14.逃げた先は
「おい、大丈夫だったのか」
「ヒュー」
コルベールが完全に店を出たのと同時にヒューイットが私に駆け寄ってくる。
その表情はヒューという貴族令息のものではなく、完全にいつものヒューイットだ。見張りがいるかもしれないのに、どうしたことだろうか。
「大丈夫。忘れ物を渡しただけだし、ちょっとこけただけよ」
「疲れているんじゃないか? クソッ……とにかく屋敷に戻ろう」
「ええ、うん。それがいいわ」
私の背中をいたわるようになでるヒューイットの大きな手を感じながら、私はその腕にもたれるように身を寄せる。
「リィ?」
「ほしいものは手に入ったから、早く戻りましょう」
私のささやきにヒューイットが眉を寄せる。
抱きつくように身を寄せ合いながら、私はこっそりと先ほどから握りしめたままだった両手を開いて見せた。
「……!!」
ヒューイットが大きく目を見開く。
私の手の中には、あの小さな懐中時計が収まっているのだから当然だろう。
私はさっき、コルベールの背中にぶつかるふりをしてズボンのポケットから懐中時計を引き抜いたのだ。
普通ならば服に鎖でつないでおくべき懐中時計を、コルベールはポケットにしまうことしかしていなかった。その不用心さにあきれるのと同時に、それならば簡単に奪えるのではないかと思いついてしまった。
そして、あっけないほどに成功してしまい私自身が驚いているくらいだ。
盗みなんて生まれて初めてのことで、手足が細かく震えている。とんでもないことをしたという罪悪感と高揚感で、頭がどうにかなってしまいそう。
「なんで……」
「話は後よ。とにかくここを離れましょう」
「……わ、わかった」
聞きたいことが山のようにあるという顔をしながらも、ヒューイットは神妙な様子で頷き、私をしっかりと支えてくれた。
たくましい腕の感触をこれほど心強いと思った瞬間はないかもしれない。
店の裏に待たせた馬車に乗り込むべく店外に出れば、視界のずっと先を歩くコルベールの姿が見えた。
なぜか足もとをきょろきょろと確認しているような動作に、私は足を止める。
「もうバレたみたい」
「くそ……馬車はダメだな。あいつが戻ってきたら鉢合わせだ。裏にも仲間がいるからそっちに回ろう」
「うん」
コルベールが店に戻ってくる前に姿を消さなければややこしいことになる。
歩く方向を変え、店の裏手に回ると今度はヒューイットが足を止めた。
「見張りがいるな。ついてきている」
「ええ……」
「くそ……用心深いにもほどがある……」
「どうするの?」
「……この手は使いたくなかったんだが……こっちだ!」
「え、ええ」
ヒューイットに腰を抱かれ、私は店の裏路地をぐるぐると歩き回わった。同じような道が続いているので、今自分がどこにいるのかわからなくなる。人気が無い方に向かっているのかと思ったが、逆にだんだんと人間が増えてきた気がして落ち着かない。
「顔を伏せていろ。俺がいいって言うまで上げるなよ」
「……わかった」
素直に頷いてうつむく私をヒューイットの腕がエスコートしてくれる。
路地はどんどん薄暗くなるが、人の気配はどんどん濃密になっていくのがわかる。酒と食べ物と、香水の匂い。
どこまで行くのかと私が不安になったところで、ヒューイットはようやく足を止めた。
「いらっしゃい」
出迎えるような声にどこかの店についたのがわかる。
「一部屋頼む」
「はいはい。代金は先に頼むよ、旦那」
「わかっているさ」
ヒューイットは懐を漁ると、店員らしき誰かにコインを握らせたようだった。
扉が開く音にそっと目線だけを上げれば、古ぼけた屋敷が視界に入る。入り口にたたずんでいるのはくすんだ色の服を着た老女で、彼女はヒューイットから渡されたコインをポケットにしまうところだった。
「いくぞ」
「え?」
グイっと腰を抱かれ、屋敷の中に連れ込まれる。
(……すごい匂い)
熟れた果実のような甘ったるい匂いがそこら中に漂っている。
おしろいと香水と汗がまじりあったような独特の匂いと熱気に、私は思わず立ち尽くす。
「ヒュー君、ここって」
「聞くな……とにかく部屋に行くからな」
「うええ!?」
ヒューイットは老女から部屋の鍵を受け取っていたらしく、そのカギに書かれた番号の部屋まで迷いない足取りで歩いていく。手慣れたその動きに、彼がここに来るのが初めてではないことをすぐに察してしまった。
老女とのやりとりもやけに手馴れており、頭の中が様々な妄想で埋め尽くされていく。
目を白黒させているうちにヒューイットは部屋の鍵を開け、私を部屋の中に引きずり込んだ。
「………………うっわあぁ」
たっぷりの沈黙の後にようやく発することができたのは、感嘆の声だ。
窓がふさがれた狭い部屋には大きなベッドが鎮座している。そのほかにはテーブルと椅子が二脚だけというシンプルな室内の作りは、すべてがあからさまだった。
「ヒュー君、ここってもしかして」
「……ああ、連れ込み宿だな」
「よね……」
顔を赤くして叫ぶべきだったのだろうが、人間驚きすぎると反応が薄くなってしまうものらしい。
私はただ茫然と真っ赤なシーツがかぶせられたベッドを見つめることしかできなかった。




