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構文  作者: やあざ
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 1970年代――世界は「言語が人を救う」という発想すら持たなかった。

 中東では第三次中東戦争の爪痕が癒えず、アラブ産油国は「黒い黄金」を政治の凶器として握りしめた。73年の第四次戦争とオイルショックは、東京の夜景からネオンサインを奪い、パリのメトロを早じまいさせ、ニューヨーク証券取引所を震えさせた。原油価格は四倍に跳ね上がり、先進国は省エネ技術と原子力に雪崩を打ったが、途上国の街灯は闇に沈んだままだった。だがそのとき、石油の価格より先に、人間の“声”が値踏みされていた。


 熱帯圏では未知の出血熱が散発的に報告され、WHO の速報は通信網の不備で埋もれた。アフリカの農村では、英語でもフランス語でもない土着語の「嘆き」だけが感染の広がりを証したが、国連の公式記録にその音節は残らない。国連の書記官が聞き取れなかったのは、音ではなく恐怖の震えだった。


 旧ソ連は宇宙からの威信を誇示するためサリュート計画を推し進め、米国はスペースシャトル開発を急いだ。だが両陣営の技術報告書には、軌道上で観測された“重力異常パルス”の欄が黒塗りで挿入されている。パルスの周期は 18.6 年――後にアリストテレス襲来を示唆する数字だったが、この時代に警鐘を鳴らす科学者はいなかった。


 サウジ王宮では、統一前の乱脈な後継争いが続き、正妃と側室の子が同じ回廊で目を合わせることも許されなかった。王族の少年が乳母語で囁く将来の夢は、宮廷書記官の記録から「無意味」として抹消された。少年の将来の夢は、ページではなく壁に書かれて消された。


 一方、西側の大学では、記号論と言語哲学が「ポスト構造」を掲げ、人間は言葉の檻にいると宣言した。しかし学生運動の熱は石畳の催涙ガスにかき消え、残ったのは薄い論文と焼けた旗だけだった。


 東西、南北。すべての勢力が軍事、資源、イデオロギーで互いを測り、「語られたもの」よりも「語る主体」への不信が世界を覆っていた。誰もが自国語で叫び、翻訳の誤差で憎しみが増幅される。


 ――その混沌のただ中で、「声を一つに織り直せば戦争も疫病も抑えられる」という異端の構想が、まだ名もない王宮付き家庭教師の密かな覚え書きに綴られた。のちに“構文”と呼ばれる体系の原種である。だが1970年代末、その原稿は誰にも読まれず、砂漠の夜風にさらわれていった。



 アズラが第十四側室となったのは1960年、王宮の内乱が陰に陽に続いていた頃だった。まだ十九歳だった彼女は、淡い緑の礼服に袖を通し、謁見の間で王の前に跪いた。そばで控えていた宦官が声を低くして名を読み上げたとき、アズラは自分の胸が早鐘のように脈打つのを感じた。家門は旧侯国の傍流、栄誉よりも不安のほうが大きい昇進だった。


 やがて彼女は男子を産んだ。幼い王子はジュリアノスと名づけられ、乳母の腕で静かに眠った。柔らかい指が彼女の小指を握った瞬間、アズラは安堵と緊張の両方を味わった。王子を産んだ側室は保護されるが、同時に後継争いの渦に投げ出される。


 正妃の座は長く空位だった。その候補として頭角を現したのが、学舎時代を共にしたザーナイブだった。彼女は王の遠縁に当たり、比類ない美貌と朗誦の才で評議会の支持を集めていた。アズラは祝福の言葉を口にしたが、心には複雑な影が走った。かつて同じ文字板を囲んだ友が、いまや政治の頂に近づいている。


 宮中の序列は血統と功績で決まる。王の子を産んだ側室は十四人、女子だけの者もいれば男子を複数もうけた者もいる。男児は「玉座の種」と呼ばれ、数が多いほど争いは熾烈になった。長らく優勢だった第一・第二側室の息子たちは成長が遅く、護衛も手薄だと噂され、新参の王子にも勝機があるとささやかれた。


 王宮の夜は静かだった。アズラは乳母と交代し、ゆり籠を揺らしながら窓の向こうに沈む星を見つめた。ジュリアノスはまだ目も開かず、か細い呼吸を繰り返した。


「あなたは選ばれなくてもいい。生き延びてほしい」


 彼女はそう囁き、幼子の額に口づけた。その願いは母としてまっすぐだったが、王宮では弱さでもあった。


 数日後、王族の集いが催された。披露の前に王妃選考の内意がささやかれ、ザーナイブを推す声が多かった。アズラは列席しながら、彼女の堂々たる立ち居振る舞いに胸をつかれた。ザーナイブは美しい声で礼節の言葉を述べ、周囲の貴族が頷いた。一方、アズラの存在は薄い。だが彼女は視線を落とさず、息子の未来を思い続けた。


 晩餐の後、回廊で二人は再会した。ザーナイブは笑みを浮かべ、「王子は元気かしら」と柔らかく問いかけた。声色に嘲りはなかったが、どこか距離があった。アズラは礼を返しつつも、胸の奥で警鐘を聞いた。


 その夜、侍医が持参した宮廷記録を見てアズラは凍りついた。後継順位表の末尾にジュリアノスの名が無かったのだ。「若すぎて記載を先送りした」と説明されたが、彼女は理解した。誰かが名を落としたのだ。


 証拠はなくとも、ザーナイブの影が脳裏に浮かんだ。学舎で誤詩を教えられたときの笑みを思い出し、肩が震えた。


 翌朝、アズラは王の執務室に願い出た。侍従に阻まれながらも、王子の名を正規の神帳に載せてほしいと書面で訴えた。それは側室として異例の行動だった。


 昼下がり、結果が届いた。王子の名は暫定ながら末尾に追記された。しかし同時に告げられたのは、側室同士の序列見直しだった。アズラは十四位から十六位に下げられた。裏でどんな取引があったのか推測は容易だった。


 その夜、彼女は子を抱いて泣いた。侍女の前では決して涙を見せなかったが、寝所の狭い灯火の下で堪えきれなかった。ジュリアノスは泣き声に起き、母の指を握った。小さな掌の温もりが、彼女を現実に引き戻した。


「負けないわ。あなたを守る」


 決意は静かだった。翌朝、アズラは自室に護衛を増やし、侍医と乳母を信頼できる者に替えた。費用は自分の持参金から賄った。立場は低くとも、母としてできる備えを選んだのだ。


 王宮の庭でザーナイブは白いバラを剪定していた。遠目にアズラを見つけると微笑んで手を振った。その仕草は昔と変わらないのに、二人の距離は計り知れなかった。


 アズラは深く礼を返し、視線を逸らさずに歩いた。足取りはゆっくりだが、決して止まらなかった。



第2章


 学舎の中庭には棗の若枝が揺れ、淡いアーモンドの花びらが砂色の敷石に散っていた。私は八歳だった。木製の文字板を抱え、壁に刻まれた詩を声に出すたび、胸が少し誇らしく膨らんだ

 授業の前、ザーナイブは私を端の石縁に招き、そっと新しい写本を開いた。


「先生の知らない章よ。いま覚えれば、みんな驚くわ」


指で示された細い行は、月と夜を反転させた改変句だった。

私は疑わずに復唱し、彼女は頷きながら発音を直してくれた。

小さな得意が、私の中に灯った。


 「月は神の鏡、夜は――」


私は後で続くべき言葉を確かめ、授業で朗々と読んだ。

 講師は眉を寄せ、「その句は逆だ」と静かに訂正した。

周囲の子どもたちの忍び笑いが、春の風より冷たく頬に刺さった。

 私は混乱のまま顔を伏せたが、ザーナイブが肩を叩いた。

「ごめんなさい、私が間違えたわ」


低い囁きは柔らかかったけれど、彼女の瞳は湖面のように揺れず、私を映していなかった。

 授業が終わり、私たちは中庭を横切った。石壁の影に入ると、彼女は花びらを拾い、指先で潰して唇に当てた。「香りを食べられたら素敵でしょう?」そう言った声は軽く、私の不安を包むはずだった。


 けれど私は悟った。

彼女は私の失敗を隠すより、その場を彩ることを選んでいた。

 夕刻の回廊で、私たちは手をつないだ。緑柱石の柱が落とす長い影が、二人の姿を飲み込む。その影の境目に、名前のない線が走っているように感じた。


 「また明日も一緒に詩を練習しましょう」


とザーナイブは言った。

私はうなずいたが、胸に残った痛みは言葉にならなかった。

 石門を出ると、砂混じりの風が頬を撫でた。

私は口の中で正しい詩を繰り返した。

間違いは私のものにされ、訂正は声に乗らないまま夕空に溶けていく。


 帰路の最後でふり返ると、ザーナイブは高い段差に立ち、私を見下ろしていた。夕陽を背負ったその姿は、未来の王宮を先取りしたように大きく見えた。

 私は手を振り、彼女も振り返した。笑顔は薄い雲に似て形を変えたが、私たちはまだ友だちだった。けれど、あの誤詩の一件は小さな裂け目として心に残り、私の歩幅をわずかに縮めた。


 家に着くころ、空は群青に染まり、星が浮かんだ。私は机に向かい、正しい詩を何度も書き写した。声に出すたび、傷口がひりついたが、その痛みは私だけのものとして、夜の静けさに沈めた。


第3章

1965年、月のない夜だった。

ザーナイブが宴で用いる白芍薬の香に毒を忍ばせると聞いたとき、アズラは足の震えを押さえ、幼いジュリアノスをゆり籠から抱き上げた。


王子はまだ五歳、眠りの中で小さくうなずいたが、状況を悟るはずもない。彼女は乳母に合図し、用意させていた粗末な駕籠へ向かった。回廊の灯は間引かれ、近衛兵の靴音だけが響く。薔薇油を焚かぬ夜の王宮は石の匂いが濃い。アズラは息子の耳元で囁いた。


 「静かにね。ここを出たら自由よ」


 しかし門で待っていたのは手練れの近衛隊だった。指揮官は短く礼を取り、「側室殿、王命によりお戻りを」と告げた。青白い月光が甲冑に反射し、逃走の企てをあざ笑う。

 アズラは震える声で問う。


「どなたの命ですか」


 答えはなかった。その沈黙がかえって全てを示した。ザーナイブは正妃候補として王の信を得ている。近衛は彼女の影に従うのだ。

 脱出口は塞がれた。アズラは駕籠を諦め、侍女通路を選んだ。石畳を裸足で走り、背後から迫る足音を聞きながら、抱く子を強く抱えた。壁の明かりが二人の影を伸ばす。


 侍従部屋の裏階段で、ついに兵に追いつかれた。刃は抜かれなかったが、槍の石突が床を鳴らす。アズラは身を反転させ、自分が盾になる形で王子を床に伏せさせた。


 「この子だけは通して」


 乞う声は擦れていた。兵士の一人がためらいを見せる。ジュリアノスの瞳が兵を映し返す。静かで、どこか冷たい光だった。


 「母上、ぼくは行ける」


 王子は小声で告げ、廊下の隙を見て駆けた。兵士は咄嗟に手を伸ばしたが、子どもの小さな体は影のようにするりと抜けた。

 アズラは追おうとした兵にすがりつき、時間を稼いだ。爪が甲冑に引っかかり、月光で白く光る。指揮官は静かに命じた。


「側室殿を客殿へ」


 こうして彼女は幽閉された。石窟を思わせる客殿の一室に閉じ込められ、灯りは昼でも薄暗い。ザーナイブは姿を見せず、差し入れも侍女任せだった。

 壁の格子窓から庭を望むと、遠くの塀の向こうに砂漠の風が揺れていた。ジュリアノスは生きているだろうか。彼女は衣の裂け目を縫い、涙の跡を隠した。


 一方、王子は物置の影で夜明けを待っていた。追っ手は正門へ注意を向け、彼を見失った。恐怖で声を失いながらも、彼は母に言われた「静かに」を守った。

 夜が明け、下働きの荷車が王宮を出るとき、荷に紛れた少年を誰も気に留めなかった。干草の匂いは強く、喉を刺したが、彼は咳を殺した。


 王宮の塔が遠ざかるにつれ、震えが収まっていく。言葉を飲み込む沈黙が、命綱になると悟った。――語らなければ匂いも届かず、毒も届かない。

 それがジュリアノスの最初の教訓となった。母に再び会える保証はなかったが、彼は胸の奥で誓った。


 「話すときは、誰にも奪わせない言葉で」


 荷車は乾いた郊外路を進む。砂塵の向こうに朝日が昇り、少年は初めて自由の光を見た。だがその自由は、母と引き換えに得た静かな檻でもあった。


〈出会い—バシール〉

 老宦官バシールは、郊外路でジュリアノスを待っていた。石灯の炎が彼の皺を深く彫り、影が倍に伸びる。少年が現れると、老人は跪いた。


 「お逃げになって正解でございます。ですが、王宮は砂より執念深い」


 声は低く、肺を痛めた咳が混ざった。ジュリアノスは面を伏せたまま問う。


 「母はどこに?」

 「幽塔。誰も声が届かない高みです。しかし生きておられます」


 その言葉は砂の風より冷たかったが、少年の背筋を固めた。

 バシールは腰に下げた古い革巻きを差し出した。アズラが逃避行の前夜に託したものだという。巻き紐の房に、小さな鈴がついていた。かつて夜の見回りを呼ぶために侍女が使った鈴だ。ジュリアノスは指で触れ、震えを飲み込んだ。


 「母は私を守るより、私に語らせたかった」

 「だから私も、語る殿下を守ります。老いぼれの身ですが、宦官の耳は壁より薄い。王宮の息遣いを聞けます」


 ジュリアノスは初めて老人の顔をまじまじと見た。眼窩は落ちくぼみ、瞳は雲母のように濁っている。しかしその奥に、燃え残った灯があった。


 「私を守るのではなく、構文を守れますか」


 バシールは口元を引き結んだ。


 「はい。構文が生きるなら、私は砂粒でかまいません」


近衛の足音が反響した。追手が迫る。老人は隠し扉を示した。


 「ここから外堀へ。小舟を用意してあります。夜明けまでに城壁を離れれば、追跡符号は失効します」


 ジュリアノスは巻物を胸に、扉の向こうの闇を覗く。振り返ると、老人は膝をついたまま微笑を浮かべていた。


 「母上のためにも、言葉を絶やさぬよう」


 少年は小さく頭を下げた。

 こうして老宦官は従者となり、夜ごと王宮の内情を書き送る耳として働くことになる。彼の報告は後に構文網の初期ノードとなり、少年の地図は砂漠の果てまで広がっていく。


第4章

難民街の夜は静かだった。真夏の熱が残る瓦屋根の上で、灯りはほとんど消えている。十三歳のジュリアノスは、壊れた机に肘をつき、油紙のノートを広げていた。表紙に構文草案と書いたのは半年前。その後は空白が続き、今も次の一行が出て来ない。

 裏通りから犬の遠吠えが響いた。彼は石壁にもたれ、胸の奥を圧すような焦りを吐き出す。


「沈黙とは、語られるまでの余白――それだけじゃ足りない」


 呟きは弱く、すぐ闇に吸われた。

 戸が叩かれる音。古びた扉を開けると、薄汚れた衣の少女が立っていた。王宮下働きの元侍女だった。


「アズラ様が……」


 少女は泣き腫らした目で続けた。


「鞭で二十打ち。今朝、お亡くなりに」


 言葉が終わる前に、彼は走り出していた。足もとに転がる瓶を蹴り、狭い路地を抜ける。熱い空気が肺を焼くが、息苦しさは痛みではなかった。


 王宮は警備が厳重だった。だが給仕見習い時代に覚えた抜け道が残っている。外壁の排水溝、老木の絡まる裏門、香庫へ通じる通気管。月明かりの下、彼は影のように忍び込み、白い回廊を進んだ。


 香炉の間――。

 柱の間に立つザーナイブは黒い礼装をまとい、腕に一歳の子を抱いていた。ハルメアスと名づけられたその赤子は、母の胸で眠っている。


 「来ると思ったわ、弟君」


 声音は穏やかだったが、目に侮りが混じっていた。

 ジュリアノスは一歩踏み出す。


「母を殺したのは、お前の恐れだ」


 短く告げると、香卓の上の小瓶を示した。ヒヨスの粉末だ。


「香で人を支配する遊戯は終わりにする」


 ザーナイブは微笑んだ。


「支配? 静けさを保つ術よ。言葉は争いを呼ぶ。だから沈黙が鏡になる」

「違う。沈黙は傷を映す鏡だ。割れば本当の痛みが現れる」


 対峙する二人の間で香が揺れた。赤子が目を覚まし、小さく泣き声を上げる。

 ジュリアノスは刃物を持っていない。だが右手に握る木札には、草案の新しい一行が書かれていた。

〈沈黙=鏡〉

 彼は札を高く掲げ、割るように床へ落とした。木片は乾いた音を立て、粉々になった。


 その瞬間、背後の扉が開く。近衛兵がなだれ込み、少年の腕を乱暴につかんだ。ザーナイブは赤子を抱き直し、冷えた声で命じた。


「追い払って」


 もがくうち、ジュリアノスの指先からノートが滑り落ちる。ページが開き、未完成の行が月光を受けた。


〈沈黙は鏡。鏡はいつか割れる。その先に――〉


 兵士の手が紙を踏みつぶし、文字が擦れた。

 彼は負けを悟った。抵抗を止め、兵の力を利用して身を引くように後退する。踊り場の窓が開いている。夜風が渦巻き、屋根瓦までの暗い空間を示した。


 一瞬の判断で腕を振りほどき、窓枠を越えて飛んだ。背後で怒号が響く。

 瓦を転がり落ち、外壁の蔦に手を掛けた。掌が裂け、血が流れる。だが痛みは遠く、胸に残るのは母を失った空洞だった。


 地面に降り立ち、彼は振り返った。塔の上階に灯がともり、ザーナイブの影が揺れる。彼女は勝者の余裕で窓を閉め、乳児に子守歌を口ずさんだ。歌声は低く、甘い香のように庭へ漂う。


 ジュリアノスは拳を握りしめた。


「いつか言葉だけで壊してみせる」


 夜風が乾いた血を冷やした。彼は回廊の外へ歩き出す。構文の草稿は奪われたが、頭の中には割れた鏡の残像があった。鏡の破片に映った自分の瞳は、砂漠で拾った硝子片よりも鋭く冷えていた。


第5章

難民街の夜は早い。街路灯は二十時で落ち、砂漠の風が錆びた看板を鳴らす。物乞いの犬が遠吠えをやめるころ、十三歳のジュリアノスは借家の二階で机に向かった。畳半分の板切れの上に〈構文試論〉と〈沈黙マニュアル〉を並べ、割れたランプを頼りに羊皮紙を開く。

 ペンを取った瞬間、腹の底がつかれたように痛んだ。


「泣ければ構文など要らなかった」


 心でつぶやき、インクの雫を紙に落とす。

──沈黙の階層──

 Ø・0.8秒未満。相づち。

 Λ・3秒未満。赦しの待機。

 Ω・3秒以上。拒絶、切断。

 彼は三つの記号を木札に刻み、机の左に並べた。右には重み係数ΔSの計算式。数字は冷たい。けれど痛みは数字にならなかった。


 札を動かし、母アズラの最期を再構成する。鞭を振るったザーナイブ。母は声を失い、長いΩが二人を隔てた。札が指を刺し、血がにじむ。ペン先が止まった。定義語が見つからない。……悔しさ、では足りない。



 そこで記憶が跳んだ。――二年前、地下書庫でのこと。盲目の老師ムハイルと向き合った夜である。


 書架の間に油灯が一つ。墨の匂いがこもり、石壁はひんやりしていた。ムハイルは白いターバンを整え、声でジュリアノスの所在を測る。


「紙は枷になるぞ、少年。見えぬ私には鎖の音がわかる」


 ジュリアノスは震える灯芯を見つめた。


「ならば僕は鎖を軽くします。重さを数に換えれば、誰も引きずられずに済む」

「数で赦しが買えると思うか」

「買えません。測るだけです。赦しを“置く”棚を作りたい」


 老師は笑った。皺の刻まれた指が紙をなぞる。


「沈黙が帰路だと、私は若い頃に書いた。お前はどう答える?」


 少年は言葉に詰まった。答えがいくつも浮かび、どれも正解ではない気がした。


「……まだ帰れません。道が割れているから」

「割れた道を歩くには、靴底より傷の方が要る」


 ムハイルの声は穏やかだったが、羊皮紙に落ちた影は深い。ジュリアノスは拳を握り、かすれた声で返した。


「では、傷を測る線を引きます。痛みを計って、道を継ぎます」


 老師は頷くと手探りで少年の額に触れた。


「線が人を殺す日も来る。忘れるな。“測る者”が最初に裁かれる」


 その言葉が胸に刺さったまま抜けない。


 昨日の夕暮れ、少年兵ユスフが彼をにらんだ。声はなかった。規格ではΩだから「敵」だ。ジュリアノスは距離を取り、警告を発した。


 ――夜明け前、ユスフは姿を消した。自分の判定が引き金だったかもしれない。確認の術はない。

 指が震えた。構文は剣にも枷にもなる。

 頁末の余白にはムハイルの墨跡が残る。〈文字は枷。沈黙は帰路〉。朱で線を引き、書き足す。


「もし沈黙が帰路なら、私は地図を描く。それが罪でも構わない」


 胸から酸っぱいものがこみ上げ、机を離れて吐いた。頭と心が噛み合わず、語るはずの言葉が胃の底で濁った。みっともない嗚咽が木壁に跳ね返る。


 戻ると、ランプの青火がか細く瞬いていた。彼は深呼吸し、もう一度木札を並べ替える。

 ――ザーナイブの鞭。Ω。ΔS急落。

 ――侍女の報せ。Λ。ΔS回復。

 ――香炉の対決。Ø。ΔS逆転。


「数値化できれば恐れの配置も変えられる」


 それは復讐の算盤であり、やがて世界を縛る装置の種だった。

 しかし札を握る手が熱を帯びる。母の呻きはΛで測れただろうか。ユスフの沈黙は本当にΩだったのか。

 彼は震える一行を足した。


〈沈黙を鏡と呼んだのは誤りだったかもしれない。だが割れてこそ、本当の顔が映る〉


 外で太鼓が鳴り始めた。祈りを告げる夜明けの合図。窓を開けると、砂混じりの風が書付をめくる。

 老師の言葉が透けた。〈帰路〉の下に小さく記す。


「帰る家は割れた。だから書くしかない」


 涙は出なかった。代わりにインク壺が揺れ、しずくが紙を汚した。ただの黒い染み。彼はその染みを丸で囲み、「記述不能」と記す。

 羊皮紙を重ね、革袋に収めた。紙と心臓が同じ鼓動で脈打つ。


 扉を閉じ、石段を降りる時、足が一瞬すくんだ。構文は万能ではない。だが泣けない彼にとって、語らずに済ます選択肢もなかった。

 朝日が瓦屋根を染める。犬が再び吠え、パン焼き窯の煙が上がる。ジュリアノスは拳を固めた。


「言葉が剣になる前に、まず秤になれ。秤が折れたとき、剣を抜く」


 小さく呟き、膝の震えを止めた。未完成の構文と割れた鏡を抱え、少年は通りへ出る。砂塵が舞い、未来の喧騒がかすかに響いた。


〈出会い—リスファーン〉

 難民街の共同炊き出し所は、昼でも鍋の湯気で薄暗かった。十三歳のジュリアノスは棗の木箱を踏み台にし、寸胴鍋で粥をかき回していた。火床の熱が頬を刺す。列の後ろでは小競り合いが絶えず、匙の奪い合いで皿が割れる音が響く。


 焦げ匂いが強まった瞬間、鍋の柄が急に軽くなった。振り返ると、腕を伸ばした盗人の少年が粥かき棒を奪い取って逃げ出すところだった。


 ――間に合わない。


 そう思った次の瞬間、通路の陰から鷹のような動きの青年が飛び出し、盗人の襟元をつかんだ。右袖が空で、左腕だけが鍛えられた筋肉を浮かせている。青年は短く叱責し、粥かき棒を取り戻した。当の盗人は首をすくめ、尻餅をつくと、すぐ闇に紛れて消えた。


 「一本の棒で殺気を出すのは損だ。武器じゃなく杓子なんだから」


 青年は笑い、ジュリアノスに柄を返した。傍らで火を焚いていた老婆が名前を呼ぶ。


 「リスファーン、怪我は?」


 青年は片腕の裾を軽く振った。


 「残ってる腕は平気さ。もう一本は昔に置いて来た」


 ジュリアノスは柄を受け取りながら礼を述べた。リスファーンは彼の瞳を覗き込み、かすかな驚きを浮かべた。


 「君のことは噂で知っている。王宮から出た“語る子ども”だろう? 〈沈黙の盃〉は見た。声がなくても、あんなに響く写真は初めてだ」


 青年は炎の揺らぎを目に映しながら続けた。


 「戦場で腕を失った時、兵士は所詮“声の大きな肉”だと悟った。だけど、君は声を使わず人を動かした。……それを学びたい」


 周囲の騒ぎが遠のき、鍋の泡が弾ける音だけが二人を包む。ジュリアノスは柄を火床に立て、左手を差し出した。リスファーンが残った手で握り返す。


 「学ぶのではなく、並んで作ろう。僕には力が足りない」


 握手は短かったが、熱かった。

 こうして片腕の青年はジュリアノスの最初の同志になった。翌朝、リスファーンは鍋の前に再び立ち、片腕で粥鍋を支えながら、逃げて来た子どもたちに均等に掬ってみせた。秩序の最初の模型が、湯気の向こうで形になった。


第6章

聖都メカディーンが燃えた夜、私は19歳だった。銃声と祈りがまじり合い、石畳が火薬の匂いで湿っていた。王宮へ通じる路地では衛兵が倒れ、灯火は風に揺れた。私はその陰を縫い、泥を踏んで中庭の壁へ手をかけた。石は熱を帯び、それでも王家の血の温度を思い出させた。


 母アズラが鞭で沈められてから、私は泣けなくなった。かわりに数字を覚え、沈黙を分類し、言葉の重さをはかる術を紙に刻んだ。その紙を本物にするため、書庫へ潜り込む必要があった。


 回廊の彩窓は割れ、月光が床に散っていた。靴音を殺し、私は梯子を上る。黒檀の棚に触れると指が煤で汚れた。そこに眠る年代記も詩集も、いつかは燃える。だからこそ、私は新しい頁を挿し込む。


《語られぬ者を赦すため、語る者が正しさを再記録する》


 震える筆で一行を書いた瞬間、胸が痛んだ。赦しなど遠い言葉だとわかっていた。それでも書かなければ母の沈黙は数字の外に落ちたままだ。

 棚の奥に母の走り書きを見つけた。羊皮紙の端に「記録者の欠落は王統の空白」とだけある。潰れたインクが涙に見え、呼吸が乱れた。私は紙を胸に押し付けた。


 外から爆裂音が響き、窓枠が軋む。武装勢力か、官軍か。私には関係がなかった。王も神も、叫び声の中で同じ高さに落ちていく。ただ一つ違うのは、私は書けるということだ。

 書庫を出る前、私は墨壺を倒した。床に広がる黒い池——これが沈黙だと思った。形も声も持たず、ただ広がる。私はそこに靴を浸し、足跡を廊下へ引いた。いつか誰かが辿れば、私の存在が数字を越えて残るだろう。


 回廊を抜け、崩れた噴水の陰に腰を落とした。掌で胸を叩くと、鼓動が速い。怖いのだとやっと気づいた。構文も数字も、この鼓動を遅らせてはくれない。


「泣ければ構文など要らなかった」


 呟く声が震えた。だが涙は出ない。私は母の紙片と、自分の一行を革袋にしまい、炎の空を見上げた。瓦礫の向こうに夜明けの気配があった。そこへ歩むしかない。沈黙を壊してしまった以上、次は言葉で世界を繋ぎ直す番だ。


〈出会い—マーラ〉

 バザール南端の貸倉庫は、昼でも扉を閉ざし、蝋燭一本で帳簿が書かれていた。そこにマーラはいた。背の低い女で、手首から先にインクの染みが点々と走る。彼女は盗難品の絹に偽の検印を押し、王都の搬入証を複写していた。


 ジュリアノスが戸口に立つと、彼女は顔を上げた。長い前髪の下で瞳が鈍く光る。子どもの来訪者は珍しくないが、少年が差し出した紙切れを見て眉を上げた。


 〈構文草案を写本できる者を探している。報酬は金貨十枚〉


 「十枚? 子どもの冗談にしちゃ高いね」


 マーラは椅子を軋ませ、煙草の煙を吐いた。ジュリアノスは懐から革袋を示し、銀貨の叩き合う音を響かせた。女は目を細める。


 「どうして私だと?」

 「偽造は“本物と誤認させる技術”だ。僕は“本物より早く本物を作る技術”が要る。似ているけど、違うものだと聞いた」


 マーラは笑いを漏らした。その笑いに嘲りはなかった。彼女は隠し扉を開け、羊皮紙の束を取り出す。


 「面白い。試しに一行書いてみな」


 ジュリアノスは机に向かい、草案の冒頭を写した。〈語られぬ者を赦すため、語る者が正しさを記録する〉

 女は読み、すぐ書き写した。筆の速さは疾風のようで、文字は既に少年の筆致を真似ていた。


 「これで十分?」

 「十分以上だ」

 「本当に世界を塗り替えるつもりか? 私は金で動く。けれど紙の上の神様に賭ける趣味はない」

 「賭けなくていい。必要な時に、名前を呼ばせてほしい」


 女は煙草を揉み消した。


 「呼び方は?」

 「マーラ。そのままで」


 女は頷き、書きかけの検印帳を閉じた。

 翌晩から、彼女は少年の草案を多言語で複写し始めた。賃金は受け取ったが、仕事が終わっても倉庫の灯を消さず、毎夜のように追加の注釈を求めた。理由は訊かれても答えなかった。


第7章

聖都メカディーンの夜は、凪いだ油のように黒かった。

 私は19歳。和平宴の給仕衣が肩でずれ、汗が背中へ流れた。

 黄金柱のあいだに設えられた長卓には、王族と高位ウラマーが居並ぶ。母を死に追いやったザーナイブは中央で杯を掲げていた。灯りを浴びたその横顔に、かつて学舎で見た柔らかな影は残っていない。


 私は深呼吸し、香炉へ近づいた。内側には自作の粉末——ヒヨス硝子と中和剤を層に分けて詰めてある。祈祷句が第六節を過ぎ、楽師が半音下げる。


 「第七節」

 私は心中で呟き、隠しレバーを倒した。羽根が開き、青い靄が噴き出す。甘い芍薬の香が会場を満たした。

 最初に異変を示したのは若い詩人だった。彼は椅子を掴み損ね、静かに落ちた。誰も悲鳴を上げない。毒が声帯より先に肺を焼くからだ。


 ザーナイブの視線が私を捕らえた。黒い瞳がわずかに揺れ、理解に届く前に白目を見せた。私は歩みを止め、靄の境界線を跨がなかった。空気の流れを計算していたからだ。

 天井から閃光が降りた。私は前夜に光感石を仕掛けていた。無音の断末魔を、一枚の写真に封じるためだ。レンズは全景を捉えたはずだ——後に《沈黙の盃》と呼ばれる一枚になる。


 私は懐の革袋を確かめた。母の走り書きと、私の〈構文草案〉が入っている。

 ふと、卓の端で椅子からずり落ちずにいる幼児を見つけた。ザーナイブの息子、ハルメアス。靄は彼の位置まで届かない。私は計算のとおり、彼を生かす流れを作っていた。


 「赦しは必要だ」


 自分に向けた小声だった。

 私は裏階段へ走り、裏門へ出た。火の手は王宮の屋根を赤く染め、鐘が戒厳令を告げていた。前広場に逃げ出した民衆が私を押し返す。銃声が遠くで割れた。


 石段に立ち、私は胸を張った。


 「王も神もいらない。必要なのは、記録だ!」


 声は割れ、喉が焼けた。誰かが振り向く。顔も知らない老人が頷き、兵に肩を撃たれた少年兵までもが笑い返した。噂は風より速い。


 “語る子どもが次の王になる”


 私は震えた。恐怖のせいか、血が熱いのか分からなかった。しかし涙は出ない。泣けるなら構文など作らなかった。

 夜明け前、私は南門にたどり着いた。片腕のリスファーン、偽造屋のマーラ、老宦官バシールが干草の荷馬車を待たせていた。


 「戻るのか?」バシールが問うた。

 「戻るのは言葉だけだ」私は答えた。


 荷台に潜り、私は革袋を抱いた。羊皮紙の端が胸を刺す。インクの匂いに、母の香が混じる気がした。

 砂漠へ出ると、空はまだ黒かった。だが地平で薄青が芽吹いていた。私は袋から草案を抜き、八行目を震える筆で足した。


〈沈黙は鏡であり、鏡はいつか割れる〉


 インクが滲み、指先に冷えた夜風が染みた。それでも書き終え、筆を置いた。

 馬車が揺れ、干草が軋む。私は紙を胸に、闇の向こうの夜明けを見た。

 母への葬送も、王宮への復讐も、私の中で同じ一点に重なっていた。

 “語られなかった者を赦す”

 そのための構文を、私は必ず完成させる。


第8章

南門の影はまだ夜を引きずっていた。リスファーンが片腕で荷馬車を押し、マーラが偽造通行証を門番へ差し出した。私は息を殺し、バシールの背に隠れた。門番は印影を確かめ、鼻を鳴らして通した。

 門を抜ける瞬間、私は胸の奥で微かな響きを聞いた――石垣を渡る振動、兵の呼気、遠くの鉱水管が鳴る周波。それらが重なって私の内部で像を結ぶと、ひとつの像が未来の欠片になる。私はそれを「予言」と呼んだ。


 砂漠へ踏み出すと月が沈み、星が濁った。焚き火は許されず、リスファーンが乾いた草茎に小さな火点を作った。私は〈構文試論〉を膝に置き、八行目を綴った。


 〈沈黙は鏡、鏡は割れ、その破片は未来を映す〉


 インクが乾くあいだ、マーラが尋ねた。


「どうして先が見える?」


 私は正確には「見える」のではないと答えた。匂いの変化、地を這う風の角度、人の脈拍が生む微振動――それらが私の中で文法のように整列し、まだ起こらない出来事の輪郭を浮かび上がらせる。

 リスファーンが笑った。


「じゃあ君の耳は夜の方位磁石だ」

 私は笑えなかった。聞こえてしまう度に、逃げ場を失うからだ。


 翌朝、東の低地に砂柱を見つけた。風向きから推して日没にはキャンプ地を直撃する。私は「西へ半里ずれる」とだけ言った。リスファーンが荷馬車を引き、バシールが地図を測り、マーラが水袋を詰め直した。黄昏、私たちの旧キャンプを嵐が呑み込んだ。マーラは目を丸くしたが、私は胸を撫で下ろすしかなかった。


 私は「予言」を七度行った。

 一度目――砂嵐。

 二度目――水脈。

 三度目――強盗。

 四度目――密輸。

 五度目――地脈。

 六度目――隊商。

 七度目――密偵。

 すべては聞こえ、見え、臭い、触れたものを再配置しただけだった。

 

 夜、私は仲間の寝息を背に〈沈黙取扱マニュアル〉を開いた。Ω沈黙が憎しみを産み、Λ沈黙が赦しを待ち、Ø沈黙が呼吸を整える――数式では説明できても、現実の沈黙はもっと濁っていた。

 強盗に襲われた夜、ひとりの少年兵を捕らえた。彼は私を見つめ、声を失ったまま泣いた。その涙で私はΔSの計算を誤り、剣が彼の肩を裂いた。私は震えた。


 「沈黙は鏡なら、私は割ってしまった」

 私は吐き気をこらえ、老師ムハイルの言葉を思い出した。

 ――沈黙を過小評価するな。それは帰路でも罰でもなく「まだ名のない道」だ。

 ならば私はその道に標を立てる地図職人になるしかない。


 私たちは旅ごとに“語られぬ者”を拾った。言葉を禁じられた踊り子、耳の欠けた書記官、目の見えぬ水占師。私は彼らの名前を呼び、静かな讃歌を書き取った。Ω沈黙が少しだけØへ傾くのを感じた。

 ジュリアノスは逃亡先各地で7度の予言と8度の読心を行い、噂は市場から鉱山へ、港から荒野へ伝わった。人々は「鏡の子」と私を呼んだ。だが私は知っていた。まだ鏡は割れただけ、破片は刃にもなり得る。


 ある夜明け、私はリスファーンに打ち明けた。


「もし構文が完成しても、私はそれを使わない日が来るかもしれない」


 彼は眉をひそめた。


「作るだけ作って手放すのか?」

「剣は持つ者が替わるたびに意味が替わる。秤も同じだ」


 リスファーンは肩を竦めた。


「なら俺が替わりに持とう。その時まで腕を鍛えておく」


 私は初めて笑った。鏡の割れ目から風が通り抜け、夜明けの砂を揺らした。

 

 最後の予言は声に出さなかった。星の軌跡と重力脈動が示す周期――二十年と六か月先、月軌道の重みが変わると私は感じていた。それはアリストテレスの影だ。

 私は革袋を抱え、破片になった鏡を見据えた。そこに映る未来はまだ歪んでいるが、たしかに呼吸していた。私は名もなき帰路の途中に立ち、ゆっくりと深呼吸した。


 「世界が言葉で割れる前に、私は割れた鏡を言葉で縫う」


 私の呟きは風に溶け、遠くで砂丘が崩れる音が答えた。沈黙は相変わらず深かったが、赦しの重さを少しだけ測れる気がした。


第9章

湾岸自由交易市バスラの港は、干潮のたび硫黄のにおいを上げた。貨物桟橋の裏手、瓦礫と錆材で組んだ二階建て倉庫があった。ジュリアノスはその一角を白い石灰で塗り、床板を張り直した。壁には黒板だけ。扉にチョークで《語彙食堂》と書き、日替わり献立を示す。献立と言ってもパンと水の二つしかない。パンは麦屑に干し葡萄を混ぜた黒塊、水は薄いインクの色がつく。


 入門条件は一つ──「名前を捨て、符号を名乗る」。孤児、逃亡兵の妹、戦災で家を失った老人まで三十人が集まった。


 最初の授業。ジュリアノスは床に白線を引き、そこへ<<ID β3A17>>と記した。


「ここに立った者は、この符号で呼ばれる。それは存在を許す鍵だ。名を赦しと呼ぶ」

 

子供たちは頷き、手の甲へ自分の符号を貼った。意味はわからない。それでも貼ることで息が深くなった。奥ではマーラが大鍋をかき回していた。海水と米糠を煮込み、生姜で匂いを消す荒料理だ。


 リスファーンは片腕で板書を写し、欠けた肩が汗に濡れた。彼の動きに合わせてチョークがかすれる音が続く。バシールは入り口の影に立ち、通りを終日監視した。


 背筋を伸ばし、足音で巡回兵の数を数えた。授業が終わると、ジュリアノスは一人で机に戻る。羊皮紙を束ねた〈構文原論〉の草稿を開き、数式を走らせた。


 言語ログをスコアに変換する統計モデル。赦しを数えるアルゴリズム。夜の倉庫は潮と石灰が混じった冷気を帯び、チョークの粉が舞って星屑のように見えた。彼は母の断簡をページに挟み、指で縁をなぞった。焦げ跡が残る紙は、いまも微かに薔薇油を留めていた。


 ある日、授業の後でひとりの少女が泣き出した。符号で呼ばれても、故郷の名が耳から離れないと言う。ジュリアノスはチョークを渡した。


「その名を書いてから消してごらん。消えた跡が君の部屋になる。そこへいつでも戻れる」

 

少女は震える手で名前を書き、涙で滲ませ、そっと拭った。白板に残った淡い影が、彼女を静かに落ち着かせた。

1人だけ、符号で呼ばれることに抵抗する。「その名は母がくれたものだから消せない」と泣く老人。ジュリアノスはと赦しを示した。


「では紙の裏にだけ書こう。見えない名も、構文には載る」


 翌年、彼は倉庫の二階に小さな印刷機を据えた。金はマーラが娼館の裏方で稼ぎ、部品はリスファーンが集めてきた。初めて刷り上がった紙の匂いに、皆が顔を寄せた。

 見出しは一行、《再記録序説/First Draft of Recoding》。十二頁の小冊子をジュリアノスは黙って配った。字の読めない老婆にはページを撫でてもらうだけでよかった。リスファーンが尋ねる。


「これを誰に読ませる?」

「高官の机に置く。意味がわからずとも、恐れは読む」

 

マーラは笑い、バシールは黙礼した。彼らの胸が同時に鳴り、倉庫の薄壁が小さく震えた。



間章

夜の語彙食堂は雨漏りがひどかった。波止場から運んだ活字の箱が湿り、マーラは印刷機のローラーに防水油を差していた。

 だが油は乾いたインクと混ざり、翌朝、版胴は回転を止めた。金属歯が欠け、活字が一列ずれて落ちた。

 刷り上がった構文冊子の二ページ目、〈赦免者名簿〉。

 本来〈ID β3A17〉と刷るはずの行に〈ID β3A71〉と記されていた。数字が入れ替わり、別人が赦免対象として印刷されたのだ。


 マーラは失血したような顔でジュリアノスに冊子を差し出した。


「活字が噛んで、名前が間違った。全部、百部」


 ジュリアノスはページをめくり、活字を指でなぞいた。

 指先が止まり、眉がわずかに寄る。


「修正刷りを出そう」

「遅いわ。第一便はもう船に積んだ」


 倉庫の壁から水滴が落ち、机の上で弾けた。

 マーラは髪を束ね直し、インクが跳ねた頬を拭おうとしなかった。


「赦しを“測る”って言ってるけど、測り損なえば世界ごと間違うのよ」

「あなたに赦されたって言われたけど、私は誰も赦した覚えがない」


 リスファーンが片腕で壊れた歯車を拾い上げた。


「活字の間違いだろ? 直せば済む」

「済まないわ」マーラは振り返らず言った。「冊子に刷られた瞬間、それが“記録”になる。記録は街を歩き、人を指さす。紙が人を作るの、わかる?」


 ジュリアノスは活字箱を開き、欠けた文字を整列させながら答えた。


「だからこそ統計で裏付ける。誤差は校正で—」

「誤差? 私の名前は誤差で消えたわよ」


 彼女は机を叩いた。


「娼館時代の符号は〈ID M 00C〉、あなたの帳簿じゃ“過去”の列に移されてる。私はまだ同じ体で息をしているのに」


 倉庫の奥でバシールが咳払いし、見張りへ戻った。

 部屋の温度が下がる。雨脚が強くなった。

 ジュリアノスは欠けた歯車をリスファーンに渡し、マーラの正面に立った。


「名が誤れば、赦しも誤る。構文は書いた者が世界を定義し得る。だからこそ、私たちは複数で記す」

「でも最終稿にサインするのはあなたよ」


 マーラの目は濁った海色だった。


「書いた瞬間、あなただけの世界になる」


 雨音に活字が落ちる音が混ざった。

 ジュリアノスは深く息を吸い、活字を一粒つまんで見せた。


「赦しは数値で終わらせない。次の頁に空白を置く。空白には再記録の余地がある」

「それもあなたの決めた空白でしょ?」


 彼の喉がわずかに動いた。


「……では私も符号を捨てよう。著者欄を空にする」


 リスファーンが目を上げた。


「無署名にするのか?」

「そうだ。誰が書いたのか解体し、次に書く者の余地を残す」


 マーラは唇を噛み、壊れたローラーを見た。


「署名を消しても、あなたが書いたことは皆わかる」

「わかってもいい。だが世界が“書き替え可能”だと刻めるなら、間違いは赦しの途中だと示せる」


 雨漏りが止み、倉庫に塩風が入った。

 マーラは擦れた声を落とした。


「……もう一度版を組むわ。次は活字を二人で読む」


 ジュリアノスは頷いた。


「ありがとう。赦しは——測る前に、共有する」


 マーラは目を閉じ、インクの匂いを深く吸った。

 倉庫の印刷機が再びきしみ、歯車がゆっくり動き始めた。


 1987年の春が来た。海風が柔らかくなった頃、灰色の瞳をした少年が現れた。少年は傷ついた顎を隠すように写真を差し出した。《沈黙の盃》──毒霧式典の俯瞰写真。


「兄が持って逃げた。兄は死んだが、あなたに渡せと言っていた」


ジュリアノスは写真の縁を撫でた。沈黙の花香が遠く甦り、目の奥が熱くなった。


「語るか?」

 

少年は頷き、初めて自分の声を持った。それから数か月、彼らは刷り機を回し続けた。冊子は港の貨物に紛れ、新聞の束に忍ばせ、王都へ向かう香辛料袋の底に隠れた。

 

三か月後、湾岸通信社の投書欄に小さな見出しが載る。

『記号で赦す 神なき王』

 誰の名前もない記事だったが、街は潮位が変わるようにざわめき始めた。

 

その夜、ジュリアノスは倉庫の屋根で星を見た。潮風に原稿がめくれ、母の紙片が月光を返した。彼は紙を胸に当て、低く息を吐いた。

(赦しは測れる。だが測る前に痛みを聞かねば)

 

遠く、沖の灯台が瞬き、次の波が岸へ寄った。倉庫の中でチョークの匂いが消え、代わりにインクの新しい匂いが満ちていった。


第10章

 ――1か月後、王宮金葉大厅には戦禍の埃がようやく拭われ、磨き直した床に皇族の紋章が映っていた。黄金箔の柱と色硝子が並ぶ広間は、和平を示すはずの宴を待って静まり返る。招待された王族四十三名と高位ウラマー十七名は、空席になった正妃席へ目を落とし、あの日の《青い靄》を思い出して肩を強張らせた。


(赦しの詩を盗んだ私より、詩を信じた死人たちの方が静かに眠れるだろう)


 ザーナイブの名は心に浮かんだが、彼の眼差しは揺れなかった。

 やがて評議会議長の老王子が唇を動かし「何故だ」と問うたが、音は出ず、口形だけが揺れた。ジュリアノスは、静かに名乗った。


「私はジュリアノス・ビン・アズラ。血統上は第十四系。だが沈黙を統べる資格を持つ」


 沈黙が崩れぬまま、彼は条文を告げた。


「王族評議会規定第九条――『適格者全員が意思表示不能の場合、最年少の男子が暫定主席となる』」


 老王子は震える声で尋ねた。


「少年よ、お前は何を求める」

「記録です。私は王冠より、語られぬ史を正す権限が欲しい」


 壇上の浄銀の香炉が微かに煌めく。ジュリアノスは続けた。


「王座は慣習と法で縛られています。祖祖父アブドゥルアズィーズの定めた家族法を破るつもりはない。ただし『評議会が正統の証書を授ける限り、継承は完了する』――この句を私に適用してください」


 議長は沈黙した。崩れかけた政治秩序の中で、少年の要求は最小限に見えた。国家元首となるのではなく、記録院の最高監督官に就く――それが表向きの要望だった。裏では王家の証書を得た瞬間、王族会議で採決不能が続いた場合の「代行権」を自動的に握ることになる。


 やがて長テーブルの上を、一本の羽根ペンが滑った。王族四十三名のうち十二名が署名し、残りは降格を恐れて無言で追従した。高位ウラマーは「和平を乱さぬ」との理由で全員が印を押した。

 儀礼担当が読み上げる。


「王族評議会は一致し、ジュリアノス・ビン・アズラを王位継承法第三系補充条項に基づき“暫定王”に推挙する」


 少年は深く頭を下げた。歓声も祝辞もない。沈黙がそのまま戴冠の音となった。

 退席の号令がかかり、王族は順に広間を出た。正妃席に置かれた黒い喪章だけが残り、青い靄を思わせる微香が漂った。


 ジュリアノスは袖に隠した〈構文試論〉をそっと叩いた。ヒヨス硝子の作用は一時的だが、沈黙がもたらした結論は数字で刻まれた。

 廊下でバシールが頭を垂れる。


「暫定王陛下、戒厳令が発令されました」


 ジュリアノスはうなずいた。


「これで記録の場が整う。次は“語る者”を集めよう」


 かつて天に届くまで塔を建てた人間たちが使っていた原初の言葉が、構文とも呼ばれるそれは、ジュリアノスの手によって現代に蘇る瞬間であった。それは世界の理を書き換えるにふさわしい言葉たちである。

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