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構文  作者: やあざ
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第1章

思考時間: 数秒

〈第Ⅰ章 裂月〉

王都標準時午前三時十一分。監視衛星〈ヘシオドス〉は月面南極に朱色の裂け目を検出した。

波長解析は既知元素に該当せず、重力値は正から負へ振れた。

「記述不能」――管制室のログが黒く塗り潰された。

主任オペレータのカーラは歯を噛み、震える指で緊急報を打った。

観測値が更新されるたび、数値はゼロに戻る。

数式が拒絶される感覚が皮膚を逆立て、椅子が軋んだ。

裂孔から放物線を描く影状群体が無推進で降下を始めた。

軌道計算が成り立たず、軌跡は全方向同時に伸びる。

「速度係数無限大」

言い切った瞬間、室内の誰もが息を止めた。

世界各国の天文台が同報を送ったが、内容は同じ一行だった。

〈解析拒否〉

人類は初めて「恐怖」を天文学の単位で測った。

王都パライオス中央、黒檀とガラスの塔〈アポリア〉。

構文中枢室には夜灯がなく、壁を這う光導線だけが淡緑に脈打つ。

ジュリアノスは演算卓の前で白手袋を外した。

皮下インターフェースが淡紅に光り、脈と同期して蠢く。

「未知の辞書を編む」

彼は冷静に宣言したが、声の奥で使命感が軋む音がした。

副官ミルザが数値を読み上げる。

「降下体二百八十四。形状不定、推進痕跡なし」

口調は整っていたが、語尾は震えた。

ジュリアノスは応えず、古典ギリシア語のプレフィックスを入力した。

既存の構文では足りない。

彼の脳裏に浮かぶのは、言語が武器になるという確信だけだった。

王都上空七百キロ、迎撃網〈レビアタン環〉が起動。

質量投射砲ゴルゴダはタングステンロッド四十八発を射出した。

音速四十倍の杭が大気を裂き、夜空に白い筋を引く。

ロッドは影の外殻へ着弾した。

だが衝突エネルギーは霧散し、金属は粉状に砕けた。

衛星カメラは負の重力勾配とタキオン様波の逆流を映した。

「物理迎撃、効果なし!」

管制士の叫びを消すように、影の一部が大気を突き破った。

暗赤の球殻が開き、触手のような構造が空気を骨格に変えた。

衝突点は北アフリカ上空。

防衛ラインを抜けて八秒後、都市シディ・ハサンの真上に達した。

光だけが街を貫いた。無音の白。

二十万の呼吸が、名前もなく終わった。

衛星図には直径六キロの空洞が残り、赤外線はゼロを示した。

管制室でカーラは椅子から立てず、拳を額に当てた。

〈破壊確認〉

スクリーンに無機質な緑文字が点灯した。

誰も安堵しなかった。

〈アポリア〉では振動が床を揺らした。

ジュリアノスは掌から光る汗をこぼし、次の命令を入力する。

「エウメネイア、予備詩節を展開」

卓上に半透明の立方体が浮かび、古語と機械語が絡む数式を走った。

空気が低く唸り、塔の外壁が震えた。

副官は胸元で十字を切り、唇を噛んだ。

ジュリアノスの瞳に映る波形は、まだ勝算を示していなかった。

だが後退すれば語る余地も消える。

彼は声には出さず、胸中でただ一語を繰り返した。

「続けろ」

――第Ⅰ章・了――

第2章

〈第Ⅱ章 言語と無音の衝突〉


構文兵装〈エウメネイア〉は二七秒の予備演算を終えた。

ジュリアノスは唱句を一呼吸で読み上げ、指を宙に走らせた。

ギリシア語の韻が機械語のビット列に溶け、塔内の空気が硬く締まった。


副官ミルザは防振パネルを握りしめた。

発声が終わると同時に、塔頂から紫の衝撃波が噴き上がった。

波は音速を抜き、夜雲を円形に押しのけた。


〈ヘシオドス〉が外殻解析を送信。

“アリストテレス個体‐01 臓核=無血の黄金樹”

名前を与えられた影は、膜の色を失い輪郭が透明になった。


しかし〇・四秒後。

臓核が内側から黄色光を噴き、外殻を再生。

自壊しかけた情報位相を捨てるように、より高密の無効化シェルを生成した。


塔外で激しい反射波が発生。

構文波と歪曲波が干渉し、上空三千メートルの雲層が水蒸気ごと剥がれた。

雷鳴はなく、ただ真空音に似た圧が耳を叩いた。


黒檀壁の合わせガラスが蜘蛛状に割れた。

ミルザは倒れ込み、頭部保護を忘れた。

ジュリアノスは卓を支え、両掌の紋様を見下ろした。


皮下インターフェースがひび割れ、微細回路が火花を吐いた。

「名指しは通る。しかし敵は語られ得る枠を棄てる」

声は静かだが、痛みが滲んだ。


塔耐久は残り一〇%。

非常ブザーが鳴る。

ハルメアスが走り込み、兄の腕をつかんだ。


「離脱を!」

朱い瞳が弟を映す。

そこには疲労と決意だけがあった。


「逃げ道があるなら、世界を先に逃がす」

ジュリアノスは首を振り、卓へ視線を戻した。

「だが聞け。私が沈黙したら、お前が語り手だ」


ハルメアスは唇を結び、わずかに頷いた。

塔の衝撃吸収材が悲鳴を上げ、警報が赤から白へ変わる。

退避プロトコルが自動で走った。


同時刻。

旧サハラ海盆地下二千メートル、兵器工廠〈ハッドラムート〉。

識別語〈Χβ0〉ことバロウズ博士が炉壁温度を読み上げた。


「タングステン溶融完了。杭長一六メートル、質量一二トン」

隣室では〈Σγ6〉リー教授が人工重力レンズの位相を整えた。

プラズマの光が保護ガラスを紫に染めた。


彼らは私語を捨て、識別語でのみ呼び合う。

倫理議論は終了済み。残るのは成功率の計算だけ。

「怪物を殺すには、人間性を一行削ってでも数式を残す」


重力レンズ《レヴェレーション》は正十二面体衛星群で構成される。

試算では空間曲率を一八%折り畳めば、敵臓核を粉砕できる。

だが誤差〇・一%で地球低軌道が崩壊する。


Χβ0は作業用端末に指を滑らせた。

「恐怖より早く完成させろ。恐怖は計算を遅らせる」

誰も頷かず、溶接火花だけが返事をした。


王都へ非常連絡。

ハッドラムートが“神の杖”一次ロット十二基とレンズ衛星群の起動を通報。

ハルメアスは受信ログを握り、震える指を静めた。


「兄上。科学者たちは理性の皮を剥いででも武器を造る」

ジュリアノスは短く笑った。

「なら我々は語の皮を剥いで世界を守る」


塔電源が限界を迎え、自家発が落ちた。

星明かりだけが室内を照らす。

二人の顔に影が戻り、汗が冷えた。


ミルザが避難エレベーターを開け、ジュリアノスを振り返った。

「陛下――」

「私は後で行く。語りを閉じねば塔が黙らぬ」

扉が閉じ、弟と副官が降下していった。

ジュリアノスは暗闇で一度だけ深呼吸をした。

胸の痛みは恐怖ではない。語を失う前兆だった。


卓上に残った構文波がまだ揺れていた。

彼は手袋を拾い上げ、破れた紋様を覆った。

「未知の辞書は未完でいい。未完こそ、次の語へ渡せる」


外では影の群れが新たな軌道を取り、北半球へ散った。

迎撃失敗の情報が世界各地を駆け、軍事衛星が沈黙した。

夜はまだ続く。

第3章 重力レンズ点火


零時二分。地球静止軌道上一万機の制御衛星が正十二面体を形づくり、人工重力レンズ《レヴェレーション》の初期同期に入った。

位相ずれは許容〇・〇一%。誤差を超えれば衛星自身が融解する設定だ。


地下二千メートル〈ハッドラムート〉。Χβ0バロウズは溶接面を跳ね上げ、炉温を確認した。

「杭十二基、比重誤差ゼロ点ゼロ三。射出準備」

背後でΣγ6リーが無言で親指を立てた。


上層管制は軍事衛星の再起動を断念し、レンズ網へ指揮を一元化。

大陸各基地は電源を落とし、地磁気ノイズを最小化した。

世界は息を殺し、闇に耳を澄ませた。


王都の臨時司令室。ハルメアスは無人の卓に立ち、ノアとアイレイムを映すホロ画面を見た。

「聴こえない歌のデータリンクは生きているか」

ノアはリコーダーを掲げ、親指でキーを叩いて応えた。


アイレイムはヘッドセット越しに浅い呼吸を整えた。

少年の声帯は震えない。それでもスペクトルアナライザーは彼の吐息に淡い山を検出した。

“未定義音”というタグが点滅する。


レンズ衛星がフェーズ2へ遷移。

空間曲率が折り畳まれ、成層圏の雲が螺旋状に下へ落ちた。

赤紫の光が大気を縫い、夜を裏返す。


ハルメアスは胸元の指輪を握り、端末へコマンドを打った。

「中心位相を一・八πずらせ。期待波形を注入」

技術士が悲鳴を上げた。「そんなパラメータは規格外です!」


「規格外を許容しなければ、規格が消える」

ハルメアスは打鍵を続け、送信キーを叩いた。

衛星群へ未知タグ〈Prosody β〉が転送された。


同時刻、ノアがリコーダーで無音の運指を始める。

指孔を開け閉めするたび、圧力センサーが不可聴域の乱れを拾った。

アイレイムが吐息を合わせ、銀の波形が山を重ねた。


衛星から白光が放たれ、敵個体群の外殻に干渉。

一体が外套を剥がれ、臓核が露出した。

しかし脈光が反転し、逆位相の跳弾が空を裂く。


雲を貫く裂け目から黒結晶が降り注いだ。

一粒が海面に触れ、半径五メートルの無音領域を開ける。

波も、兵の叫びも、そこで消えた。


ハルメアスはマイクを切り替え、ノイズ防壁を上げた。

「まだ足りない。共振点をもう三ヘルツ上げろ」

ノアは汗を拭い、口角だけで笑った。「了解。期待の半音上だ」


少年の息が速まる。アイレイムは譜面を握り、余白へ鉛筆で点を打った。

見えないはずのリズムが紙を通し、端末に跳ねた。

“可能性空白 Δ+五%”――演算タグが緑に変わる。


衛星群が再点火。今回は重力ではなく、演算上まだ名前のない力として。

空全体が深紅に染まり、裂け目がベールで覆われた。

敵外殻から赤い光条が奔出したが、海面の一点で凍結した。


「反重力余剰を自己拘束……自爆か?」

副官の声にハルメアスは首を振る。

「違う、歌っている。定義を拒む歌だ」


その瞬間、指揮卓の射出口ランプが開いた。

銀白の粒子加速槍《Kerygma》。

ジュリアノスが残した最終兵装が静かに昇降機で上がってきた。


ハルメアスは歩み寄り、柄を握った。

槍頭が三段階で展開し、量子ストリングが脈打つ。

兄の声が耳に蘇る。“語れ。だが赦しを忘れるな”


「目標、臓核コア。射角五二度」

射出レールが赤に点灯。

ハルメアスは息を止め、トリガを握った。


――閃光。

槍は光速比〇・九二で放たれ、敵臓核を貫いた。

衝撃点から白焔が広がり、個体は粒子の霧へ崩れた。


勝利の報は一秒で否定された。

後続の影が緑光を放ち、一体が二体、四体へと増殖を始めた。

質量保存を無視した分裂。


「殺せる量が意味を持たない……」

ハルメアスは槍の再装填を求めたが、縮退炉は冷却を要した。

背後の副官が震える声で告げる。「レンズ再収束まで二百秒」


彼は卓を叩き、深呼吸した。

「二百秒、世界を保たせろ」

ノアのリコーダーに再び無音の鍵が落ちる。


アイレイムは目を閉じ、声にならない声を胸で回した。

言葉は要らない。ただ“まだ終わらない”という期待だけが響いた。


第4章

衛星群が冷却に入った隙を突き、緑光の群れは空で互いを飲み込み始めた。

五秒後、巨大な影が出現。長さ三百キロ。“タイプ・アトラス”が成層圏を埋めた。


胸郭中央で三角錐の光が脈動し、重力場が刃へ変わる。

ターゲットはユーラシア中央プレート境界。

ハルメアスは即座に《Kerygma》再充填を叫んだ。


縮退炉残熱九十三パーセント。再点火には二分が要ると表示。

ジュリアノスの hologram《J ghost》が卓上に浮かんだ。

「槍を融合しろ。君自身が媒介になるんだ」


ハルメアスは迷った。自壊の危険が高い。

だがアトラスが光刃を放つまで、残り百一秒。

彼は頷き、指輪を縮退炉へ押し当てた。


赤銅の指輪が液状化し、槍身と彼の胸に同時に吸い込まれた。

神経網を貫く量子ストリング。視界が赤に瞬いた。

痛みはあったが意識は鮮明だった。


その瞬間、アトラスが光刃アポフェオシスを放った。

無音で空が割れ、地表を一千四百キロえぐった。

通信網は七割遮断、都市灯が次々失われた。


指揮卓の壁が崩れ、ジュリアノスが実体で駆け込んだ。

「充填を代われ。お前は核へ行け」

歪曲波が再び襲い、ハルメアスの上に瓦礫が落ちた。


ジュリアノスは弟を突き飛ばし、肩口に直撃を受けた。

構文紋様が砕け、光の塵となって消えた。

床に赤銅の指輪だけが転がった。


「兄上!」

返事はない。

ハルメアスはリングを拾い、握り締めた。

体内の槍コアが脈を速めた。


アトラスへ突入する単座ブースターが射出口に待機。

ノアの声が無線に入る。「聴こえない歌を最後まで弾く」

アイレイムの息が重なり、期待波形が再び立ち上がった。


ブースターが射出され、超音速で雲を割った。

重力障壁が骨を軋ませたが、銀球状の無音領域が身を守った。

槍コアは鼓動と同期し、熱を放った。


アトラス臓核は擬似ブラックホール。

ハルメアスは槍を胸から引き抜き、赤い銘板を握った。

「語らないまま、君と並ぶ」


槍頭が臓核へ刺さり、コアが共振を始めた。

無音の起動語が喉から空へ漏れ、核とコアが位相を揃えた。

起動コード:Α Ω Nullification。


光も熱も伴わず、臓核が崩れた。

アトラスの巨体は粉雪のように散り、溶けるように消えた。

視界が白く反転し、無重力が一拍生まれた。


ハルメアスの意識は暗転した。

槍も装甲も存在せず、ただ心音だけが遠くで鳴った。

“赦し”という語が胸に残り、闇へ溶けた。


数時間後。裂けた大地の岸辺でノアが微弱な無線を拾った。

「…ノア、聞こえる?」

海霧の向こう、白衣の影が立つ。


ハルメアスだった。

胸には赤銅の指輪の痕。

彼は微笑み、砂に膝をついた。


「語らない選択肢を、ようやくもらえた」

アイレイムが駆け寄り、抱きついた。

遠い空で裂け目が閉じ、黎明の蒼が広がった。


残骸から降った光る水滴が砂に染み込み、緑の芽が顔を出した。

解析班が報告。「未知結晶に多様な遺伝情報」

新生態系の種子だった。


王都へ帰還する夜、ハルメアスは報告書の末尾に追伸を書いた。

兄へ。

赦しを剣ではなく土に植える、と。


復興基地のスピーカーが久々に声を流した。

「おはよう。今日の空は晴れ。あなたの名前を呼んでください」

街角で子どもが白紙に文字を書き、笑った。


ノアはギターを構え、四小節の無調を弾いた。

旋律は外へ漏れず、聴く者の胸腔で鳴った。

誰も歓声を上げず、しかし沈黙でもなかった。


ハルメアスは指輪を掌に載せ、空を見上げた。

星は静かだったが、語りは終わらないと思えた。

彼とアイレイムとノアは、森を植える話を始めた。


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