16.恋の自覚
(なに!? なんなの!)
乱暴なキスは、あの夜偶然してしまったものとはまるで別物だ。
何度も何度も角度を変えながら重なる唇をべろりと舐められ、吸い上げられる。
「ヒューく、んっ!」
どうしたのと呼びかけたいのに喋る暇さえ与えてくれない。
のしかかってくる体を押し返そうと伸ばした手は掴まれて、抵抗はあっという間に塞がれる。
そのうちにキスがだんだん深くなり湿り気を帯びていく。
半開きになって重なった唇同士がこすれ、溢れた唾液がお互いの口元を濡らす。
「ヒューくん、おかしい」
キスの合間に訴えた声は情けないほど震えていて、自分の声には思えなかった。
油断すれば座り込みそうな体をヒューイットの腕が抱きしめてくれる。
私は素直に彼の体にもたれ、しがみつく。
服の上からでもわかる、鍛えられた体つき。腰を抱く腕はたくましく、安心して全てを任せられる。
香水をつけていないはずなのに、ヒューイットの体からはいい匂いが漂ってきて、思考がとろりと蕩けて粋そうになる。
「リメル……リメルっ……!」
私を呼ぶヒューイットの声はどこか切羽詰まって聞こえた。
苦しげな声に、混乱していた頭が冷える。
そして、今の状況がなんなのかにも考え至ることができた。
(もしかして……)
ヘザーの店で働くようになり、私は貴族令嬢だったころでは知らなかった男女のアレコレについてもよく耳にするようになった。
一緒に働く女性からだったり、男性抜きで食事に来た女性客の集団からだったりと、情報源は様々だ。
男女の営みについて初心だった当初はなんて卑猥な会話だと恥ずかしがっていたが、人は慣れる生き物なのでだんだん抵抗なく聞き流せるようになっていた。
その会話の中で聞いたことがある。そういう行為を盛り上げるための薬があると。
自分には無縁だと思われていた知識が、今の状況を理解させてくれる。
(さっきがそうだとしたら? 常連用っていってたし……)
何もかもが腑に落ちた。
女の子があれほど慌てていたのは、きっと若い男女に使うには少し強すぎる効果があるからなのだろう。
たった一口飲んだだけの私がこんなに体を持て余しているのなら、全てを飲み干したヒューイットは正気を失っているにちがいない。
きっと理性なんか残っていないのだろう。薬のせいで本能が暴走している。
だからこそ、私なんかにキスをしているんだ。
「リメル、リメル」
明確な意志を持って動くヒューイットの手が何を求めているのか、経験のない私にだって痛いほど伝わってくる。
「リメル、欲しい、リメルが欲しい」
切なげな声に胸の奥が締め付けられる。
きっとこれはヒューイットの本意ではないのだろう。
薬が理性を凌駕して、体が思うがままにいかないのが苦しいのが伝わってくる。
助けてあげたい、と切に思った。私の体を全部差し出したいと。
身勝手な恋心をこじらせた傲慢な献身だとわかっていたが、ヒューイットを楽にしてあげたい。
「リメル……リメルっ……」
必死に私を呼ぶ声が鼓膜を撫でて、頭のなかをぐらぐら揺らす。
かわいくて、愛しくて、恋しくて。
(ああ、私……やっぱりヒュー君が好き)
最悪なタイミングでようやく確信できた恋心が歓喜していた。
最初は弟でしかなかったヒューイットを私はいつの間にか男性として意識していたのだ。
でも、それが叶わぬ恋だとわかっていたから無理矢理押さえ付け、姉という立場であり続けることを選んだ。
女性としてヒューイットに抱いてもらえる日なんて、永遠に来ないはずだった。
それならば姉として家族としてずっと傍にいたかった。
なのに。
「ヒュー、ヒュー、ヒューイット……」
あなたが好きといえない代わりに名前で呼んで、
「いいよ、ヒューイット、あなたの好きにして」
私はヒューイットの背中に手を回し、そっと身を委ねる決意をしたのだった。
嵐のような熱が過ぎ去り、私はヒューイットの下でぼんやりしながら潤んだ視界で彼の顔を探した。
「ヒュー……!! 大丈夫!?」
視界に入った光景に、蕩けていた思考が一気に冷えた。
ヒューイットの表情は幸せそうに緩んでいたが、問題なのはその鼻孔から赤い血が滴っていることだ。
ポタポタと落ちたそれが私のお腹に落ちて、花びらのように広がった。
「わっ!」
ヒューイットもそれを見てようやく自分の状況を自覚したのか、驚いたような声を上げて体をのけぞらした。
どうやらようやく薬の効果が薄れ我に返ってきたようだ。
「リメル、血が!」
「そ、そうなの。何か拭くものを……」
「違う、おまえだ!」
「えっ?」
オロオロしているヒューイットの視線を辿れば、シーツに赤い染みができていた。
それは私が乙女を失った証だ。
はっきりと見てしまった事実に顔が赤くなる。
「あの、これは、大丈夫なやつだから」
「大丈夫じゃないだろ。お前、初めてだったんだろ? 痛くないか? 平気か? ああくそっ、俺、なんでこんな……」
自分の腕で鼻の下を拭ったヒューイットの顔は真っ青だ。
その声と態度から感じる後悔に、さっきまで抱えていた幸せが急に温度を無くしたように感じる。
(そうだよね……嫌、だよね)
薬のせいで、私を抱いてしまったことを悔やんでいる姿に悲しみがこみ上げてくる。
やはり自分はヒューイットにとってはただの姉で、女ではないのだろう。
すでに鼻血は止まっていたが、まだ汚れているヒューイットの顔を私は指で撫でる。
薄い血の跡はあっという間に乾いたらしく、指先でこすればすぐに綺麗になった。
大人しくなすがままになっているヒューイットの表情は、苦しさと痛みを混ぜたような悲痛なものに見えた。
「ヒュー君、いいの。気にしないで」
「気にするだろう!! 初めてがこんな……ああくそっ、許せない!」
「ごめん。ごめんねヒュー君」
「なんでお前が謝るんだよ!!」
「だって……」
だって私は嬉しかったのだ。どんな形であれ、ヒューイットと体をつなげられたことが。
彼と一緒に歩む人生は得られなかったが、この思い出が自分を支えてくれると確信できた。
「謝るのは俺だリメル。俺がここに連れ込んだせいで、お前を……」
「だから気にしないでヒュー君。それよりも止血しなきゃ。何か布を……」
「気にするだろう!!!」
「っ!」
大声に体がすくむ。
見上げたヒューイットの顔は怒りで歪んでいた。いや、むしろ泣きそうだった。
「俺、もっと大事にするつもりだったんだ。お前のこと、もっと優しく……もっとちゃんとしたところで……」
「……ヒュー君?」
「リメル。俺、お前が好きだ。ずっと好きだった。結婚するならリメルとじゃなきゃ嫌だ。俺、リメルと一緒になりたい」
何を言われているのだろう。
目の前で必死に言葉を紡ぐヒューイットの姿は、まるで少年のように幼く見えた。
「こんな形でお前を抱いてしまった自分が情けない。結婚するまで我慢するつもりだったのに……ごめん、ごめんリメル」
ぼろり、と緑の瞳から涙が溢れる。
たくましい腕が私を抱きしめる。痛いほどの力で腕の中に囲われ、私は息の仕方が思い出せなくなってしまった。
胸が苦しくて、目の奥が熱を孕む。
「リメル、大好きだ。俺と一緒になってくれ。この責任を取らせてくれ」
嬉しくてたまらないはずの告白を聞きながらも、私はヒューイットの体を抱き返すことができなかった。




