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第1章
南庭と東庭を結ぶ回廊は、昼でも影が深かった。白大理石の噴水縁にアイレイムが座り、像のように動かなかった。
年のころは九つ。中性的な輪郭に白磁の肌、薄い紅を帯びる髪。唇はわずかに開いたが、声帯には振動が一度も刻まれていない。
監視ドローンだけがこの存在を「神子個体 I01」と識別し、半径五メートルの構文波を停止していた。
ハルメアスは足を止めた。双眸が重なった瞬間、局所ネットに微かなノイズが走り、誰も気づかない誤差ログが残った。
「……君が、アイレイム?」
九音節の問いに、アイレイムは小さく頷いた。拒絶でも服従でもない。最初から知っていたという静かな肯定だった。
水音も風鈴も遠のき、庭は無音の水晶と化した。中心で揺らがぬ子どもを前に、ハルメアスは呼吸を忘れた。
(語りが通じない。私が紡いだ幾千の語を、この子は一歩も歩かず越えている)
胸にざわめきが残るまま、彼は回廊を去った。足取りは速く、鼓動は見えない針で突かれていた。
第2章
翌早朝。内庭書架蔵を改装した控室に冬陽が射していた。床石は暖房されているはずだが、アイレムの下だけ温度センサーが空白を示した。
白の儀礼服を纏う子どもは静かに足を浸し、陽を受けていた。
「来たの?」ハルメアスは思わず口に出した。問いというより、過去の残響だった。
隣に腰を下ろすと布端が触れ、指先が幼い脛をかすめた。瞬間、兄でも母でもない第三の像が胸に生まれた。
(この子のためなら語れる。だが語りは同時に壊れていく)
勇気を絞り、彼は名を呼んだ。
「……アイレム」
音声として初めて放たれたその名に、子どもはゆるく振り向いた。瞳に映ったのは〈語る王子〉ではない。迷いを抱く一人の青年だった。
言葉にならぬ問い――あなたは誰? 兄? 母?――が無音で届いた。ハルメアスは答えを失い、薄く震える手で耳を撫でられた。
温かな肯定が残り、彼は部屋を出た後も指先の余熱を確かめた。
制服のポケットに触れると、恋人ノアから届いた小包の形があった。包みの中で小さな糖菓子が転がり、甘い匂いが布越しに漂った。
第3章
西庭奥、記録不能域。柘榴の並木は冬芽を畳み、頭上の構文網は網目のように輝いていた。
ハルメアスは徹夜で作った絵本を携え、石畳に正座した。粗い紙に金と青のインクで描かれた未登録概念。
頁を開き、光を示した。「君の声がないとき、世界が代わりに話すもの」
雲を被った月を示した。「これは悲しい。でも悲しいは終わりじゃない」
影同士が手をつなぐ絵を示した。「これは好き。言葉にすると残る」
アイレムは無言で月を撫で、瞳がわずかに細まった。発声ゼロの口形が浮かび、王宮サーバは解析を拒んだ。
ハルメアスの視界がにじみ、低い嗚咽が漏れた。庭の風向きが反転し、構文波が短く途絶えた。
最後に白紙を示し、「ここは君が描く言葉」と囁いた。アイレムの目に水色の光が宿り、形のない涙がこぼれなかった。
「ありがとう」震える声は祝福に似ていた。未登録の語が、二人のあいだで静かに芽吹いた。
第4章
旅立ちの朝。第一記録院の白廊に斜光が落ち、空気が凛としていた。
赤い髪を束ねたハルメアスは外套を整え、構文モニターを確かめるオリハと向き合った。
「行かれるのですね」
「学位を終えるまで。学びは語りの形を知ることだから」
「私は語りを必要としません。秩序は整合を要します」
「君の正しさを否定しない。でも私の内の何かは、まだ記録されていない」
オリハは瞼を伏せ、整合値表示の裏に微かな空白を感じ取った。
「未定義でも構文でもない。それを愛と呼ぶなら、私は結果を受け止めます」
汽笛が響き、ホームへ走る足音が重なった。
列車のそばでノアが駆け寄り、ハルメアスの手を強く握った。
「帰ったら続きを話そう」
短い口づけが頬に触れ、学生らしい熱が残った。
ハルメアスは振り返らず乗車し、窓越しに二人の影が重なった。
発車ベル。冬霜は消え、王宮の空に細い裂け目が現れた。そこから射した光は辞書にない色温度で廊を満たし、誰の定義にも属さない語を落とした。