 マーラの声に、ジュリアノスは小さく笑った。


「それでいい。敬語だけでは世界は回らないと、あなたが教えてくれた」


 夕刻、漁師たちが網を引きながら歌を口ずさんだ。防波堤の端末が歌詞を拾う。懐旧と嘆きが混ざり、バーは黄帯へ振れた。

 ジュリアノスは歌の続きを覚え、端末へ入力した。


 〈歌は共同作業である。悲しみの共有は協調点を加算する〉


 バーが緑へ戻る。漁師は笑い、港に小さな拍手が湧いた。

 制度はまだ未完成だったが、声と数字の間に揺れる橋桁が少しずつ太くなっていった。


 第3章

 一九九〇年初春、緑帯連盟は紅海と東地中海沿岸の小国に向けて招請状を送った。条件はただ一つ――β Interface を国民規模で導入し、平均スコアを緑帯域に保つこと。見返りは関税免除と燃料優先枠だった。

 最初に応じたのは港湾国家ルメラだった。財務省は黒字化を急ぎ、端末を街頭スクリーンに投射した。ところが二週間後、通信量だけが異常に増え、市民の発話ログは単調だった。調査で偽装が判明した。反体制ブローカーが政府ノードを複製し、コピー&ペーストで緑帯を演出していたのだ。


 ジュリアノスは公式声明で「透明度指数」を追加すると発表した。偽装国は特恵を段階的に失うが、市民生活は守られる仕組みだ。閣僚は青ざめたが、港の労働者は「少なくとも嘘が数値で暴かれた」と胸を張った。


 次に加盟を望んだのはハリア半島独立評議国だった。比喩と嘆きに満ちた聖典朗唱が赤帯を招き、宗教界は激しく反発した。評議国は交渉の場に朗唱師ハサームを送り、壇上で叫ばせた。


「赦しは神から授かる。装置の数字ではない!」


 ジュリアノスは敬語を崩さず答えた。


「装置は赦しを測りません。お互いの赦しを可視化し、確認し合う柱になるだけです」


 朗唱師は沈黙したが、譲歩を求めた。宗教語を中立語に写経し、スコアから除外する「マッピング案」である。ジュリアノスは了承し、端末に聖典専用モードを実装した。評議国は緑帯を得て港への輸出枠を獲得し、市民は祈りを続けた。


 カルパチア自由都市連盟では別の抵抗が起きた。旧鉱山の技術者が端末を分解し、暗号鍵を奪って赤帯暴落ウイルスを作成。第一サーバを停止させた。暖房が止まり、山岳都市に雪が吹き込んだ。

 ジュリアノスは技術者に正規 API を提供すると宣言した。


「破壊より対話が早く、対話より共開発が強い」


 四日後、都市連盟は加盟書へ署名し、修復チームに技術者を送った。暖房が戻ると、子どもたちは雪を投げ合いながら端末へ「嬉しい」を送信し、ゲージが緑へ伸びた。

 拡張の陰で地下ネットワーク・ナラティヴ・オフラインが芽生えた。紙の詩と口承歌を守り、端末に接続しない人びとだ。オルタス旧市街の詩人協会“薄明”は赤帯を恐れずタイプライタで詩を刷ったが、配給を受けられず闇市に頼った。


 マーラは夜の路地でリーダーの女詩人イネスに会った。


「緑帯に戻る案ならあるわ」

「詩を檻に入れたくない」


 イネスは手製の詩集『沈黙の花嫁』を渡した。その余白に白衣の少年が描かれていた。マーラは胸が詰まり、何も言えなかった。

 九一年初冬、連盟加盟国は十五に達した。平均緑帯率は六〇%を越え、国境検問所ではスコアを提示するだけで通行税が免除された。だが赤帯も増えた。数字を恐れ、言葉を飲み込む沈黙が都市の隙間を満たし始めた。

 ジュリアノスはバスラ通信回廊でラジオ演説の草稿を練った。マーラが指摘した。


「敬語だけじゃ痛みが届かない」

「痛みを語れば黄帯に落ちる」


 試演端末が黄色に変わった。リスファーンが苦笑した。


「敬語でも本音は測られるさ」


 ジュリアノスは原稿を握り直し、深呼吸した。


「痛みを隠す制度は独裁と変わらない。測定の余白を設け、再起の窓を広げよう」


 彼のバーは一瞬黄に傾き、すぐ緑へ戻った。端末が揺らいでも、彼の声は折れなかった。制度は拡張を続けたが、赦しの計算式はまだ未完成だった。


 第4章

 ナラティヴ・オフラインが生まれたのは、β Interface が市民生活に溶けた直後だった。接続を拒み、紙と声だけで暮らす集団。端末に映らない彼らは、統計上“存在しない”。だが夜になると街路裏の階段に集まり、ロウソクを囲んで詩を朗読した。


 マーラはその動きを追っていた。任務は「赤帯者の声を聞き取り、制度崩壊を防ぐ」こと。だが彼女自身、緑帯の敬語より紙のざらつきを好んだ。

 ある雨の晩、オルタス旧市街の排水路を抜けると、崩れたバロック橋の下に人影が揺れていた。灯りは油皿が一つ。声は低く、言葉を撚った糸のように滑らかだった。


 朗読が終わると拍手代わりに指先を鳴らす音が広がる。マーラが近づくと、朗読者の若い女が静かに視線を上げた。灰色の髪を短く切り、胴衣の袖には赤帯の布を巻く。詩人イネス、その人だった。

 イネスは目だけで「入りなさい」と告げ、木箱を差し出す。箱にはパルプのにおいがこもっていた。

 ――

 雨をしのげる倉庫の奥で、二人は向き合った。空洞を渡る水音が壁を打ち、β Interface の稼働音は届かない。マーラは濡れた靴を脱ぎ、言った。


「あなたたちを緑帯に戻す案がある」


 イネスは頬を強張らせた。


「緑は美しい色よ。でも詩を檻に入れる気はない」


 マーラは箱の中身を示した。手製の小冊子、表紙に『沈黙の花嫁』とだけ活字。余白には白衣の少年が描かれている。


「これはあなたが印刷した?」

「私じゃない。旧港の活字職人たち。紙は誰の手でも折り曲げられる。端末はそうはいかない」


 イネスはページをめくり、詩を指でなぞいた。


「赤帯者は声をあげるほど救済が遠のく。だから私たちは紙に逃げた」


 マーラは息を吸い、胸の痛みを押し下げた。


「逃げ場所を守るのも詩人の仕事ね。でもあなたの仲間は配給列から弾かれている。腹が減っていては言葉も枯れる」


 イネスは笑った。


「だから闇市がある。詩を一篇朗読すればパンが一切れ。世界が数字で閉じても、人は声でこじ開けるわ」

 ――

 外で雷が鳴った。倉庫の窓枠が震え、雨脚が強くなる。マーラは小さく肩を震わせた。


「あなたはジュリアノスが恐い?」

「恐いさ。言葉で世界を縫い直そうとする人間は、刃より鋭い。でも同時に羨ましい」


 イネスの声はかすれた。


「赦しを測る装置? 彼は本気でそれを信じているの?」

「ええ。彼自身も赤帯の計算が及ばない痛みを抱えている」


 イネスは指で紙を折り、角をなぞった。


「赦しは測れるものじゃない。私たちが赦されるかどうかは、私たちが決める」


 マーラは頷いたが、言い返した。


「でも測れなければ権力は暴走する。数がない世界で、泣いた者の声は誰が聞く?」


 二人の沈黙が雨音に混ざる。倉庫の梁から水滴が落ち、紙の表紙に丸い跡を作った。

 ――

 夜明け前、イネスはマーラに小さな包みを渡した。


「これは何?」

「木版活字の原版よ。詩も名前もない一枚の板。好きに刷りなさい」


 マーラは受け取り、重みを確かめた。


「協力ということ?」

「共犯ね。緑帯を信じるあなたと、紙を信じる私。どちらの声が遠くまで届くか試してみましょう」


 マーラはほほ笑んだ。


「約束する。あなたの詩が赤帯を超える日を作るわ」

 ――

 その朝、雨は止んだ。マーラが倉庫を出ると、β Interface の街頭スクリーンが広告を流していた。「緑帯連盟加盟国大幅増」と。彼女は看板を見上げ、胸の包みを強く抱いた。

(数字と声。二つの道具で同じものを照らせるか――それを証明するまでは負けられない)

 マーラは背を伸ばし、人の絶えない市場へ歩き出した。


 第5章

 白薔廟と呼ばれる石造りの礼拝堂は、オルタス外港の崖上にあった。潮風が白壁の石灰を削り、隙間には潮だまりの匂いがこびりつく。戦争で親をなくした子どもたちが毎夕ここに集まった。

 ハルメアスは六歳だった。王宮で生まれ、粛清の夜に抱え出されてから行き場をなくし、この廟に預けられている。言葉をほとんど話さず、長い前髪で表情が隠れているせいか、子どもたちからは「静かな兄」と呼ばれていた。


 春の終わり、港病が流行した。原因は汚れた真水と船荷に潜む真菌だと噂された。廟の子どもたちも咳を始め、熱で眠れなくなった。世話役の老婆は薬草が尽きたと嘆いたが、港は封鎖中で薬は届かない。

 夜更け、ハルメアスはろうそくを一本だけ灯し、発熱した幼い少女のそばに歩み寄った。彼は自分の上着をはだけ、乾いた布で少女の額を拭いた。少女がうわ言を漏らすたび、ハルメアスは指を唇に立て、自分の胸を軽く叩いて呼吸を整えさせる。


 彼は声でなく、動きで子どもたちに合図を送った。湯を沸かす仕草、寝返りを打つ合図、風を通す窓の開け閉め。身ぶりが淡々と続くと、不思議と子どもは泣き止んだ。

 明け方、熱の引かない少年がいた。喘鳴が強く、唇が青い。ハルメアスは迷わず外へ出た。石畳の水たまりを越え、港のはずれにある漁師の小屋に向かう。漁師は夜通し網を繕っていて、少年の姿に驚いた。


「薬なんてないぞ」


 漁師がぶっきらぼうに言うと、ハルメアスは胸元から小さな木製の笛を取り出した。渦巻き模様が削られた古い品だ。彼は笛を差し出し、ゆっくり頭を下げた。

 漁師は戸惑いながら笛を受け取った。王宮の装飾に似た材質に気づき、目を細めた。


「これを売れば薬草くらいは買えるだろう。いいのか」


 ハルメアスは静かに頷いた。

 その日の夕方、漁師は薬草と解熱剤を持って廟を訪れた。少年の熱は夜半に下がり、呼吸が落ち着いた。漁師は帰りぎわ、笛を返そうとした。しかしハルメアスは受け取らなかった。

 漁師は廟の入り口で立ち止まり、少年に言った。


「ものが言えなくても、やることは言葉だな」


 ハルメアスは少しだけ首をかしげ、はじめて笑った。

 ――

 数日後、病は峠を越えた。白薔廟の前に並ぶ子どもたちの顔色は戻り、港を往来する船の笛が風に乗って届く。廟の壁の影で、ハルメアスは拾った小石を並べていた。形も色も違う石を円に並べ、壊れた碁石のように配置を変える。

 老婆が怪訝な顔で尋ねた。


「何を作っているんだい」


 ハルメアスは石を指さし、老婆の手を取って中央に置かせた。石が光を受け、円が閉じた。老婆はふっと笑った。


「これは家かね?」


 彼はこくりと頷いた。

 ――

 夜、港の灯りが遠ざかるころ、ハルメアスは廟の縁に座り、潮騒に合わせて口笛を吹いた。笛を失ったが、音は胸の奥に残ったままだ。旋律は短く、途中で途切れる。それでも近くで眠れずにいた幼子が、目を閉じて安堵の息を吐いた。


 ハルメアスは自分の胸に手を当てた。音のない王宮で母と別れた夜を思い出す。あのとき自分を抱いた腕の重みが、潮風と共に過ぎた。

 子どもたちの寝息がそろったころ、彼は石畳に文字をなぞった。


 〈沈黙は壊れた鏡 破片でも月を映す〉


 書き終えると、指でさっと消した。文字は瓦の粉と混ざり、夜露に溶けた。

 ――

 港には新しい噂が流れていた。「緑帯連盟を導く白衣の男には、沈黙で癒やす弟がいるらしい」と。誰が言い出したかは分からない。だが白薔廟にパンが届く日が増え、外洋船の医師団が余った薬を置いていくようになった。

 ハルメアスは礼拝堂の扉を開け、薬包を棚に並べた。指先が震えた。感謝の言葉を知らないかわりに、彼は丁寧に包み紙を折り、棚の隅に月形の窓を切り取った段ボールを置いた。窓から差す光が薬包を照らすと、まるで誰かの祈りが形になったように見えた。

 ――

 冬が近づく。外港の突堤に大波が当たり、白薔廟の壁に塩が結晶した。ある夜、漁師が再び訪れた。破片になった笛を持ち、細い管を差し込んで直してあった。


「返しに来た。音は濁るが吹けるぞ」


 ハルメアスは受け取った笛を見つめ、両手で口元へ運んだ。息を入れると低い音が鳴った。割れ目が響きを曇らせるが、廟の天井に柔らかく反射し、子どもたちの眠る部屋へ流れた。

 漁師は壁に寄りかかり、腕を組んで聞いた。


「いつか言葉を覚えるか?」


 ハルメアスは笛を膝に置き、首を横に振った。


「声がなくても伝わるものはある、か。変わった王子だ」


 漁師は笑い、廟を去った。

 残されたハルメアスは笛の継ぎ目を指でなぞった。傷があっても音は出る。割れた鏡でも月を映す。彼はそう思い、笛を胸に抱いて目を閉じた。


 第6章

 バスラの通信回廊は海霧で濁り、夜半でも送信塔のランプが鈍く瞬いていた。ジュリアノスは録音室のガラス越しにマイクを見下ろし、原稿を胸に当てた。紙は乾いているのに掌は汗ばんでいた。

 原稿は敬語で始まり、敬語で締めくくられていた。暴動鎮圧の死者、港湾税の急上げ、赤帯者の飢餓――どれも痛みの語を避け、統計と譲歩案で包んである。マーラは背後で腕を組み、眉を寄せた。


「その文じゃ誰も泣かないわ」


 ジュリアノスは首をわずかに振った。


「泣かせる言葉は黄帯を招きます。端末は情緒を過負荷と判断する」


 試演が始まった。録音ブースの赤いランプが点き、天井スピーカーから自身の声が返ってくる。


 《市民の皆様、β Interface は来月から医療支援ポイントを拡張いたします》


 滑らかな敬語。しかしコントロールパネルのバーが黄へ傾いた。「共感不足」の警告だ。リスファーンがガラスをノックする。


「下がれ!黄色が長い」


 ジュリアノスは語調をわずかに上げた。

 《それでも不安は残るでしょう。飢えも痛みも、装置はまだ測り切れておりません》

 黄帯が続き、警告音が鳴った。オペレーターが試演を中断。バスラ本局の端末は放送不適格の判定を下した。

 録音室へ入ると、マーラが原稿を取り上げる。


「数字と敬語で包むのは安全だけど、あなた自身が黄帯になるのよ」


 リスファーンが義手で肩を叩いた。


「信号が何色でも、市場じゃ血の色しか見えねぇ」


 ジュリアノスは椅子に腰掛け、胸を押さえた。心拍センサが脈を拾い、壁の小型モニタに黄が残る。彼は原稿の余白にペンを走らせる。


 ――痛みは測りきれない。だが沈黙はもっと測れない。


 ペン先が止まる。マーラが覗き込む。


「それを書けばいい」


 彼は首を振った。


「書いた瞬間、偽善に変わる。赦しは数値で配る物資じゃないと、皆が分かってしまう」


 マーラはため息をつき、紙を差し戻した。


「それでも口にしないと、黄帯のままよ」

 ――

 深夜二時。屋上の送風口で三人は温い風を受けた。港の灯が点滅し、遠くで銃声が一発だけ響いた。リスファーンが煙草を咥えた。


「お前、王宮を燃やした時は震えてたろ。あの震えが今は聞こえねぇ」


 ジュリアノスは手すりを握った。


「震えが聞こえぬ者を導けない。だから敬語で均す」

「均しすぎて真っ平らだ」


 マーラはそう言い、胸のバッジを外して見せた。β Interface の個人端末だ。赤帯の縁が受信エラーでちらついている。


「私はさっき黄に落ちた。あなたを黄へ引き戻したせいだと思う」


 ジュリアノスはバッジを取り、裏蓋を開けた。閾値調整コードを入力し、赤い縁を白に戻した。


「責任は私にある」


 マーラが横顔を睨む。


「また敬語で自分を殺した。謝るなら怒鳴りなさい」


 静かな口論のあと、リスファーンが煙草を踏み消した。

「明朝、俺が市場で赤帯者の飯列を撮ってくる。映像を演説に織り込め。数字より腹の音だ」

 ジュリアノスは頷いた。


 ――


 翌日、再試演。映像モニタに配給列が映る。腹を押さえた少年が列から弾かれ、地面に座り込む。ジュリアノスはマイクの前に立ち、原稿を置いたまま、深呼吸した。


 《皆様、私は昨日、接続警告を受けました。理由は痛みを避けた敬語でした》


 黄帯が灯る。


 《飢えと怒りが端末に赤く映るたび、私は制度を守る盾になろうとしました。しかし盾が声を塞いでいました》


 バーが赤へ傾きかける。オペレーターが息を呑む。ジュリアノスは語尾を整えた。


 《本日、私は映像の少年へ支援ポイントを直ちに充当します。これは特例ではありません。痛みを測り直すための更新です》


 端末が走査を行い、バーが黄から緑へ戻った。室内に小さな拍手が起こる。ジュリアノスは続けた。


 《敬語と数値は必要です。しかし敬語の奥で震える言葉を、私は今後“補足語”として記録します》


 ――


 夜。マーラが原稿の裏に書き込みを見つけた。


 〈沈黙は割れ、敬語は継ぎ目を隠す。継ぎ目を暴く言葉は黄帯になる。それでも書く〉


 彼女は微笑し、紙を畳んだ。

 リスファーンが録音室の灯を落とした。


「黄色は警告だが、夜明け前の色でもある。次は何色だ?」


 ジュリアノスは窓の外、灯台の緑光を見た。


「黄の次は白。測り直す余白が要る」


 港の風が吹き込み、パネルのバーは緑で揺れた。敬語の影は残ったが、その下にかすかな痛みの輪郭が刻まれた。


 第7章


 構文に支配された世界の中、ジュリアノスはハルメアスのもとへと向かった。

 夜。王宮図書院、地下第五室。


 ここは「発話抑制区域」として登録された、言葉の無効地帯だった。構文が反射しない。命令も記録されない。それゆえ、王が“ただ人”に戻る唯一の場所。

 室内は白い。床も壁も、絹のような吸音素材で包まれており、空気の温度さえ、皮膚を包み込むように均された。


 ハルメアスが、そこにいた。白い装束。白い手。白いまなざし。

 語らない。許されたのは、息をすることと、頷くことだけだった。

 その“赦しの器”の前に、王が入ってくる。ジュリアノス。

 黒の外套を脱ぎながら、足音を殺して近づく。


「ここだけは、君の沈黙が、私の命令よりも強い」


 囁きは優しかった。だが、その指は既に、ハルメアスの喉元をなぞっていた。

 親指と人差し指で喉仏を軽く押し上げ、「発話の不在」を物理的に確かめるような手付きだった。

 ハルメアスの睫毛がわずかに震える。拒まない。だが、許しているわけでもない。

 それを“了承”と読み取るのが、この王のやり方だった。


「君の身体は、構文外だ」

「だから触れても、私は“記録されない”。……誰にも、咎められない」


 その囁きと同時に、王は彼を膝の上に組み伏せた。

 布越しに響く骨の軋み。白い装束の襟元を片手で裂き、晒された首筋に舌を這わせる。


 噛みつく。血は出さない。

 けれど、青痕は“命令の印”として残る。


 ハルメアスは一度だけ身を捩った。

 だが、王の手が腰を固定し、耳元に言葉を落とす。


「君は、傷をつけられて初めて、“沈黙の信憑性”を獲得する。それが、お前の役目だろう?」


 押しつけられた口づけは、愛ではなく、証明だった。

 愛している必要などない。ただ、“黙って受け入れる存在”が、世界には必要だった。


 その夜、王は祈るように彼を剥いていった。

 ゆっくりと、暴力的に、ひとつひとつの衣の裂け目に意味を刻みながら。

 胸、脇腹、太腿。触れるたびに囁く。


「ここは、私の言葉が休む場所」

「ここは、記録の始まらない頁」

「ここは、私が赦されるための沈黙」


 ハルメアスは、痛みを逃さず、声を出さず、ただ震えながら、身体を構文の代償として差し出した。

 ──そして、王は果てた。抱きついたまま、何も言わずに。

 しばらくして、ハルメアスがゆっくりと起き上がる。

 白い布を身体に巻きつけ、血の気のない唇で、彼の額にそっと触れる。


 その指先は震えていた。けれど、それは怯えではなかった。

(この痛みを、言葉にするな。

 それは、世界を壊してしまう)彼の沈黙は、もう“従属”ではない。

 それは、王を赦す唯一の“罰”だった。


 この夜を誰も知らない。記録されない。

 構文外の行為として、ただ“存在の咎”として彼の内に刻まれ続ける。


 ――それでも。

 この夜のあと、ハルメアスは少しだけ、

「語るという感覚」を胸の奥に覚え始めた。


(これは赦しではない。記録させなかった。ただそれだけだ)


 世界はまだ定義され尽くしていなかった。

 彼の沈黙が終わるとき、世界が初めて「正しさ」を問い返す準備ができるのだ。

 記録官が断片的に知り、「構文が免罪を可能にする空間を残したまま成立しているなら、それは暴力の温床だ」と語った。


 閑話


 毎朝六時、光音アラームが鳴ると、ディオはベッドの上で笑顔を作った。起床時点からの倫理スコアを最高値に保つには、「快活・整然・共同性のある反応」が推奨されている。


 ベッド脇のスマートミラーに自動投稿されるログには、彼の「爽やかさ」が高評価として映し出される。 今日のスコアは91.3。グリーン帯最上位。


 スマホにはお祝いのメッセージが並ぶ。 あなたの“協調”が世界を優しくしました 早朝トップスコア賞として「彩度カフェ」無料券進呈中! ディオは頬を緩める。


 今日も「よい市民」として生きていける。 通勤電車の中、彼はスマホでスコアネットを眺める。知人のリストには、緑・黄・赤と帯色が並ぶ。スコアは「倫理表現」「感情管理」「発話整合率」から算出される。 赤帯の人間はもう、ほとんどスクリーン上から消えていた。


  最近では、「スコア下げ病」と呼ばれる疾患が報告され始めている。“善意”を継続的に発信できない、“感謝”を一定数使えない、“共感語”の用法が曖昧な人々。そうした者たちは構文的逸脱傾向と見なされ、まず“推奨隔離”、次に“補正機関移送”、最終的には“尊厳停止”。

 

「つまり安楽死だよね」


  横に立った女子学生が、気楽な調子でそう言い、スマホを振った。画面には彼女の今朝のスコア、97.8。目が痛いほどの虹色エフェクトが揺れている。

 

「昨日ね、クラスメートが“お母さんが亡くなって落ち込んでます”って投稿してたんだけど、表現が“心が痛い”とかだったの。共感語未熟って判断されて、今日赤帯。怖くない?」

「怖いね」


 ディオは応じたが、胸の奥で何かがチクついた。 昼、昼食エリアの倫理貢献スコアボードに、自分の名があった。


 上位十名に入ると、ホログラムに写真が映され、街頭インフォメーションパネルにも顔が出る。 “語りが街を照らす”というスローガンとともに。 ディオは職場のカフェで無料ドリンクを受け取り、笑顔で店員にお礼を言った。店員は無言だった。袖口には、黄帯の端末がちらりと見えた。 (あの人は、今月持たない) 彼は気づいていた。


 この世界で倫理が“数”になった時点で、“語れない者”は死ぬ。 年老いた人はすぐに“構文応答率”が落ちる。 神経性失語や、認知傾向のある者は“測定不能”として処分された。 それでも、自分はまだ語れる側だ。 語れ。笑え。許せ。誰よりも早く。


  夜、帰宅後のスコア更新。 91.3 → 94.6 評価が上がった。今日の投稿がバズったからだ。 「言葉は命です。だから優しさを測りましょう」 7000いいね、1200リシェア。

  “倫理的影響度”が急上昇。 画面には【都市貢献ラベル:発動】が点灯した。

 ディオの心は、晴れなかった。

 

 部屋の隅に、母がいる。 認識障害を持ち、言葉はもう失われて久しい。発話は途切れ、感情の抑制もできない。 母の端末は“評価不能”。処理分類として「補助者要申請」と表示されていた。 ディオはいつも通り、声をかけた。


「今日は……すごく、いい日だったよ。僕は語った。たくさん、優しい言葉を使ったよ」

 

 母は彼を見ていた。目だけは、生きていた。 彼はスマホを手に取った。通報ボタンがある

 。

「倫理評価不能者・同居家族通知」。


 押せば、保護員が来て連れていく。そして“処理”される。


「……語れない人にも、優しさはあるのにね」


 スマホを伏せたまま、彼は泣いた。

 それは、端末が拾わない、記録不能な泣き声だった。 画面のスコアは、94.6で止まったままだった。


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