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20.重ならない心

 

 俺を見つめる瞳が怯えたように震えていたことに気がついていたけれど、止まれなかった。

 壁に追い詰めた華奢な体を抱きしめ、名前を呼びながら唇を重ねる。


 あの日、薬に浮かされた勢いのままに何度も貪った唇は頭がおかしくなりそうなほど甘かった記憶がある。

 薬なしで味わったリメルの唇も、やっぱり甘かった。


「ん、んうっ!」


 強引なキスに抗議しているのか、リメルがくぐもった声を上げた。

 いつもよりもほんのりと艶めいた声を聞くだけで体が熱くなる。

 腕の中に抱きしめた体は恐ろしいほどに抱き心地が良くて、絶対に手放せないという確信が胸を焼いた。


(リメル、リメル)


 あの日。追っ手を撒くために逃げ込んだ宿で間違って運ばれた媚薬によって理性をなくした俺はリメルを抱いてしまった。

 リメルも同じ薬を飲んでいたからか、俺を驚くほど素直に受け入れてくれた。信じられないほど幸せで気持ちよくて、このまま死んでしまうのじゃないかと思った。

 優しいリメルのことだ。俺の暴走を許して受け入れて「事故だった」と笑って流してしまう気がして、俺は必死で結婚という言葉を口にしていた。

 無様な告白だったと思う。本当はもっときちんとした形で愛を告げて、手に入れるつもりだったのに勢い任せにぶつけるみたいな想いを告げた。

 これまでの我慢が全部水の泡になって、リメルに距離を置かれるくらいなら強引な手段を使っても手に入れたかった。


「っんう……!」


 リメルの細い指が震えながら俺の服を握ってくる。俺にすがりながら、甘い声で鳴く姿にどうしようもなく興奮する。


「やっ、ヒューくんっ、あぅ」


 のけぞったせいで一瞬だけ離れた唇を急いで追いかける。逃がしたくなくて後頭部を包み込むように手を回しキスを深くする。

 開いた唇の中に舌をねじ込み、縮こまっているリメルの小さな舌を捕まえる。絡めて舐めて吸い上げて。

 次第に抵抗が弱まって腕の中に収まっていた体がくったりと柔らかくなっていく。甘い匂いが鼻腔をくすぐってたまらない。

 このままリメルをずっと捕まえておければいいのに。


 リメルが無茶をしてまで懐中時計を取り戻してくれたのは、うぬぼれでなければ俺のためだろう。

 危険なことをしたリメルに腹が立ったが、それ以上に自分が許せなかった。

 守りたくて大切にしたい存在に助けられた。無力で情けない自分が嫌になる。

 その上、最低なことに薬に負けてリメルを抱いた。

 嫌われて憎まれてもおかしくないのに、リメルはずっと俺を許してくれた。


(好きだ。大好きだ)


 優しいところも、芯が強くて行動力があるところも、頑固で素直じゃないところも。全部愛しくてたまらない。笑った顔も、怒った顔も、全部かわいい。髪の毛一本だって誰にも触らせたくないくらい全部が好きだ。

 どうしたら俺の気持ちをわかってもらえるのだろう。どうやったら男として意識してもらえるのだろう。

 卑怯だとはわかっていても、逃がしたくない。

 身勝手な感情を伝えるように、俺はリメルの唇を貪った。


「ぅん、んっ、ひゅ……くん」

「リメル……お願い、お願いだから」

「あっ!」


 二人の唾液で濡れた小さな唇を舐めてから、ついばむようにキスをしながらリメルの体を強く抱きしめる。

 細い首筋に鼻先を埋め、リメルの匂いを胸いっぱいに吸い込む。


「ヒュー君。私、私は……」


 何かに怯えるようなリメルの声にきつく目を閉じる。

 リメルが言っていることは多分、全部正しい。俺のことを考えて言ってくれている。リメルと俺が結婚するためには乗り越えなければならないことがたくさんある。でも。


「俺、諦めないから。何があってもリメルと結婚する」

「でも……」

「他の男になんか絶対渡さないからな」


 リメルが息を呑んだのが聞こえた。

 怖がられてもいい。ここまで来たら、どんな手段を使っても俺はリメルを手に入れるって決めたから。



 ***



 結婚を断ろうとした私を熱烈なキスで黙らせたヒューイットは馬車に乗せて屋敷に連れ帰った。

 馬車の中でも散々キスや抱擁をされ、帰り着いたときには息も絶え絶えになっていた。

 ヒューイットはどこか鬼気迫るものがあって、正直このまま寝室に連れ込まれるんじゃないかという不安があったが、無理に迫ってくることはなかった。

 私をメイド長に引き渡すとくれぐれも頼むと言いつける。


「リメル。絶対に屋敷から出るなよ。何があるかわからないから」

「わかったよ……、ねえヒュー君」


 ヒューイットは私の返事を待たずに、再び騎士団の詰め所に戻って行ってしまった。

 残された私は心の持ちようがわからず、捨てられたような気持ちになる。


「ヒュー君は、私の気持ちなんてどうでもいいの?」


 一人きりの部屋の中。そう呟いた私の目から勝手に涙が出た。

 好きだと言ってくれたことは嬉しい。選んで欲しいという言葉に、心が歓喜で震えた。でも、ヒューイットは決して私の気持ちを聞かなかった。まるで、私がヒューイットのことを好きじゃないと信じているみたいに頑なに。


「馬鹿」


 自業自得なのはわかっている。これまで私はずっとヒューイットの「姉」として振る舞ってきた。彼を弟扱いし、決して男女らしい雰囲気にならないようにしてきた。きっとヒューイットは私が彼に恋しているなんて夢にも思っていない。

 それは、無意識にヒューイットへの恋心を殺していた私への罰なのだろう。


 素直になればいいのに、と心の中の悪魔がささやいていた。

 ヒューイットが責任を取るというのならば、それに甘えて大人しくここでじっとしていればきっとなんとかしてくれるだろう。

 これまでも幾度となく、ヒューイットは私に手を差し伸べようとしていた。両親だって、私を親戚筋に養女に出して貴族令嬢として生き残れる道を探してくれていたのを知っている。


「そんなの、嫌だったのよ」


 不幸ではなかった。貴族ではなくなっても家族は家族のままだったし、それが私の人生だからと受け入れたのに。優しくされて、期待に応えられなかったらどうすればいいのだろうか。誰かから与えられた立場に甘んじてヒューイットの心をそのまま受け取ってしまって許されるはずがない。

 それに、ヒューイットは気持ちを信じて欲しいと言ったが、何の取り柄もない平凡な自分が、どうして釣り合うと信じられるだろう。彼ではなく、私は、私を信じられない。


「ああもう。自分がこんなに後ろ向きだなんて知らなかったわ!」


 だんだん腹が立ってきて思わず大きな声が出た。

 貴族じゃなくなると知ったときもこんなに悩まなかった気がする。

 もし、叔父が借金を負わず家が没落しなければ、もう少しだけ勇気を持てたかもしれない。


「全部あの人たちのせいよ!」


 叔父を騙し、王太子から懐中時計を奪った詐欺グループ。いつだってリメルの人生を大きく狂わせる彼らへの八つ当たりのように感情が爆発する。

 懐中時計を盗んだことで一矢報いることはできたかもしれないが、結局のところ犯人たちを捕まえられたわけではない。またどこかでのうのうと誰かを騙すのであろう連中のことを考えると、はらわたが煮えくり返りそうだ。


「もう私にできることなんてないのに」


 力なくソファに座り込んだ私は、長いため息を吐き出すことしかできなかった。



 ***



 それから数日。ヒューイットたちは本当に忙しくしているらしく、屋敷に戻ってくることはなかった。

 私はと言えば、相変わらずお仕着せ姿で過ごしている。暇を持て余す私を案じてくれたのか、最近では少しだけメイド長が私に仕事を回してくれるようになった。と言っても、図書室の整理や貴重品の整頓など、雑用とは言いがたい仕事だ。


「お嬢様はきちんと教育を受けられているようですので、こういった高級な品をお任せしても良いと思いまして」


 仕事があるのは嬉しいが、どちらかと言えばもっと掃除や料理などわかりやすい仕事の方が嬉しかったのだが、文句を言える立場にはない。

 それでも私が働き始めたことでメイドたちとの距離は近くなったように思う。

 いっそこのままこの屋敷で雇ってもらえないだろうかなどとぼんやり考えながら廊下を歩いていると、洗濯物を運んでいるメイドの姿が目に入る。


「アニー、重そうね手伝おうか」


 アニーは新米メイドでまだ少女っぽさが抜けていない愛らしい子だった。屋敷の外に出られない私を気遣って、なにかと外の話を聞かせてくれる優しい子だ。


「お嬢様! いいえ、そんなことをしたら私がメイド長に叱られます」

「平気よ。見つからなければいいんだから」


 そう言って、私はアニーが抱えている洗濯物の一部を奪い取る。

 アニーは困り果てた顔をしていたが、本当に重かったのだろう。


「じゃあ、お願いします。外の洗濯場に運べば干す担当がいますから」

「ええ。まかせて」


 久々の仕事らしい仕事に浮かれ、アニーと他愛のない話をしながら外へと向かう。

 使用人用の出入り口から洗濯場に向かえば、数名のメイドたちが黙々と洗濯をこなし物干しロープに布をかけている。

 その整然とした様子に加わりたい気持ちがこみ上げたが、ここでやらせて欲しいと口にしたら彼女たちが困ることはわかっていたのでぐっと我慢して洗濯物を手渡した。


「じゃあ戻りましょう、お嬢様……きゃあ!」

「アニー!!」


 どこから現れたのか、アニーの目の前に大柄な男が立っていた。男は悲鳴を上げたアニーの腕を掴み、拘束する。


「あなたたち! 何をするの!」


 叫べば、男は鋭い瞳で私を睨みつけてきた。


「この屋敷に貴族の女がいるはずだ。そいつを連れてこい」

「なっ……!」

「さっとしろ。じゃないとこの小娘がどうなるかわからないぞ」

「い、いやぁぁ!」


 男がアニーの頭を押さえ付け振り回す。悲痛な声を上げるアニーの姿に血の気が引いていく。


(いったいどうやって侵入を……? 何の目的で? 貴族の女って)


「リィとか言う女がいるはずだ。隠しても無駄だ。ここに匿ってるのはわかってるんだ」

「!!」


 心臓が変な風に脈打つ。


(目的は、私!?)


「早くしろ。でないと」

「いやぁ! 痛いぃ!」

「やめて!!」


 アニーの悲鳴に私はとっさに声を上げて前に出る。

 男が胡乱げな視線を私に向けた。


「そのリィは私よ! その子に酷いことをしないで!!」

「ああ? 嘘を言うな。俺が探しているのはメイドじゃない。貴族の娘だ」

「嘘じゃないわ。そんなに疑うならコルベールを連れてくればいいでしょう」

「!」


 男の表情ががらりと変わる。私をまっすぐに見つめ、上から下までじろじろと観察を始めた。


「なるほど。女を隠すなら女の中ってか」


 にたり、と笑う顔の不気味さに鳥肌が立った。

 男はアニーを突き飛ばすと、大股に私に近づき腕を掴んでくる。


「騒ぐなよ。お前が騒ぐなら、ここにいる女たちを全員殺したっていいんだ」


 男が胸元から刃物を取り出し、低い声で笑う。

 何のためらいもなく殺すと口にしたことから、本気なのだろう。この男はそういう仕事を生業にしている人間なのかもしれない。だからこそ、この屋敷に侵入ができたに違いない。

 男は私の腕を乱暴に掴む。


「お嬢様!」


 アニーや他のメイドたちが叫べば、男が足を止め彼女たちに振り返った。

 そうして私の首元に刃物を押し当てる。冷たい感触に嫌な汗が滲む。


「俺がここを出て行くまで騒ぐんじゃねぇぞ。もし声が聞こえたら、このお嬢ちゃんの顔に二度と消えない傷が残ることになる」


 泣きそうに顔を歪ませるアニーに向かって私は安心させるように大きく頷く。


「大丈夫よアニー。ごめんね、怖がらせて」

「お嬢様……」

「行くぞ!!」


 男が乱暴に歩き出し、私は引きずられるようにして連れて行かれる。

 どこに向かうのかと思えばそれば使用人用の裏門だった。


「……!」


 裏門の前には数名の男性が倒れていた。恐らくはビルクが手配してくれていた護衛なのだろう。


「う、うう」


 僅かなうめき声が聞こえる。彼らはどうやら生きているようだ。


(よかった……)


 ほっとしたのもつかの間、腕を握る男の力が強まる。

 倒れている人たちから視線を外し男の方を見れば、裏門の外にある荷馬車に向かっていることに気がつく。


「さぁお嬢ちゃん、お出かけのお時間だ」


 下卑た笑みを浮かべる男の目はどこか昏く光って見えた。


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