15.差し入れられたもの
いくら眺めていてもベッドはベッドだ。私が欲しい答えはくれない。
「ねぇ、ヒュー君」
意を決してヒューイットに視線を向ければ、彼は私に背中を向けていた。
全身から放たれる「話しかけるな」のオーラにため息をつきたくなったが、長い付き合いから、ここで呆れたり問い詰めるのは悪手だということを学んでいる私は、ぐっとそれをかみ殺す。
「とにかく立ったままじゃ何も話せないわ。座りましょう」
極力優しい声で話しかければ、ヒューイットの方が僅かに震えた。
それから後ろを見たままの頭がこくんと素直に頷いたのがわかって、私は詰めていた息を吐き出す。
まずは自分が行動してしまおうと、備え付けられた椅子を引っ張ってきて腰を下ろした。
私が動いたのがわかったのか、ヒューイットがのろのろとした動きで同じく椅子を少し動かしてどさりと座り込む。顔が見たかったのに、ヒューイットはうつむいているのでどんな表情をしているのかがわからない。
「……とりあえず、ここに来た理由を聞いてもいい?」
せめてそれくらい話して欲しい。
逃げ込む原因を作ったのは私なので、強くは言えないが何故ここなのか。
「ここは男女のペアでしか入館できないルールがある。あの男かその仲間が追いかけてきても、女がいないならどう頑張っても侵入はできない。ここは娼婦を連れ込むのを禁じている店なんだ」
「……なるほど」
たしかにそれならば逃げ込むにはうってつけだろう。
「でも、無理に侵入されたらどうするの?」
「こういう店は信用を何より大事にする。ルールは絶対だし他の客に不利益になるようなことはしないから、安全だ」
「ふうん」
すらすらと全てを知り尽くしたような口調で語るヒューイットの態度に、私は何故か胸の奥がムカムカしてくるのがわかった。
(随分詳しいのね)
口にしなかったのは、勝手な行動をした負い目があったからだ。
コルベールから懐中時計を盗み、作戦を危うくさせてしまった。あのままでは追いつかれ、余計な騒動を起こしていただろう。きっとヒューイットは最善と信じてここに逃げ込むことを選んだ。そのことに私が不満を口にするのは、許されないことだ。
湧き上がる名状しがたい感情をなんとか抑え込みながら、私はまずは自分のやってしまったことを詫びることにした。
「ごめんなさい」
私の謝罪に、ヒューイットがようやく顔を上げた。
「勝手なことをしてごめんなさい。でも、この懐中時計を取り返したかったのでしょう?」
言いながら、私はコルベールのポケットから奪った懐中時計を取り出しヒューイットに差し出す。
繊細な銀細工の懐中時計を見つめるヒューイットの表情は複雑そうだった。
「どうして、俺たちが探しているのがコレだって知ってたんだ」
「昨晩、ビルク様と話しているのを聞いたの」
ああ、とも、うう、とも聞こえる短いうなり声を上げてヒューイットが頭を抱えた。
「聞いてたのか」
「うん。これがとても大事なものだっていうのも聞いてた。どうしても取り戻したい理由も」
「そうか……ああ、そうだな。俺たちが担ぎ出された理由はそれだ」
どこかうんざりした顔で懐中時計を見ていたヒューイットが重たい息を吐き出した。
「詳しい話はここじゃできない。絶対に外に漏れてはいけない会話だから。持って帰ることができたら、隊長からきちんと説明があると思う」
「わかった」
「……本当はめちゃくちゃ怒ってるんだぞ。お前を巻き込んでしまったことだけでも腹が立つのに、あんな危ない真似までして。もしお前に何かあったら、俺は……」
まっすぐに見つめてくる緑の瞳に宿る怒りに、私は息を呑む。
謝るべきなのだろうが、驚きで言葉が喉に張り付いてしまう。
これまでヒューイットに怒られたことは何度もあった。幼いころ、些細なことで喧嘩したときに癇癪を向けられたり、私が貴族でなくなった後に市井で働きはじめたときには散々叱られた。
でも、今向けられている感情はこれまで向けられていたそういった怒りとは別物なのがわかった。全身で怒っている。
「ごめ……」
そんなに怒らないで、と言いたいのに唇が震えた。
ヒューイットに嫌われる。そんな恐怖に体がわななく。
「でも、助かった」
「えっ……」
てっきり怒鳴られると思っていたのに、まさかの感謝を告げられて私は拍子抜けする。恐怖でこわばっていた体から力が抜けた。
「作戦の一つに盗みっていうのもあったんだ。スリを雇うとか。でもどんな理由があるにしろ、騎士団が犯罪を容認するのは許されないって採用されなかった。でも、あのときリメルがやってくれなかったらこれは取り戻せなかったかもしれない」
ヒューイットの視線が私から懐中時計に降りる。
「ありがとう、リメル」
胸の奥がじんと痺れた。役に立てた。ヒューイットの助けになれた。その喜びと安堵に、体が火照る。
「……うん」
「だからって、許したわけじゃないからな」
「うん」
「まったく……」
あの日からずっと胸につかえていたものがようやく取れた気がした。
まだ万事解決というわけではないが、少しは取り戻せただろう。
「……ねえ。あの人たちがここに入ってこれない理由はわかったけど、私たちが出るときはどうするの?」
安心したからかようやく頭が回りはじめ、私は浮かんだ疑問を素直に口にする。
「そのことなら問題ない。ここは、俺たちに何かあれば逃げ込む先の一つになってる店だから」
「ここが?」
「ああ。この店の店主にはちょっとしたツテがあるから、騎士団からの手紙なら届けてくれるはずだ」
ツテとはなんだろうと首をひねっていれば、ヒューイットが苦笑いを浮かべた。
「俺たちは取り締まりでこういう店に調査に入ることがあるんだ。ここは問題を起こすことが少ない。逆に真面目な商売が仇になって変な客に絡まれることもある。そういったときに助けることが少なくないんだ」
「へぇ」
その説明を聞きながら、私はヒューイットがこの店の仕組みに詳しい理由を理解し、安心していた。
(誰かと来ていたわけじゃないのかも)
客としてではなく騎士としてこの店を知っていただけだからこそ、逃げ込む先に選んだのかもしれない。
ヒューイットが誰かとここを利用した可能性がぐんと下がったことが、何故だかとても嬉しかった。
「とにかく、誰かが迎えに来るまでここにいよう。お前は嫌だろうけど……」
「ううん、平気よ。ヒュー君が一緒だもの」
笑顔でそう答えれば、ヒューイットは何故か表情を硬くしてしまった。
そしてそれから頭を乱暴にかいて、はぁ、とわざとらしいほど大きなため息をこぼす。
「…………だ」
「え? 何?」
「なんでもないっ」
まるで拗ねた子どものような返答。
いったいどうしたというのだろうと私が再び首を傾げていると、コンコンと扉をノックする音が響いた。
「!」
ヒューイットが立ち上がり、表情を険しくさせる。
私も慌てて懐中時計を抱きしめ、扉から離れた。
「……なんだ」
低い声で返事をしたヒューイットは扉を睨み付けたままだ。
何かあればそのまま飛びかかるつもりなのだろう。
「ドリンクをお持ちしました~~~」
聞こえてきたのは妙に明るい女の子の声だった。
毒気を抜かれた私たちは顔を見合わせる。
どうする? とお互いに視線で会話して、頷きあう。
警戒の体勢を崩さないままにヒューイットが鍵を外し扉を開けば、そこに立っていたのは給仕姿の女の子だ。その手には中身が入ったグラスが二つ乗せられたトレーがあった。
「おまたせしました」
にこにこと邪気のない笑顔でこちらを見ている女の子に、ヒューイットが戸惑っているのがわかる。
私は思いきって扉の方に近寄ると、助け船を出すように女の子に話しかけた。
「えっと、ドリンクって……?」
「サービスです」
「サービス……」
女の子の顔とグラスを交互に見つめた私は、一応ヒューイットの顔を確認してからトレーを受け取った。
「失礼しま~っす」
女の子は来たときと同じように明るい声で挨拶してから、さっと扉を閉めて去って行ってしまった。
残された私たちは呆然とするしかない。
「サービスなんてあるのね」
「……らしい、な」
とりあえず受け取ったトレーを机において、再びそろそろと椅子に座る。
ヒューイットは立ったままだ。
「ヒュー君、座ったら? ドリンクもあるんだし」
「……ああ」
歯切れの悪い返事しながらヒューイットが何故か恐る恐るという様子で再び椅子に腰を下ろす。
その拍子に机が少し揺れて、グラスの中身もゆらゆらと揺れた。
(お酒? じゃないわよね。ジュースかしら?)
琥珀色の液体からアルコール臭は感じない。果実水か何かだろうか。
興味をそそられてグラスに手を伸ばそうとした私だったが、それよりも先にヒューイットの手がグラスを掴んだ。
そしてあっという間にその中身を飲み干してしまった。
ごくごくと液体を嚥下する喉の動きから目が離せない。
(なんか、男の人ってかんじ)
太く筋張った首筋と大きな喉仏。少年のころにはなかったそれらに、心臓がドキドキとうるさくなる。
「何も一気飲みしなくても……美味しかった?」
気持ちを誤魔化すために話しかければ、ヒューイットは奇妙な表情をしてグラスをのぞき込んでいる。
「……変な味だった」
「変な味?」
「なんか、薬みたいな……?」
「薬草ジュースとかなのかしら?」
もう一つのグラスに私も手を伸ばす。
思ったよりとろりとした液体は僅かに甘い匂いがしたが、果実とは違うような気がした。
一口だけ口に含めば、確かにどこか薬めいた味わいが舌の上に広がる。
「ほんと、変な味」
「だろう?」
二人で顔を見合わせていると、どんどん! とさっきよりも激しい音が扉を揺らした。
「あのっ!! すみません!」
その声は、先ほど飲み物を届けてくれた女の子のものだ。
何かあったのだろうかと私が腰を浮かせかけるが、ヒューイットが無言で立ち上がって扉に向かってくれた。
「なんだ」
扉を開けないままに返事をすれば、女の子の焦った声が聞こえてくる。
「あのっ、さっきのドリンク、飲んじゃいました?」
「……は?」
「実は、私お部屋を間違えちゃって……常連さんへのサービスだったんですアレ」
「間違いだったのか」
私とヒューイットは再び顔を見合わせる。
仕組みを知らなすぎて自然に受け取ってしまったが、どうやら誰にでも振る舞われるものではなかったらしい。
「すまない。気がつかないで飲んでしまった。代金はちゃんと払うよ」
「いえいえ! お代は結構なんです。こちらのミスですから。で、そのぉ……」
「なんだ?」
「ええっと……常連さんがいつも飲んでいるものなので、害はないとは思うんですが、お若い二人にはちょっと効果が強いと思うので……どうぞお気をつけて! では!」
「……は?」
いったい何に気をつけろというのか。
私と同じ感想を持ったらしいヒューイットが眉間に皺を寄せている。
理由を問いただそうにも、すでに扉の向こうには人の気配はない。
「なんだったの……?」
急に不安になってきて私は中身が入ったままのグラスを見つめる。
飲んではいけない気がして固まっていると、扉の前に立っていたヒューイットが急にがくりと床に膝をついた。
「ヒュー君!?」
「っ、くる、なっ」
苦しそうな声に私はヒューイットの制止も聞かず駆け寄る。
その場にうずくまった彼の体は小刻みに震えていて、呼吸も荒い。
「どうしたの? ねぇ、ヒュー君……!」
まさか毒だったのだろうか。血の気を引かせながらヒューイットの手に触れれば、驚くほどに熱くて汗ばんでいた。
「だめだ、リメル……いまは……」
「ヒュー君、しっかり! 顔を見せて」
弱々しい声に私は慌てて両手でヒューイットの頬を包んで自分の方へ向かせた。
手と同じく熱く汗ばんだ肌が手のひらに張り付く。
「……!」
間近で見つめあったヒューイットの顔は赤く火照り、瞳にはうっすら涙が滲んでいた。
切なげな色が滲んだ緑の瞳が私を見つめる。
「リメルっ!!」
「んっ!!」
一瞬して私たちの距離がなくなる。
噛みつくみたいなキスが私の唇を塞いだ。




