09.かりそめの日々
「お嬢様、今日のお召し物は何になさいますか」
「……ねえ、そのお嬢様っていうのは」
「何度おっしゃってもお嬢様はあくまでお嬢様でございます」
「……」
凛としたメイド長の態度に、私はひっそりとため息をつく。
ビルクの用意した屋敷に滞在して今日で3日目。
最初の日は、私は慣れないパーティの疲れでほとんど寝て過ごした。
ヒューイットは朝から変装して出かけたというから驚いたくらいだ。やはり騎士として鍛えていると、あれくらいでは疲れないのだろう。
一日休んで体の調子を取り戻したので、翌日からはお世話になる代わりに屋敷の仕事を手伝うつもりで張り切っていた私だったが、なぜかこの屋敷の人々は私を貴族のご令嬢と思い込んでいるようで仕事一つ任せてはもらえなかった。
「こう見えて裁縫や料理もできるんですよ! 掃除とか」
「いけません」
ハタキを持とうとした私に毅然とした態度で告げたのは、今も目の前にいるメイド長だった。
彼女はビルクが幼いころから世話をしている熟練のメイドらしく、この屋敷のすべてを一手に把握して取り仕切っている存在らしい。
「お嬢様にはここでは貴族のご令嬢らしく過ごしていただくように主から言いつかっております」
「でも、ただでお世話になるわけには」
「いけません」
ピシャリと言い聞かせられて取り付く島などなかった。
救いだったのは令嬢らしいということで許された刺繍や読書くらいだ。
せめてお嬢様と呼ぶのをやめてほしいと願ってみたものの、名前で呼ぶことも禁止されているらしく許してはもらえなかった。
離れて久しい貴族令嬢としての暮らしに急に引き戻されたせいで混乱気味だったが、3日目ともなれば少しだけ落ち着いてくる。
コルセットをつけて重たいドレスを着て過ごすのは窮屈だったが、昔の記憶がきちんと作動してあっけなく慣れてしまった。
「ふぅ」
「浮かない顔だな」
「ヒュー君」
掛けられた声に顔をあげれば、私同様に貴族らしい正装に身を包んだヒューイットが立っていた。
前髪をかっちりと上げた姿はどこか大人びて見えて何度見ても慣れない。騎士服ではないせいもあり、私の知らない大人の男性がそこにいるようで、私は極力ヒューイットの顔を見ないようにして微笑みを作る。
「今日はいかなくていいの?」
私は家から出る理由がないので引きこもっていても問題はないが、ヒューイットは捜査中とはいえ騎士としての仕事やスタン家の跡継ぎとしていろいろやらなければいけないことがある。故に下男に変装して屋敷から抜け出し、可能な限り普段通りの生活を行っているのだ。
「今日は休日だ。あまり家にいないというのも不審がられるからな」
「なるほど」
「お前は何をしている?」
「今はハンカチに刺繍中。こんな高級な糸や布を使うのなんて久しぶりすぎて緊張しちゃう」
手元にある白いハンカチには小鳥の刺しゅうをしている最中だ。大切な人の幸福と安寧を願うこの柄は、昔から私の得意な図案だった。
「また鳥を刺繍しているのか? 好きだな」
「あら、いいじゃない。それにヒュー君が……」
「俺が?」
「うーん?」
言いかけて、忘れかけていた何かを思い出しかけるがそれが何かはっきりせずに言葉が詰まってしまう。
そういえばどうして鳥の刺しゅうが得意になったのだろうか。刺繍を始めたばかりのころの記憶がどうもはっきりしない。
「なんだよ」
「ううん、なんでもない」
首を振ってから私は再び刺繍に視線を戻す。
きちんとした刺繍は久しぶりだったが、我ながら整った針目に満足感がこみあげてくる。無事に完成したらヒューイットにあげるのも悪くないだろう。
「そういえば、あれからあの人たちの行方はつかめたの?」
「残念ながらまったくだ。見張りをしていた連中も散り散りになってどこかに消えてしまった。想像以上に厄介な相手みたいだ」
「そう……」
あの夜私たちに話しかけてきた商人コルベールとその仲間と思しき男たちは、まるで幻のように姿をくらましてしまったらしい。
王都で商売を管轄する商工会に問い合わせてみたが、コルベールなどという商人が異国から来ているという噂すらなかった。外国人が国内で商売をするために必要な登録をしたという証拠もみつかっていない。
「リメル……本当はもう巻き込みたくないんだが……」
「わかっている。あの男と約束した場所に行けばいいんでしょ」
苦いものを口にしたような顔するヒューイットに私は笑顔を向けた。
コルベールたちの足取りがつかめない以上、あの日約束した場所に行くしか彼らを捕縛する手段はない。
「あいつらが約束の場所に現れた時点で仲間たちがすぐに捕縛する手はずになっている。お前が危険な目に合うことはないから安心してくれ」
「でも、証拠もないのに捕まえて大丈夫なの?」
「問題ない。コルベールという名前で商人登録を済ませていない以上、アイツがやっていることはモグリだ。それを理由に引っ張って、こっちで取り調べる」
険しい表情でそう口にするヒューイットはどこか鬼気迫ったものがあった。何がそこまでヒューイットを追い詰めているのだろうと少しだけ不安になる。
「……ヒュー君」
でも、本来ならばこの件に全く無関係な私が聞いてはいけないような重大な秘密がかかわっている気がして、私はその理由を聞けないでいた。
「次で終わりだから……それまでは」
「うん、大丈夫よ。きちんとヒュー君の……ヒューの恋人役、がんばるから」
恋人役という言葉を口にしながら心臓がどきんと変な風に跳ねたのがわかる。
あの夜、ヒューイットと恋人同士という演技をしながら過ごした時間は夢のようだった。失ってしまったすべてを取り戻して、何かをやり直せたような幸せな瞬間を味わうことができた。
それと同時に、あの日以来私はどこかおかしい。
「そうか……あ、」
「え?」
私の言葉に頷こうとしていたヒューイットが言葉を途切り、急に近づいてくる。
椅子に腰かけている私のすぐ横まで来たヒューイットは、おもむろに腕を上げると私の耳のあたりにそっと触れてきた。
「っ」
「糸くず」
「あ……」
その指先がつまんでいたのは、小指ほど長さの赤い糸。それはさっき、小鳥の羽に使った刺繍糸だ。
「なんで髪に糸が付くんだ」
「えへへ」
いろいろな意味で恥ずかしくなって、笑ってごまかす。
糸くずを髪につけていたことも、それをヒューイットに指摘されたことも、彼が私に触れたことも、何もかもが心臓に悪い。
私の髪についていた赤い糸をもてあそぶヒューイットの指先から、目が離せなくなる。
(……ねぇ、ヒュー君。あの夜のあれはなんだったの)
そう聞いてしまえたらどれほど楽だったろうか。
馬車に乗り込もうとしたあの瞬間、触れ合ったわずかな感触を私はいまだに忘れられないでいる。
あれは事故だったのか故意だったのか。故意だったとしても、どういう意図だったのだろうか。私たちを見張っていたであろう誰かに恋人同士だと見せかけるためにしたのだろうか。
「どうした」
「……な、なんでもない」
たった一言聞くだけでいいのにその勇気が持てなくて。
もし聞いてしまったら、これまでのヒューイットの関係が壊れてしまいそうな気がして私は急いでヒューイットから目線を外して刺繍を再開する。
「……あんまり根を詰めるなよ。別に仕事ってわけじゃないんだ」
「わかってるってば」
「お前はここで……昔みたいに過ごしていればいいんだから」
「……」
でもそれはこの捜査が終わるまでのかりそめの日々だ。
コルベール達一味をとらえてしまえば、私はまた市井で平民暮らしに戻り、ヒューイットは騎士として貴族としての日々に戻っていく。
あの夜を迎えるまではそれが当然で、いつか私たちの縁は細く薄くなっていくのだと諦めがついていたはずなのに。
「このハンカチ、完成したらヒュー君にあげるね」
わざとらしいほどに明るい声で話しかけながら、私はこみ上げそうになる何かを必死に抑え込んでいた。