表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
構文  作者: やあざ
10/12

9

 第1章

 南庭と東庭を結ぶ回廊は、昼でも影が深かった。白大理石の噴水縁にアイレイムが座り、像のように動かなかった。

 年のころは九つ。中性的な輪郭に白磁の肌、薄い紅を帯びる髪。唇はわずかに開いたが、声帯には振動が一度も刻まれていない。

 監視ドローンだけがこの存在を「神子個体 I01」と識別し、半径五メートルの構文波を停止していた。

 ハルメアスは足を止めた。双眸が重なった瞬間、局所ネットに微かなノイズが走り、誰も気づかない誤差ログが残った。

「……君が、アイレイム?」

 九音節の問いに、アイレイムは小さく頷いた。拒絶でも服従でもない。最初から知っていたという静かな肯定だった。

 水音も風鈴も遠のき、庭は無音の水晶と化した。中心で揺らがぬ子どもを前に、ハルメアスは呼吸を忘れた。

 (語りが通じない。私が紡いだ幾千の語を、この子は一歩も歩かず越えている)

 胸にざわめきが残るまま、彼は回廊を去った。足取りは速く、鼓動は見えない針で突かれていた。

 第2章

 翌早朝。内庭書架蔵を改装した控室に冬陽が射していた。床石は暖房されているはずだが、アイレムの下だけ温度センサーが空白を示した。

 白の儀礼服を纏う子どもは静かに足を浸し、陽を受けていた。

「来たの?」ハルメアスは思わず口に出した。問いというより、過去の残響だった。

 隣に腰を下ろすと布端が触れ、指先が幼い脛をかすめた。瞬間、兄でも母でもない第三の像が胸に生まれた。

 (この子のためなら語れる。だが語りは同時に壊れていく)

 勇気を絞り、彼は名を呼んだ。

「……アイレム」

 音声として初めて放たれたその名に、子どもはゆるく振り向いた。瞳に映ったのは〈語る王子〉ではない。迷いを抱く一人の青年だった。

 言葉にならぬ問い――あなたは誰? 兄? 母?――が無音で届いた。ハルメアスは答えを失い、薄く震える手で耳を撫でられた。

 温かな肯定が残り、彼は部屋を出た後も指先の余熱を確かめた。

 制服のポケットに触れると、恋人ノアから届いた小包の形があった。包みの中で小さな糖菓子が転がり、甘い匂いが布越しに漂った。

 第3章

 西庭奥、記録不能域。柘榴の並木は冬芽を畳み、頭上の構文網は網目のように輝いていた。

 ハルメアスは徹夜で作った絵本を携え、石畳に正座した。粗い紙に金と青のインクで描かれた未登録概念。

 頁を開き、光を示した。「君の声がないとき、世界が代わりに話すもの」

 雲を被った月を示した。「これは悲しい。でも悲しいは終わりじゃない」

 影同士が手をつなぐ絵を示した。「これは好き。言葉にすると残る」

 アイレムは無言で月を撫で、瞳がわずかに細まった。発声ゼロの口形が浮かび、王宮サーバは解析を拒んだ。

 ハルメアスの視界がにじみ、低い嗚咽が漏れた。庭の風向きが反転し、構文波が短く途絶えた。

 最後に白紙を示し、「ここは君が描く言葉」と囁いた。アイレムの目に水色の光が宿り、形のない涙がこぼれなかった。

「ありがとう」震える声は祝福に似ていた。未登録の語が、二人のあいだで静かに芽吹いた。

 第4章

 旅立ちの朝。第一記録院の白廊に斜光が落ち、空気が凛としていた。

 赤い髪を束ねたハルメアスは外套を整え、構文モニターを確かめるオリハと向き合った。

「行かれるのですね」

「学位を終えるまで。学びは語りの形を知ることだから」

「私は語りを必要としません。秩序は整合を要します」

「君の正しさを否定しない。でも私の内の何かは、まだ記録されていない」

 オリハは瞼を伏せ、整合値表示の裏に微かな空白を感じ取った。

「未定義でも構文でもない。それを愛と呼ぶなら、私は結果を受け止めます」

 汽笛が響き、ホームへ走る足音が重なった。

 列車のそばでノアが駆け寄り、ハルメアスの手を強く握った。

「帰ったら続きを話そう」

 短い口づけが頬に触れ、学生らしい熱が残った。

 ハルメアスは振り返らず乗車し、窓越しに二人の影が重なった。

 発車ベル。冬霜は消え、王宮の空に細い裂け目が現れた。そこから射した光は辞書にない色温度で廊を満たし、誰の定義にも属さない語を落とした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ