06.はじめての夜会
「リィ、何か飲みたい?」
「大丈夫よ」
「足は痛くないか。新しい靴だと歩きにくいだろう」
「うん、平気」
「よそ見をすると危ないよ、リィ」
「……」
もう返事をする気すら起きない。周囲の人々が呆れ混じりの視線を向けてくるのがわかる。
私も許されるならば、目の前で微笑むヒューイットを睨みつけたい気分だった。
(やりすぎよっ)
付き合いたての恋人同士という設定を演じるとは言ったものの、ヒューイットの態度はあまりに行き過ぎだ。
私が少し歩けば足元を案じ、視線を動かせば何か欲しいものがあるのかと聞いてくる。
誰かに話しかけられたらどうしようと気を揉んでいられたのは最初だけで、今ではむしろ悪目立ちしすぎて引かれているのではないかという心配で頭がいっぱいだった。
それほどまでにヒューイットの態度は極端だった。
(こんなの……落ち着かないわ)
私を見つめる明るい緑色の瞳は、とろりとした熱を帯びている。
優しい声音に滲む甘さは、さっき食べさせられたケーキよりも甘露な気がする。
名俳優だって裸足で逃げ出すほどに完璧な演技に、私は合わせるのがやっとだ。
幼い頃、一緒に遊ぶ中で別人になりきったごっこ遊びは良くしていた。
執事とお嬢様、商人と客、騎士と馬などさまざまな役になりきる遊びは私たちの中では定番で、今回の恋人役もその延長だとおもって受け入れたのに。
最初に握った腕は、あれから一度も解かれていない。
私がちょっとゆるめようとするものなら、ヒューイットの方からぎゅっと引き寄せて密着してくる。
最初は気にならなかったが、長時間密着しているせいでお互いの体温が混ざり合ったような気分になってそろそろ落ち着かない。
手袋の中で、掌が汗ばんでいた。
なるべく金を持っている貴族に見えるようにと私たちの今日の服装は華美すぎるほどに豪華なしあがりになっている。
天井から降り注ぐ照明にお互いの衣装や装飾品がきらめいて、自分たちだけが浮いているのがよくわかる。
その証拠に、周囲の人達は私達に興味があるようだが声をかけてくる様子がない。
一体どこの馬の骨かと探るような視線ばかりが肌を刺すのを感じながら、ただでさえ慣れない空気に胃が痛くなりそうだった。
「リィ、どうした?」
「なんでもないわ。たくさん人がいる会場に酔ったみたい」
ぎこちなく微笑めば、ヒューイットが本気で心配したように表情を曇らせる。
その顔を見た瞬間、心臓が軋むような音を立てた気がする。
「……?」
本当に疲れているのかもしれないと困ったように小首を傾げれば、ヒューイットが「少し休もう」と壁際に案内してくれた。
用意されている長椅子にそっと腰かけさせてもらうと、ようやくまともに息が吐けた気がする。
「大丈夫か?」
問いかけてくる口調はいつものヒューイットのものだ。見つめてくる表情も、さっきまでの情熱的なものではない。
そのことに安心しつつも、やはり不思議な気持ちが胸にこみ上げてくる。
(ヒューイットは、恋人にあんな顔をするのね)
いつかは姉離れしてほしいと願っていたが、そうなった未来を見せられてしまうと寂しいなんて思っている自分のずるさに私は情けなくなった。
ずっと一緒だったことでヒューイットの全部を知っていた気がしたのに、知らない面があることへの戸惑いが身勝手な気持ちを産んでいるのかもしれない。
「……大丈夫。久しぶりのドレスだったから、ちょっとだけ疲れたみたい」
「そうか」
安心したように目元を緩ませるヒューイットの表情は昔となにもかわらなくて。
押し寄せてくる名状しがたき感情に蓋をするように、私はリィ・ロンとしての表情に切り替える。
「ねぇヒュー様。私、さっきのご婦人が身に着けていたようなネックレスが欲しいわ」
「!」
ヒューイットの表情が一瞬だけ驚きに彩られる。
それから、すぐに彼もまたヒュー・メルバとしての顔を作ったのがわかった。
「そうか……リィは新しい物が好きだものな。先程の御婦人にどこで買ったのか聞いてこようか?」
「うーん。それもいいけれど同じものっていうのは嫌なのよねぇ」
我ながら嫌な女だなぁと思いながらも、ヘザーに教えてもらった通りの「我儘な女」の口調をなぞる。
自分から提案しておきながら、それとは真逆のことを言って男の反応を確かめるのだ。
硬派な男には効かないその態度も、駆け引きを好む軟派な男にとってみれば女の魅力の一つなのだという。
それを心得ているヒューイットも困ったように眉を寄せながらも口元をゆるませ、恋人の我儘さが愛しくてたまらないとでもいうような表情を作ってくれる。
「困ったなぁ。新しい宝石と言っても、この辺りの店はほとんど回ってしまったし……」
小首を傾げて悩む姿は、本気で困っているようには思えない。
私はその事に不満だと言わんばかりに頬を膨らませて「もう」と拗ねたふりをする。
その完璧なタイミングだった。
「ごきげんよう。よい、夜ですね」
聞き覚えのあるその声に、私は一瞬だけ息を止めてしまった。
ヒューイットもまた、私の動揺を察知して一瞬だけ瞳を鋭くさせる。
「恋人たちの語らいに混ざるなどという無粋な行いをお許しください」
「無粋とわかって声をかけてくるなんて、どういうおつもりかな紳士殿」
わざとらしい程に拗ねた声を出しながら表情だけは貴族らしい微笑を浮かべ、ヒューイットがゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、夜会用のタキシードを身にまとった男性だった。黒い髪をワックスで固め、眼鏡をかけている。口髭のせいで年齢ははっきりしないこともあり、あの夜、ビルクと向かい合っていた帽子の男とは一見すれば別人だ。
だが、私にはわかった。あの声は叔父様と会話し、ビルクと会話していた男の声だと。
(まさかこんなに早く遭遇するなんて)
「ほんとうですわ。せっかく二人の時間でしたのに失礼ではなくて」
私は邪魔するなんてとわざとらしく唇を尖らせてみた。
本当は心臓が痛いほどに跳ねて、嫌な汗が噴き出していたが、決してそれを悟られてはいけない。
ゆっくりとした動作で長椅子から立ち上がり、ヒューイットの横に立った私は甘えたようにその腕にしがみつく振りをしながら、その男性をしげしげと見つめた。
(あとは耳の傷さえ確認できれば)
会場の外にはビルクをはじめとした騎士団の人達が隠れている。
この男だという合図さえ送れば、彼らが追跡をしてくれることになっているのだ。
前回も最初の接触があったあと追跡はしたそうなのだが、その時は巻かれてしまったそうで「今回は絶対に逃がさない」とかなりの気合の入れようだったことを思い出す。
私に依頼されたのは夜会での付添いだけだ。
恐らくは一般人である私をこれ以上巻き込まない為に、この場だけで事を終わらせたいという配慮だろう。
その気持ちに応えるためにも、失敗はできない。
「すみません。何やらお悩みの声が聞こえて……私であればご相談に乗れるかと思いまして」
「ほう……?」
「実はこう見えて、私は小さな貿易商を営んでいるのです。この首都に新しい店を出したいと視察に来ている最中でして。お客様が満足していただけるような、良い品をご紹介できるかもしれません」
「へぇ」
ヒューイットが興味をそそられたように明るい声を上げる。
私もふうん、とわざとらしく大きく頷いておく。
「名前を聞いてもよいかな」
「これはこれは重ねて失礼しまた。私はコルベールと申します」
「コルベール殿ね。申し訳ないが、聞かない名前だな」
「はは。まだまだこの首都に来て日が浅いので当然でしょう。しかし、既にたくさんのお客様にも満足していただいているのですよ」
「言葉だけではいくらでも取り繕えるというものだが?」
初対面だというのにこちらがハラハラするほどにヒューイットの態度は攻撃的だ。この男がどこかに行ってしまったらどうするのだと不安になり、思わずその袖をそっと掴めば緑の瞳が私を優しく見つめた。
(ヒュー君?)
不安でしかたがなかったが、任せるしかないのだろう。
私は敢えて口を出さないという態度で、ヒューイットとコルベールのやりとりを見守ることに決めた。
「ふふ。ご懸念はごもっとも。さて……どうすればよいか……」
困ったような言葉を吐きながらも、コルベールからは余裕が溢れている。
コルベールはうーんとわざとらしく唸ったのち、懐から小さな懐中時計を取り出した。
特に何の変哲もない時計のようだったが、触れていたままのヒューイットの身体が強張ったのが伝わってくる。
「これは先日お取引きしたさるお方が、感激して授けてくださったものでしてね……おわかりになりますか?」
時計の蓋が開くと、そこには複雑な文様が刻まれているのが見えた。
見覚えがある気がしたが、私の記憶とそれが合致する前にコルベールはすぐにそれを閉じてしまう。
「……なるほど」
ヒューイットが大きく頷けば、コルベールが満足そうに微笑む。
(今のって……?)
何なのと問いかけたかったが、下手に口を開けばぼろが出てしまいそうで、私は困ったようにヒューイットとコルベールの間で視線を彷徨わせた。
同時にこのまま黙っているのもおかしいと気がつき、あわてて我儘なご令嬢の表情に切り替える。
「もう、お二人だけで何なのです!?」
「ああ、すまないリィ。どうやら彼は信用できる商人のようだ」
「そうなのですか?」
「ああ……コルベールだったな。で、いったいどんな商品を紹介できるというのかな」
「そうですね色々ご準備はできますが……この場ではなんです、後日ゆっくりとお話できればとおもうのですが」
「ふむ……」
わざとらしく考え込みながら、ヒューイットが目くばせをしてきた。
この男があの男かどうかわかるかと聞いているのだろう。
私は小さく下唇を噛む。それは夜会に潜入する際に決めた「まだ」という合図。ヒューイットも応えるように眉を跳ね上げ「了解」の合図を返してくれる。
「まあ話を聞くぐらいならいいかな、リィ?」
「うーん……私、こう見えてけっこう目が利くのよ? 中途半端な品なんて欲しくないわ」
「それはそれは。お二人のご期待に添えるようなものをしっかりと用意しておきましょう」
私達の態度がお気に召したのか、コルベールは嬉しそうに笑いながら次の約束を提案してきた。
前回の騒動で懲りたのか、時間は昼間。しかし場所はやはり下町に近い街中のカフェだ。
どうしてそんなところでと怪訝そうに尋ねれば、商談にはもってこいの店なのだとうそぶかれる。
「お二人も、たまには気分を変えて出かけてみるのも一興ですよ」
含みを持たせるような言葉使いに背中がゾッとする。
ビルクが言っていた通りの言葉を吐いたからだ。
『あの男が貴族の屋敷や商館で商談を行わないのは、逃げやすいからだけじゃない。客を非日常の場所に引き込むことで興奮させ判断を鈍らせるんだ』
本気で私達を騙すつもりなのだというコルベールの態度に、怒りが湧き上がる。
きっとこうやって叔父の事も騙したのだろう。父は何とかなると笑っていたが、あの借金のせいで色々なものを失ったのは事実なのに。
こいつはのうのうとだまし取った金で生活し、またこうやって誰かを騙そうとしている。
「っ……!」
勝手に動きかけた身体を引き留めてくれたのはヒューイットだ。
大きな手が私の肩を抱き、宥めるように引き寄せてくれた。
「ええ。二人でうかがわせてもらおう。期待している」
「おまかせください」
コルベールは深く頭を下げ、私達の前から去っていく。
その横顔を見逃さぬように私は目を見開く。
(……あった!)
右耳の上にひきつれたような傷跡が見えた。化粧をしているのか少し薄いが、特徴的な傷痕は誤魔化しようがない。
肩を抱いてくれるヒューイットにギュッとしがみつく。それは間違いないという合図でもあり、そうしていなければコルベールを追いかけて問い詰めてしまいそうな自分を押しとどめるためでもあった。
今の私は、ヒューイットをはじめとした騎士団の協力者だ。彼らの仕事を絶対に邪魔してはいけないと必死に自分に言い聞かせる。
コルベールの姿が完全に見えなくなって、私はようやく長い息を吐く。
同時にヒューイットが誰かに視線を向けて合図をしているのがわかった。きっと騎士団の誰かがコルベールを追うのだろう。
「……リィ。おつかれさま」
「ヒューも」
これで騎士団の人達がコルベールを追いかけ犯人たちのアジトを見つければよし。
でももし失敗したら。
嫌な予感に支配されかかった私の手を、ヒューイットが優しく握りしめた。
「リィ。音楽がはじまった。せっかくだから踊ろう」
「えっ? でももう」
「ここですぐに別れたらバレバレだろ。あいつらの仲間だっているかもしれないし」
「あ……」
そこまで考え至っていなかった私に苦笑いしながらヒューイットが会場の中心へと私を誘う。
既に何組かのカップルが音楽に合わせて踊り始めていた。
「お嬢さん、お手を」
それはずっと憧れてきたダンスの誘い。
いつかデビュタントを迎えたら、ヒューイットと踊るのだろうかと子どもの頃はずっと思っていた。
二度と叶わないと思っていた未来が現実になった高揚感に、胸が高鳴る。
「よろしくおねがいします」
差し出された手にそっと己の手を重ねれば、思いがけないほどの力強さで引き寄せられた。
まるでヒューイットもこの時を待っていたのかと思う程の素早さで、私達はダンスの輪に入り込む。
「リィ。綺麗だよ」
甘い声で囁かれて、何故か目頭が熱くなった。