17.解決と離別
「リメル、大丈夫か」
「うん」
「痛くはないか? もし辛いなら、俺の膝に」
「大丈夫だから」
何度繰り返したかわからないやりとりに、内心で深いため息をつく。
あの後、なんとかヒューイットをなだめて身支度を調えることができた。
タイミングを見計らったかのように宿の店主がやってきて、 私たちを裏口から逃がす算段だと教えてくれたのだった。
部屋の惨状から店主は私たちの間に何があったかを悟っただろうに、さすがにプロと言ったところか何も言わずに見送ってくれた。
迎えに来てくれた馬車に乗り込むと、急な気まずさがこみ上げてくる。
(さっきの返事、どうすればいいんだろう)
ヒューイットは私を好きだと言ってくれた。それはとても嬉しい。その言葉を信じるのならば私たちは幼い頃から同じ気持ちだったんだろう。まあ、私は自覚するのが少し遅かったが。
でも結婚に関して素直に頷くことはできない。
貴族令嬢だった頃ならまだしも、今の私はただの庶民だ。どう逆立ちしてもヒューイットと結婚できるわけがない。
(断るべきよね。うん、無理よ)
この恋はここで終わらせるべきものだ。自分のためにも。ヒューイットの将来のためにも。
没落貴族の令嬢、しかも年上との結婚なんてヒューイットには足かせにしかならないだろう。処女を奪ってしまった負い目なんかで、未来ある彼の人生を縛り付けたくはない。好きだからこそ、そんなことをしたくはなかった。
なのに。
「リメル。可愛い、大好きだ」
ヒューイットはまるで箍が外れたように私に甘い言葉をささやいてくる。
体を気遣ってくれるのは嬉しいが、腰や肩を抱いたり撫でたりする必要はないはずだ。
平気だからとやんわり押しのけても、すぐに手が伸びてくる。
緑の瞳が熱っぽく見つめてくるのがいたたまれず、馬車から飛び降りたくなった。
「ヒュー君、もう平気だから……少し離れて」
「どうして? 俺たちは結婚するんだから気にする必要なんてないだろう」
「……ねえ、そのことなんだけど」
きちんと言って聞かせなければ。
そう決意してヒューイットに向き直る。
「ん? なんだ?」
私を見つめる蕩けたような笑顔に胸が締め付けられた。
好き。大好き。自覚したばかりの恋心が歓喜に震えてしまう。さっきまでこの人に抱かれ、甘く喘いだ記憶がよみがえり、胸の奥がきゅんと疼く。
(だめ! 流されちゃだめよ私!!)
「あのね……」
結婚なんてできないと私が口にしようとしたとき、馬車の動きが止まった。
視線を窓の外に向ければ、いつの間にか屋敷に戻ってきている。
「着いたみたいだな。とりあえず、降りよう」
「……ええ」
二人きりで話ができなかったことは歯がゆかったが、役目のこともある。
私はポケットに入れていた懐中時計を握りしめながら馬車を降りた。
「よく戻ったな!!」
屋敷の中に入った私たちを出迎えてくれたのはビルクだった。
「お前たちを見失ったと聞いたときは焦ったが、無事でよかった。まさかあそこに逃げ込んでいたとはな。いったい何があった?」
鋭い視線が私たちを刺す。きっと勝手な行動をしたことを怒ってもいるし、心配してくれていたのだろう。
いつもは自信に満ちている顔が少しだけやつれているような気がして、申し訳なくなる。
「実は……」
ヒューイットがチラリと私に視線を向けた。
それを追いかけてビルクが私を真っ正面から見据える。
ポケットに入れていた手をそろそろと出すと、私は手の中に握りこんでいた懐中時計を取り出した。
ビルクが目を限界まで見開いたのがわかる。
「なっ……!!」
驚きで固まったビルクの様子に、ヒューイットがため息を零す。
「リメルは俺たちがどうして連中を追っているのか知ったんです。それで、あのコルベールって男からこれを盗んだんですよ」
「盗んだ!? このお嬢さんがか!?」
信じられないという顔をしてビルクは私と懐中時計を交互に見比べている。
差し出した懐中時計を受け取ったビルクの表情には困惑と驚愕が浮かんでいた。
「お二人の話を聞いて絶対取り戻さなきゃって。これ、大切なものなんですよね」
「いや……確かに大切なものだが。まさか盗んでくるなんて」
「俺も驚きました。あっちはそれ以上でしょう」
「じゃあ、お前たちが逃げた理由は」
「盗みに気がついた連中に追われました。ですが、さすがにあの宿には入り込めなかったみたいで」
「なるほどな」
まだ驚きが抜けていない様子ながらもビルクは大きく頷く。
「お嬢さん……いや、リメル嬢。本来ならば危険な行為をした君を俺は叱るべき立場にある。しかも理由はあったといえ、盗みは許される行為じゃない。でも、助かった。本当に感謝する」
ヒューイットとほとんど同じような言葉を紡ぐビルクに私は息を呑んだ。
本当はもっと怒られる覚悟をしていたのに、どうしてそんなに簡単に許してくれるのだろう。感謝されて嬉しいはずなのに、こみ上げるのは今更の罪悪感だ。
「勝手なことをして、本当に申し訳ありませんでした」
私は自然と頭を下げていた。
無茶をした私を叱らないのは、それほどまでにこの懐中時計が必要だったからに他ならない。あの日、私がヒューイットに迷惑をかけなければこんな手間なんて必要なかったかもしれないのに。
そうすればヒューイットと私が間違いを起こすことなんてなかったのに。
「いいや、謝る必要なんてない。君にそこまでさせてしまったのは、俺たちの落ち度だ。大の男がこれだけ揃っていて、一番危ない役目をただの女性である君に背負わせてしまった」
「でも……」
「リメル、俺からももう一度言わせてくれ。ありがとう。そして、無茶をさせてすまなかった」
ヒューイットにまで追い打ちをかけられて、私は何も言えなくなってしまう。
「とにかく二人は着替えて少し休んでくれ。ヒューイットは落ち着いたら報告に来るように。俺はこれの確認をしてくる」
懐中時計を持ったビルクが去って行くと、また二人きりになってしまう。
何か言うべきだと思うのに言葉がうまく出てこない。
お互いにまごついていると、屋敷の奥からメイド長が早足でやってきた。
「お嬢様! おかえりなさいませ!」
「ただいま」
「お疲れでしょう。さぁさぁ、着替えに行きましょう」
「え、ええ」
「スタン様も、お部屋にお着替えを用意してありますから」
「ああ」
凜とした彼女の声に促され、私たちはお互いにのろのろ歩き出す。
一瞬だけ絡んだ視線は何か言いたげなものだったが、私たちは結局ろくな会話をすることもできぬままに別れたのだった。




