10.夢の続き
ヒューイットは可能な限り外で仕事をしているが、裏を返せばそれ以外の時間はこの屋敷で過ごしていることになる。
幼いころから家族同然に過ごしていたので、同じ屋根の下で過ごすくらいなんでもないと思っていた私だったが、朝から夜までではなく、夜から朝まで一緒に過ごすというのは同じようで全く別であることを思い知らされた。
「おやすみ、リメル」
「おやすみ、ヒュー君」
私たちの寝室は、廊下を挟んで向かい合わせだ。
夕食をすませ、自室に戻る挨拶をする時が、私は一日のうちで一番落ち着かない気分になる。
昼間整えていた髪を下ろし、少しだけラフな服装になったヒューイットが薄暗い廊下でランプ一つ持って私に微笑みかけてくるのだ。隣にメイドが控えてくれていなかったら、叫んで部屋に飛び込んでいたかもしれない。
「おはよう、リメル」
「おはよう、ヒュー君」
そして二番目に落ち着かないのが朝の挨拶だ。
起きる時間は異なるため、廊下で出くわすことはない。朝、ヒューイットと顔を合わせるのは大体の場合は食事の場で彼は先に席について食事を始めている。
かっちりと服装と髪を整え、背筋を伸ばして食事をする姿はどこからどう見ても洗練された大人の男性でしかない。
いくら飾り立てられてもらっているとはいえ、私のような存在が一緒の席に座るのはためらわれるほどに美しい。
「なにをぼうっとしているんだ。早く座れよ」
「……もう、そんな口の利き方しないのよ。台無しじゃない」
ぶっきらぼうな言葉遣いで話しかけられるのが、嬉しいなんて思うのは私くらいだろう。ヒューイットの言葉遣いまで貴族然としたものだったら、私は一緒に食事をする勇気すら持てないでいただろうから。
食事が終われば私たちはそれぞれの時間を過ごす。ヒューイットは大体の場合こっそりと外に出て仕事をし、夕刻には戻ってくる。私は刺繍や読書、そして貴族令嬢としてコルベール達に接するときのぼろが出ないように忘れかけていた淑女としての嗜みを復習して過ごした。
家にいるときは、一緒に温室で読書をしたり庭でランチをとったりと誰かに見られたときに恋人だとわかるように同じ時間を同じ場所で共有して。
「……ふう」
今日もお休みを言って別れて、ようやくベッドに倒れ込むことができた。
それでも二つのドアと廊下を挟んだ先にヒューイットがいると思うと、落ち着かない気分になる。
「何考えているの。落ち着きなさいよ、リメル」
自分にそう言い聞かせてきつく目を閉じる。
幼いころに夢見たことがないわけではない。ヒューイットといつか本当に家族になる日が来るかもしれないなんて誰かが冗談めかして口にしたのを耳にしたことだってある。
でも、それはかなわないことくらい私は知っていた。
たとえ自分が貴族令嬢のままだったとしても、ヒューイットとは立場が違いすぎる。名家である伯爵家の跡継ぎと、貧乏子沢山な子爵家の末娘。つり合いが取れるわけがないと、淡い想いはすぐにかき消した。ほんのわずかに残っていた期待や希望はわが家が没落したときに全部捨てた、はずだったのに。
「これは捜査の一環。ヒュー君は弟……なんだから」
誰にともなく言い聞かせるようにつぶやいて、私はシーツをかぶって体を丸くする。
その日の夜、未練がましい私はヒューイットと並んで歩く夢を見た。大きくなった彼の手が私の手をぎゅっと握って離さない幸せな時間。
「リメル、大好きだ」
やわらかく熱っぽい声で名前を呼ばれて、私は涙が出るほど嬉しかった。
****
呼吸と足音を殺してそっとドアを押し開く。
暗い部屋の中に一歩入ると、鼻をくすぐるのは優しくて甘いリメルの匂い。
ごくりと喉を鳴らして、そっとベッドに近づけば、シーツが丸く膨らんでいるのがわかる。わずかに上下するそのなだらかな丘にそっと手を置けば、やわらかくて暖かな体がシーツの中で身じろぎするのがわかった。
「リメル」
名前を呼んでそっとのぞき込めば、無防備な寝顔が視界に入る。
その寝顔を見ているだけで、瞳の奥がツンと痛くなるほどの愛しさがこみあげて、今すぐこの腕の中に閉じ込めたくなってしまう。
伯爵家の嫡男として生を受けた俺は、周囲に甘やかされた泣き虫だった。
人前に出るのが苦手で、勉強も運動も嫌いで。
そんな俺を情けないとか軟弱だとかとからかう輩は多かったけど、すべてを受け入れて優しくしてくれた他人はリメルがはじめてだった。
俺をかわいいと、大切だと微笑み、ずっと一緒の時間を過ごしてくれた大切な女の子。
感謝と尊敬が、恋心に変わるのは当然のことで、俺にとってリメルは初恋の相手であり、絶対に手に入れると誓った相手でもある。
騎士になったのだって、リメルが「騎士様って素敵よね」と何気ない一言を呟いたのがきっかけだというのに、当のリメルはそんなことを覚えてもいないのだろう。
大人になったら、ちゃんと騎士になったら、プロポーズして受け入れてもらってずっと一緒に暮らすんだと信じていた。
なのに、リメルの生家は騙された叔父のせいで没落してしまった。
「リメルのことは私たちも助けたいと思っているのよ。でも、あの子にその気がないのに無理強いはできないわ」
生家が没落したとはいえ、リメルは貴族令嬢としてどこに出してもおかしくないだけの教育を受けていたし、だれに劣るようなところもない素晴らしい女性だと両親たちも認めてくれていた。
だが、貴族としての地位を返還し市井に下った彼女を無理やりに妻にすることはできない。俺の親族籍の養女にするとか、あの忌々しいヘザーの生家の養女になるとかやり方はいくらでもあるのに。
それとなくリメルにその道を示しても、リメルは頷くことはなかった。
「お母様たちを支えなきゃ」
そう笑うリメルがかわいくて憎らしくて。
リメルはいつだってそうだ。末っ子なのに甘ったれたところなんてなくて世話焼きで、自分の周りにいる人たちを大事にする。
その心根の美しさを恋しいと思うと同時に、どうして俺だけを見てくれないのかと胸をかきむしりたいほどの衝動に駆られる夜だってあった。
どうすればいいのわからないままにお互いに大人になって、このままではリメルを誰かに奪われるんじゃないかという焦りがあの日のミスを生んだのかもしれない。
リメルにほかの男が触れるのが絶対に許せなくて持ち場を離れた。
後悔はなかったが、あのミスで出世が遠のいてリメルとの距離がさらに離れるかもしれないと感じた時は絶望しかかった。
だがまさかこんな幸運に恵まれるなんて、人生は何が起きるかわからない。
リメルとの恋人役。浮かれないほうがどうかしていた。
詐欺グループを捕まえるのは最優先ではあったが、デビュタントすら果たせず貴族社会を去ったリメルを着飾らせてやることができた。ファーストダンスを一緒に踊ることができた。
腕のなかに抱いた体の細さや女性らしい柔らかさに何度理性が飛びかけたかわからない。
「リメル」
キスをしてしまったのだけは誤算だった。
本当はもっとちゃんと想いを告げてからするはずだったのに。
ダンスの興奮や、彼女を守りたいという気持ちが、ずっと抑えていた本能のタガを外させた。
ほんの一瞬、かすめるほどにしか触れなかった唇の柔らかさを思い出すだけで、全身がやけどしたみたいに熱くなる。
もっとしたい、もっと触れたい。
そんなあさましい欲望ばかりが膨れ上がって、自分はいつかリメルを食べつくしてしまうんじゃないかと思うくらいだ。
一緒に暮らす日々は夢みたいに幸せで、朝の挨拶を交わし、見送られて出迎えられて。眠る前に顔が見られて。
本当ならもっと距離を近づけたいのに、今の俺たちは役目上での恋人でしかない。
頬の横にそろって並べられた小さな手をそっとからめとる。
細い指先はまだ少しだけ荒れていて、彼女が市井で暮らす中でどれほど苦労していたかを思い知らされる。この屋敷で過ごす日々で、あの生活を忘れてくれればいいのにと願ってやまない。
無理につないだ手を強く握りしめれば、まるでそれを喜ぶみたいにリメルの手が俺の手を握り返してくれた。
やわらかくて優しいぬくもりに、胸の奥まで掴まれたみたいに苦しくなる。
「リメル、大好きだ」
こんな夜が一生続けばいいと願いながら、俺はこの世で一番大好きな彼女の名前を呼んだ。




